思索に耽る苦行の軌跡

――だが、これは愚問だけれども、何故《吾》の相対化は下らないのかね? 





――簡単なこった。《吾》が《吾》である責任を放棄してゐる《存在》のMoratorium(モラトリアム)こそが《吾》の相対化の本質に過ぎぬからさ。更に言へば、《吾》を相対化することで虚無主義に《吾》が堕する馬鹿馬鹿しさを、へっ、これまた相対化して阿呆面した《吾》がにたにたと嗤ってゐるに過ぎぬことにお前は未だ気が付かないのか、ちぇっ。





――つまり、《吾》は《吾》であることに、最早腹を括るしかないと? 





――たまさか、《吾》が《他》より確率が大きいばかりに、つまり《吾》は《他》より確率が《一》に突出して近いが為に《吾》は《吾》であることを強ひられることになったに過ぎぬのだが、ちぇっ、尤も、《吾》が《吾》であることは神すらも覆せない事実だと観念して受け入れるのが《吾》が此の世で生を享けた報ひに違ひないのだ。





――《吾》が《吾》であることはたまさかな事かね? 





――ふむ。それは如何とも解釈可能だな。たまさかな事かもしれぬし、宿命かもしれぬ、な。ふっふっふっ。だが、そんな事は別にどちらでも構はないぢゃないかね? 





――ああ、さうだ。別にどっちでも構はぬ。だが、《吾》にとっては全てが必然の方が安心するのは間違ひない。





――へっ、ここで自由の問題を持ち出すのかい? 





――いや、神の問題だ。





――詰まる所、自由の問題と神の問題は同じ事ぢゃないかね? 





――しかし、此の世の開闢の時を考へると、無と無限がぴたりと重なって、その重なり具合が絶妙この上ないが為に、《吾》の萌芽と成るべく不意に湧き出た《念》から思はず「ぷふぃ。」とその無上この上ない悦びから発せられたその無邪気な笑ひ声こそが、此の世の開闢を知らしめる喇叭の高らかで華やかな響きにも似たBig Bang(ビッグバン)の破裂音だと仮定すれば、自由の問題と神の問題とは似て非なる《もの》ぢゃないのかね? 





――さう、似て非なる《もの》だ。ひと言で言へば、無と無限の同一相において《念》は「ぷふぃ。」と思はず笑ひ声を発せずにはゐられなかった。それは何故だと思ふ? 





――へっ、その《念》が《吾》を《吾》だと認識したが為に《吾》なる《もの》が出現し、その《吾》はといふと、無と無限が裂けて大口を開けた刹那にこれまた出現した《パスカルの深淵》に此の世の開闢の瞬間、ちぇっ、思はず見蕩れてしまったのさ――。





――つまり、それ故《吾》と《他》が出現してしまったと? 





――ちぇっ、無と無限が裂けたのさ。





――だから、それで? 





――ちぇっ、唯、それだけの事だ。





――それで因果律が発生したと? 





――互いに離れ行く無と無限を時空間なる《もの》が何とか無と無限を串刺しにすることで辛うじて底無しの深淵がぱっくりとその大口を開けた無と無限の裂け目を弥縫した……。





――つまり、此の世には無と無限が共に《存在》し、無と無限が永劫に離れないやうに辻褄を合わせるが如くに、はっ、時空間が出現したと? 





――ちぇっ――。





――へっ、こんな様なら、神を《存在》から解放すべき神のゐない創世記をでっ上げるにしては何とも弱弱しくて而も物足りない。





――しかし、無と有を結ぶ何かの糸口は必要だ。





――それが《念》だと? その《念》が、無と無限がぴたりと重なった無上の愉悦の極点に達した刹那に思はず発してしまった「ぷふぃ。」といふ笑ひ声によって、その無上の愉悦の瓦解が始まった故に有たる此の世の時空間が生まれたと? 





――しかし、特異点は何をおいても先づは《存在》しなければならぬ……。





――それは、また、何故かね? 





――此の世が《存在》する為に決まってらあ。





――はて、特異点無くして此の世が生まれぬといふのは、へっ、大いなる矛盾を抱へ込むことになるが、さて、それを如何やって解きほぐすのだ? 





――重力ある処、即ち、《存在》ある処、また、特異点も在りき、さ。





――つまり、《存在》とは、特異点の仮面に過ぎぬと? 





――ああ。《存在》は特異点を蔽ひ隠す仮初の此の世での《存在》、即ち《物自体》の仮面に過ぎぬ。





――だが、それでも未だ神を《存在》から解放し、神のゐない創世記をでっち上げるには、へっ、論理的に矛盾してゐて、而もその論理では弱すぎるぜ。





――付かぬ事を尋ねるが、お前は霊魂が《存在》すると思ふかい? 





――何を藪から棒に! 





――実際のところ、如何なんだい? 





――ちぇっ。ぞんざいな物言ひだが、霊魂は《存在》した方が自然だ。しかし、それは飽くまで《念》と同様の《もの》としてだ。つまり、初めに生まれし《念》は、今も霊魂として有の世界若しくは時空間、即ち此の世に撒き散らされた形で、即ちBig Bang(ビッグバン)の残滓として《存在》してゐる筈さ。それは此の世に《存在》する宇宙背景輻射と、多分、同等の《もの》に違ひないのだ。





(五十の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 09/21 06:22:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると《吾》とは既に幻影の類に成り果ててしまったのかね? 





――ふっふっふっふっ、さう望んだのは人間自身ぢゃないのかね? 





――何をしてお前にさう言はしめるのかね? 





――へっ、人間は人力以上の《力》を手にした途端、《世界》を神から掠奪する事に一見成功したやうに見えるが、その実、人力以上の《力》で作られ、その挙句、人工物で埋め尽くした此の人工の《世界》は、へっ、既に人間の想像の範疇を超えた何かでしかないからさ。そんな《世界》における世界=内=存在を一身で体現出来る《吾》なんて、へっ、幻影でなければ一体何だといふのかね? 





――つまり、この世界=内に《存在》する《吾》は、己の手で此の現実に対さねばならぬのっぴきならぬ立場に自らを追ひ込み、そして、人力の無力さを嫌といふ程味はひ尽くした上に、此の《世界》に対峙する事の辛酸を嘗め尽くさずば、《吾》の本当のところは不明といふ事かね? 否、むしろ己の虚無さ加減が解からぬといふ事かね? 





