通説にとらわれない新しい歴史解釈
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「一人殺せば、犯罪者になるが、数百万人殺せば英雄になる。戦争による大量殺人は崇高な行為とみなされるのだ」
“One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify.”

この言葉はチャップリン自身が自分の作品のなかで最高傑作と自負する「殺人狂時代」で金持ちの未亡人に近づいて次々に殺害し、その財産を奪う犯罪を重ねた主人公アンリ・ヴェルドゥが処刑台に向かう直前に残したセリフである。
その真意は個人の殺人も戦争による殺人も本質は同じであり、違うのは被害者の数の違いであり、個人的殺人は醜悪な犯罪とみなされるが、戦争による殺人は崇高な行為とみなされるという意味であろう。
全ての戦争がそうだとは言えないとしても、人道とか正義とか、もっともらしいことを言っているが、客観的に見ると実際は大規模な火付け強盗と火事場泥棒にしか見えない戦争もあるのが現実ではないだろうか。誰でも自分の子供に「お父さんは本当は火付け強盗の親分なんだよ」とは言いたくないだろうし、自分でもそうは思いたくないだろうから、嘘も交えて色々と火付け強盗を正当化して正義と自由を守るための戦争のようにでっちあげる例は歴史上少なくないのではないだろうか。

外国のことばかり批判するのは不公平なので日本の実情はどうであったかというと、やはり、似たようなことはあったようである。二・二六事件の青年将校も「勲章を貰うための戦争などあってはならない」と批判したが、そのような戦争が実際に存在した事を裏付けるエピソードが戦後、海軍の高官を中心としておこなわれた「海軍反省会」の記録のなかに見ることができる。

満州事変が勃発したとき司令官だった本庄繁が男爵の称号と金鵄勲章功一級を貰ったため、それにあやかろうとした軍人がいたことを示唆している。(金鵄勲章は年金が加算され、功一級は900円の年金がプラスされたー当時の大将の年収の半分以上)

大井篤元大佐―近衛文麿さんが終戦のときに天皇陛下に上奏したの。(註1)右翼は、国体の衣を着た左翼である、と、こう言っているんですね。それから、平沼騏一郎さんの回顧録、あれに語ったのを見ますと、これは昭和十八年ですよ。戦争の真っただ中に語っているのを見ると、コミンテルンは、転向させられてなかったんです。この頃はみんな転向させるという、大いに、そして転向しておいて、政府のところにとうとう入っていると。
それで、日米間の戦争をやらせるのも、片一方は、蒋介石とか何とかって戦争をやらせるんですよ、コミンテルンが。そして、日本の中で戦争に、英米とは戦争するように持っていくし、もう一つは、戦争が始まったら、戦争が終われんようにしていくんです・・・・・第5巻−P488

それで、とにかくそのとき満州であのことをやった連中は、司令官が男爵で、確か金鵄勲章功一級もらったと思いますが。
寺崎隆治元大佐―(そうですね。本庄繁さん。)
保科善四郎元中将―うん、そういうことをやっている。それで、天津軍の司令官、それを満州と同じことをやって、功名を立てたいという感じが非常に強いんですね。第5巻−P502

勲章が欲しい司令官が一人で戦争をすればいいが、己の個人的野心のために多くの部下を死なせることになるのだから、これも一種の戦争犯罪といってよいだろう、欲に目がくらんで、本来の任務を忘却して大小の犯罪的行為に手を染めるということは企業社会でもそれほど珍しいことではないのではないか。故意にミスやトラブルの起きやすい環境を作って、それを収拾することによって、自分の管理者としての能力をアピールしようとする管理者はいるでしょう。企業で言えば部下を自殺させるほど追いつめて働かせる管理職のようなタイプの人間が軍隊の組織では、己の栄達のために平然と多くの部下を死地に追いやる指揮官になるのだろう。(ただし、本庄繁司令官は清廉潔白な人物でした)。 

(註1)近衛文麿自身がコミンテルンの一味だと評論家の宇野正美氏は言っていますね。真偽のほどは分かりませんが、興味深い見方だと思います。
 https://www.youtube.com/watch?v=YvNW4W50UWw&feature=relmfu

ノモンハン事件はインパール、ガダルカナル作戦と並び酸鼻を極めた戦いとして知られている。ソ連の衛星国となっていた外モンゴルと満州国の国境紛争に端を発した日ソ両軍の四カ月間に及ぶ戦闘であるが、日本側の主張する国境であるハルハ河を巡る攻防で、この人の住んでいない砂漠地帯の国境紛争で日本側は戦死8600人、負傷9000人の損害を出した結果、事実上ソ連とモンゴル側の主張する国境線を受け入れて停戦した。

第七師団第二六連隊長としてノモンハン事件に応援の形で参戦した須見新一郎中佐は参謀長から遠足にでも行くような調子で「どのみち須見さん、須見さんにも金鵄勲章をあげるようにしますよ」と言われたことを証言している。「須見さんにも」ということは当然自分たちも貰うつもりでいたのだろう。実際に彼らが受け取ったのは死神からの招待状であったが。この戦いの主役であった小松原師団長(中将)も、「まるでお茶を飲むように『いってもらえばいいんだ』と」―これはお茶でも飲みに行くような感じで、という意味であろう。この小松原師団というのは実戦経験が乏しかったそうで、そのために本当の戦闘の恐ろしさを実感できなかったのだろう。

