思索に耽る苦行の軌跡

カテゴリ[ 哲学 文学 科学 宗教 ]の記事 (263件)

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2010 11/22 19:03:53 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

――渦巻くところのみ《生》在りし、か? 





――それは今のところ何とも言ひ難い。だが、此の宇宙は《存在》の濃淡があるのは確からしい。例へば銀河は此の宇宙に蜂窩状、若しくは網の目状に分布してゐるのは確実だ。





――それは二つの何かの流れがぶつかる処に銀河が生まれてゐるといふ事だらう? 





――へっ、つまり、過去と未来の時間の流れがぶつかって現在といふ事象が銀河となって現はれるといふ事かもしれぬ、と言ひたいのだらう? 





――ふっ、さうさ。流れがなければ渦は発生しない筈だ。





――その渦が時間の流れだといふ証拠は今のところないぜ。





――当然だらう。時間は《存在》に先立つだらう? 





――時間が《存在》に先立つ? それは実存は本質に先立つといふ事の言ひ換へかね? 





――さう捉へて構はない。





――つまり、時間は実存に先立ち、実存は本質に先立つといふ事だね? 





――さうさ。先づ、時間の流れが《存在》しなければ此の世は生まれるべくもなかったのさ。





――そして、《存在》は絶えず時間に曝されて、やがては滅する宿命にある。





――つまり、現在は過去からも未来からも決して遁走出来ぬといふからくりが此の世の本質に違ひなく、現在は絶えず未来へ遁れ行きつつ、過去を振り返る。





――しかし、《個時空》といふ考へ方を持ち出せば、未来と過去は交換可能な《もの》といふ事だ。





――へっ、それが何を意味すると思ふ? 





――つまり、《存在》には必ず寿命が《存在》するといふ事だね? 





――さう。去来現の総体は《存在》が《存在》する以前に、それが発生した時には寿命は決まってゐるといふ事だが、現在に《存在》する森羅万象は未来が見通せずに己の寿命は解からず仕舞ひだ。





――しかし、ちぇっ、さうするとかうかな? つまり、或る一《存在》が去来現の総体を全うし、その寿命が尽きて滅するが、しかし、《他》が《存在》する故に時間の流れは《時代》へと、更には《紀》へと連綿と続く。





――つまり、時間は《存在》によってのみ体現される何かさ。





――すると、時間は時間のみでは《存在》出来ない、と断言してもいいかな? 





――多分、それで間違ひない筈だ。だが、時間は実存に先立つ。





――その時間を体現するのが《存在》といふ時間のカルマン渦といふ訳か――。ふむ。





――だから、銀河もまた、《存在》のカルマン渦の一種に違ひない筈だ。





――そして、銀河と銀河の衝突時にStar burstによって爆発的に星星が出現す事を考へると、遠い将来衝突するかもしれぬ此の天の川銀河とアンドロメダ銀河の中に《未出現》の星星が現在数多《存在》する。





――それは矛盾した言ひ方だぜ。。《未出現》が《存在》するとは、一体全体何の事だね? 





――つまり、未来が《存在》するといふ事だ。





――なあ、銀河は渦を巻くとしてだ、さうすると、銀河団もまた、渦を巻いてゐる可能性はなくはない筈だといふ事かね? 





――多分ね。





――すると、大銀河団は渦の複合体かね? 





――へっ、此の世の《存在》全てが渦の、ブレイク風に言へばMill(粉挽き機;私は敢へて歯車と訳す)複合体、つまり、ドゥルーズ・ガタリなどが言ふ機械といふ《存在》の様相を表象してゐるのかもしれぬのだ。





――さうすると、此の世は渦のFractal(フラクタル)な時空間といふ事だね? 





――さうさ。渦が何処まで行っても渦に自己相似し渦ばかりのFractalな時空間さ。





(七十九の篇終はり)







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2010 10/25 07:38:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

――何故って、簡単な事だ。ふほっほっほっほっ。科学は神の摂理以上の公理や法則を見出せっこないと既に相場が決まってゐるぢゃないかね。





――神の摂理を超える科学的な論理か……。ふむ。





――所詮、人間の「智」は神には遠く及ばぬといふ事ぢゃよ。ふほっほっほっほっ。





――しかし、それでも、へっ、人間は神に敵はぬと知りつつも、此の世のからくりを解き明かしたい欲望を持った《存在》として此の世に生まれ出てしまった。





――ほう、それは初耳ぢゃ。人間が「智」でもって神に対峙するか、馬鹿らしい、ふほっほっほっほっ。





――何故に馬鹿らしいと即断できるのかね? 





――人間の「智」は高が知れてゐるからぢゃ。





――ちぃっ、ほら、此れでも喰らへ! 





 と、私は再びそれが何もない空を切るだけで「だん」と畳を殴る事にしかならない事を十分に承知しつつも、何としても神神しい光を放ってゐるその翁目掛けて殴り付けずにはゐられなかったのであった。





――ふほっほっほっほっ。何をまた無意味な事を繰り返すのかね。人間と言ふ《存在》はどうも断念する事が下手糞な生き物ぢゃな。所詮、お主には虚空は殴れぬよ。





――へっ、何ね、無意味な事を十分承知しながらも、人間っていふ《存在》は、此の世に《存在》しちまった以上、どうしても無意味な事をやらなければ気が済まぬのさ。





――ふほっほっほっほっ。それで何か解かったかね? 





――いや、何も。唯、俺は確かに此の世に《存在》してゐる事を否が応でも自覚させられ、そして、その様に己を認識せねばならぬ《存在》として、俺は確かに《存在》してゐると自覚する外ない《存在》として《存在》してゐるに違ひなく、ちぇっ、Tautology(トートロジー)か、まあ良い、そして、お前は、私の幻でしかないといふ事もまた確かだといふ事が解かったぜ。





――ふほっほっほっほっ。お主は確かに此の世に《存在》してゐると己を自覚若しくは認識し、そしてどの口が言ふのか、わしはお主の幻でしかないぢゃと。ふほっほっほっほっ。それではお主は全く納得出来ぬのぢゃらう? 





――ちぇっ、何でもお見通しか。その通り、私は全てが納得出来ぬのだ。私が《存在》してゐると私が認識してゐるといふ事は、もしかすると全て私の思ひ過ごしか? 





――さて、それはお主が決める事ぢゃ。





――へっ、私は確かに言った筈だよな。私が此の世に《存在》してゐると認識してゐるのも、もしかすると私の気のせいかもしれぬと? 





――だから? 





――私は実際、ちぇっ、詰まる所、此の世に《存在》してゐるのかね? 





――確かに《存在》してゐる筈ぢゃ。





――筈ぢゃ? 





――さう、筈ぢゃとしかわしには言へぬのぢゃ。





――すると、やはり、私の《存在》は私の気のせいの可能性がないとは言ひ切れぬのだな? 





――だとして、さうだとして、それが何だといふのかね? 





――いや、何、単なる愚痴だ。





――cogito,ergo sumぢゃて。





――詰まる所、人間、否、《存在》が神に対して詰め寄れた結果が今も尚、デカルトのcogito,ergo sumか。はっはっはっ。ちやんちゃらおかしい、ちぇっ。





――まあ、短気は損気ぢゃぞ。





――しかし、《存在》は未だに「思ふ」といふ事でしか己の《存在》を肯んじないんだぜ。これ程の笑ひ話があるかね? 





――それぢゃ、お主に訊くが、お主が《存在》すると認識する、つまり、「現存在」としてのお主の意識は、さて、確かに《存在》する《もの》として扱っていいのかな? 





――え? 一体何が言ひたいのかな? 





――つまり、お主の意識は、果たして、此の世の《もの》と規定するその根拠をお主は認識してゐるのかね? 





――へっ、つまり、それは、私の意識がその意識の《存在》の根拠を吐露出来るかといふ事だらう? 





――さうぢゃ。





――ちぇっ、それがはっきりと断言出来れば誰も悩まないだらうが! 





