思索に耽る苦行の軌跡

2009年 08月 の記事 (8件)

――さう看做した方が自然だらう。





――「初めに念生まれし」。





――さて、それは何の呪文かね? 





――いや何ね、創世記なる《もの》をでっち上げようと思ってね。





――「初めに無在りき」、ではないのかね? 





――いや、永劫といふ時空の相の下では、つまり、無時空において、幽かな幽かな幽かな念なる《もの》が不意に生まれてしまふのさ。そのやうに不意に時空なる《もの》が生まれる契機が《存在》しちまったに相違ない。ぢゃなきゃ、此の宇宙は生まれる筈はなかった……。





――それはまた何故かね? 





――永劫といふ時空を与へられし無時空において、否が応にもその無時空は《吾》といふ念へと生長してしまふその念の萌芽が、不意に、それは不意にでなければならぬ筈だが、つまり、此岸と彼岸の間(あはひ)が不意に生まれてしまったに違ひないのさ。





――詰まる所、その念は《吾》へと志向するのだね? 





――いや、《吾》への志向はもっと後の事に相違ない。ちぇっ、否、むむっ、念など嘘っぱちだ。くっ、如何あっても私の想像力では特異点の壁は越えられぬ――、ちぇっ。特異点と聞いただけで思考停止になっちまふ、このぼんくらの頭蓋内は。





――それはむしろ当然だらう。未だに何人たりとも、否、何《もの》も特異点のその状態を想像し論理的に語り果(おほ)せた《もの》はゐない筈だからな。





――「初めに何もない自他無境の無時空が無と無限の相がぴたりと重なりし摩訶不思議の中に《未存在》のみがゆったりとたゆたふ神若しくは神々のゐない、それでゐて神話的なる《存在》の、否、《未存在》の「黄金時代」が永劫の相の下に《無=存在》せし」。





――つまり、「初めに初めもなければ終はりもなく、そして何もない事象が在りき」、だらう。さて、其処には、しかし、大問題が潜んでゐる。つまり、何もない処に此の宇宙の全Energie(エネルギー)を或る一点に凝縮した特異点なる《もの》が《存在》しなけりゃならない訳だが、無とその特異点とを如何橋渡しするのかね? 





――うむ。多分、無時空が無時空なることに「ぷふぃ。」と思わず笑ひ声を発した刹那、big bang(ビッグバン)がおっ始まってしまったに違ひない。そして、その時の無時空の後悔若しくは懊悩は量り知れぬ程に深かった筈だ。





――そして、その刹那、自同律の不快が始まった……。





――むっ。それは何故にかね? 





――無時空の相が時空へとその様相を一変させた刹那、《吾》と《他》もまた発生してしまったに違ひないからさ。





――さうして自同律の不快が始まった――か。 





――へっへっへっ。そんなんぢゃ、科学的な理論に堪へ得ぬぜ。ちぇっ、無時空が無時空なることの愉悦から思はず「ぷふぃ。」と笑い声を発してしまっただと?  





――しかし、零たる無と∞たる無限がぴたりと重なった様相において無時空は無時空なることに無上の悦びを感じてしまった筈だ。





――つまり、お前の見方だと、特異点は無上の悦びに満ちてゐることになるが、それはまた何故かね? 





――だって零たる無と∞たる無限の相がぴたりと重なってゐるんだぜ。





――それが如何したと言ふのか。無時空における特異点ではそれは当り前の事でしかなく、詰まる所、無と無限の相がぴたりと重なってゐることに無上の愉悦を感ずる道理はない筈だぜ。それ以前に無時空は意識を持つのかね? 





――さあ、それは解からぬ……が、しかし、無時空に意識が《存在》しても不思議ではない。まあ、無時空に意識が《存在》してゐようがゐまいがとちらにせよ、無時空が無時空たる事を已めた故に此の宇宙が誕生したのは間違ひない筈だ。しかしながら、特異点たるbig bangを如何説明すればよいのか……? 





――何らかの理由で、恒常不変で無と無限がぴたりと重なりし無時空は最早恒常不変ではゐられなくなったのだらう。





――その理由とは? 





――己に飽き飽きしたといふのは如何かね? 





――からかってゐるのか? 





――いや、何ね、無時空は恒常不変なる事を断念し、諸行無常に己の存在理由を見出してしまったのだらう。





――だからそれは何故にかね? 





――多分、無時空は《吾》なる《もの》の底無しの深淵を覗き込んでしまったからに違ひない……。





(四十七の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 08/31 05:28:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、《主体》自ら進んで《存在》の人身御供となったところで、此の悪意に満ちた宇宙は皮肉に満ちた薄笑ひをその無限相に浮かべて眦一つ動かさずに人身御供として供された《存在》の生贄をぺろりと呑み込んで、後は何事もなかったかの如く知らん顔してるぜ。つまり、此の悪意に満ちた宇宙にとって人身御供は当たり前の日常茶飯事に過ぎぬのさ。





――ふっふっ、当然だらう。しかし、それでも《主体》たる《吾》は未だ出現ならざる《もの》達の為にも何としても人身御供になるしかないのさ。





――しかし、それで《他》は満足か? 