須見大佐は状況を憂慮する直属の上司であった園部師団長から「須見大佐殿必親展」で受け取った手紙には小松原師団長を批判する内容が書かれていた。「小生がハルハ河の渡河を非常に無謀と思ったのは、第一、上司のこの作戦は行きあたりばったり、寸毫も計画らしきところなきの感を深くしたこと。第二、敵は基地に近く、われは遠く、敵は準備完全、われはでたらめなることのように思われる。第三、敵は装備優良、われは全く裸体なり。第四、作戦的の関係上ノモンハンの敵は大敵なり、しかるにもかかわらず上司はこれを侮って、ほとんど眼中に置かざる態度なりと、要するに敵を知らず己を知らず」

今日、このノモンハン事件を振り返ってみると、本当にこの戦いは必要だったのか?率直に言えば、現地の軍の上層部が金鵄勲章欲しさに安易な気持ちで暴走したのではないか?という疑いを少なくとも私は拭い去ることは困難である。
誠に悪名高い辻政信参謀が起草したと言われている「ソ満国境紛争処理要綱」では「国境線が明確でない地域では、防衛司令官が自主的に国境線を認定して、第一線部隊に明示し、万一衝突したときは兵力の多少、国境のいかんに拘わらず必勝を期する」となっていた。
あたかも進んで衝突を引き起こそうとするような規定である。

木下末一氏は須見大佐の部下として参戦した一人であるが、やはり、何のための戦いであったのか強い疑問を吐露しています。「もうこれは、われわれはほとんど敵の物量でやられたんですね。戦車が一列横隊に並ぶんですね。ザーッとね。そして砲塔から火炎放射器でやってくるんです。それに対してこちらはなにものもなく、火炎放射器で重油をかけられない者も、戦車に踏みつぶされる。踏みつぶされなかった者は焼かれる。ですから停戦後の戦場掃除ということになったときに、このノロ高地一帯に、もうほとんどごま粒をまいたようなと言っても過言じゃないくらいの日本軍の死体でしたよ。ほとんどの死体が火炎放射器で焼かれた、砲弾でたたかれた・・・・・それが草原を埋め尽くすように倒れておったんです。これはもう全般的に見て負けです。はっきり負けです、これは・・・・・やったこと自体が無駄な戦いでしたよ。あの砂漠地帯でですね、あの誰も住んでいない、どこが国境やら何もないんです・・・・・そんなところで、あれだけの人を死なせなきゃならん戦いが、なんのために必要であったかと、もうその期(ご)に至ってですね、いちいち例をあげていったら、これはもうとうてい表現し得ないくらい悲惨な戦闘を九月十六日まで続けたわけでしてね。本当に無駄であった、まことに情けないと思いますねえ」(参照文献:証言・私の昭和史 第2巻 文芸春秋)


小松原師団各指揮官の最後 (北海タイムズ刊『ノモンハンの死闘』より)

大内大佐(参謀長)七月四日戦死
小林少将(師団長)八月二十四日負傷
山県大佐(第六四連隊長)八月二十九日連隊旗を焼き自決
岡本大佐(参謀長)負傷入院中某大佐により斬殺
森田大佐(第七一連隊長)八月二十六日連隊旗を焼き自決
東中佐(第七一連隊長代理)八月三十日戦死
酒井大佐(第七二連隊長)負傷入院中自決(部隊全滅)
井置中佐(捜索第二三連隊長)フイ高地放棄の責をとり自決
伊勢大佐(野砲第二三連隊長)後退の責をとり自決
内藤大佐(野砲兵連隊長)包囲され自決
染谷大佐(連隊長)自決(部隊全滅)

小松原師団長はノモンハンでは生き残りましたが、予備役編入後、胃がんにより一年後の1940年(昭和15年)に死去しました。最近の研究ではソ連のハニートラップに引っかかりスパイ的な行為をしていたという説もあるようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%A4%AA%E9%83%8E






2019 08/10 00:11:44 | none | Comment(1)
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「チャップリンは合衆国の有名人であり、資本家どものお気に入りである。われわれは彼を殺すことでアメリカとの戦争を引き起こさせることができると信じていた」と首謀者の一人である古賀清志中尉は後に語った。
(チャップリン アメリカと戦った天才道化師 福川粛著 メディアファクトリーより引用)
そして、この暗殺計画が未遂に終わった理由を古賀は「アメリカとの戦争を引き起こし、軍部の勢力を拡大できるかもしれないという小さなチャンスのために一人のコメディアンを殺害することは賢明なことだろうかという議論になり、結局、暗殺計画は放棄された」と語っている。
(The same prisoner said that the plan to kill Chaplin was   abandoned because ‘It was disputed whether it was advisable to kill the comedian on the slight chance that it might bring about war with the United States and increase the power of  the military’)A PENGUIN BOOK MY AUTOBIOGRAPHYより引用