 その時、彼はゆっくりと瞑目し、瞼裡に朧にその相貌を浮き上がらせた或る《異形の吾》をきっと睨み付けてかう問ふたのであった。





――人間が人力以上の動力を手にした瞬間に、《吾》は《吾》の化け物と化して、その或る仮構された《吾》らしき《もの》を如何足掻いても《吾》と名指す外なく、そして、さう名指すことでやっとその無力なる己の屈辱感を一瞬でも忘却したかった、ちぇっ、つまり、この世界=内=存在を一身で体現しなければならぬこの《吾》といふ生き物のどん詰まりを味はひ尽くさずば、最早《吾》など泡沫の夢に過ぎぬといふことかね? 





――さう、人間は人間の欲望の涯に人力以上の動力を手に入れて、その《力》で強引にすら思へる程にこの現実を作り変へた結果、《吾》といふ実体を見失ってしまったのさ……否! 最早、《吾》といふ《もの》を実感を持って《吾》と、この《吾》は断言出来なくなってしまったのだ! 





――それは人力以上の動力を手にした《吾》は最早《世界》に対峙する術を、つまり、《生身の吾》によってしか対峙出来ぬ此の《世界》を見失ったといふことかね? 更に言へば、《吾》は《吾》本来の姿から遥かに膨脹してしまった何かに既に成り果ててしまったといふことかね? 





――ふっ、《吾》の膨脹ね――。人力以上の《力》で《世界》を人工の《もの》として神から掠奪し果せた人間は、換言すれば、その神から掠奪しようと己の手を汚して《世界》を手にした第一世代は、多分、未だ《吾》が《吾》である実感がしっかりとあったに違ひない筈だが、それ以降の世代、つまり、生まれる以前に既に《世界》が誰とも知らぬ他人(ひと)の手で人力以上の《力》で人工の《もの》へと変はってしまってゐた第二世代以降の人間は、さて、どうやって己の生存を保障したのかお前にも想像はつくだらう。





――つまり、《吾》は、《吾》であることを断念し、その誰とも知れぬ他人の手になる、しかも、人力以上の《力》で作り変へられてしまった人工の世界=内=存在に徹する外に、この《吾》が生き延びる術は最早残されてゐなかった……違ふかね? 





――詰まるところ、《吾》は《吾》本来備わってゐた筈の《生身の吾》といふ主幹を自らぽきりと折って、この人工の《世界》に適応するべく生える筈がない《吾》の蘗の生長を、へっ、架空する外なかったのさ、ちぇっ。





――へっ、その結果出現したのが、中身ががらんどうの、それでゐて人力以上の《力》を手にした故に膨脹せずにはゐられなかった《吾》の化け物を、ちぇっ、《吾》と名指す愚劣を犯す外になかったこの何とも哀れなる《吾》といふ訳か――。





――しかし、さうすると、この人工の《世界》をぶち壊せば、簡単に、元通りの再び神の《世界》の中の実感ある《吾》を取り戻せるのぢゃないのかね? 





――へっ、「創造と破壊」と言っては、ぷふぃっ、洒落る訳ね? 





――といふ事は、「創造と破壊」は最早無意味な呪文の一種でしかないと? 





――へっ、さうさ。シヴァ神を復活させたところで、最早其処にはTerrorism(テロ)の恐怖しか齎さないのは、忌まわしき日本のオーム真理教による地下鉄Sarin(サリン)事件といふTerrorismや宗教の忌まわしき処を具現化しちまった原理主義者による亜米利加(US)で起きた同時多発Terrorismが図らずも証明しちまったのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》の実感を追ひ求めることは、即ち、原理主義の台頭を、就中(なかんづく)、暴力を絶対的に肯定する「聖戦」を掲げた原理主義に直結しちまふ時代が到来しちまったといふことだね? 





――さう、哀しい哉、《吾》は、ちぇっ、この主幹なき《吾》の蘗が生長し、その内部に《虚(うろ)の穴》を持つこの《吾》は、人力以上の《力》を手にし膨張に膨張を重ねた揚句に誕生しちまったこの《吾》といふ名の化け物と何とか折り合ひをつけなければ、只管、無意味な《死》、つまり、犬死する《吾》、若しくは現代の人身御供たる《吾》を大量に生み出すのみの何とも惨憺たる状況に《吾》は既に陥っているといふことさ。





――その因が、即ち人類が人力以上の《力》を手にして此の《世界》を神から掠奪したといふことなのか――。





(三の篇終はり)







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2009 09/19 06:18:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、人類の、此の叡智に満ちた人類、ちぇっ、人類が何《もの》かは知らぬが、その人類の未踏の地として脳はあるが、はっはっ、人間は脳を科学的に理論付けるのにまたしてもへまをやらかしてゐる。





――人間のへま? 





――さうさ。脳科学では脳は何処まで行っても脳以外の何ものでもない! 





――しかし、お前も俺も此の頭蓋内の闇を脳といふ構造をした五蘊場と敢へて名付けて、脳が脳でしかないことを飽くまで否認してゐる……違ふかね? 





――ふっふっふっふっ、その通りさ。此の頭蓋内の闇は脳といふ構造をした《場》でなければ、其処で底無しのパスカルの深淵が大口をばっくりと開けたり、《異形の吾》共がにたにたといやらしい嗤ひをその醜悪なる顔貌に浮かべながら《存在》したり、将又(はたまた)、因果律が全く役に立たずに壊れてゐる虚空が現出する筈はないのさ。





――すると此の五蘊場は特異点とFractal(フラクタル)な関係、換言すれば、自己相似の関係にあると? 





――おそらくな。それ以前に電気がある処電磁場が発生する如く、頭蓋内の闇もまたその様にあるに違ひない筈だ。





――つまり、脳細胞の一つ一つが超絃理論の《ひも》の如くにあるといふことかね? 





――それは解からぬが、唯、この頭蓋内の闇を全て脳の仕業に帰すのは本末転倒もいいところなのは間違ひない。





――つまり、脳による思考は、例へば、無限を内包したり、論理を軽々と飛び越えるからかね? 