――いいや。《他》にとって《吾》の人身御供は百害あって一利なしの厄介《もの》さ。





――それはまた如何して? 





――《他》もまた《吾》の人身御供の巻き添へを食ふからさ。





――なあ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》が人身御供としてその身を《存在》の生贄にするのは、此の悪意に満ちた宇宙への当て付けに過ぎず、へっ、それは結局のところ、何の効果も齎さない全く無意味な事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっ、その通りさ。しかし、それでも《主体》たる《吾》は身命を賭しても己の《存在》を確かめたい《もの》に生まれつき出来ちまってゐる。さて、これを如何とする? 





――それは、《吾》は絶えず《吾》を捨てて《吾》ならざる《吾》といふ全く矛盾に満ちた事を夢想する《存在》だからだらう。それ故《吾》たる《存在》に過ぎぬその《存在》は惜しげもなく人身御供として此の悪意に満ちた宇宙に生贄としてその身を「返納」するのさ。





――つまり、それは何処まで行っても《他》でしかない此の宇宙に入水(じゅすい)するといふことかね? 





――或るひはさうかもしれぬが、《吾》が此の悪意に満ちた宇宙にその《存在》を人身御供としてその身を供する事は、《吾》が《吾》であることを断念する一つの方法に違ひないのさ。





――これも愚問だが、《吾》は何故その《存在》を人身御供に処するのか? つまり、《吾》は《存在》の人身御供となることで《吾》は、ちぇっ、本音のところでは「悲劇の主人公」になったといふ大いなる錯覚の中で、己の《存在》を滅したいからに過ぎぬのぢゃないのかね? 





――ふっ、それは当然だらう。《吾》が《吾》でしかないと認識しちまった《もの》は、その《存在》が滅する時は如何あっても「悲劇の主人公」でなくちゃならいなのさ。





――まあ、よい。それよりも人身御供としてその《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に犠牲にしたその《吾》の《個時空》は、虚空の中で主のゐない、そして、何時果てるとも知れぬ渦として、消えてはまた渦巻く事を未来永劫繰り返してゐるのかな? 





――幾つもの目玉模様が鏤められた孔雀の雄の羽を思ひ描けば、それが人身御供としてその《吾》といふ《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に生贄として捧げし《もの》達の《吾》の滅した後の《個時空》の虚空の中での有様さ。





――その根拠は? 





――《個時空》の墓場とは土台そんな《もの》さ。





――だから、その根拠は? 





――何となくそんな気がするぢゃ駄目かね? 





――つまり、お前の夢想に過ぎぬといふことだらう? 





――なあ、これも愚問だが、お前は幽霊の、つまり、霊体の《存在》を認めるかね? 





――藪から棒に何かね? しかし、うむ。多分だが、《存在》は死滅しても、星の死滅後の様相と、つまり、星の死後にも厳然と白色矮星やら中性子星やらBlack hole(ブラックホール)やらが《存在》することから推し量れば、当然幽霊などの霊体は《存在》の死滅後に《存在》すると看做した方が自然な気がするがね。





――つまり、幽霊などの霊体の《存在》を認める訳だね? 





――《存在》すると看做した方が自然なだけさ。それに幽霊が此の世に《存在》する方が此の世が断然面白くなるぢゃないか。





――其処で雄の孔雀の羽だか……。主が死滅した《個時空》の有様は、何処とも知れぬ虚空の中で人知れず未來永劫ひっそりと渦巻いてゐる……違ふかね? 





――しかし、それぢゃ、空想の域を脱してゐない……、ちぇっ。





――へっへっへっ、それで結構ぢゃないか? 死後の彼の世の事なぞ想像の手に委ねたままである方が、現在《存在》しちまった《もの》にとっては返って有益に違ひないのさ。此の世で死んでも彼の世があれば《吾》から脱せられるといふ希望を抱けるといふものさ。





――それはまた何故? 





――へっ、それは死滅した後も《個時空》を《吾》たる《もの》が担ふと考へることに、へっ、この《吾》共はもういい加減うんざりしてゐるのさ。





(七の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 08/29 17:33:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それはまやかしではないのかね? 





――まやかしで結構ぢゃないか! 土台、《主体》が己の事を《吾》と認識しちまふ事自体が、或る意味まやかしに外ならないのだから。





――それは言ひっこなしだぜ。《吾》が己を《吾》と認識する事自体まやかしと言っちまったなら、それは虚無主義のど壺に嵌るだけだぜ。





――しかし、お前は「苦悩による苦悩の封建制」を担ふ《主体》たる《吾》の有様そのものをまやかしに、つまり、虚妄にしたいんだらうが――。





――だって神若しくは神々のゐない創世記なぞ、このちっぽけな《主体》たる《吾》に創造出来る筈がないぢゃないか! 





