
カウンセリングする側から、される側にまわってしまう医学博士(ハル・ベリーね)の話。他の人には見えない少女の霊と記憶にない殺人が彼女の運命を恐怖へと導く。
記憶がないこと(殺人)は、物的証拠も揃っていて、他人から見ると実際に起こっている逃れられない事実であるのに、自分が実際に見ていること(少女の霊)は、他の誰にも見えないので、見えない人たちの論理で裏付けられしまい、誰も信じてくれない。
殺人や霊の話は極端な例かもしれないが、自分の発言が周囲の常識からずれているが故に、いくら本当のことを話してもそれが「幻影」だとか「作り話」だとされてしまうことって結構身近に起こりえる。その昔「地動説」を唱えたガリレオがよい例だ。いかに明確かつ論理的に話をしても常識という名の呪縛がある限りは、正説が受け入れられることは難しい。
歴史に名を残す偉人や天才は「精神病患者」が多い。
そは今や病痕学という一つの学問にまでなっている。
シューマンとゴッホとムンクは統合失調症。
モーツァルトは不安神経症。
だが、一般の統合症患者の「妄想」は
「自分を神様だ」と思ったり、
「ロンドン・テロは自分のせいでおこった」と思ったり、
神や宗教に傾倒するといったありきたりな物が多い・・・
「病気」を「芸術」まで「昇華させる才能」が「必要」ということかもしれない・・・
さらに身近な次元のケースもある。自分にとっては本当に深刻な状況になっているのに、悪く考えすぎだとかマイナス思考だということで片付けられ、誰もまともに話を聞いてくれなかったりすることなんて、日常茶飯事に起こっていることではないだろうか。常識という言葉は権威的な意味を多分に含むにもかかわらず、基準は根本的に個人レベルに帰依するあいまいなで不確定なものなのだ。
さめた視線でみると、常識が個々によって異なるのであれば、究極的に人間は他人を理解し得ないということかもしれない。また、自分も他人からは理解され得ない存在なのかもしれない。
かといって、人はひとりでは生きていけないのだし、あきらめたり開き直るのは良くない。見方は千差万別でもそこにある真実は一つだけのはず。突き詰めていけば、かならず皆その真実にたどり着くはずなのだ。
他人とコミュニケーションをとるということは、元来非常に難しいものであり、文化や環境が異なればなお更に根気が必要だということだ。