――例へば、非論理的な《もの》を論理に閉ぢ込めれば如何なると思ふかね? 





――へっ、《一》=《一》が絶対君主としてその権勢を揮ふ、論理の恐怖政治が、つまり、論理の絶対主義が始まる。





――その時、この非論理的なる《吾》は如何なると思ふ? 





――自死するに決まってる……。





――でなけりゃ、《吾》は非論理的なる世界の、つまり、闇世界に潜るしかない。





――それでも此の人間は、哀しい哉、脳すらも徹頭徹尾論理的に語り果(おほ)したい欲望には抗へない。





――ぶはっはっはっはっ。何処まで論理が非論理的なる《もの》に迫れるか見物だぜ。





――まあ、そんな事より、《個時空》といふ考へ方に従へば、此の頭蓋内の闇たる五蘊場は《吾》の内部故に、つまりは《吾》の文字通りの《皮袋》から負の距離にある故に、例へば、速度vと時間tが共に仮初に虚数、つまり、viとtiといふ状態にあると仮定すれば、当然其処で表はれる距離vi×tiは負数になるのは言はずもがなであるが、それ故に此の頭蓋内の闇たる五蘊場は虚数的なる《もの》が犇めく「先験的」に因果律が不成立な《場》として《吾》に賦与されてゐるに違ひないとすると、五蘊場もまた量子「色」力学と関係した量子的な《場》と考へずにはゐられぬ筈なのに、何故に、人間は解剖すれば眼前に現はれる《実体》たる脳にばかりにそれ程まで拘るのだらうか? 





――へっ、脳細胞が電気信号のやり取りで情報を伝達してゐると解かった段階で、脳に量子場の考へ方を導入しなければならないのは当然として、つまり、其処で五蘊場に表象される《もの》は確率《一》には決してなり得ぬ表象群に支へられてゐて、その表象群は決して《一》にはならぬ、換言すれば現実で《実体》として具体化してはならぬといふことがさっぱり解からぬのか、人間はその考え、つまり、《一》≠《一》が通常の姿で、《一》=《一》は異常極まりない事象だといふ考へ方に我慢がならぬさ。その結果が、此の人工物で埋め尽くされた《外界》といふ名の世界の、哀れな、そして悲惨極まりない姿の現出だ。





――つまり、人間が頭蓋内の闇たる五蘊場に生滅する表象群を外界で《実体》として具体化してしまふのは、人間が《実感》が欲しいといふこと、たったそれだけのことぢゃなのかね? 





――さう、《実感》だ。《吾》は《吾》といふ確率が《他》より大きいだけに過ぎぬことに、つまり、《吾》が《吾》であるその《存在根拠》が決して確率《一》になり得ぬことに我慢がならぬのさ。《吾》は何処まで行っても《吾》であって欲しい、唯、それだけの理由で、《一》=《一》といふ特異な事象が恰も一般的な事象であるかの如く振舞ふ自同律の恐怖政治、換言すれば、論理が暴君として支配する「解かりやすい」世界観の天下に《吾》は甘えたいのさ。





――ふっ、《吾》の確率が《一》になることは不可能事に違ひない……か。





――しかしだ、さうだとすれば尚更《吾》の《存在》は何もかも相対的なる《存在》といふ陥穽に陥ると思はないかい? 





――ちぇっ、実際、《吾》は《吾》を相対化した論理で語られてゐるのが現状じゃないか! 下らない事にな。





――やはり《吾》の相対化は下らないかね? 





――ああ、下らないね。





(四十九の篇終はり)







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2009 09/14 05:56:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――別に如何仕様もしないが、しかし、虚空とはそもそも何なのかね? 





――ふほっほっほっほっ。「在ると思へば立ちどころに出現し、無いと思へば立ちどころに消滅するところの、その時空間自体」のことぢゃて。





――ちぇっ、それは主観、それも絶対的な主観のことではないのかね? 





――さて、お前は夢が徹頭徹尾お前の《もの》だと断言出来るかね? 





――くっ、口惜しくてならないのだが、俺にはさう断言出来ぬのだ! 





――つまりぢゃ、それは主観は主観で完結出来ぬといふことぢゃが、はて、其処で何か言ひたいことはあるかね? 





――つまり、主観と吾等が呼んでいる《もの》は、この肉体同様、耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々、外部に開かれた穴凹だらけの《存在》に違ひないといふことではないのかね? 





――その外部が虚空ぢゃよ。





――主観の外部? 主観の外部は客観ではないのかね? 





――ふほっほっほっほっ。さて、客観とは何のことかね? 





――ちっ。





――客観とは主体の傲りの表はれではないのかね? 





――主体の傲り? 





――さうぢゃ。「《吾》此処に在り、それ故、客観は主観に従属せよ!」といふことを暗黙裡の前提として、正にその主体が己のことを主体と名指す《吾》のその悪癖故に、主体は客体を悪し様に扱ふ。其処でぢゃ、さて、《吾》は本当に《吾》かね? 





――つまり、《吾》そのものが虚妄だと? 





――ふほっほっほっほっ。虚妄故に《吾》を《吾》が虚妄と断言することは、《吾》が《吾》に対する《存在》の責任を放棄することに直結する故に、《吾》は《吾》として実在する《もの》と狂信する外ないのぢゃ、ふほっほっほっほっ。





――何故《吾》が《吾》を虚妄と名指すことが《吾》に対する《存在》の責任放棄に結び付いてしまふのかね? 





――《吾》が《吾》を虚妄であると断言することは、或る「神」の視点から眺めると言へばよいのか、否、つまり、悪意的にその事を曲解すればぢゃ、《吾》はその時全的自由を獲得したと一見見えるかもしれぬが、しかし、その実、《吾》がその様に振舞ふことをこの《吾》は絶対に受け入れぬし、また、全的自由なんぞ、この《吾》に持ち切れる筈がない! 





――つまり、《吾》が野放図に堕してしまふからかね? 





――はて、つかぬことを聞くが、お前は絶対の無限なる《もの》を持ち切れるかね? 





――ふっ、否が応でも《吾》はその無限なる《もの》を持ち切る外ないんだらう? 