――否! 《主体》たる《吾》は如何あっても神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる外ないのさ。へっ、未だ夢半ばとはいへ、このちっぽけな《主体》たる《吾》は科学的に素粒子理論や超絃理論や余剰次元の理論や、そしてそれらを元にして何とか宇宙論を作り上げたぢゃないか。





――それさ。つまり、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるといふのは、特異点を人智の埒内に、つまり、《主体》たる《吾》が徹頭徹尾此の世の生々流転の有様を理詰めで語り果(おほ)す事に違ひない筈なのだが、しかし、実際のところ、《主体》たる《吾》の現状と言ったなら未だ無と無限を何とも仕様がないその己の無力さ加減にうんざりしてゐる、ちぇっ、そんな脱力感に包まれた《主体》たる《吾》が此の世に有象無象としてゐるばかりなのさ。





――へっ、詰まる所、無と無限にすら四苦八苦してゐる《もの》に特異点を語る資格はないといふことかね? 





――ふっ、それでもお前は語り果せと言ふんだらろう? 





――でっち上げてしまへばいいのさ。そして神若しくは神々を《存在》から解放させてやるのさ。





――簡単にでっち上げればいいと言ふが、そのでっち上げた創世記は科学的な理論にも堪へ得る《もの》でなければ、へっ、そのでっち上げた創世記なる《もの》は邯鄲の夢と五十歩百歩に過ぎぬのぢゃないかね? 





――何故? 





――何故だと! 乱暴な物言ひをするが、つまり、《主体》たる《吾》は、この科学万能の世に科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》は何の役にも立たぬ《もの》として、神若しくは神々すらもその《存在》を此の世から抹消しちまふ何とも無情且無常な体たらくの、ちぇっ、科学的に理論武装した中に、さも心地良ささうにたゆたひながら、結局は《主体》たる《吾》は、此の世の穴凹たる不可知な無と無限と特異点から論理的に回避しする事に、若しくはそれらを乱用することに終始し、挙句の果てはなるべくそれらに触れぬやうにする事に最早疲れ果ててその身を窶(やつ)してゐるのが本当のところだらう?  





――ちょっ、《もの》を有益か無益かで差別するのは《もの》に対してこれ以上失礼千万な事があるかい? 





――しかし、科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》はそれが何であれ、それは無益で切り捨てるべき《もの》で、そんな《もの》には誰も目を向けやとないのが実際のところだぜ。





――さうさ。つまり、それは《存在》する《もの》が、例へば科学的といふ名の《他》、つまり、客体に開かれた《もの》、換言すれば、自閉した《存在》を《吾》を初めとする全《存在》が嫌悪するといふ事を科学に託けて言明してゐるに過ぎぬのぢゃないかね? つまり、《存在》は既に自閉することを禁じた《存在》として此の世に「先験的」に投企された《存在》なのさ。





――それは、つまり、《存在》とは《他》に開かれた穴凹だらけの《存在形式》若しくは《存在》の位相しか、最早受け付けぬといふことだよね? 





――ああ。《存在》が穴凹だらけならば此の世に開いたその穴凹の一つに違ひない特異点も己の穴凹から類推して、その類推した《もの》を元に無理矢理にでも何とか語り果してしまひ、その上、徹頭徹尾《主体》たる《吾》と《他》のみで出来た神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる事は可能な筈だかね。 





――つまり、其処には《他》=宇宙の《存在》が暗黙裡に含意されてゐるといふ訳だね。 





――ああ、さうさ。此の《吾》=宇宙は、《吾》のみで自閉した事など金輪際ないのさ。即ち、「《吾》とは《吾》で自閉するに能はず、《吾》は《他》をして《他》に開かれし穴凹複合体なり!」。





――さうすると、人間の耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、そして生殖器、更には各細胞に無数に開いてゐる穴凹、将又(はたまた)物質を構成する例へば分子群がすかすかの隙間だらけなのは、飛躍した物言ひをすれば、必ず《吾》には未知なる《他》が《存在》してゐる証左と看做していいんだね? 





――違ふとでも? 





――いや。しかし、穴凹だらけが即《他》の《存在》を暗示させるとは即断出来やしないのぢゃないかい? それ以前に在りるとも無いとも言ひ切れない《他》=宇宙の《存在》をどうやって実証するか? 





――穴凹の《存在》が即《他》の《存在》を暗示するとはお前の言ふ通り即断できないが、しかし、少なくとも穴凹だらけの《吾》は《吾》で自閉していない証左にはなるだらう。だから、神若しくは神々のゐない《吾》と《他》による創世記をでっち上げろと言ってゐるんだよ。ちぇっ、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるのに、詰まる所、《吾》と《他》の外に何が必須だと言ふんだね? 





――さて、《吾》と《他》以外何《もの》も不必要だとすると、現状では《他》=宇宙は如何様にも創作可能といふことか――。 否、《他》=宇宙の《存在》を暗示してゐないどんな宇宙論も如何様(いかさま)といふことか! なあ、さうだらう? 





(四十六の篇終はり)







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2009 08/24 11:06:11 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、死んだ《もの》が《吾》の死後に《吾》が棲む《世界》を決めるのさ。それも《死》した《もの》は最早過ぎ去ってしまった《吾》の《生》のみを頼りにして其処を極楽浄土か地獄かを絶対的に主観的に判断しなければならぬといふ皮肉! 例へば死んだ《もの》が彼の世を地獄と判断すれは其処は地獄以外の何《もの》でもない。へっ、地獄も住めば都だがね。換言すれば極楽浄土と地獄は同位相にある、へっ、もしかすると同じ《世界》を、或る《もの》は極楽浄土と看做し、或る《もの》は其処を地獄と看做すに過ぎぬのかもしれないといふことさ。





――すると、極楽浄土と地獄が同じく絶対的に《主観》の世界像ならば、閻魔大王も最後の審判も全て一人芝居に過ぎぬぢゃないかね? 