(六の篇終はり)











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2010 10/18 07:30:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

――まあ、その自滅に関しては後で話すとして、先の最強の生き物が此の世の全生物を喰らって鏖殺するといふはのは、笑ひ話にこそなれ、真剣に取り上げる程の《もの》ぢゃないな。





――何故に? 





――何故も何もなからう。その最強の生物は毒でも発してもこの世に数多ゐる微生物すらをも鏖殺するとでもいふのかね? 





――ふっ、人工的に生み出された最強の生き物が仮に微生物だとしたならばどうかね? 





――例へば此の人類はInfluenza Virus(インフルエンザ・ウイルス)のちょっとした変異にすらびくびくしてゐるだらう? 





――ふむ。





――しかし、Virusは人体といふ宿主の中で爆発的に増殖しても、その宿主たる人間が死ねば、Virusもまた死ぬといふ、つまり、Virusは自滅する事を現代で最もよく具現化した《存在》の一Model(モデル)と思へるがね。





――すると、此の世の王は微生物といふ事かね? 





――さうでないとすると外に何が考へられるのかね? 





――昆虫! 





――昆虫もVirusには勝ち目はないぜ。





――へっ、それ以前にVirusは微生物ではないではないか! 





――しかし、virusもこの世に《存在》する《もの》の一つだらう。





――下らぬ。これまた、下らぬ議論に終始する外ないぜ。





――別に下らなくても構はぬではないかね? 





――しかし、極論を言っちまへば、無機物に有機物は敵はないのは火を見るより明らかだらう。





――それぢゃ、一つ訊くが、無機物といふ《存在》は、例へばBlack hole(ブラックホール)の《存在》に対して勝ち目はあるかね? 





――一気に宇宙の話かね? ちゃんちゃら可笑しい! 





――土台、此の世の最強の生物などと言ったところで、その最強の生物について語り出した刹那、どうあっても《存在》の存在論的な問ひへと向かはずして、何が語れるといふのかね? 





――つまり、《存在》と《無》と《無限》の問題なのだらうが、ちぇっ。





――さうさ、ふっふっふっふっ。それを一言でいへば《特異点》の問題に帰す。





――またぞろ《特異点》か……。ちぇっ、そもそも《特異点》とは何なのだ! 





――へっ、それは今まで散散話して来ただらう。《存在》には少なくとも《特異点》を担ふ事は不可能なのは自明の理の筈だか、それでも《存在》は《特異点》を内包せねば、《無》と《無限》の断崖を落ちる外ないといふ《存在》が「先験的」に付与されし《存在》の危ふさへと《存在》する《もの》は既に追ひ詰められてしまってゐる事が問題なのさ。





――それは危ふさかね? 《存在》が《特異点》を内包する義務など、そもそもありはしないし、それ以前に《存在》が《特異点》を担ふ必要なぞこれっぼっちもないのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。その通りさ。しかし、お前はお前の《存在》を「《吾》然り!」と全的に肯定できるかい? 





――へっ、それは先にも言ったが、否だ。





――さう、《存在》が己の《存在》を全的に肯定出来ないであれば、《存在》を問ふのに《特異点》の問題は避けられぬ宿命なのさ。





――宿命? 





――さう。《存在》の宿命なのさ、《特異点》の問題は。





――それに《無》と《無限》の問題も必然的にくっ付いてくる、違ふかね? 





――さうさ。そんな事は先に話してきた筈だがね。ふっ、やはり、堂堂巡りが最も思惟に似合ふ思考法なのか、ちぇっ、へん、所詮また、堂堂巡りぢゃないか! 





――それで構はぬではないか。土台、《存在》はそれ自体が渦を巻く《もの》だぜ。ふっふっふっ。





(七十八の篇終はり)







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2010 10/11 07:47:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

――∞の時間の相の下、特異点のみ《存在》若しくは《イデア》若しくは《物自体》に《存在》する事を許されたとして、詰まる所、その特異点のみが平安だと君は言ふが、さて、それはどうしてかね? 





――それまで得体の知れなかった無と無限が確定するからさ。





――無と無限が確定する? お前は何を言ってゐるのだ。





――へっ、時間が∞次元の相へと変はるんだぜ。当然、時間が∞次元だとすると、それまで、無とか無限としか名指し出来なかった《もの》が、その不気味な姿を現はさざるを得なくなるのさ。





――つまり、∞次元の時間が森羅万象のその不気味な姿を炙り出すといふ事か――。その時、その《存在》自体が呪はれてゐた特異点がそれまでの束縛から解放される……違ふかね? 





――へっへっへっ、さういふ事だ。しかし、幾ら特異点が平安だからといって《主体》が特異点に素手で触らうものなら《主体》は大火傷間違ひなしだ。





――何故大火傷すると? 





――何故って《主体》なる《もの》全て《吾》への《収束》を冀(こひねが)って已まない《主体》は、特異点に触った刹那、∞へと《発散》してしまふんだぜ。





――それは光になるといふ事だらう? 





――さうさ。光だ。最早収拾出来ぬ光へと《発散》してしまふ。





――つまり、それは物質と反物質が出合ふと光となって対消滅する如く、《主体》は特異点に触れた刹那、光となって消滅するといふ事だね。





――いや、《主体》は光となって《発散》はするが消滅はしない。





――では何になると? 





――森羅万象全てさ。その時、《杳体》の何たるかの尻尾位は解かる筈さ。





――それは無限へと変化する事と同義語か? 





――ああ、無限と言っても全体と言っても何でも構はぬ。唯、《主体》を除いてゐればだがね。





――《主体》が《主体》を除いた森羅万象に《発散》する? ふむ。特異点では《主体》は《客体》に変化するといふ事かな? 





――否、特異点には《客体》が《存在》する余地は残されてゐない。





――え? 《客体》が《存在》しないだと? 





――ああ、特異点では、《客体》なる《もの》は《存在》しない。《存在》するのは《主体》を除いた、例へば《主体》の《抜け殻》のみが森羅万象と重なり合って《存在》する、何とも狐に化かされたやうな話だ。





――それは仮に名付けてみれば《反=主体》といふ事かね? 





――否、《杳体》さ。





――え? つまり、《杳体》は《主体》の《抜け殻》として《存在》する外ない《主体》といふ事かね? 





――へっへっ、何のことか君には解かるかね? 





――へっへっ、本当のところは何のことかさっぱり解からぬ。





――だから《杳体》なのさ。





――先づ、《主体》除いた《主体》とは何かね? 





――渦巻きで例へると渦の腕の部分の事だ。





――つまり、《主体》を除いた《主体》とは渦の中心の如く渦たる《主体》とは別次元の何かといふ事かね? つまり、仮に《主体》が四次元ならば《主体》を除いた《主体》は五次元の《存在》としてある事か? 





――或るひはさうかもしれぬ。





――或るひはさうかもしれぬって、そんな言ひ種はないだらう。《主体》を除いた《主体》を《杳体》と言ひ出したは、君なのだから。





――実のところ、俺に解からないんだ、《杳体》が何かが――。





(十一 終はり) 







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2010 10/04 08:19:40 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

――だが、直立歩行を始めた人類は、どうあっても 己自体の進化よりも環境を己のままに変へたい性(さが)はどう仕様もないのだらう、それが人類が誕生した「意味」だとしたならば? 





――はて、それは人類の性かね? つまり、環境がこれ迄生き物がその環境に順応するべく進化と言ふものは進んできた筈だが、人類が誕生したことで進化の過程は全生物史を通じてコペルニクス的転回をしてしまってゐて、《存在》が心身を進化させるのぢゃなく、人類は環境を徹底的に人工的な《もの》へと変へる事で、へっ、さうした結果、人類は生物学的な進化を已めてしまった《存在》として此の世に君臨したのだ。





――へっ、でも、人類は生物学の目覚ましい進歩により、人工的に生命を弄(いぢ)る技術を手にしただらう。





――すると何かね、人類にかかれば生物は如何様にも創り出す事が可能、つまり、到頭人類に至って生き物は創造主たる《神》をその玉座から引き摺り下ろしたと? 