――ふほっほっほっほっ。その通りぢゃて。《吾》はその無限なる《もの》から遁れたい故に《吾》なる《存在》を虚妄と看做したいのぢゃ。





――だが、しかし、《吾》はそもそも泡沫の夢の如く生滅する虚妄の一事象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっ、その通りぢゃ。しかし、《吾》には決してさうは出来ぬ、つまり、この《吾》の《存在》を虚妄と看做すことは出来ぬ宿命を負ってゐる。





――宿命? 何の宿命かね? 





――《吾》が《吾》故に《吾》ならざる《吾》へと絶えず変容する外に此の宇宙での存在意義がないといふ宿命、ふっ、つまり、此の無限にすら思へる宇宙に対峙するには、《吾》は《吾》を徹底的に擁護せずにはゐられぬ宿命だからぢゃて。





――そして、《吾》は《吾》を絶えず弾劾せずにはゐられぬ《もの》として此の世に《存在》することを強要される……違ふかね? 





――それは「神」の摂理と言ひたいところぢゃが、詰まる所、《吾》は《吾》にのみにその《存在》を弾劾される《存在》としてしか、ふっ、《存在》出来ぬ悲哀……。





――やはり《存在》は悲哀かね? 





――ふほっほっほっほっ。それは絶えず《吾》に「《吾》とはそもそも何《もの》か?」といふ猜疑心が爆発する危険を孕んだ《吾》といふ《存在》が「先験的」に持つ危うさ故に、《存在》はそれが何であらうと悲哀なのぢゃ。





――へっ、だが、《吾》が《吾》で完結するなどといふ愚劣極まりない存在論にしがみ付く時代は疾うに終わってしまった事だけは間違ひないぜ。





(二の篇終はり)







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2009 09/12 05:04:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――やはり全ての元凶は《吾》か……。





――Big Bang(ビッグバン)以降、此の宇宙が膨張すればするほど、《吾》のその底無しの深淵は更に更に更にその正体をその深淵の奥底深く隠すのさ。





――それでは何故Big Bangは始まってしまったのだらう……。





――多分、無と無限がぴたりと重なったその無上の恍惚感が、その恍惚故に自壊したに違ひない。





――此の宇宙の開闢は恍惚の自壊故にと? 





――多分、無と無限がぴたりと重なった己の不思議を無時空が認識しちまった刹那、無時空は思はず「ぷふぃ。」と笑ひ声を発してしまった……。





――へっ、また「ぷふい。」か。





――さう、それ故「初めに念生まれし」なのさ。そして、その残滓が《存在》の内部に隠されてゐるであらう特異点の《存在》さ。





――やはり自同律が成立するには如何あっても《吾》といふ《存在》には底無しの特異点が《存在》することを考慮に入れなけりゃ、駄目だっていふことか? 





――でなければ、此の宇宙が出現する必要はなかった……。





――しかし、《吾》と《反=吾》とが、陰陽魚太極図の目玉模様を為す太極の如く、勾玉状の《もの》が渦を巻くその特異点の《存在》を端的に名指した存在論が、これまで《存在》しなかったのは何故かね? 





――へっ、所詮人間の存在論は自同律の呪縛から一歩も遁れられなかったのさ。





――つまり、如何なる存在論も性と生と死の問題に目を瞑ってゐたといふことかね? 





――《即自》や《対自》や《脱自》等と《吾》を色々と定義付けをしてみたが、結局のところ、それらは全て《吾》の、つまり、《一》=《一》の自同律の呪縛から脱することは出来なかったのさ。ふっ、《吾》は先づ《存在》に対しての敗北を認めることからしか《存在》を語ることは出来ないと観念するのが先決さ。





――つまり、それは《一》=《一》が特異な事象だと、換言すれば、大概は此の宇宙は《一》≠《一》の事象にあるといふことだね? 





――ああ、さうさ。しかし、へっ、《一》≠《一》と聞いただけで《吾》は苦笑して、その論理から逃げることばかりに終始するのがこれまでの存在論の惨憺たる状況だ。





――「初めに念生まれし。そして、《吾》は《吾》の底無しの深淵を発見せし。そして、《吾》は思はずその深淵を覗き込みし。その後、《吾》は《吾》から面を上げて《他》を見出しぬ。」





――つまり、その《他》とは此の宇宙の涯の一つの解としての相貌だった……。





――すると、《もの》が《存在》するとはその《存在》が此の宇宙の涯を表象してゐるといふことだね? 





――ああ。でなければ、時空間が膨張に膨張を続け《吾》と《他》が何処までも離れ行くBig Bangは起こる筈がなかった。





――《吾》が《吾》と認識した刹那、無と無限は引き裂かれ、パスカルの深淵がばっくりとその大口を開けた……。





――そして、《吾》は、特異点を包含せざるを得ぬこの《吾》の自意識は、そのパスカルの深淵を永劫に自由落下する。





――その一つの表れが重力だと思ふかね? 





――ああ。





――ちぇっ、此の宇宙の開闢は、念が生まれてしまった所為で《吾》の底無しの深淵、つまり、特異点の底の底の底を覗き込んでしまったことにその因があるのか――。其処でだ、単刀直入に聞くが、《存在》に内包されてゐる特異点の《存在》を暗示するその根拠は何かね? 





――意識の《存在》さ。意識において、つまり、その意識は永劫にパスカルの深淵を自由落下してゐるのだが、其処では因果律は壊れてゐることが特異点の《存在》を如何しても暗示してしまふのさ。





――つまり、この頭蓋内の闇たる五蘊場では、《吾》は未来へも過去へも、勿論現在にも自在に行き交ふことが可能といふ異常事態が何の変哲もない日常茶飯事といふことが、如何あっても特異点の《存在》を表象せずにはをれぬといふことかね? 





(四十八の篇終はり)







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2009 09/07 06:48:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ああ、その通りさ。しかし、《存在》は無若しくは無限をも掌中に収める特異点を内包してゐなければ《存在》自体が成立しない。





――つまり、《パスカルの深淵》は外部にも内部にもあるといふことか……。《主体》にとってそれは過酷だね。





――何を他人事のやうに? 君も《自意識》を持つ《存在》たる《主体》ならば、この地獄の如き底無しの《深淵》は知ってゐる筈だし、現に君はその底無しの《深淵》に飛び込んでゐるじゃないか? 