国民にとって最大の不幸は戦争の惨禍であろう。五・一五事件の首謀者達が大衆を貧窮に陥れている政治を糾弾し、大衆の救済を唱えながら、一方で、はるかに大きな不幸を国民にもたらす戦争に国民を巻き込もうと考えていたことは大きな矛盾であり、私は彼らの真意と誠意を疑わざるを得ない。二・二六事件の青年将校たちは日米戦が日本に破滅をもたらすものと正確に予見していたので、戦争を避けるために米英や中国に対しては融和的な考えを持っていた。この点で五・一五事件の青年将校たちとは本質的に異なっていた。

どう考えても日本の農村の不況や中国の排日、侮日運動もチャップリンの罪ではない。その無関係なチャップリンの暗殺を発想するという時点で、既に彼らの思想がまともなものとは私には思えない。同じような話が五・一五事件の青年将校たちのなかでリーダー的存在であった藤井斉(ひとし)中尉(後に上海で戦死)と血盟団の井上日召の間でもあった。(下記文中の「大川」とは東京裁判でA級戦犯に指定され、たびたびクーデター計画の黒幕となっていた大川周明)
「藤井は『すごい情報を握ってきた』と言い、大川から聞いた具体的計画を語った。<この秋には満州(中国東北)で、中国人をそそのかしてニ、三人の日本人売薬商を殺させる。それをきっかけに、国際問題を起こし、日本は中国に対して断固たる処置にでる。そうなれば中国でも、排日、排貨を必ずやり出す。関西の商人たちの間では貿易不振が問題になり、財界は混乱し、ひいては内閣も倒れる。その混乱に乗じて、愛国者たちに国会を襲撃させる。すると警視庁の巡査と衝突し、流血の惨事となって、革命の火ぶたが切って落とされる。つまり、こうして社会を混乱に落とし入れて、そのドサクサに革命を成就させる>ーというものであった。藤井は独断で大川に対して、この計画に仲間と共に参加する意思を伝え、計画実行の際には『拳銃ニ十挺の交付を受くる約束を結んできた』と語った。これを聞いた井上は激怒した。『藤井、貴様も貧乏人の子じゃないか、そうして大衆の為と云うことを大川は言うではないか、藤井も能く大衆々々と云うことを言うではないか、そうした気の毒な満州へ行って売薬して生活して居る、そう云う人を殺すと云うことは断じていかぬ、そんなことが抑々(そもそも)革命精神の非常に違う所だ・・・・・そういう者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、握るだけは握っても、握ってから必ず日本を毒する、それにお前が合流すると云うことを約束するとはなにごとか・・・・』(「血盟団事件 中島岳志著 文芸春秋社」より引用)

どうも五・一五事件の首謀者達には純粋な意味での革命家というよりも革命ブローカー的な色彩を私は強く感じるのである。三上卓中尉は戦後、今度は「無税」、「無失業」、「無戦争」の3つをスローガンとし、政府の要人や労働組合の幹部を暗殺するクーデター計画(三無事件―未遂)に参加して1961年に逮捕されている。ただし、証拠不十分で不起訴)
(三無事件の詳細についてのリンク)http://kh16549.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

五・一五事件の被告たちは昭和十三年には仮釈放されたが、山本五十六に出所の挨拶に行っている。そのときのことを古賀清志(当時は古賀不二人と改名)は戦後「昭和史探訪」という番組に出演して司会の三国一郎の「十三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円づつくれました。当時近衛文麿内閣書記官の風見章、これも一○○○円づつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪 2 日中戦争 日曜日の弾痕 「五・一五事件」古賀不二人  番町書房)昭和15年の大卒の初任給が月給で75円〜80円くらいだったらしいので、今日の貨幣価値に換算すると二人から貰った計2000円だけでも700万〜800万円くらいになるだろうか。その後も彼らは仕事の面などで色々と優遇されたらしい。ちなみに風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。

公判で明らかになっただけでも、古賀清志中尉は暗殺決行前の四月三日にも大川周明から拳銃五挺と弾丸百二十五発及び運動資金として一千五百円を受領し、二十九日には再び大川から運動資金として二千円を受領している。
五月十三日には犬養首相に最初に発砲した黒岩勇中尉が大川から二千五百円を受領している。彼らの活動規模に対して不釣合いなほどの大金といえるだろう。「話せば分かる」と話し合おうとした犬養首相に対して「問答無用」と叫んで発砲を促したことで有名な山岸宏中尉は「軍資金を貰って残ったら弟の学資にしよう」と笑いながら話した。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
2018 05/22 20:01:45 | none | Comment(3)
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チャップリンの自伝のなかに昭和七年五月十五日に首相官邸を襲撃して犬養首相を暗殺した六人の海軍士官および陸軍士官候補生(*1)とチャップリンの秘書高野虎一が直接関わりがあったのではないかと疑わせる記述がある。
前日十四日にチャップリンと兄のシドニー、秘書の高野等が食事中に突然闖入してきた正体不明の男達も六人であったのだ。シドニーはこれを「単なる偶然ではない」と言っている(‘It is more than a coincidence that six assassins murdered the Prime Minister and that six men came into the restaurant that night while  we were dining.’)