――さあ、それはどうかな? つまり、人類が遺伝子操作をした生き物が、此の人工的な環境に適応出来るどうかは、譬へそれが人工的に遺伝子操作されてゐやうが、その生物次第だと言ふ事には何の変りもなく、つまり、《神》のみぞ知る以外に、今のところ何とも言へないのが本当のところかな。





――ふっふっふっ。つまり、人間が幾ら遺伝子操作を出来やうが、その遺伝子操作された《存在》が此の世で生き残れるか、死滅するかは今も未だ、《神》の御手のままとしか言へない、ちぇっ、博奕みたいな《もの》と言ふ事か――。





――つまり、《存在》の鬼子を人類は生み出してしまふ可能性を手にしたのだ。





――《存在》の鬼子とは? 





――多分、人類によって遺伝子操作されて此の世にいやいや出現させられた数多の《存在》の中で、此の世の人工的な世界に最も巧く適応する《存在》たる生き物は貪婪極まりなく、庶民を含めたその他大勢の《存在》が反対したとしてどう足掻かうが、科学者の性としてその貪婪極まりない未知の生き物は誕生させずにはいられぬ筈だが、へっ、さうするとその此の人工的な世界に巧く適応出来たその遺伝子操作された《存在》たる未知の生き物は、その外の生き物全てを喰らふことで全生物を鏖殺(あうさつ)し、、己の種のみ繁殖させる事だけを第一に、最早自身では種の繁殖に歯止めがかからず、とどのつまりは、その生物のみがこの世に《存在》することから、その遺伝子操作された未知なる貪婪極まりない生き物たる《存在》は共食ひをする外なく、つまり、他の《存在》たる生き物を全て喰らって鏖殺してしまった暁には、同類のその《存在》たる生き物を喰らふしかその《存在》たる生き物は《存在》する術がなく、さうなって初めて《存在》は同種の《他》の餌になる可能性を秘めたまま《存在》する、つまり、共食ひによってしか生き残れない生き物たる《存在》を誕生させて初めて、《存在》は己の《存在》の何たるかの一端が垣間見られる筈だぜ。





――それが《存在》の鬼子? 





――さう。俺には究極的には《存在》は己を餌にして生きる《存在》を誕生させる事を最終目標にしてゐる節があるとしか思へぬのでね。





――己を喰らって生きる《存在》? 馬鹿らしい! 





――何故馬鹿らしいと言い切れるのかね? 人類は遺伝子操作する事で此の世で最強の生物を創り得る術をとっくの昔に手にしてしまったのだぜ。其処で、仮にその最強の生物をこの世に誕生させて解き放せば、詰まる所、その最強の生き物は最強故にその生き物の種以外は全て喰らって鏖殺せずば最強たる所以である筈もなく、さうすると生物多様性は完全に消滅し一種の生き物のみが此の世に君臨する単調極まりない世界が到来するに違ひなく、その時、最強の生き物たるその《存在》は己と同類の《もの》を共食ひする外なく、しかし、生き物の本質に《他》を喰らふ事を何としても回避する性が潜んでゐるならば、その最強たる《存在》の生き物は、最終的に己を喰らって生きる、へっ、大いなる矛盾を生きる生き物をもしかすると人類は遺伝子操作によって生み出すかもしれないんだぜ。





――ちぇっ、それはお前の単なる妄想でしかない! 





――だが、妄想は、生物の進化に関はってゐるのぢゃないかね? でなければ、闇の中にある深海の生き物がGrotesque(グロテスク)な姿形である筈がない。そして、人類は人類の妄想をすら遺伝子を操作する事で、人類の妄想を具現化した生物を、つまり、《妄想=存在》を創り出す術を手にしちまったのさ。





――しかし、それは《存在》の自滅でしかないのぢゃないかね? 





――勿論、さうさ。しかし、《存在》が究極的に望む事は《存在》の自滅ぢゃないかね?





(七十七の篇終はり) 







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2010 09/27 08:59:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふむ。人口減少社会の突入か……。





――さう。人間が生物に対してしてきた報ひとしか俺には思へぬ人口減少社会へと移行する外ない此の社会では、これから圧倒的に《死》の《存在》が多くなる。つまり、《生者》は生存する限り《他》の《死》を何度となく見届けなければならぬのさ。





――それには、勿論、富の移動も必然と言ふ事だね。? 





――ああ、当然だ。これまで貧困に喘いでゐた国国の勃興で富は其方へ移動する筈さ。そして、人口減少社会へと突入した此の国は徐徐に貧しくなるのが道理だ。





――へっ、さうなって初めて此の国の《生者》は切羽詰まった上での自棄のやんぱちででも存在論を、その言説が誰にも理解可能な言質で新たなる存在論を立ち上げるしかない、かな? 





――既に此の国には貧困が厳然としてあり、その悲惨な現状が社会問題化してゐるが、こんな《もの》でこの国の貧困が済む筈がない。





――ふっふっふっ。衰退をとことん味ははなければならぬ定めなのだらう? 





――さうさ。《生者》の論理ばかりが罷り通ってきたその報ひを《生者》は生き残るために受容しなければならない。





――つまり、何を《生者》は受容しなければならぬのかね? 





――諦念、若しくは悲哀、それも《存在》する事の悲哀さ。





――そんな事は、既に現在《存在》してゐる《生者》は嫌と言ふ程に味はひ尽くしてゐる筈だがね? 





――へっ、これからはそれがもっと露骨になるのさ。衰退し始めた国から富が逃げ出すのに一日もゐらなんだぜ。





――それぢゃ、《生者》は子を産めよ殖やせよと? 





――いいや。子を儲けるのは既に《生者》の裁量に、つまり、《生者》が《自由》に決定する《もの》に成り下がっちまった故に、子供が増へるなんてあり得べくもないお手上げ状態と言ふのが正直なところさ。しかし、《生者》が《生》の《自由》を味はふには、《生者》は《自由》である事の全責任を担はざるを得ぬのさ。





――《自由》の全責任とは? 





――つまり、徹頭徹尾独りで死ねことさ。





――ちぇっ、そんな事はお前が言はずとも太古の昔より《死》は死して行く《もの》しか解からぬ《もの》ぢゃないかね? 





――へっへっへっ。さうぢゃないさ。誰にも看取る《生者》が《存在》しない中で、その死に行く《生者》はたった独りで《死》を迎へるのさ。





――だが、孤独死の話なんぞは今に始まった事ではないぜ。





――誰も孤独死の話なんぞしてやしないぜ。





――ぢゃ、お前の言ふたった独りでの《死》とは何かね? 





――神も仏も《存在》せぬ《死》さ。





――神も仏も《存在》せぬ《死》? そんな《死》が《存在》するのかね? 





――へっ、人類史の残酷さを見れば神も仏もない《死》なんぞ珍しくとも何ともないぜ。





――しかし、それは、これまでは特異な《死》であったに違ひない筈だが、これからはその特異な《死》が普通一般の《死》となるのは間違ひないと言ふ事か……。





――何故さう思ふ? 





――《生者》は何としても《死》を此の世から隠し通したいからさ。それ故に《死》を迎へる最期の《生者》は《生》とは隔絶した処で、ひっそりと独りで死んで行くのさ。





――つまり、それは《生者》が《自由》に対して最期まで無責任極まりなかったことの哀れなる最期と違ふかね? 





――さうさ。その通りだ。これ迄《生者》は《自由》に途轍もない、《生者》独りでは背負ひきれぬ《生者》たる事の責任が厳然として《存在》してゐるにも拘はらず、其処から目を背けてゐたし、これからも《死》ばかりが増える衰退して行く社会でも《生者》たる事の責任をどんな手を使ってでも回避する事ばかりに現を抜かす筈だ。





――それぢゃ、《生者》は如何に《死》から逃げられるかばかりを追ひ求める卑劣な《存在》に等しい、ちぇっ、つまり、下らぬ《存在》に成り下がっちまっただけぢゃないか! 





(十一の篇終はり)







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2010 09/20 09:20:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――例へばそれを人類に絞った処で、その残虐非道な出来事を語るのに枚挙に暇がないのは勿論だらう。





――そのために基督、並びにその外大勢が殉教と言へば聞こえはいいが、詰まる所、人類史は即ち、死屍累累の歴史に外ならない《存在》の皮肉! 