――さうさ。《吾》を最終的に裁けるのは、結局、《吾》のみさ。さうして、《死》した《もの》は全て《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ。





――如何あっても《死》した《もの》はそれが何であれ《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ定めなのかね? 





――ああ、残念ながらね。





――それは何故かね? 





――《死》は徹頭徹尾独りの《もの》だからさ。此の世の様態たる実数若しくは複素数の実数部の世界から出立した死んだ《もの》は、或る意味量子論的に《零の穴》と《∞の穴》の二つの様態の両様にあり、死んだ《もの》が《零の穴》を覗き込んでゐるか、または《∞の穴》を覗き込んでゐるかは、《死》した《もの》の絶対的な《主観》に属する、つまり、《死》した《もの》の絶対的に主観的な様態次第といふことだ。つまり、虚数を嘗ては実数であった《吾》がその死後如何看做すかが《死》の位相であらゆる《もの》は試される。





――へっ、つまり、《死》とは零と∞の状態が《重なり合った》、へっ、零と∞が如何《重なり合ふ》のか甚だ疑問だがね、しかし、《死》とは無理矢理にでも零と∞が《重なり合ふ》状態のことだね? 





――さう看做して結構だ。しかし、その零と∞が《重なり合ふ》状態が《吾》の《生》次第で如何様にも変容することは理解できるね? 





――つまり、《生》次第で《死》の様態は如何にでもなるといふことだね。そして、《死》は絶対的に主観的な世界像としてとしか《死》した《吾》にはその像を結ばぬといふことだらう? 





――さう。そして、《死》の萌芽は既に《生》に潜んでゐる。





――それは当然だらう。複素数には零も∞も含まれるんだからな。





――それに加へて特異点も複素数は内包せねばならぬ定めなのさ。





――それも定めなのかね、此の世の様態たる複素数が特異点を内包せねばならぬといふことは? 





――ああ。先にも言ったやうに矛盾を孕んでゐない論理は論理の《死体》でしかないやうに、此の世の様態たる複素数は、零や∞は勿論の事、其処には何としても、ちぇっ、つまり、痩せ我慢してでも特異点を内包しなければ、そもそも《存在》は《存在》出来ない定めなのさ。





 その刹那、《そいつ》はぎろりと鋭き光を放つ眼光を蔽ひ隠すやうにゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。





――何を考へてゐる? 





――へっ、何ね、死ねない癌細胞、即ち全的に《生》に移行しちまった細胞の出現こそその数多の細胞群の統一体たる《吾》の《死》の始まりでしかないこの矛盾に満ちた《生》の有様の不思議を不意に思っただけの事さ。





――死ねない癌細胞の出現は、詰まる所、自死、即ちApoptosis(アポトーシス)によって辛うじてその複雑怪奇な構造を為す臓器等を統一体たらしめてゐたその絆をぶった切ることでしかないといふ何たる皮肉! 





――へっ、元来《他》の死肉を喰らふことで辛うじて《吾》の《生》を維持してゐることを考へれば、《生》は《死》無くしては成立しない事は火を見るよりも明らかだ。しかしだ、《死》すべき宿命から遁れられぬ《吾》の一部には未来永劫に亙ってこの《吾》が《吾》として《存在》することを望んで已まない《もの》が《存在》する。その夢想の具体化された《もの》の一例が癌細胞の出現だとすれば、ちぇっ、しかし、《吾》にとっては全く制御不能な癌細胞は、換言すれば、不老不死を望んで已まない《吾》が《吾》の意思とは全く無関係に《存在》してしまふ癌細胞の有様は、さて、何と説明すればいいのかね? 





 その刹那、《そいつ》は再び鋭き眼光を放つ目を開け、私をぎろりと睨み付けたのであった。





――ちえっ、《吾》の《存在》が未来永劫に亙って続くことを望んで已まない《吾》は、地獄にのみ棲みたいのさ。そんな《吾》なぞ好きにやらせて、放って置けばいいのさ。しかしだ。例へばだが、ちぇっ、唐突且縮めて言っちまへば、ふっ、これは飛躍的な物言ひだがね、《他》と交り合ふ性交と《死》は切っても切れない関係にある不思議が、特異点の不思議を解く鍵に違ひないとは思はないかい? 





――何を藪から棒に? まあよい。へっ、さうすると《死》もまた性交と同じく悦楽の部類に入るのかね? 