神戸に到着した時からチャップリンと兄のシドニーには、出迎えた秘書の高野が何か心配事を抱えているように見えた。(He looked worried ever since we arrived at Kobe)
シドニーの私物が留守中に検査されており、チャップリンの世話を担当する政府の係員がやってきて、もし行きたい所があれば秘書の高野を通してその係員に連絡するようにとのことだった。
シドニーは「我々は監視されている。高野は何か隠している」と言い張った(Sydney insisted that we were being watched and that Kono was holding back something.)
「私も時間が経つにつれてだんだんと高野の苦悩といらいらしている感情が深まっていくように見えたことを認めねばならない   (I must admit that Kono was looking more worried and harassed every hour.)
同じ日、高野がおかしな話を持ち込んできた。それは絹の布地に描かれた春画を所持している一人の商人がチャップリンに家に来てもらって見て貰いたいというものであった。チャップリンが興味が無いと答えると、高野は困った様子だった。
「私がその男に絵をホテルまで持ってきて置いていってくれと頼んだらどうでしょうか?」
「どんな条件でもダメだ、時間を無駄にするなとその男に言っておけ」
「この人たちはノーという回答は受け入れません」
「お前は何を言っているんだ?」
「えーとですね、彼らは数日間私を脅迫しているのです。ここ東京には無法者集団がいるのです。」 (Well, they’ve been threatening me for several days: there’s a tough element here in Tokyo.)
「馬鹿馬鹿しい!すぐに警察を動かそう」(‘What nonsense!’ I answered.‘We’ll put the police on their tracks.’)
しかし、高野は首を振って、暗に「彼ら」が警察の手にも負えない存在であることを示唆した。

翌日の夜、前述の六人の正体不明の若い男達がレストランの個室で食事中のチャップリンの前に現れた。一人は高野の隣に腰掛けて腕を組んだまま怒りを押し殺した様子で何か言うと高野の顔から血の気が引いた。身の危険を感じたチャップリンはとっさにコートのポケットに片手を入れてさも回転式拳銃を構えているような仕草をして叫んだ「これはどういうことなんだ!」高野は顔を伏せたまま料理から目をはなすことなくつぶやくように言った。「彼はあなたが彼の絵を見ることを拒否したことで彼の先祖を侮辱したと言っています」
チャップリンは勢いよく立ち上がると片手をポケットに入れたまま、その若い男を睨みつけた。「一体これはどういうことなんだ?」チャップリンは兄を促して直ちに部屋から脱出し、高野にはタクシーを呼ぶように指示した。「いったん、安全に通りまで出ることができたので我々は皆ほっとした」と自伝のなかで回想している。

この事件に関わった当時の日本側の関係者の証言とチャップリンが自伝の中で語っている事には幾つかの重大な食い違いがある。一番問題なのは首相官邸における歓迎会は五月十五日ではなく、「惨劇の翌日」すなわち十六日に予定されていたとチャップリンが書き残していることである。(The day after the tragedy I was to have met the late Prime Minister at an official reception, which was, of course, called off.)
十五日には首相の息子である犬養健から相撲に招待されていたと述べており、首相訪問の予定を気が進まなかったため相撲観戦に変更したなどとは一言も書いていない。
要するに日本側では首相官邸での歓迎会は十五日と思っており、チャップリンは十六日と聞かされていたということである。なぜこのような奇妙な食い違いが生じたかは秘書の高野虎一が何者かに脅迫されて首相が十五日に官邸に滞在しているようにしむけるためにチャップリンと日本側には別々の事を言ったと考えるとつじつまが合うように思える。

(以上、英文はA PENGUINE BOOKの 「CHARLES CHAPLINE MY AUTOBIOGRAPHY」より引用)

(*1)実際に首相官邸を襲撃したのは四人の海軍士官と五人の陸軍士官候補生の計九人であったが、どういうわけか翌日の新聞には六人と報道されている。

2018 05/12 14:19:06 | none | Comment(0)
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「映画史上ただ一人の天才」と言われるチャップリンは兄のシドニーと日本人の秘書高野虎一を従えて1932年5月14日に初来日し、翌15日には首相官邸での歓迎会に出席する予定であったが、当日、直前にキャンセルして相撲見物に予定を変更したため(*1)、危うく難を逃れたと伝えられている。
不思議な事に犬養毅(つよし)首相暗殺の首謀者の一人である古賀清志中尉等は新聞等で公表されていなかったにもかかわらず、15日に首相官邸で歓迎パーティが開かれる事を知っていて、その時にチャップリン暗殺を決行しようとしたが、その動機を中村義雄中尉は裁判で次のようにのべている。「元来日本人は歓迎好きで外国人であればどんな人間でも直ちに熱狂するからその席上には朝野の名士があつまるだろうと考えた、それを襲撃することはもっとも効果的であるし、チャップリンをやっつければ、日米関係が重大化し時局益々緊張して卓抜な人物でなければ到底収拾し能(あた)はざるに至り革新は容易に行われるに違いない、明治維新の際高杉晋作が英国大使館を襲撃した故知に倣ったのです」と述べている。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
実に粗雑で幼稚な動機であるが、とってつけたような印象が拭えない。本当は5月15日(日曜日)に暗殺目標である犬養首相が確実に首相官邸に滞在しているようにするために、チャップリンが利用されたのではないだろうか。そのように考えれば当日の直前に首相官邸訪問をキャンセルして相撲見物に切り替えたのも理解しやすい。本当に犬養首相暗殺事件に巻き込まれるのを避けるためである。そして、首相官邸訪問の期日を決めたり、キャンセルすることができたのは、おそらく秘書の高野虎一以外にいなかったのではないだろうか。「チャップリンは犬養首相との会見を熱望している」とチャップリンに無断でマスメディアに報道させたのは高野である。
実際のところ、高野虎一は妻の親戚に海軍の高官がいたこともあって、海軍に独自の人脈をもっており、何人かはチャップリンの撮影所にも訪ねてきたそうである。チャップリン初来日に先立ち、高野は一人、歓迎会の準備という理由で一足さきに来日して何人かの海軍側軍人と接触している。