――一つ尋ねるが、これから生まれ出る未来人は、その残虐非道を極めたとも言へる人類史のその残虐非道の歴史を背負はざるを得ぬかね? 





――どうあっても《存在》する以上、それから遁れられない! 





――すると、未だ生まれもせぬ未来人は、生まれる以前に《存在》に呪縛されてゐるといふ事になるが、さて、未来人はそれを受け容れるべき宿命として認めるしかないと? 





――ああ、未だ生まれざる未来人は、全宇宙史を背負ふやうに強要されてゐる。





――それは何故にかね? 





――へっ、簡単さ。《存在》する故にさ。





――つまり、《存在》は「先験的」に呪はれた《もの》でしかないと? 





――ああ。だから宗教が《存在》するのだらう。





――しかし、《存在》にとって宗教では未来永劫に救はれぬのだらう? へっ。





――勿論だとも。《存在》は、宗教といふ《もの》に縋り付いた処で、最後は《弧》に帰す。その《弧》が独りで全宇宙史における《存在》の残虐非道ぶりに愕然とし、それでも尚、《存在》する事を自ら選ぶのさ。





――そこに、例へば、《存在》するかはないかの選択の自由が《存在》するとしたならば? 





――《存在》せぬ方を選ぶ腑抜けは、さっさと自殺でも何でもしちまへばいいのさ。





――へっ、つまり、お前は自殺も《存在》に「先験的」に備はった選択肢の一つだと? 





――勿論。自殺は何の悪い事がある《もの》か。むしろ、現在では、自殺をする人間の方が正常ぢゃないかね? 





――しかし、自殺は地獄行きなんだらう。





――当然だ。しかし、生きるも地獄ぢゃないのかね? 





――つまり、それは《存在》は絶えず自死するか存続するかを問はれ続ける《もの》として、「先験的」に決められてゐる事になるが、《存在》はそれが《存在》する以前に「先験的」に決まってゐる事が余りにも多過ぎやしないかね? 





――ふっ、お前は少ない方がいいとでも考へてゐるのかね? 





――ふむ。成程、「先験的」な事が多過ぎる故に《存在》が成立するか……。





――「先験的」といふ制約が多岐に亙ってゐなければ、《存在》は《存在》の影すら此の世で拝めないとすると、つまり、此の宇宙の秩序に忠実に従へられる《もの》しか此の世に《存在》せぬとしたならば、へっ、《存在》とはそもそも何なのかね? 





――生老病死だらう。





――そして、諸行無常か! はっはっはっは。





――しかし、《存在》は時空間を自らの望むやうには全く手出し出来ぬ故に、つまり、時空間を思ひのままに変容させることは不可能だらう。





――だが、この愚劣な人間は、環境を人間の頭蓋内で明滅した表象を具現化して、環境を内界を外在化するべき《もの》と人間が勝手に看做して、環境を勝手気ままに変へ放題だらうが! 





――つまり、それは内も外も脳の中といふ何とも異常な世界の事だらう。





――さう。愚劣な人間は《存在》が背負はずにはゐられぬ呪縛が少しでも解放されるのではないかと、環境を人工化した、その結果どうなったかね? 





――更に《存在》の苦悩は深まった……。





――さうさ。環境が人工化すればする程、愚劣な人間の孤独感は深まるばかりで、世界を《吾》以外が《存在》する処としてしか、実感する事がいつの間にか出来なくなってしまってゐた。へっ、もう手遅れだらう。環境が自然に戻るのは? 





(七十六編終はり)







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2010 09/13 10:16:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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(これから複数の者らしき存在が出てきますが、敢へてそれらを一人物として分けせずに書いています。この「雑談」がたった一人なのか幾人もの「雑談」なのかは読者の判断に任せます)









――おっと、お前ら二体で何を話してゐるのかね? 





――いや、何、《神》についてさ。





――《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとって、その《存在》が楽、若しくは気休めになると話してゐたのさ。





――ふむ……。《神》ね……。





――何、何、何? 





――今、此奴にも言ったのだが、《神》が《存在》した方が《主体》にとっては気休めになると話してゐたのさ。





――ふむ。《神》か――。また、余りに人間臭い事を、へっ。





――そして、さうしてゐる内に《実存》といふ現在では人間の手垢に塗れた時代錯誤の世界認識の方法を再び此奴が持ち出したのさ。





――それにギリシア哲学もだぜ。





――早い話が人類史を、否、此の宇宙史全史を問ひたいのだらう? 





――さう! 此の宇宙史全史だ。





――さうすると、此の世に《存在》する森羅万象のその《存在》を問ふてゐるとていふ訳か……。





――へっ、《杳体御仁》! 





――《杳体御仁》とは私の事かね? 





――へっ、私って一体誰の事だい? 全員が《吾》だらう。





――さういふお前は一体何を話さうとしてゐたのかな。





――つまり、《神》は数学を《超越》出来るかね? 《杳体御仁》ならば、何と答へる? 





――ふっ、それこそ不確定な事しか言へぬぞ。





――ゲーデルかね? 





――ゲーデル? 





――誰だ、ゲーデルとは? 





――いや、ゲーデルの不確定性原理をここで持ち出すのは危険だ。





――しかし、《神》に関して言へば、《神》が《存在》するとも《存在》しないとも、いづれも証明不可能だ。ならばだ、《神》は数学を《超越》するかどうかは気になるのが自然な事だらう? 





――それぢゃ、お前が今言った様にゲーデルを持ち出す以前に既にカントが《神》についてアンチノミー(二律背反)として、《神》に関しては手を出さない方が身の為だと警告してゐるぢゃないかね? 





――ふっ、《杳体御仁》よ、しかし、《存在》にとって、それは森羅万象について言へるのだが、《神》は《存在》した方が《吾》たる《主体》にとって気が楽だらう? 





――何の事かね、それは? 





――ふむ。





――何、何、何? 《神》が何と? 





――つまり、《神》が《存在》した方が《主体》は楽だといふ事さ。





――何を根拠にさう言へるのさ。





――さうだ。《神》が《存在》した方が《吾》といふ《主体》、または《他者》と共有する世界==存在する「現存在」にとって気が楽といふその根拠を示せよ。





――《個時空》をここで持ち出せばハイデガー的な《時間》では最早世界認識は永劫に不可能と言ふ事だ。しかし、《死》を《神》と共有するのであれば、もしかすると「現存在」にとって《存在》することは気が楽なのは確かなのかもしれぬ。





――さうなんだ。《神》を媒介としてこの世界==存在と呼ぶところのその《世界》を《他者》ばかりでなく《死》とも共有した《世界》であった方が自然な気がする。





――しかし、《死》の可視化は金輪際出来ぬぜ。





――へっ、そこでだ、《杳体御仁》よ、《生》と《死》について考へると《神》が此岸と彼岸を繋ぐ或る何かだとして、その《神》が《存在》すると看做した方が、「世人」にとっては此の《世界》は断然意味深い《もの》へと変貌する筈だが、どうかね? 





――どうかね、だってさ。





――《杳体御仁》よ、ずばりと言っちまひな、つまり、《神》は何として《存在》してゐた方が絶対的に自然だ、と。





(二の篇終はり)







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2010 09/06 07:26:54 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、或る種の人間は人身御供としての生贄を欲せざるを得なかった。





――それは何故かね。





――つまり、己の《存在》するといふ事態に堪へられなかったのさ。





――つまり、私は、私によって躓いてしまった。それ故に《吾》が《存在》する担保として基督を、人類を救ふべく生贄として差し出してしまった。





――そして、今も尚、基督は磔刑されたままの姿の塑像となってまで人前にその無惨極まりない姿を曝すやうに強要され続けてゐるのは一体全体何としたことか! 