――私の場合は強ひて言へば、最早《存在》といふ《もの》が綱渡りの如くにしか《存在》出来ない《主体》において、私といふこの《主体》が、その《存在》の綱を踏み外してしまって、結果的にこの《深淵》に落っこっちまったに過ぎぬのさ。今の世、《主体》が《主体》であり続けるのはCircus(サーカス)の曲芸よりも至難の業だぜ。





――君はそんな《主体》の有様に疑念を抱かなかったのかい? 





――疑念で済んでゐれば《存在》の綱を踏み外してこんな《深淵》に落っこちっこなかった筈さ。





――自虐、それも徹底した自虐の末路がこの《深淵》といふことかね? 





――いいや、私の場合は唯《杳体》に魅せられて《杳体》の虜になっただけのことさ。つまり、《杳体》の面が見たかったのさ。





――《杳体》の面? 





――《存在》の綱渡りをしてゐる最中に《杳体》なる《もの》の幻影を見てしまったのさ。





――それが《存在》の陥穽、つまり、特異点と知りながらかい? 





――ああ、勿論だとも。端的に言へば《存在》することに魔がさしたのさ。《主体》であることが馬鹿らしくなってね。其処へ《杳体》の魔の囁きが不図聞こえてしまったのさ。





――どんな囁きだったんだい? 





――「無限が待ってゐるよ」とね。さう囁かれると《主体》はどう仕様もない。一見すると有限にしか思へない《主体》は《無限》に平伏する。《無限》を前にすると最早《主体》は抗へない。つまり、《主体》内部の特異点が《無限》と呼応してしまふのさ。





――ふむ。ところで君は《杳体》がのっぺらぼうだとは思はなかったのかい? 





――のっぺらぼうの筈がないじゃないか! 





――何故さう断言出来るのかね? 





――つまり、《主体》にすら面があるからさ。そして《他者》にも面がある。更に言へば、此の世の森羅万象全てに面がある。





――だから《杳体》にも面があると? 





――一つ尋ねるが、闇に面があるかね? 





――ふむ。闇といふ言葉が《存在》する以上、面はあるに違ひない。





――へっ、さうさ。その通り。だから《杳体》も《杳体》と名指した刹那に面が生じるのさ。





――すると、のっぺらぼうものっぺらぼうと名指した刹那にのっぺらぼうといふ面が生じるのかい? 





――へっ、のっぺらぼうとは無限相の別称さ。





――無限相? 





――無限に相貌を持つといふことは面貌の無いのっぺらぼうに等しい――。





――それぢゃ、無と無限がごちゃ混ぜだぜ。





――逆に尋ねるが、無と無限の違ひは何かね? 





――ふっ、それは愚問だよ。





――さうかね? 愚問かね。それぢゃ、端的に言ふが、無と無限の違ひはその位相の違ひに過ぎない。





――詰まる所、それは特異点の問題か……。





――無と無限が此の世に《存在》するならば――この言ひ方は変だがね――特異点も必ず《存在》する。それをのっぺらぼうと名付けたところで、無から無限までの∞の相貌がのっぺらぼうの面には《存在》してしまふのさ。





(七 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 09/05 11:16:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さう看做した方が自然だらう。





――「初めに念生まれし」。





――さて、それは何の呪文かね? 





――いや何ね、創世記なる《もの》をでっち上げようと思ってね。





――「初めに無在りき」、ではないのかね? 





――いや、永劫といふ時空の相の下では、つまり、無時空において、幽かな幽かな幽かな念なる《もの》が不意に生まれてしまふのさ。そのやうに不意に時空なる《もの》が生まれる契機が《存在》しちまったに相違ない。ぢゃなきゃ、此の宇宙は生まれる筈はなかった……。





――それはまた何故かね? 





――永劫といふ時空を与へられし無時空において、否が応にもその無時空は《吾》といふ念へと生長してしまふその念の萌芽が、不意に、それは不意にでなければならぬ筈だが、つまり、此岸と彼岸の間(あはひ)が不意に生まれてしまったに違ひないのさ。





――詰まる所、その念は《吾》へと志向するのだね? 





――いや、《吾》への志向はもっと後の事に相違ない。ちぇっ、否、むむっ、念など嘘っぱちだ。くっ、如何あっても私の想像力では特異点の壁は越えられぬ――、ちぇっ。特異点と聞いただけで思考停止になっちまふ、このぼんくらの頭蓋内は。





――それはむしろ当然だらう。未だに何人たりとも、否、何《もの》も特異点のその状態を想像し論理的に語り果(おほ)せた《もの》はゐない筈だからな。





――「初めに何もない自他無境の無時空が無と無限の相がぴたりと重なりし摩訶不思議の中に《未存在》のみがゆったりとたゆたふ神若しくは神々のゐない、それでゐて神話的なる《存在》の、否、《未存在》の「黄金時代」が永劫の相の下に《無=存在》せし」。





――つまり、「初めに初めもなければ終はりもなく、そして何もない事象が在りき」、だらう。さて、其処には、しかし、大問題が潜んでゐる。つまり、何もない処に此の宇宙の全Energie(エネルギー)を或る一点に凝縮した特異点なる《もの》が《存在》しなけりゃならない訳だが、無とその特異点とを如何橋渡しするのかね? 





――うむ。多分、無時空が無時空なることに「ぷふぃ。」と思わず笑ひ声を発した刹那、big bang(ビッグバン)がおっ始まってしまったに違ひない。そして、その時の無時空の後悔若しくは懊悩は量り知れぬ程に深かった筈だ。





――そして、その刹那、自同律の不快が始まった……。





――むっ。それは何故にかね? 





――無時空の相が時空へとその様相を一変させた刹那、《吾》と《他》もまた発生してしまったに違ひないからさ。





――さうして自同律の不快が始まった――か。 





――へっへっへっ。そんなんぢゃ、科学的な理論に堪へ得ぬぜ。ちぇっ、無時空が無時空なることの愉悦から思はず「ぷふぃ。」と笑い声を発してしまっただと?  