来日に先立ち、チャップリンはヨーロッパも訪問していた。「1932年3月、チャップリンはこのヨーロッパ旅行で、各地で偏狭なナショナリズムが勃興していることに心を痛め、その感想をこんな風に述べた。『愛国心というのは、かつて世界に存在した最大の狂気だ。私はこの何ヶ月かヨーロッパの各国をまわってきたが、どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと、また新たな戦争だ。願わくば、この次の戦争では、老人を前線に送ってもらいたいね。今日のヨーロッパでは、真の犯罪者は老人なのだから』だが、このチャップリンの発言は当時、とくに英国のマスコミによって徹底的に批判された。第二次世界大戦はそこまで来ていた」(参照文献:チャップリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男 大野裕之 メディアファクトリー)

(*1)これは日本側の関係者の証言であり、チャップリンの自伝によると歓迎会は「五月十六日」に予定されており、十五日は相撲に招待されていたとなっている。


2018 04/28 20:43:51 | none | Comment(0)
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 建久九年(1198年)十二月七日、頼朝が家臣である稲毛重成の造営した橋供養に参列した帰途落馬して翌年の一月中頃に死去したことは吾妻鏡の記録で明らかであるが、その直接の死因については諸説があり、中には愛人の家に忍んで入ろうとしたところを家人に斬り殺されたというものまである。
だが京都の公家の記録にある「飲水」「所労(病気)」などの記録が一番信頼できるであろう。飲水とは糖尿病のことなので糖尿病に由来する合併症が頼朝の直接の死因とするのが妥当ではないだろうか。
私はそのなかでも心筋梗塞ではなかったかと思うのである。心筋梗塞の発作が起きた時の典型的な症状は顔面蒼白になって冷や汗をかき、重症の場合は激しい胸痛を伴い意識を失うというものである。これなら頼朝が落馬したことも納得できるし、間近にそのありさまを見た家来があたかも恐ろしいものを見たかのような頼朝の表情をみて、安徳天皇や義経の亡霊を見たというように噂が発展していったのではないだろうか。

心筋梗塞の発作の前兆は必ずしも心臓部分の痛みを感じるのではなく、肩や胸骨、奥歯等の痛みとして現れることもある。また虫歯による細菌が心臓の内膜に感染して炎症を起こして重度の心臓病を引き起こすこともあるそうである。
鶴岡八幡宮に伝来する木造の頼朝像をみてもかなり豊頬であり、典型的な糖尿病体形である肥満体であったことをうかがわせるし、死去する五年前には激しい歯痛に苦しんでいたことが吾妻鏡に記録されている。

建久五年八月二十二日  
将軍家いささか御不例。御歯の勞(いたわり)と云々。これによって雑色上洛し、良薬を尋ねらると云々。
建久五年九月二十二日  
 歯の御勞(いたわり)再発すと云々。
建久五年九月二十六日  
 歯の御勞(いたわり)の事、療法お京都の医師に尋ねられんがために、わざと飛脚をを立てらるる所なりと云々。 
建久五年十月十七日    
 歯の御治療の事、基朝臣これを注し申す。その上良薬等を献ず・・・・・
建久五年十月十八日   
 上総介義兼、御使いとして日向薬師堂に参ると云々。歯の御勞(いたわり)御祈のためなりと云々。
建久六年八月十九日   
 将軍家御歯の勞(いたわり)再発すと云々。    

糖尿病になってから合併症を併発するまで数年間かかるのが普通なのでやはり糖尿病の合併症の一つである心筋梗塞が直接の死因となったと考えるのが一番妥当ではないだろうか。

2014 04/27 19:59:15 | none | Comment(0)
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 個別に見れば日本の政治家や官僚の中にも有能で誠実な人材が存在することは疑いないが、総体的にはそれらの人材の能力が発揮できるような組織の仕組みになっていない。破滅へと暴走して行った昭和前期の日本と同じである。根拠無き楽観に基づいて、内外の政策において失敗を繰り返して大日本帝国を滅亡せしめた。

 今日の日本の政治のレベルは現在我々が直面している福島原子力発電所の危機を引き起こした経緯だけをみても一目瞭然である。とても憲法改正などという大それたことを手がけるようなレベルではないと思わざるを得ない。「改憲」は恐らく「改悪」となり、深甚な混乱を引き起こし、既に形骸化しつつある日本の民主主義に致命的なダメージを与えることになるのではないかと私は危惧する。