――つまり、それは、人類がさうである事を欲してゐるからか……。





――さう。基督が死んでから既に二千年以上経ってゐるのに、《存在》の全苦悩を背負へる《存在》は、基督や釈迦牟尼仏陀やムハンマドなど、哀しい哉、ほんのほんのほんの一握りの《存在》だけなのさ。





――つまり、それはドストエフスキイが図らずも予言してゐた一握りの人々、それを猊下(げいか)と称すれば、そのほんのほんのほんの一握りの猊下が人類をはじめとするあらゆる《存在》の全苦悩を背負ひ、それ以外の大多数の「世人」若しくは《もの》は、苦悩から全的に解放されるといふ考へへとどうしても至らざるを得ぬと言ふ事だね? 





――現実が既にさうなってゐるぢゃないか。それを何とか変へやうと自然、もしくは《神》に言挙げしたのが、ドストエフスキイやニーチェなど、極極少数の人間といふ意識体で、しかし、《存在》は《存在》する事で「先験的」に背負ふ苦悩をその極極少数の猊下に帰して、その苦悩を自分の事ではなく、つまり、他人事の《もの》として仮象する何とも便利な思考法を身に付けてしまった。





――では、何故に基督は今も磔刑された姿で人前に曝されなければならないのか? 





――見せしめさ。





――見せしめ? それぢゃ、基督は晒首と同じ事ぢゃないのかね? 





――当然だらう? 





――当然? これは異な事を言ふ。





――逆に尋ねるが、何故に異な事なのかね? 





――基督は、磔刑にされたその時、罪人だったかね? 





――其処さ。今もってよく解からないのは。福音書を読む限り、基督は「ローマ政府への叛逆」がその罪状となってゐるが、それは、しかし、後付されたものに過ぎぬだらう。するとだ、何故に基督は磔刑にされ、現在に至るまでその惨たらしい磔刑像として、その御姿を人前に曝し続けなければならないのかね? 





――基督教徒にとっては、今も尚、基督しか《存在》する事の苦悩を全的に背負ひ切れぬからさ。





――それで、基督教徒たちは自己卑下して己を「羊」と名指すのか――。





――だが、「羊」と己の事を名指す《もの》は、へっ、一皮捲れば、いやらしい醜悪、且、狡猾な此の世の支配者然として、己の《存在》を誇示して已まないといふ矛盾を、ちぇっ、矛盾だとこれっぼっちも気付かぬ振りをして、自然に対峙するといふ愚劣な事を平気でやってのけるのさ。





――そのための免罪符としての基督の磔刑かね? 





――さう、どんな宗教も同じだが、「全ては神の子、イエス・キリストの為」といふ、若しくは「全ては天皇の為」といふお題目は、全て、残虐行為をなす為の目隠しとして機能する、ちぇっ、大儀なのさ。





――つまり、全《存在》が行ふ残虐非道な行為へと《存在》がひょいっと簡単に踏み出す己の正当性を、例へば基督に求めて、へっ、此の人類史、否、此の宇宙史でなされた残虐非道で愚劣極まりない行為のその罪過を全て基督など極極少数の、それも基督に至っては無実の罪で磔刑にされたのだか、つまり、人間が残虐非道な行為を行ふその免罪符として基督は磔刑にされ、「神の子」といふ《神=人》へと昇華させざるを得なかった程に、へっ、《存在》は己の為ならば《他》を平気で殺す己の残虐非道性に酔ひ痴れたかったと? 





――さうさ。歴史とは元来がさういふ残虐非道な《もの》ぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。さうだな。残虐非道な事を《存在》が行はなければ己が滅んでゐたに違ひないからな。





――すると、《存在》が尚も《存在》を続ける為には必ず基督などの人身御供たる生贄が必要だと? 





(七十五の篇終はり)







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2010 08/30 07:39:04 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、しかしだ、この頭蓋内といふ闇たる五蘊場は、脳といふ構造をしてゐるとして、その脳が己の内部をすうっと通り抜けるそのぞっとする皮膚感覚みたいな《もの》が、脳にさへある筈だがね。それに加えへて、この頭蓋内の闇たる五蘊場は気配には余りにも敏感すぎるぢゃないか。





――へっ、それはお前だけの事だらう? 





――馬鹿が! お前こそその己の頭蓋内をすうっと通り抜けたぞわぞわっとする感覚をいの一番に感じた筈だぜ。





――ふむ。





――ちぇっ、「ふむ」だと! 己を震撼させたその気配をお前は出来るならばなかった事として揉み消したいだけだ。つまり、お前はお前から、《零》も《∞》も奇蹟的に併せ呑む特異点たるお前のその悍ましき《異形の吾》から目を背けたいだけぢゃないのかね? くっくっくっくっ。





――しかし、それで構はぬのではないかね? 





――ちぇっ、それではお前がお前自身の《存在》に、有無も言はずに堪へられる道理がなからうが! 





――ふっふっふっふっ。その証拠がお前の《存在》か、ちぇっ。





 と、私がさう言ふと再び《そいつ》はぎろりと此方を睨み付けては、





――くっくっくっくっ。





 と、何ともいやらしい嗤ひを発するのであった。





――お前に俺が見えてしまふ不思議な事態に対してもお前は慌てふためく己を只管己から隠し果せたいだけなのさ。





――それで? 





――そして、お前は己の所在無さにたじろいでゐる。





――それで? 





――そして、お前は己が果たして、此の《零》と《∞》の間を揺れ動くそのこれ以上ない大揺れする《吾》を認識しちまって、ふっ、お前自身が何を隠さう一番動揺してゐる。





――それで? 





――そして、お前は卒倒する寸前さ。





――ふっふっふっふっ。俺はそんなに軟ではないぜ。ちゃんと、己が《零》と《∞》を併せ呑む外ない特異点としてしか此の世での《存在》が、へっ、それを譬へれば《神》の摂理に従ってゐるに過ぎぬとすれば、《吾》が特異点以外で此の世に《存在》することは、《神》の摂理によって決して許されぬ事ぐらゐ端から「先験的」に若しくは生きるべき《本能》として既に知っちまってゐる。





――そして、諦念もだらう。





――さうさ。その諦念こそ此の世に《存在》するべく定められた《もの》が必ず獲得せねばならぬ《生》の為の生きる術さ。





――しかし、それでは、《存在》は《存在》自身を《存在》の傍観者として、へっ、つまり、《存在》といふ《もの》を《存在》はしてゐるが、唯の生きる屍として《存在》は傍観する《もの》としてしか此の世に《存在》出来ぬのではないかね? 





――何故に? 





――諦念とは裏を返せば《吾》を恰も《他》の如く、此処が味噌なのだが、《吾》から仮象の距離を無理矢理にでも設定して、《吾》を《他》として扱ふ事で、《吾》に降りかかる火の粉でも払ふやうにして、この《吾》に否応なく降りかかって来る現実といふ得体の知れぬ《もの》をやり過ごす、つまり、それは、詰まる所、徹底的に受動的な《生》を《生》だと無理強ひする哀しい生き方の事だらうが! 





――しかし、殆どの《吾》たる《主体》はさうやって生き延びてゐるのが現実だらう? 





――すると、お前はその現実とやらを受け入れ、つまり、受容するのだな。





――ふむ。ちぇっ、其処が大問題なのさ。《吾》は絶えず《吾》たらむと強要され、現実は時時刻刻と移り変はり行く、この有為とやらが曲者なのさ。





――つまり、《主体》なんぞ抛って、有為は《主体》の《存在》にお構ひなしに転変するからだらう。





――さう。現実といふ有為は転変する事を金輪際已める事はなく、しかし、それでも《吾》は《吾》たらむと《神》の摂理がさう命ずる。





――へっ、それは《神》の摂理かね? 何でも《神》の所為にすれば《主体》が生き延びられるなんぞ考へるのもおこがましいのだがね。 簡単に言っちまへば《吾》は《吾》が可愛くって仕方がない。だからその可愛い可愛い《吾》たる《主体》は、《死》すまで出来得れば無傷のままの《吾》として《生》を終へたいといふ何たる自己陶酔の極み! 





(十一の篇終はり)









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2010 08/23 06:45:14 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ちぇっ、くどいやうだが、此の悪意若しくは慈悲に満ちた宇宙は、どんなに否定したところが、へっ、既に《存在》してゐる事はは認めざるを得ぬだらう? 