――ああ。多分ね。生物史を見ると生の出現が《死》の出現と重なってゐることからして性交が悦楽ならば《死》もまた悦楽に違ひない、へっ、それは《生》にとっては忌み嫌ふ外ない「禁じられし」悦楽だがね。つまり、性交の悦楽が《死》の疑似体験の更に疑似体験の触りに過ぎぬとしたならば、性交時に仮初にもそこに架空される《吾》=《吾》=《他》といふ等式は、正に自同律が悦楽となり得る事象を暗示してゐるのであり、またその等式は《他》の死肉を喰らひ《他》の死肉を消化しちまふといふ食事といふ行為にも当て嵌まり、更には夢を絶対的に主観的な世界と仮定しちまへば睡眠時もまたその等式が成り立つ筈さ。なあ、その性交の悦楽は此の世に底知れぬ特異点の《存在》を暗示させる《もの》だと思はないかい? 





――何故性交時の若しくは食事時の若しくは睡眠時の悦楽が一気に特異点の《存在》の暗示に飛躍してしまふのかね? 





――へっ、性交において若しくは食事において若しくは睡眠時の夢において自同律も因果律も破壊、即ち自同律と因果律が自死してゐる故に《吾》は悦楽に浸れる。さうは思はないかね? 





――つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ等式が成り立つには因果律が壊れてゐるに違ひない特異点の世界の《存在》を如何しても暗示して已まないと? 





――違ふかね? 





(七の篇終はり)







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2009 08/22 09:52:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。お前は先に全宇宙史を背負って俺に対して此の世に立つ覚悟はあるかと聞いたかと思へば、そんな《もの》は神に呉れちまへばいいと言ひ、そして、言ふに事欠いてか挙句の果てに「苦悩による苦悩の封建制」と言ひ出し、其処で《苦悩》は全て《主体》たる《吾》が背負ひ、ふっ、神若しくは神々を《存在》から解放せよと言ったが、ちぇっ、つまり、お前の言ふ事は支離滅裂ぢゃないかね? ふっふっふっ。





――さうさ、支離滅裂だ。ふっ、つまり、俺には未だ此の宇宙の全宇宙史を背負って此の世に立つ覚悟が出来ていないのさ。へっ、愚劣故にな。例へば存在論的に言へばだが、イエス・キリストの如くその《存在》を磔刑に処する覚悟が出来ていないのさ。





――それは当然だらう。神若しくは神々でさへ全宇宙史における《苦悩》を背負ひ切れずに四苦八苦した挙句に、神若しくは神々はその《苦悩》を時の移ろひに抛り投げてしまったのだから、況や、神若しくは神々に遠く及ばぬであらう《主体》たる《吾》に全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》など背負へる訳がない。





――しかし、《主体》たる《吾》は、ぷふぃ、この愚劣極まりない《主体》たる《吾》は、その己の愚劣さをくっと噛み締めて、此の宇宙の全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》を、へっ、痩せ我慢に痩せ我慢ををしてでもその全《苦悩》を背負ふしかないんだらう? 





――ぷふぃ、その通りさ。神若しくは神々のこれまでの行なひに報ひ、全《存在》から神若しくは神々を解放したければ、《主体》たる《吾》は進んで全《存在》の全《苦悩》を背負ひ、さうしてそのままじっと我慢の上にも我慢を重ねて「苦悩による苦悩の封建制」にその身を委ねるしかないのさ。





――しかし、それは《主体》たる《吾》の自己満足に過ぎぬのぢゃないのかね? 





――ぷふぃ。自己満足で結構ぢゃないか。神若しくは神々を全《存在》から解き放つ為にも、《主体》たる《吾》は新たな創世記をでっち上げればいいのさ。





――新たな創世記をでっち上げる? 





――さうさ。徹頭徹尾《主体》たる《吾》が、全《苦悩》を背負って立つ外ない、《主体》の、《主体》による、《主体》の為の創世記をでっち上げる以外に、神若しくは神々も強ひて言へば《主体》たる《吾》も《自在なる存在》に至る術はないのさ。





――《自在なる存在》? 





――さう、《自在なる存在》だ。





――しかし、《主体》たる《吾》は此の宇宙の全《苦悩》を痩せ我慢に痩せ我慢をしてでも背負ふ「不自由」な《存在》ぢゃないのかね? 





――だから如何したと言ふんだい? 此の宇宙の全《苦悩》を背負ふ事が即「不自由」だとは限らないぜ。





――其処で「苦悩による苦悩の封建制」かね? それの何処が《自在なる存在》に繋がるのかね? 





――へっ、実際のところ、無限を飛び越える如くに「苦悩による苦悩の封建制」は《自在なる存在》と結び付く可能性は限りなく零に近いが、しかし、最早《主体》たる《吾》はそれを成し遂げる外ないんだぜ。ふっ、曲芸師の如くにな。





――つまり、「苦悩による苦悩の封建制」では、へっ、《主体》たる《吾》は《自在なる存在》といふ名の《地獄》を見る……か――。





――しかし、それは神若しくは神々の《自由》と《主体》たる《吾》の、ぷふぃ、《自由》の当然の対価だらう? 





――《自由》の対価? 





――へっ、【神若しくは神々の《自由》】≠【《主体》たる《吾》の《自由》】のその悍ましさの底無しの深淵を《主体》たる《吾》は「苦悩による苦悩の封建制」において覗き込まねばならぬのだ。その覚悟は出来たかね? 