 改憲論者の改憲理由で納得させられるようなものに私はお目にかかったことはない。ほとんどは悪く言えば嘘、デタラメ、曲解、誤解にもとづくものであるように思える。なかには日本を戦争に引きずり込んで自滅させようと企む外国勢力に踊らされている者もいるのではないかと思うことさえある。
九条の条文を作成した当事者やマッカーサー元帥、今日の日本政府も九条は自衛戦争まで否定したものではないと明言しているのに、今更それらの見解に異議を唱えるのは馬鹿馬鹿しいことのように思えてならない。

 現憲法のことを奴隷法とみなす改憲論者もいるようであるが、過労死するほど労働者を酷使することを容認するような労働法こそ奴隷法というべきであろう。
日本は連合国に降伏し、帝国陸海軍においては無条件降伏ー全面的武装解除を受け入れたのである。当時の日本の実態は憲法前文の「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」そのままであり、事実をありのままに述べているに過ぎない。
何ゆえこの箇所のみ捉えて「奴隷憲法」呼ばわりするのか理解に苦しむ。日本国憲法の実体が「奴隷憲法」なるものからいかにかけ離れた存在であるかは以下の四つの条文だけでも明らかである。
第十一条 「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」
第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
第十四条 「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」
第十八条「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

そもそも、切迫性かつ正当な理由の無い改憲は憲法違反であろう。
第九十九条 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

 また、この憲法の作成者たちはこの憲法によって保障される基本的人権を保持するためには国民自身の自覚とたゆみない努力が不可欠であることも将来の日本国民に警告した。
第十二条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない・・・」

すでに、国民の基本的人権を侵す恐れのある法案が「人権擁護法案」のように巧妙にカモフラージュされて出現している。我々国民はおおいに警戒すべきであろう。
2011 05/03 07:54:37 | none | Comment(0)
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 意外なことであるが民主主義では日本よりはるかに長い歴史を持つ米国の憲法には「主権在民」や「拷問の禁止」の規定がない。
これらのアイディアをGHQは元東大教授の高野岩三郎や憲法成立史研究家の鈴木安蔵ら六人のメンバーからなる憲法研究会によって作成されGHQに提出された「憲法草案要綱」から採り入れたことは明らかであるが、実はこれらの規定は明治時代に大日本国憲法が制定される以前に民間において盛んに作成された私擬憲法草案にその源を発しているのである。

「マッカーサーやホイットニーの指揮の下で、新憲法に採り入れられた諸原則の多くの概念に寄与した者は、十九世紀の民主的傾向を持つ指導者たちを引き継いだ日本のインテリたちだったのである」とケーディスは後年回顧している。(日本国憲法制定におけるアメリカの役割 竹前栄治ほか著『日本国憲法・検証 第一巻』 小学館文庫)

「今日発掘されている明治憲法以前の憲法構想は五十以上あり、そのほとんどが明治憲法よりデモクラティックなものであった。」
それらの中から憲法研究会のメンバーであり憲法成立史研究家の鈴木安蔵が取捨選択して「憲法草案要綱」に蘇らせたのである。鈴木は著作も十冊を超える憲法成立史研究の第一人者であった。鈴木安蔵は、民権期の憲法案二十余りを参考にして研究会案を作ったと述べている。

例えば明治の自由民権家の植木枝盛案での「日本国ノ最上権ハ日本全民ニ属ス」は「日本国ノ統治権ハ国民ヨリ発ス」(憲法研究会案)になり、これが日本国憲法では「主権は国民に存する」となっている。
第三十六条「公務員による拷問および残虐な刑罰はこれを絶対に禁止する」は研究会案では「国民ハ拷問ヲ加エラルルコトナシ」であり、その源は植木案清書本の第四十八条「日本人民ハ拷問ヲ加エラルコトナシ」である。

 憲法研究会の初会合は1945(昭和二十年)十一月五日、高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵、馬場恒吾で完成した草案に署名した。高野は元東大教授であり鈴木は憲法成立史研究者であった。
1945年十二月二十六日、できあがった憲法研究会最終完成案「憲法草案要綱」は、杉森孝次郎と室伏高信と鈴木安蔵によって首相官邸へ届けられ、さらにその帰途、もう一通が新聞記者室に発表された。
 GHQ民生局では、念には念を入れて平素使っている連合翻訳局(ATIS)での翻訳に着手することにした。政治顧問事務所(Polad)でも本格的に翻訳させることにした」

最高司令官附合衆国政治顧問ジョージ・アチソンはその草案を首相官邸から取り寄せ、その大要を政治顧問事務所で英訳させた。
アチソン政治顧問が、「憲法草案要綱」を知らせるために本国の国務長官に緊急の書簡を書いたのは、終戦の翌年、1946(昭和二十一)年が明けたばかりの、一月二日のことであった。
「著名な法律家、学者、政事評論家からなる私的な研究者集団である憲法研究会によって、1945年12月27日に幣原首相に提出された憲法の翻訳を同封することを名誉に存じます。(Hussey Papers Reel No.5)・・・」