――しかし、零たる無と∞たる無限がぴたりと重なった様相において無時空は無時空なることに無上の悦びを感じてしまった筈だ。





――つまり、お前の見方だと、特異点は無上の悦びに満ちてゐることになるが、それはまた何故かね? 





――だって零たる無と∞たる無限の相がぴたりと重なってゐるんだぜ。





――それが如何したと言ふのか。無時空における特異点ではそれは当り前の事でしかなく、詰まる所、無と無限の相がぴたりと重なってゐることに無上の愉悦を感ずる道理はない筈だぜ。それ以前に無時空は意識を持つのかね? 





――さあ、それは解からぬ……が、しかし、無時空に意識が《存在》しても不思議ではない。まあ、無時空に意識が《存在》してゐようがゐまいがとちらにせよ、無時空が無時空たる事を已めた故に此の宇宙が誕生したのは間違ひない筈だ。しかしながら、特異点たるbig bangを如何説明すればよいのか……? 





――何らかの理由で、恒常不変で無と無限がぴたりと重なりし無時空は最早恒常不変ではゐられなくなったのだらう。





――その理由とは? 





――己に飽き飽きしたといふのは如何かね? 





――からかってゐるのか? 





――いや、何ね、無時空は恒常不変なる事を断念し、諸行無常に己の存在理由を見出してしまったのだらう。





――だからそれは何故にかね? 





――多分、無時空は《吾》なる《もの》の底無しの深淵を覗き込んでしまったからに違ひない……。





(四十七の篇終はり)







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2009 08/31 05:28:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、《主体》自ら進んで《存在》の人身御供となったところで、此の悪意に満ちた宇宙は皮肉に満ちた薄笑ひをその無限相に浮かべて眦一つ動かさずに人身御供として供された《存在》の生贄をぺろりと呑み込んで、後は何事もなかったかの如く知らん顔してるぜ。つまり、此の悪意に満ちた宇宙にとって人身御供は当たり前の日常茶飯事に過ぎぬのさ。





――ふっふっ、当然だらう。しかし、それでも《主体》たる《吾》は未だ出現ならざる《もの》達の為にも何としても人身御供になるしかないのさ。





――しかし、それで《他》は満足か? 





――いいや。《他》にとって《吾》の人身御供は百害あって一利なしの厄介《もの》さ。





――それはまた如何して? 





――《他》もまた《吾》の人身御供の巻き添へを食ふからさ。





――なあ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》が人身御供としてその身を《存在》の生贄にするのは、此の悪意に満ちた宇宙への当て付けに過ぎず、へっ、それは結局のところ、何の効果も齎さない全く無意味な事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっ、その通りさ。しかし、それでも《主体》たる《吾》は身命を賭しても己の《存在》を確かめたい《もの》に生まれつき出来ちまってゐる。さて、これを如何とする? 





――それは、《吾》は絶えず《吾》を捨てて《吾》ならざる《吾》といふ全く矛盾に満ちた事を夢想する《存在》だからだらう。それ故《吾》たる《存在》に過ぎぬその《存在》は惜しげもなく人身御供として此の悪意に満ちた宇宙に生贄としてその身を「返納」するのさ。





――つまり、それは何処まで行っても《他》でしかない此の宇宙に入水(じゅすい)するといふことかね? 





――或るひはさうかもしれぬが、《吾》が此の悪意に満ちた宇宙にその《存在》を人身御供としてその身を供する事は、《吾》が《吾》であることを断念する一つの方法に違ひないのさ。





――これも愚問だが、《吾》は何故その《存在》を人身御供に処するのか? つまり、《吾》は《存在》の人身御供となることで《吾》は、ちぇっ、本音のところでは「悲劇の主人公」になったといふ大いなる錯覚の中で、己の《存在》を滅したいからに過ぎぬのぢゃないのかね? 





――ふっ、それは当然だらう。《吾》が《吾》でしかないと認識しちまった《もの》は、その《存在》が滅する時は如何あっても「悲劇の主人公」でなくちゃならいなのさ。





――まあ、よい。それよりも人身御供としてその《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に犠牲にしたその《吾》の《個時空》は、虚空の中で主のゐない、そして、何時果てるとも知れぬ渦として、消えてはまた渦巻く事を未来永劫繰り返してゐるのかな? 





――幾つもの目玉模様が鏤められた孔雀の雄の羽を思ひ描けば、それが人身御供としてその《吾》といふ《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に生贄として捧げし《もの》達の《吾》の滅した後の《個時空》の虚空の中での有様さ。





――その根拠は? 





――《個時空》の墓場とは土台そんな《もの》さ。





――だから、その根拠は? 





――何となくそんな気がするぢゃ駄目かね? 





――つまり、お前の夢想に過ぎぬといふことだらう? 





――なあ、これも愚問だが、お前は幽霊の、つまり、霊体の《存在》を認めるかね? 





――藪から棒に何かね? しかし、うむ。多分だが、《存在》は死滅しても、星の死滅後の様相と、つまり、星の死後にも厳然と白色矮星やら中性子星やらBlack hole(ブラックホール)やらが《存在》することから推し量れば、当然幽霊などの霊体は《存在》の死滅後に《存在》すると看做した方が自然な気がするがね。





――つまり、幽霊などの霊体の《存在》を認める訳だね? 





――《存在》すると看做した方が自然なだけさ。それに幽霊が此の世に《存在》する方が此の世が断然面白くなるぢゃないか。





――其処で雄の孔雀の羽だか……。主が死滅した《個時空》の有様は、何処とも知れぬ虚空の中で人知れず未來永劫ひっそりと渦巻いてゐる……違ふかね? 





――しかし、それぢゃ、空想の域を脱してゐない……、ちぇっ。





――へっへっへっ、それで結構ぢゃないか? 死後の彼の世の事なぞ想像の手に委ねたままである方が、現在《存在》しちまった《もの》にとっては返って有益に違ひないのさ。此の世で死んでも彼の世があれば《吾》から脱せられるといふ希望を抱けるといふものさ。





――それはまた何故? 





――へっ、それは死滅した後も《個時空》を《吾》たる《もの》が担ふと考へることに、へっ、この《吾》共はもういい加減うんざりしてゐるのさ。





(七の篇終はり)







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2009 08/29 17:33:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それはまやかしではないのかね? 