――ちぇっ、当たって砕けろだ。





――それ、その意気。





――ちぇっ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》は何故に逆Pyramid(ピラミッド)型の階級制、つまり、逆Pyramidの底にゐるであらう《主体》たる《吾》は、その逆Pyramid型の階級制をした故に《主体》たる《吾》のみが全《苦悩》を背負ふといふ、神若しくは神々以外では全宇宙史上初めてに違ひない「苦悩による苦悩の封建制」を受け入れるといふ、そんなとんでもない愚行に身を投じる必然性はあるのかね? 





――ぷふぃ。此の世に《存在》しちまった以上、《主体》たる《吾》はそれを黙って受け入れる外ないのさ。





――《存在》しちまったが故? たったそれだけの理由でか? 





――ああ、さうさ。此の世に《存在》しちまったのだから仕様がないのさ。





――仕様がない……か――。





――ぷふぃ。此の悪意に満ちた宇宙を震へ上がらせたいんだらう? 





――ああ……。





――ならば、腹を括るのだな。「苦悩による苦悩の封建制」は《存在》に「先験的」に与へられる《もの》に属すると。





――つまり、出口無しか。





――いや、出口はお前が「苦悩による苦悩の封建制」たる創世記を何としてもでっち上げれば開ける筈さ。





――へっ、それは如何あっても創世記でなければ駄目かね? 





――勿論。その創世記をでっち上げるといふ事には、神若しくは神々の《存在》からの解放と、《主体》たる《吾》の《自由》の獲得の二重の意味が隠されてゐるんだからな。





(四十五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 08/17 05:58:51 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 此の世に《存在》するあらゆる《もの》の《存在形式》は、此の宇宙の摂理に従属してゐると看做しなしてしまひ、そして、それをして此の宇宙たる《吾》が《存在》する《存在形式》を、例へば「《吾存在》の法則」と名付ければ、必ずそれに呼応した「《他存在》の法則」が《存在》すると考へた方が《自然》だと思ひながら、その《自然》といふ言葉に《自然》と自嘲の嗤ひをその顔に浮かべてしまふ彼は、此の《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》もまた《存在》するに違ひないと一人合点しては、





――ふっ、馬鹿めが! 





と、即座に彼を罵る彼の《異形の吾》の半畳にも





――ふっふっふっ。





と、皮肉たっぷりに己に対してか《異形の吾》に対してか解からぬが、その顔に薄笑ひを浮かべては、





――しかし、《自然》は《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》の出現を待ち望む故に、《吾存在》を呑み込む《吾存在》がその《吾》に拒絶反応を起こしてはこの耳障りな断末魔の如き《ざわめき》が《吾》の彼方此方にぽっかりと開いた《他》たる穴凹から発してゐるに違ひないのだ。





と、これまた一人合点することで、彼は彼の《存在》に辛うじて我慢出来るそんな切羽詰まったぎりぎりの《存在》の瀬戸際で弥次郎兵衛の如くあっちにゆらり、こっちにゆらりと揺れてゐる己の《存在形式》を悲哀を持って、しかし、心行くまで楽しんでゐるのであった。





…………





…………





――なあ、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙における《存在》もまた奇怪千万な《光》へと還元出来るのだらうか? 





――つまり、それって《光》の《存在》が此の宇宙たる《吾》=宇宙と《他》=宇宙を辛うじて繋ぐ接着剤と看做せるか、といふことかね? 仮にさうだとすればそれはまた重力だとも、さもなくば時間だとも考へられるね? 





――ああ、何でも構はぬが、《吾》が《存在》すれば、《他》が《存在》するのが必然ならばだ、此の宇宙が《存在》する以上、此の宇宙とは全く摂理が違ふ、つまり、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙は何としても《存在》してしまふのは、《もの》の道理だらう? 





――ああ。





――そして、《吾》と《他》は何かしらの関係を持つのもまた《もの》の道理だらう? 





――ああ、さうさ。此の世における《他》の《存在》がそもそも「《他存在》の法則」を暗示させるし、《他》が《存在》すれば《吾》と何かしらの関係を《他》も《吾》も持たざるを得ぬのが此の宇宙での道理だが、さて、しかし、仮令《他》=宇宙が《存在》してもだ、此の《吾》=宇宙と関係を持つかどうかは、とどのつまりは「《他存在》の法則」次第ぢゃないかね? 





――それは《吾》と《他》が関係を持つのは徹頭徹尾、此の《吾》=宇宙での「《吾存在》の法則」による此の世の出来事は《他》=宇宙での「《他存在》の法則」に変換出来なければならず、つまり、換言すれば、《吾》=宇宙と《他》=宇宙の関係は関数で表わされねばならず、更にそれは最終的には光といふ奇怪千万な《存在形式》に還元されてしまはなければならぬといふことだね? 





――ああ、さうさ。





――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふことだね? 





――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢゃないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙って見知らぬ《他》は厳然と数多《存在》するぢゃないか。 





――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふことなく、一見《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持ってしまふと考へられぬかね? 





――へっ、つまり、此の宇宙も数多《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと? 





――へっへっへっ、その「大宇宙」もまた数多《存在》するってか――。





――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると? 





――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。





――何故かね? 