アチソンは、日本国内で発表された「ある私的な研究者集団」の憲法改正草案が、第一条「日本国の統治権は日本国民より発す」をはじめ、きわめて注目すべき内容であることを報告している。彼は、「さらに重要なことに、最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定されている」と興奮気味に伝えている(Hussey Papers, Reel No.5 国立国会憲政資料)

憲法研究会案「1.日本国の統治権は日本国民より発す」
「2.天皇は国政を親らせす国政の一切の最高責任者は内閣とす」
「3、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」の核心を、余さず受け継いで成立している。
憲法研究会案の国民主権の宣言規定、政治的権限を有しない天皇、儀礼的存在としての天皇規定は、」すでに見たように、自由民権期植木枝盛案・土佐立志社案に由来している。つまり日本国憲法は、その核心をなす国民主権の宣言規定、政治的権能を有しない天皇、象徴的存在としての天皇規定の起源を、民権期植木案と立志社案にもっていると言えるのだ。

日本国憲法は、アメリカによって輸入され、押し付けられた、日本人の思想と乖離した法典では決してない。むしろ、明治以来の日本の伝統的なデモクラシー思想が、日本と総司令部双方の努力によってついに結実したものと見るべきなのである。日本国憲法の核心部分は日本人が生み出したものである。このことを忘れてはならない。(P163)」
(参照文献 憲法「押しつけ」論の幻 小西豊治 講談社現代新書)

2011 04/29 13:21:16 | none | Comment(0)
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 日本側で作成した新憲法草案を全面的に否定されたばかりか、米側の作成した新憲法草案を突然突きつけられて呆然としている日本側代表団から白洲次郎は一人抜け出して太陽の光が燦々(さんさん)とふりそそぐ外務大臣官邸の庭で日本側が草案を読み終えるのを待っている米側一行に近づいて話しかけるとホイットニーは「おかまいなく、我々は原子力のエネルギーで暖をとっているところです。」と答えた。

 米側が原子爆弾を保有している有利さを示唆して威嚇するようなこの発言は暴言―控えめに言っても日本側の感情を著しく傷つける嫌味な表現であったとはいえるであろう。しかしながら、このホイットニー准将の発言は日本側代表団全員を前にして言ったことではなく、部屋の中に入りませんかという白洲の勧めに対する返事としてGHQ側にかなり嫌われていた白洲個人に対して発言されたものである。白洲が部屋の中へと誘わなかったら恐らくホイットニーの発言そのものもなかったであろう。あらかじめ用意していた言辞ではなかったことは間違いない。白洲次郎はGHQ側から嫌われていたので、ホイットニーもつい、嫌味をいってしまったというのが真相だろう。

 米側からみれば白洲次郎もしょせん守旧派の一人にすぎなかった。
白洲次郎がGHQ側も我々日本側も目指すところは同じであるが、性急な改革は日本に混乱を起こす恐れがあるという趣旨の手紙を出発点と目的地の間に幾つもの山が描かれ、目的地を目指すジープと飛行機の絵入りの手紙をホイットニー宛に送ったところ(ジープウェイレター)それに対するホイットニーの返事は以下のような説得力のあるものであった。
「日本の憲法の改革は、日本国民だけの関心事にとどまるものではなく、また日本国民と最高司令官の共通の関心事であるにすぎないものでもなく、連合国が日本に対する完全な支配を解除するためには、世界の世論が十分に満足されなければならないということを、理解していただかねばなりません。つまるところ、日本政府がこの問題に思い切った解決を与えるか、最高司令官が自ら措置をとるかしない限り、外部から日本に対して憲法が押しつけられる可能性がかなりあり、そうなった時の新しい憲法は、−あなたのお手紙では、十三日に私がお渡しした文書を「あまりにも急進的な」という言葉で形容しておられますがーそのような言葉でもこの憲法を言い表すことができないような厳しいものになり、お渡しした文書で最高司令官が保持できるよう取り計らっておられる伝統と機構さえも、洗い流してしまうようなものとなるでありましょう」
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)

 松本国務相を中心に作成された日本側の草案の内容は毎日新聞によってスクープされたが、大日本帝国憲法の焼き直しで新味が無く、国民の評判も芳しいものではなかった。2月にはGHQをコントロールするほどの権限を持つ連合国極東委員会が発足し、憲法問題に介入してくることは明らかであったため、それまでにどうしても新憲法を制定してしまう必要があった。
これが僅か1週間で草案を作成しなければならなかった理由である。だからといってやっつけ仕事でなかったことはその内容をみれば明らかである。

 よく改憲論者は米側が日本の憲法を作成したことは「占領地の法律を遵守する」ことを義務付けたハーグ条約に違反するものであると主張するが、実際のハーグ条約の条文は「やむをえない事情がある場合を除き」という但し書きがついているのである。
日本側で新時代に適応する内容の新憲法を作る能力が無かった、天皇制に批判的なソ連、中国、オーストラリア等の国が構成国に含まれる連合国極東委員会の発足が差し迫っていたーという当時の状況は、ハーグ条約で定められた「やむをえない事情」に相当するものであろう。