――まやかしで結構ぢゃないか! 土台、《主体》が己の事を《吾》と認識しちまふ事自体が、或る意味まやかしに外ならないのだから。





――それは言ひっこなしだぜ。《吾》が己を《吾》と認識する事自体まやかしと言っちまったなら、それは虚無主義のど壺に嵌るだけだぜ。





――しかし、お前は「苦悩による苦悩の封建制」を担ふ《主体》たる《吾》の有様そのものをまやかしに、つまり、虚妄にしたいんだらうが――。





――だって神若しくは神々のゐない創世記なぞ、このちっぽけな《主体》たる《吾》に創造出来る筈がないぢゃないか! 





――否! 《主体》たる《吾》は如何あっても神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる外ないのさ。へっ、未だ夢半ばとはいへ、このちっぽけな《主体》たる《吾》は科学的に素粒子理論や超絃理論や余剰次元の理論や、そしてそれらを元にして何とか宇宙論を作り上げたぢゃないか。





――それさ。つまり、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるといふのは、特異点を人智の埒内に、つまり、《主体》たる《吾》が徹頭徹尾此の世の生々流転の有様を理詰めで語り果(おほ)す事に違ひない筈なのだが、しかし、実際のところ、《主体》たる《吾》の現状と言ったなら未だ無と無限を何とも仕様がないその己の無力さ加減にうんざりしてゐる、ちぇっ、そんな脱力感に包まれた《主体》たる《吾》が此の世に有象無象としてゐるばかりなのさ。





――へっ、詰まる所、無と無限にすら四苦八苦してゐる《もの》に特異点を語る資格はないといふことかね? 





――ふっ、それでもお前は語り果せと言ふんだらろう? 





――でっち上げてしまへばいいのさ。そして神若しくは神々を《存在》から解放させてやるのさ。





――簡単にでっち上げればいいと言ふが、そのでっち上げた創世記は科学的な理論にも堪へ得る《もの》でなければ、へっ、そのでっち上げた創世記なる《もの》は邯鄲の夢と五十歩百歩に過ぎぬのぢゃないかね? 





――何故? 





――何故だと! 乱暴な物言ひをするが、つまり、《主体》たる《吾》は、この科学万能の世に科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》は何の役にも立たぬ《もの》として、神若しくは神々すらもその《存在》を此の世から抹消しちまふ何とも無情且無常な体たらくの、ちぇっ、科学的に理論武装した中に、さも心地良ささうにたゆたひながら、結局は《主体》たる《吾》は、此の世の穴凹たる不可知な無と無限と特異点から論理的に回避しする事に、若しくはそれらを乱用することに終始し、挙句の果てはなるべくそれらに触れぬやうにする事に最早疲れ果ててその身を窶(やつ)してゐるのが本当のところだらう?  





――ちょっ、《もの》を有益か無益かで差別するのは《もの》に対してこれ以上失礼千万な事があるかい? 





――しかし、科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》はそれが何であれ、それは無益で切り捨てるべき《もの》で、そんな《もの》には誰も目を向けやとないのが実際のところだぜ。





――さうさ。つまり、それは《存在》する《もの》が、例へば科学的といふ名の《他》、つまり、客体に開かれた《もの》、換言すれば、自閉した《存在》を《吾》を初めとする全《存在》が嫌悪するといふ事を科学に託けて言明してゐるに過ぎぬのぢゃないかね? つまり、《存在》は既に自閉することを禁じた《存在》として此の世に「先験的」に投企された《存在》なのさ。





――それは、つまり、《存在》とは《他》に開かれた穴凹だらけの《存在形式》若しくは《存在》の位相しか、最早受け付けぬといふことだよね? 





――ああ。《存在》が穴凹だらけならば此の世に開いたその穴凹の一つに違ひない特異点も己の穴凹から類推して、その類推した《もの》を元に無理矢理にでも何とか語り果してしまひ、その上、徹頭徹尾《主体》たる《吾》と《他》のみで出来た神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる事は可能な筈だかね。 





――つまり、其処には《他》=宇宙の《存在》が暗黙裡に含意されてゐるといふ訳だね。 





――ああ、さうさ。此の《吾》=宇宙は、《吾》のみで自閉した事など金輪際ないのさ。即ち、「《吾》とは《吾》で自閉するに能はず、《吾》は《他》をして《他》に開かれし穴凹複合体なり!」。





――さうすると、人間の耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、そして生殖器、更には各細胞に無数に開いてゐる穴凹、将又(はたまた)物質を構成する例へば分子群がすかすかの隙間だらけなのは、飛躍した物言ひをすれば、必ず《吾》には未知なる《他》が《存在》してゐる証左と看做していいんだね? 





――違ふとでも? 





――いや。しかし、穴凹だらけが即《他》の《存在》を暗示させるとは即断出来やしないのぢゃないかい? それ以前に在りるとも無いとも言ひ切れない《他》=宇宙の《存在》をどうやって実証するか? 





――穴凹の《存在》が即《他》の《存在》を暗示するとはお前の言ふ通り即断できないが、しかし、少なくとも穴凹だらけの《吾》は《吾》で自閉していない証左にはなるだらう。だから、神若しくは神々のゐない《吾》と《他》による創世記をでっち上げろと言ってゐるんだよ。ちぇっ、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるのに、詰まる所、《吾》と《他》の外に何が必須だと言ふんだね? 





――さて、《吾》と《他》以外何《もの》も不必要だとすると、現状では《他》=宇宙は如何様にも創作可能といふことか――。 否、《他》=宇宙の《存在》を暗示してゐないどんな宇宙論も如何様(いかさま)といふことか! なあ、さうだらう? 





(四十六の篇終はり)







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2009 08/24 11:06:11 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、死んだ《もの》が《吾》の死後に《吾》が棲む《世界》を決めるのさ。それも《死》した《もの》は最早過ぎ去ってしまった《吾》の《生》のみを頼りにして其処を極楽浄土か地獄かを絶対的に主観的に判断しなければならぬといふ皮肉! 例へば死んだ《もの》が彼の世を地獄と判断すれは其処は地獄以外の何《もの》でもない。へっ、地獄も住めば都だがね。換言すれば極楽浄土と地獄は同位相にある、へっ、もしかすると同じ《世界》を、或る《もの》は極楽浄土と看做し、或る《もの》は其処を地獄と看做すに過ぎぬのかもしれないといふことさ。





――すると、極楽浄土と地獄が同じく絶対的に《主観》の世界像ならば、閻魔大王も最後の審判も全て一人芝居に過ぎぬぢゃないかね? 