――ふっ、唯、そんな気がするだけさ。





――そんな気がするだけ? 





――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとっては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。





(七 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 08/15 06:00:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。再び堂々巡りだぜ。





と、彼は瞼を閉ぢたまま其処で深々と一息、それは恰も空気を胸の奥の奥の奥の隅々まで行き渡らせるかの如くであったが、息を吸ひ込んだかと思ふと、





――ふ〜〜〜う。





と、ゆっくり息を吐いたのであった。それは誠に誠に深々とした深呼吸なのであった。すると彼の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に棲み付いてゐたであらう《異形の吾》共が一斉に哄笑してゐるその嗤ひ声が聞こえる気がするのであった。





――ふっ、笑ふ門には福来る……か――。





と、彼は朧に、しかし、反射的に福なる《もの》を彼の頭蓋内の闇たる五蘊場に形象しようと試みるのであったが、唯、五蘊場に棲み付いてゐるであらう《異形の吾》共の哄笑してゐるその醜悪ながらも気持ち良ささうなその見知らぬ《他人》の顔の群像に満ちた内界たる五蘊場の様相を瞼裡に彼は見てしまふと、





――はて、《吾》とはそもそもこの見知らぬ《他人》の顔をした《異形の吾》共なのであらうか? 





といふ、自己同一性といふ《吾》の《存在》のその根本に関はる問ひにぶち当たるのであった。勿論、彼が一息深々と深呼吸をした時点で既にそれまで蜿蜒と続けられてゐた下らぬ自問自答の表象は一瞬にして霧散したのはいふまでもないことであった。





――はて、俺は何を自問自答してゐたのであらうか? 





 既に闇であることに堪へ切れずに淡い淡い淡い微小な光の群れが浮き出してしまってゐた瞼裡の闇には、その淡い微小の光の群れで象られ或る輪郭として浮き出した彼の見知らぬ《他人》の顔相が現はれては消え、再び前とは違ふ彼の見知らぬ《他人》の顔相が現はれることを繰り返してゐたのであった。





――こいつ等も俺の異形か……。





――ぷふぃ。お前は何面相の《吾》たることを宿命付けられし《主体》だと思ふ? 





――さあね。何面相かなんて問題ぢゃないだらう。





――ぷふぃ。さあね、と来たか。お前は一度も「俺はこれまでの全宇宙史に出現した《存在》全ての異形を持つ《無限相》の《吾》だ!」と考へたことはなかったのかね? 





――へっ、それはお前の方が良く知ってゐる筈だがね。





――ぷふぃ。お前はこれまでの全宇宙史において出現した《存在》のどれ一つを欠いてもお前は此の世に《存在》出来なかった。それは認めるね? 





――当然だらう。





――当然か……。すると、これは極端な話だがそれを承知で言ふと、お前は全宇宙史を背負って此の世に立つ覚悟はあるんだね? 





――其処さ、俺が腑に落ちぬのは。何故此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ皆全宇宙史を背負はなければならないのだ! 





――ぷふぃ。本当のところを言へば、背負ふ必要なんかこれっぽっちも無いぜ。そんな《もの》は神に呉れちまふがいいのさ。





――神に呉れちまふ? つまり、《存在》の役割分担をせよといふことかね? 





――さうさ。歯車の如く《存在》した方が気が《楽》だらう? 





――それは、つまり、神若しくは神々を頂点としたPyramid(ピラミッド)型の厳然とした階級制といふ名の封建制といふことかね? 





――何を持って封建と言ってゐるのかね? 無論その封建は領地ではないんだらう? 





――ぷふい。「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――ぷふぃ。「苦悩の封建制」と来たもんだ。当然その「苦悩による苦悩の封建制」では神若しくは神々が全宇宙史に亙る《苦悩》を背負ひ、その他大勢の《存在》は己の事にかまけてゐればいいといふ、ふん、《主体》天国の「苦悩による苦悩の封建制」なんだらう? 





――いや、神若しくは神々は一つも《苦悩》は背負はない「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――それぢゃあ、つまり、神若しくは神々と《主体》の立場が逆転した「苦悩による苦悩の封建制」か――。





――つまり、神若しくは神々が一つも《苦悩》を背負はぬといふ事は、《吾》たる《主体》なる《もの》が各々全宇宙史に亙った全《苦悩》を各々が背負ふ「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――換言すれば、お前の言ふ「苦悩による苦悩の封建制」とは神若しくは神々を、例へば人間等の全《存在》の呪縛から解き放ってやり神若しくは神々に全きの自由を与へるといふ事だな。





――ああ、さうさ。例へば十字架に磔刑されたイエス・キリストを未来永劫に亙って《人類》に縛り付ける事はイエスにとっては最早《地獄》でしかなく、イエスをその《地獄》から解放してあげねばならぬのだ、この愚劣極まりない《主体》は! 