2011 04/19 19:18:57 | none | Comment(0)
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 ホイットニーは自分のヒューマニズムを日本国憲法の中に具現したいと思ったようである。
それが現日本国憲法の第九十七条の条文として残っている。
第九十七条「此の憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ーこれはホイットニーの作成したものでその原文の和訳は「此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ、人類ノ多年ニ亘る自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ、此等ノ権利ハ過去幾多ノ試練ニ堪ヘ、現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル」で多少表現が異なっている箇所もあるが、実質的に同じ内容といえるだろう。
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
 
 GHQ側は日本国憲法草案作成にあたってかなり日本側に配慮をしたことが窺える。例えば第十条の「日本国民たる要件は法律でこれを定める」などの重要な規定は大日本帝国憲法の第十八条「日本臣民タルノ要件ハ法律の定ムル所ニ依ル」をそのまま流用している。「臣民」が「国民」になっただけである。
 天皇の詔勅も否定されていないことは第九十八条の「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」で明らかである。

 終戦間もない1945年当時、日本と交戦した国々の世論は当然厳しいものがあった。ギャラップ調査によると米国では天皇を処刑せよという意見が33パーセント、終身禁固11パーセント、流刑は9パーセントを占めていた。
しかし米国政府は世論に抗する形で天皇制を存続させた。農地改革も実施して小作人に農地を開放した。残虐な拷問を行うことで知られていた特高警察も廃止した。
婦人参政権も実施したし言論の自由は大幅に回復された。スターリンが北海道を占領しようとした時も峻拒し、直ちに北海道各地に米軍を派遣して、ソ連軍の侵入を牽制した。

 米国が戦争中に国際法を無視した無差別爆撃により多くの無辜の民間人を殺戮したり戦後も自分たちのやったことを棚に上げて多くの日本軍将兵を戦争犯罪の名の下に処罰したことは事実であるが、それでも私は米国主導のもとに行われた日本民主化の功績は正当に評価するべきであると思うのである。それが公正な歴史の見方というものであろう。

 改憲論者は特に憲法前文の「われ等は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの生存を確保しようと決意した」の部分が特に気に入らないようであるが、これは今日の日本の姿そのものではないか。これは別の言葉に言い換えれば今日、日本は国際的に孤立していては生存できないということである。これはあまりにも明白な現実である、すなわち、軍事的には米国に依存せざるを得ず、エネルギー面でも他国に依存しなくては経済的に破綻することは明らかである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して生存」しているのが偽りの無い実態ではないだろうか。

 日露戦争にしても戦費調達のための外債を引き受けてくれた金融家や日英同盟に基づいて日本攻撃に向かう途上のロシアのバルチック艦隊に石炭の供給をしなかった英国、軍艦を日本に譲ってくれたアルゼンチン等の行為がなかったら勝利は覚束なかったのではないか。勝ったといってもやっと満州からロシア軍を追い払ったに過ぎず、ロシア本土には一歩も踏み込んだわけではないのだから。


2011 04/17 08:29:45 | none | Comment(0)
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「嘘も百回繰り返せば真実になる」とはナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスの言ったことであるが、この大衆を欺くトリックは今日でも多用されており、その魔力がまったく色あせていないことは東日本大震災で決定的に崩壊した日本の原発の安全神話によって思い知らされることになった。

国の最高法規である日本国憲法についても驚くばかりの嘘、誤解が戦後六十年の間に蔓延し、未だに多くの国民が洗脳されている。九条は自衛戦争までも否定しているーなどはその代表的なものであろう。
九条はGHQ民生局次長のケーディス大佐と芦田均の合作であるが、芦田自身が第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入する、いわゆる「芦田修正」によって将来的に自衛のための軍隊なら持つことができる余地を残したと明言しているにもかかわらず、当時の憲法作成に関与もしていなかった人間がー憲法学者であろうと、高名な評論家であろうと「そうじゃない」というのは理屈に合わないまったくおかしなことである。
確かに吉田茂首相が「太平洋戦争も自衛の名分の下に行われたものであり、第二項で戦力の不保持も規定されているので、事実上自衛のための戦争も禁止されている」旨の答弁を国会でしたことがあるが、これもその後、自衛戦争容認論に修正されている。そもそも首相が憲法条文の解釈を決定できるわけではない。

嘘に尾ひれがついて、GHQ側が外務省公邸で日本側の代表団に憲法草案を手渡した時に米軍の爆撃機が上空を旋回して威嚇していたなどという馬鹿馬鹿しい捏造話まで出てくる。
実際は爆撃機が上空を通過しただけであって、日本側で威嚇と感じたものは誰もいなかった。
ホイットニーは日本側代表団に次のように述べた。「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。

 これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております・・・マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であると考えています。そしてそれは、あなた方が左に急旋回〔してこの案を受諾〕することによってのみ、なされうると考えています。そしてもしあなた方がこの憲法草案を受け容れるならば、最高司令官があなた方の立場を支持することを期待されてよいと考えております。この憲法草案が受け容れられることがあなた方が〔権力の座に〕生き残る期待をかけうるただ一つの道であるということ、さらに最高司令官が日本国民はこの憲法を選ぶかこの憲法の諸原則を包含していない他の形の憲法を選ぶかの自由を持つべきだと確信されていることについては、いくら強調しても強調しすぎることはありません。」

(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
2011 04/15 19:58:13 | none | Comment(0)
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