――だから哲人共を先頭に此の世の森羅万象は此の宇宙を、つまり、世界認識、へっ、それは精確無比な世界認識の方法を探究してゐるのと違ふかね? 





――つまり、その精確無比な世界認識法が未だ見つからぬ故に、《存在》は「先験的」に《存在》する此の宇宙若しくは世界を唾棄したくてうずうずしてゐるのか――。





――さうさ。此の世の森羅万象は、へっ、此の宇宙若しくは世界も含めて、あらゆる《もの》が此の世自体に翻弄され続けることにうんざりしてゐる。





――それは、うんざりではなく、びくびくするのを余儀なくされてゐる事に《存在》はそれが何であれ我慢がならぬ事なのさ。





――それで、《存在》はそれが何であれ全ての《もの》は此の宇宙若しくは世界に対してそれは抽象的であるかもしれぬが、自棄のやんぱちで此の宇宙若しくは世界を、へっ、認識してゐる、否、此の宇宙若しくは世界を秩序ある何かとして無理矢理にでも認識しようと意識を捩じ伏せてゐる。





――だが、可笑しな事に此の世の森羅万象はその己で認識してゐるその宇宙観若しくはその世界観に対して絶えず猜疑心の塊と化す。





――それは当然だらう。





――さう、むしろそれは《存在》する《もの》にとっては必然の事に違ひないのだが、しかし、ちぇっ――。





――しかし、何だね? 





――しかし、此の宇宙若しくは此の世界は確かに《存在》してゐる。





――だから、それがどうしたといふのかね? 





 と、其処で彼は、閉ぢられし瞼裡に移ろひ行く淡い淡い淡い乳白色の内発する微光群を何気なしに目をやっては、その淡い淡い淡い乳白色の微光群が、誰か、それはもしかかすると彼にとっては《神》の顔なのかもしれぬが、彼の閉ぢられし瞼裡に幽かに幽かに幽かに浮かび上がったその見知らぬ誰かの顔を凝視するのであった。





――ふっ、お前は《神》かね? 





――ふっふっふっふっ。どうしたといふのかね、突然に? 





――いや、何ね、この瞼裡の薄っぺらな闇を見てゐると飽きないからさ、つい《神》とか言ひ出したくなるのさ。





――さてね、そんな事よりも、此の宇宙の始まりが仮にBig bangだと仮定すると、その此の宇宙誕生時は何処も彼処も光、つまり、光のみが《存在》する闇無き世界だといふ事態になるが、さうすると、此の闇とは、仮に此の宇宙に《神》が《存在》するならば、《神》は光でなく、闇に近しい何かだらう? 





――お前もさう思ふかね、やはり……。





――当然だらう。





――しかし、生命体は、熱を帯びてゐること故に、それだけの理由で幽かに幽かに幽かに微光を放っているんだぜ。すると、《神》もまた発光する何か出会っていい筈だか……。





――何を今更当たり障りのない事を言ひ出すのかね? 《存在》がそれが何であれ、つまり、例えばそれを《神》だと看做すと、《神》は御親切にその《もの》に宿ってしまふ事を《存在》に強ひられる哀れな《存在》なんだぜ。





――《神》はやはり哀れか――。





――さうだらう。《神》の一つを代表してゐると看做せる基督は今もRosary(ロザリオ)となった磔刑像から解放されるどころか、今も尚基督は磔刑されたその痛痛しい姿を人前に曝してゐて、ちぇっ、今でも誰もその磔刑された基督を救へぬままではないか! 





――基督を救ふ? 





――さう。基督はどうあっても《神》であることから解放されねば、基督の死は犬死同然に帰してしまふといふ、《存在》に属するはずの人類は取り返しのつかぬ大罪を冒す愚劣な《存在》として、人類はその原罪を背負って生きる外ないのさ。





――だが、人類は既に自らの生存のために平気の平左で《他》を殺して喰らふ愚劣な《存在》ぢゃないのかね? 





――それはその通りだが、だからと言って基督を犬死させていいといふ法はない! 





(七儒四の篇終はり)







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2010 08/09 06:36:27 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、男女の交合の時の愉悦? さて、そんな《もの》が、実際のところ、《吾》にも《他》にもあるのかね? 





――多分、ほんの一時はある筈さ。それも阿片の如き《もの》としてな。また、チベット仏教では男女の交合は否定されるどころか、全的に肯定されてゐて、男女間の交合は悟りの境地の入り口でもある。





――つまり、男女の交合時、《吾》と《他》は限りなく《一》者へと漸近的に近付きながら、《吾》と《他》のその《一》が交はる、つまり、《一》ではない崇高な何かへと限りなく漸近すると? 





――へっ、此の世に《一》を脱するかの如き仮象に溺れる愉悦が無ければ、《存在》は己の《存在》するといふ屈辱には堪へ切れぬ《もの》なのかもしれぬな。





――だから、《吾》は《吾》を呑み込む時、不快なげっぷを出さざるを得ぬのさ。





――はて、一つ尋ねるが、男女の交合の時、その《存在》は不快なげっぷを出すのかね? 





――喘ぎはするが、げっぷはせぬといふのが大方の見方だらう。だがな……。





――しかし、仮に男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快を体現してゐると定義出来たならばお前はどうする? 





――ふっふっ。さうさ。男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快の体現だ。





――つまり、男女の交合時、男女も共に存在し交合に耽るのだが、詰まる所、男女の交合は、交合時にその男女は己の《吾》といふ底知れぬ陥穽に自由落下するのだが、結局のところ、《他》が自由落下する《吾》を掬ひ取ってくれるといふ、ちぇっ、何たる愚劣! その愉悦に、つまり、一対一として、《吾》が此の世では、やはり、徹頭徹尾、《吾》といふ独りの《もの》でしかない事を否が応でも味ははなければならぬ。その不快を、《吾》は忘却するが如く男女の交合に、己の快楽を求め、交合に無我夢中になって励むのが常であるが、それって、詰まる所、自同律からの逃避でしかないのぢゃないかね? 





――つまり、男女の交合とは、仮初にも《吾》と《他》との《重ね合はせ》といふ、此の世でない彼の世への入り口にも似た《存在》に等しく与へられし錯覚といふ事か――。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――でなければ、此の世を蔽ひ尽くすこの不快極まりない《ざわめき》を何とする? 





――それでは一つ尋ねるが、男の生殖器を受け入れた女が交合時悲鳴にも似た快楽に耽る喘ぎ声を口にするのもまた自同律の不快故にと思ふかね? 





――さうさ。男の生殖器すら呑み込む女たる雌は、男たる雄には到底計り知れぬ自同律の不快の深さにある筈さ。





――筈さ? ちぇっ、すると、お前にも男女の交合の何たるかは未だ解かりかねるといふことぢゃないかい? 





――当然だらう。現時点で《吾》は《死》してゐないのだから、当然、正覚する筈も無く、全てにおいて断言出来ぬ、《一》ならざる《存在》なのだからな。





――しかし、生物は《性》と引き換へにか、《死》と引き換へにかは解からぬが、何故《死》すべき《存在》を《性》と引き換へに選択したんだらう? 





――それは簡単だらう。つまり、《死》と引き換へに《性》を選び、《死》すべき《存在》を選ばざるを得なかったのさ。それ以前に、《存在》とは《死》と隣り合はせとしてしか此の世に《存在》する事を許されぬのではないかね? 





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――それはまた何故? 





――約めて言へば種の存続の為さ。





――ちぇっ、つまり、種が存続するには個たる《存在》は《死》すべき《もの》として此の世に《存在》する事を許された哀れな《存在》でしかないのさ。





――だが、その哀れな《存在》で構はぬではないか。





――ああ。不死なる《存在》が仮に《存在》したとしてもそれはまた自同律の不快を未来永劫に亙って味はひ尽くす悲哀! 





――それを「《吾》、然り!」と受け入れてこその《存在》ぢゃないのかね? 