――さうさ。《吾》を最終的に裁けるのは、結局、《吾》のみさ。さうして、《死》した《もの》は全て《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ。





――如何あっても《死》した《もの》はそれが何であれ《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ定めなのかね? 





――ああ、残念ながらね。





――それは何故かね? 





――《死》は徹頭徹尾独りの《もの》だからさ。此の世の様態たる実数若しくは複素数の実数部の世界から出立した死んだ《もの》は、或る意味量子論的に《零の穴》と《∞の穴》の二つの様態の両様にあり、死んだ《もの》が《零の穴》を覗き込んでゐるか、または《∞の穴》を覗き込んでゐるかは、《死》した《もの》の絶対的な《主観》に属する、つまり、《死》した《もの》の絶対的に主観的な様態次第といふことだ。つまり、虚数を嘗ては実数であった《吾》がその死後如何看做すかが《死》の位相であらゆる《もの》は試される。





――へっ、つまり、《死》とは零と∞の状態が《重なり合った》、へっ、零と∞が如何《重なり合ふ》のか甚だ疑問だがね、しかし、《死》とは無理矢理にでも零と∞が《重なり合ふ》状態のことだね? 





――さう看做して結構だ。しかし、その零と∞が《重なり合ふ》状態が《吾》の《生》次第で如何様にも変容することは理解できるね? 





――つまり、《生》次第で《死》の様態は如何にでもなるといふことだね。そして、《死》は絶対的に主観的な世界像としてとしか《死》した《吾》にはその像を結ばぬといふことだらう? 





――さう。そして、《死》の萌芽は既に《生》に潜んでゐる。





――それは当然だらう。複素数には零も∞も含まれるんだからな。





――それに加へて特異点も複素数は内包せねばならぬ定めなのさ。





――それも定めなのかね、此の世の様態たる複素数が特異点を内包せねばならぬといふことは? 





――ああ。先にも言ったやうに矛盾を孕んでゐない論理は論理の《死体》でしかないやうに、此の世の様態たる複素数は、零や∞は勿論の事、其処には何としても、ちぇっ、つまり、痩せ我慢してでも特異点を内包しなければ、そもそも《存在》は《存在》出来ない定めなのさ。





 その刹那、《そいつ》はぎろりと鋭き光を放つ眼光を蔽ひ隠すやうにゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。





――何を考へてゐる? 





――へっ、何ね、死ねない癌細胞、即ち全的に《生》に移行しちまった細胞の出現こそその数多の細胞群の統一体たる《吾》の《死》の始まりでしかないこの矛盾に満ちた《生》の有様の不思議を不意に思っただけの事さ。





――死ねない癌細胞の出現は、詰まる所、自死、即ちApoptosis(アポトーシス)によって辛うじてその複雑怪奇な構造を為す臓器等を統一体たらしめてゐたその絆をぶった切ることでしかないといふ何たる皮肉! 





――へっ、元来《他》の死肉を喰らふことで辛うじて《吾》の《生》を維持してゐることを考へれば、《生》は《死》無くしては成立しない事は火を見るよりも明らかだ。しかしだ、《死》すべき宿命から遁れられぬ《吾》の一部には未来永劫に亙ってこの《吾》が《吾》として《存在》することを望んで已まない《もの》が《存在》する。その夢想の具体化された《もの》の一例が癌細胞の出現だとすれば、ちぇっ、しかし、《吾》にとっては全く制御不能な癌細胞は、換言すれば、不老不死を望んで已まない《吾》が《吾》の意思とは全く無関係に《存在》してしまふ癌細胞の有様は、さて、何と説明すればいいのかね? 





 その刹那、《そいつ》は再び鋭き眼光を放つ目を開け、私をぎろりと睨み付けたのであった。





――ちえっ、《吾》の《存在》が未来永劫に亙って続くことを望んで已まない《吾》は、地獄にのみ棲みたいのさ。そんな《吾》なぞ好きにやらせて、放って置けばいいのさ。しかしだ。例へばだが、ちぇっ、唐突且縮めて言っちまへば、ふっ、これは飛躍的な物言ひだがね、《他》と交り合ふ性交と《死》は切っても切れない関係にある不思議が、特異点の不思議を解く鍵に違ひないとは思はないかい? 





――何を藪から棒に? まあよい。へっ、さうすると《死》もまた性交と同じく悦楽の部類に入るのかね? 





――ああ。多分ね。生物史を見ると生の出現が《死》の出現と重なってゐることからして性交が悦楽ならば《死》もまた悦楽に違ひない、へっ、それは《生》にとっては忌み嫌ふ外ない「禁じられし」悦楽だがね。つまり、性交の悦楽が《死》の疑似体験の更に疑似体験の触りに過ぎぬとしたならば、性交時に仮初にもそこに架空される《吾》=《吾》=《他》といふ等式は、正に自同律が悦楽となり得る事象を暗示してゐるのであり、またその等式は《他》の死肉を喰らひ《他》の死肉を消化しちまふといふ食事といふ行為にも当て嵌まり、更には夢を絶対的に主観的な世界と仮定しちまへば睡眠時もまたその等式が成り立つ筈さ。なあ、その性交の悦楽は此の世に底知れぬ特異点の《存在》を暗示させる《もの》だと思はないかい? 





――何故性交時の若しくは食事時の若しくは睡眠時の悦楽が一気に特異点の《存在》の暗示に飛躍してしまふのかね? 





――へっ、性交において若しくは食事において若しくは睡眠時の夢において自同律も因果律も破壊、即ち自同律と因果律が自死してゐる故に《吾》は悦楽に浸れる。さうは思はないかね? 





――つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ等式が成り立つには因果律が壊れてゐるに違ひない特異点の世界の《存在》を如何しても暗示して已まないと? 





――違ふかね? 





(七の篇終はり)







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2009 08/22 09:52:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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