(四十四の篇終はり)







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2009 08/03 06:14:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 そもそも《吾》とは《吾》に侮蔑されるやうに定められし《存在》なのであらうか? 例へば自己超克と言へば聞こえはいいが、詰まる所、その自己超克は絶えざる自己否定が暗黙の前提として含意されてゐるのであるが、《吾》として此の世に《存在》した《もの》が仮令それが何であれ此の世に《存在》しちまった以上、絶えざる自己否定は《理想の吾》へと近づくべく、つまり、《理想の吾》に漸近的にしか近づく術がない《吾》は、《理想の吾》を追ひ求めずにはゐられぬどうしやうもない欲求が、遂には《吾》の内奥で蠢く底無しの欲望と結び付いて、自己超克といふ名の下に、結局は《理想の吾》が厳然と君臨する故に《吾》が《吾》を滅ぼさずにはゐられぬまでに《吾》は《吾》を追ひ詰めずにはゐられぬ《もの》なのである。さうして自己超克を見事に成し遂げた《もの》のみ生き延びられるこの残酷極まりない自己超克といふ宿命を負ってゐる《吾》は、《吾》をこのやうにしか此の世に《存在》させない摂理を呪ふ事に成るのである。





――自同律の不快! 





 《吾》の存続する術を手探りし己の内奥をまさぐってゐた《吾》をかう言挙げした先達に埴谷雄高がゐるが、彼もまた、此の宇宙を悪意に満ちた何かしらの《もの》としてこの宇宙の摂理を呪ってゐるのである。





――ぷふぃ。





 その嗤ひ声にもならぬ、それでゐて如何しても息が肺から吹き出て已まないその





――ぷふぃ。





といふ嗤ひ声を埴谷雄高の畢生の作品「死霊(しれい)」の登場人物達は不意に発するのであるが、その





――ぷふぃ。





といふ嗤ひ声は、既に《吾》といふ己の《存在》を呪ひ、また此の宇宙をも呪った末に嗤ふことを忘失してしまった《吾》が、やっと此の世に噴き出せた、つまり、辛うじて嗤ひ声となって声を発せた《吾》の無惨な姿が其処には現はれてしまってゐるのである。その埴谷雄高の





――ぷふぃ。





とは違って





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、《闇の夢》を見て眠りながら嗤ってゐた私は、その《闇の夢》に《吾》の無様な姿を見たと先に言ったが、私にとって闇は多分に見る者の状態によって様々に表情を変へる能面の如く作用してゐるに違ひないのである。





 例へば能面のその表情の多彩さは、見者たる己の内奥と呼応してその状態を忠実に能面の面が映すからであるが、私にとってその内奥を忠実に映すのは先にも述べたやうにそれは闇なのである。私は独りそんな闇を





――影鏡存在。





等と名付けて、瞼を閉ぢれば何時如何なる時でも眼前に拡がる闇と対峙しながら、果てしない自問自答の渦の中に呑み込まれ、最早其処から抜け出せぬやうになって久しいが、瞑目しながらの自問自答はひと度それに従事してしまふと已めようにも止められぬ或る種の自意識の阿片であるに違ひないのである。その瞑目し、瞼裡に拡がる闇に己の内奥を映しながら自問自答の堂々巡りを繰り返し、挙句の果てには問ひの大渦を巻く、その底無しの深淵にひと度嵌り込むと、私は、にたりと、多分他人が見ればいやらしいにたり顔をその顔に浮かべてゐるに違ひないことに最近気付いたのである。つまり、私は瞑目し瞼裡の闇と対峙してゐる時は、必ず嗤ってゐるのに最近になってやっと気付いたのである。そんな時である。眠りながら嗤ってゐる私を見出したのは。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 しかし、それにしても《闇》とは摩訶不思議で面妖なる《もの》である。何《もの》にも変容するかと思へば、眼前にはやはり瞼裡の《闇》のまま《存在》してゐて、相変はらず《闇》は《闇》以外の何《もの》でもないのである。尤も《闇》は多分に頭蓋内の《闇》、即ち五蘊場に鎮座する脳といふ構造をした《》が作り出した或る種の幻影と思へなくもないのであり、それは光が干渉する《もの》なのでその結果どうしても発生してしまふ《闇》を認識するのに、つまり、光の濃淡を認識する仕方として五蘊場が《闇》を作り出したことは、これまた多分に《吾》たる《主体》の《存在》の有様に深く深く深く関はってゐるのは間違ひないのである。さうでなければ、私が夢で《闇の夢》なぞ見る事は不可能で、将又(はたまた)《闇の夢》に《吾》を見出してしまった無惨な《吾》を嗤へる《吾》が私の五蘊場に《存在》することなぞ、これまた不可能なのである。そして、《異形の吾》と私が呼ぶ哲学的には「対自存在」に相当するその《異形の吾》たる《吾》は当然の帰結として《吾》に無数に《存在》する筈で、さうでなければ《吾》は独りの《吾》の統一体としての有様は不可解極まりない事態に陥り、それは例へば、独りの人間が細胞六十兆個程で成り立ち、しかしながらその六十兆の細胞は全てが《生》ではなく、多くの細胞は自死、即ちApoptosis(アポトーシス)の位相に今現在もあることが不可解極まりないことになってしまふのである。《生》とは、詰まる所、《生》と《死》が等しく《存在》する摩訶不思議な現象の一つに違ひないなのである。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





(五の篇終はり)







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2009 08/01 05:09:25 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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