――ふっ、「《吾》、然り!」か……。しかし、《吾》は気分屋だぜ。





――だから「《吾》、然り!」なのさ。





――つまり、《存在》は、即ち森羅万象は、全て「《吾》、然り!」と呪文を唱へてやっと生き延びるか――。





(十一 終はり)







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2010 08/02 07:38:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。此の宇宙が夢見てゐるといふのは、此の宇宙誕生以前への原点回帰といふ夢の事かね? ぶはっはっはっはっ。





――しかし、《存在》は《存在》する以前への、例へば胎内回帰がそれに相当すると思ふがその誕生以前へ回帰したいといふ願望は避けやうがない。つまり、《存在》は「先験的」に《存在》以前への回帰、若しくは《存在》以前に或る種の郷愁を抱く哀れな《もの》さ。





――そして、《存在》は《存在》以降、つまり、《死》へも「先験的」に郷愁を抱く《もの》に違ひない。





――つまり、《存在》はそれが《特異点》として此の世に《存在》する事を強ひられ、へっ、そしてパスカル曰く、無と無限のbetween、つまり、中間者としてしか《存在》出来ぬ故に、《存在》が《パスカルの深淵》を不図垣間見、そしてその刹那、《存在》以前の過去世と《存在》の《死》以降の未来世、つまり、去来現をその《パスカルの深淵》に見出さずば、へっ、此の世に《存在》すら出来ぬ《存在》が「先験的」に抱へ込んだ矛盾! さて、この矛盾を如何とす? 





――ふむ。これは愚問だが、今お前が言った事は、そもそも矛盾かね? つまり、absurdといふ事かね? 





――では、何だと言ふのかね? 





――必然さ。





――必然? 





――さう、必然さ。《存在》が不意に出会ってしまった《パスカルの深淵》は《存在》が此の世に《存在》する以上、必然であり、その事はそして《存在》が《特異点》でもある事を必然的に暗示し、また、さうだからこそ、《存在》は《存在》誕生以前と《存在》の《死》以降に郷愁を抱くのさ。





――さう言ふお前は、其の郷愁のやり場のない底無しの無力感は解かってゐるのかね? 





――ふっ、それが《現在》といふ《もの》だらう。そして、俺もまた此の世に《存在》してゐるのだぜ。





――さうすると《存在》は《存在》誕生以前と《存在》の《死》以降に四肢を両側から引っ張られ引き裂かれる寸前の状態にあるといふ事になると思ふが、お前は既にさう悟ってゐるのかね? 





――ああ。もしかすると《存在》は既に誕生以前と死後の世に引き裂かれゐるかもしれず、例へば仮にさうだとすれば、其の引き裂かれた状態でありながら《存在》といふ様態に辛うじてあるのは、つまり、《存在》は《特異点》故であるからこそ《存在》は《存在》可能だとは思はぬか? 





――それは、つまり、《存在》は《特異点》でなければそもそも《存在》などせぬと? 





――ああ。そして、《特異点》たる《存在》は、諸行無常なる移ろひ行く此の世の時空間にほんの一寸、つまり、高高百年ぐらゐ《存在》する事を許された時空間に発生した時空のカルマン渦の如き《もの》に違ひなく、例へば流体力学に当て嵌めて話してみると、ナヴィエ‐ストークス方程式を持ち出して、例えば(ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ナビエ-ストークス方程式より)

非圧縮性流れ(\;
ho=	ext{const.}\;)の場合、ナビエ-ストークス方程式は



<dl style="MARGIN-TOP: 0.2em; MARGIN-BOTTOM: 0.5em"><dd style="LINE-HEIGHT: 1.5em; MARGIN-BOTTOM: 0.1em; MARGIN-LEFT: 2em">rac{ \partial \boldsymbol{v} }{ \partial t } + ( \boldsymbol{v} \cdot 
abla )\boldsymbol{v}<br> = -rac{ 1 }{ 
ho } 
abla p + 
u 
abla^2 \boldsymbol{v} + \boldsymbol{F}</dd></dl>

と簡単化される。ここで\;
u:=\mu / 
ho\;動粘性係数である。各項はそれぞれ、



  • 左辺 - 第1項 : 時間[微分]項、第2項 : 移流項(対流項)


  • 右辺 - 第1項 : 圧力項、第2項 : 粘性項(拡散項)、第3項 : 外力項


と呼ばれる。外力項には、状況によって、重力をはじめ浮力表面張力電磁気力などが該当する。



上記の、非圧縮性流れに対するナビエ-ストークス方程式は、未知数として圧力\;p\; 流速\;\boldsymbol{v}\; を含んでいる。したがって未知数決定に必要な方程式の数が足りない。そこで、質量保存則から導かれる連続の式(非圧縮性流れについては次の形)



<dl style="MARGIN-TOP: 0.2em; MARGIN-BOTTOM: 0.5em"><dd style="LINE-HEIGHT: 1.5em; MARGIN-BOTTOM: 0.1em; MARGIN-LEFT: 2em">
abla \cdot \boldsymbol{v} = \mathrm{div} \, \boldsymbol{v} = 0 \quad 	ext{(for incompressible flow)}</dd></dl>

と連立することによって、原理的には解くことが可能である。もし一般解が求まれば、流体の挙動を完全に知る事ができることになる。しかし、未だ一般解は見つかっておらず、そもそも解の存在性といった面で謎が残り、物理学数学の懸案事項の一つとなっている(ミレニアム懸賞問題)<sup class="noprint Inline-Template" style="LINE-HEIGHT: 1em">[<em>疑問点 </em>]</sup>。したがって特殊な条件の問題を除いて、一般には次に示すように数値計算によって近似的に解かれる。


(以下http://ssrs.dpri.kyoto-u.ac.jp/~nakamichi/exercise/presentation.pdfを参照してください。)









<shape id="図_x0020_268" opid="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 411pt; HEIGHT: 288.75pt; VISIBILITY: visible; mso-wrap-style: square"></shape>


Photo_4




そして、







<shape id="図_x0020_269" opid="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 411pt; HEIGHT: 288.75pt; VISIBILITY: visible; mso-wrap-style: square"></shape>


Photo_3








といふやうなコンピュータ・シミュレーション用にナヴィエ‐ストークス方程式を近似して、実際、カルマン渦をもまた近似的に再現することが可能だが、しかし、ナヴィエ・ストークス方程式の解は実際のところ、いまだ見つかってをらず、また、見つかる保証も無いけれども、一方で自然をコンピュータ上とはいへ疑似的に、そして、かなり正確に再現出来るまでに、この《存在》の一形態たる「現存在」の《知》は到達はしてゐるのだ。尤も、自然をコンピュータなどの科学技術を駆使してかなりの精度で再現するのは別に何の問題も無く、而もそれが精密を極めてゐれば尚更の事、例へばナヴィエ‐ストークス方程式の如く自然の現象に「美しい」数式を見つけ出すのは、まあ、いいとしてもだ、それでは何故に自然は斯様に振舞ふのかの論理的な証明はと言へば未だ証明出来ず仕舞ひだ。現時点では全て、公理や公準や定理などと呼んで済ませちまってゐるに過ぎぬ。





――へっ、つまり、自然は、此の世は、此の宇宙は、「《神》のみぞ知る!」といふ事以上の事は現代科学をもってしても言へぬといふ事かね? 





――唯、《存在》が自棄のやんぱちで言へる事は、此の世は、へっ、《存在》が《特異点》故にかどうかは解からぬが、或る秩序が厳然と《存在》してゐるのはどうやら確からしいといふ事さ。





――確からしい? 確かだと、自然には「美しき」秩序があると何故に断言出来ぬのだ! 





――へっ、だって、此の世の森羅万象に《神》も加へてもいいが、未だどんな《存在》も此の宇宙を自然に忠実に再現、否、創造出来ぬからさ。





――しかし、《神》はこの憎憎しき、ちぇっ、《吾》が生存する為には平気で《他》を殺して喰らふ《吾》を《存在》させる此の悪意に、否、もしかしたならばそれは慈悲といふのかもしれぬが、つまり、約めて言へば《神》なる《存在》が此の宇宙の誕生に関はってゐるのと違ふかね? 





――さあ、それは解からぬ。





――解からぬ? 





――ああ、今もってそれは不明さ。《神》の問題は何時の世でも必ずAporia(アポリア)として持ち出されるからな、へっ。





(七十三の篇終はり)





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2010 07/26 09:28:09 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、《闇》は、光をも含めた森羅万象を呑み込み得るのか? どう思ふ? 





――さてね。それより、何とも摑み処のない自問を私の頭蓋内の《闇》たる五蘊場にひょいっと抛り投げてみたところで、何の反響も無い事は端から解かってゐる癖に、然しながら、どうしてもさうせずにはゐられぬ《吾》は、そして、また、五蘊場に絶えず無意味な問ひを絶えず投げ続けずにはゐられぬ《吾》は、ゆっくりと瞼を閉ぢて、その瞼裡のペラペラな《闇》に《吾》なる面影を映さうと躍起である事は、何を隠さうそれは休む間も無く絶えず私に起きてゐる自問自答しながらの大いなる自嘲に過ぎぬとしたならば、へっ、《吾》もまた皮肉たっぷりの《存在》だといふ事だ。





――ふっふっ、《吾》において仮に《闇の夢》がそれ自体において瓦解したならば、《吾》はそれでも《吾》をして《吾》を《吾》と名指せるのだらうか? 





 と、既に私において《闇の夢》は《吾》を《吾》たらしめてゐる礎になり果せてゐるのもまた間違ひの無いことで、しかし、さうだとするとして、私はその頭蓋内の闇たる五蘊場へと直結する瞼裡の闇に映る《異形の吾》を仮象せずば、一時たりとも《吾》が《吾》である事はあり得ぬ程に、《吾》には「先験的」に《闇》を《吾》のうちに所持せず《生存》すら断念してしまふ羸弱な《存在》である事を自殺を例に出すまでも無く自明の事として、《吾》は《吾》の《存在》の所与の《もの》として《闇》が《存在》に組み込まれてをり、つまり、《闇》無くして《吾》は《存在》してゐないに違ひない《もの》なのは、間違ひのない事であった。





 さうすると、《闇の夢》は私において、それはまさしく必然の《もの》に違ひなく、《闇の夢》こそが《吾》の確信、若しくは本質なのかもしれなかったのである。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 しかし、私は夢の中で見てゐるその《闇の夢》がそもそも《闇の夢》であることから、それを或る種の幻燈と看做してゐるはずで、《闇の夢》が自在に変容するその《闇の夢》が映す《もの》に、私は嬉嬉として喜びの声も、私が《吾》を嗤ふ中で確かに上げてゐる筈なのであった。尤も私は、《闇の夢》が映し出す《もの》全てに《吾》との関係性を見出して、それ故に嬉嬉として喜んでゐるのであったが、しかし、例へば私が夢で見るその《闇の夢》が《吾》とは全く無関係な《もの》、つまり、今のところ此の世にその《存在》が知られてゐない、例へば先に言った様に《杳数》をObscurity numberと英訳してその頭文字を取って《杳数》をoとすると、その《杳数》の如き未だ発見されぬ未知なる《もの》が《存在》することで初めて《吾》と《闇の夢》の関係が曲芸の如く導き出されるとしたならば、困った事に、私にとって《闇の夢》は《吾》を侮蔑するのに最も相応しい代物だと言へ、《吾》と《闇の夢》が例へば《杳数》の《存在》を暗示するのであれば、私といふ《存在》は、やはり、私の手に負へぬ無と無限との関係と深い関係にある何かであった事は間違ひの無い事であった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 それは、つまり、《闇》=《吾》といふ至極単純な等式で表はされるに違ひない筈なのに、《闇》=《吾》と白紙の上にさう書いた刹那、その《闇》=《吾》といふ等式は既に嘘っぽくなり、更にそれをまぢまぢと眺めてゐると、





――そんな馬鹿な! 





 と、《闇》=《吾》は完全に否定される事になるのが落ちなのである。





さうすると、《杳数》はそれ自体「先験的」に時間と深く結びついた何かであるかも知れず、また、時間を或る連続体の如く扱ふ事自体に誤謬があり、さうすると、そもそも時間とは、渦動運動だと看做す場合、その渦動する時間はほんの一時、連続体として此の世にカルマン渦の如く《存在》するが、しかし、例へば、時間を数直線の如く扱ふ、つまり、時間が微分積分可能な《もの》として、換言すれば、時間が移ろふ《もの》としてのみ、その性質を無理矢理特化させてしまふと、その時点で時間は「先験的」に非連続的な何かへと相転移を遂げた、詰まる所、微分積分が相当の曲芸技無しには全く不可能な何かへとその様態を変幻自在に変へる化け物として、または、《存在》に襲ひ掛かって来る時間は、その《物の化》の如き本質を剥き出しにするに違ひ無いと思へるのであった。





(九の篇終はり)







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2010 07/19 06:22:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっへっへっ、下らぬ事を訊くが、そもそも《主体》は己が《存在》してゐる事を、直感的にも論理的にも遺漏なく《完璧》に証明できる代物かね? 





――ふむ。それは俺には解からぬな。





――解からない? はて、するとお前は己の《存在》を認識出来ぬといふ事かね? 





――反対に訊くが、お前は己が明確に此の世に《存在》してゐると、胸を張って言へるのかね? へっ、言へる訳がないわな。仮に「《吾》此処に《存在》せり!」と胸を張って言へる《主体》は百害あって一利なしの愚劣な《存在》と相場が決まってゐる。





――だからと言って「《吾》、《存在》せず!」とも胸を張って言へやしないぜ。





――其処さ。全ては曖昧なのさ。在るとも無いとも言ひきれぬ悲哀! 《存在》はその何とも名状し難い悲哀を噛み締める《もの》ぢゃないかね? 





――再び《存在》は《パスカルの深淵》に立ち竦む。





――無と無限の間(あはひ)で弥次郎兵衛の如く揺れ続ける外ない《存在》といふ《もの》の悲哀。





――へっ、しかし、《存在》しちまった《もの》はその悲哀を哀しむ資格が「先験的」に喪失してゐる。





――喪失してゐる? それはまた何故に? 





――それは簡単に言ってしまへば、唯、《存在》は既に《存在》してゐるからさ。





――それは、《存在》に意識が芽生える以前に既に《存在》は《存在》してゐるからといふ、たったそれだけの理由からかね? 





――否、《存在》はその《存在》が出現する以前に既に「先験的」に意識の萌芽は必ず《存在》してゐる筈で、また、さうでなければ、《存在》は《存在》に躓く筈はない! 





――え! 《存在》の出現以前、つまり、未出現の状態でも、へっ、意識の在りさうでゐてはっきりと無いとも言へぬ萌芽が既に芽生えてゐるといふ事かね? ふはっはっはっはっはっ。ちゃんちゃらをかしくて、それぢゃ、臍で茶が沸かせるぜ。





――それでは逆に尋ねるが、幽霊に意識はないのかね? 





――ふむ。幽霊ね……。お前は先に幽霊が《存在》した方が此の世は面白いと言った筈だが、ちぇっ、さうさねえ、幽霊に意識は宿ってゐるに違ひないか――。





――ならば、未出現の《もの》にも既に意識は宿ってゐる筈だ。《存在》は未だ出現せざる内に既に《存在》する事の底無しの悲哀を味はひ尽くしてゐる。さうして、《存在》は、皆、此の世に出現するのさ。





――つまり、それは此の世の《特異点》としてといふ事だらう? 





――ああ、さうさ。《存在》はそれが何であれ、《存在》が《存在》である以上、それは此の世の《特異点》としてどう仕様もない、否、やり場のない自同律の不快を絶えず噛み締める――か――。





――へっ、何せ、《存在》はパスカル風に言へばbetween、つまり、無と無限の中間者としてしか此の世で《存在》する事を許されぬ。





――それは、此の宇宙に関しても同様だと? 





――当然だらう。多分、自同律の不快に此の世で最もうんざりしてゐるのが何を隠さう此の宇宙で、尚且、それ故に此の宇宙自体が《特異点》だと白状してゐるやうなもんだぜ。





――違ふかね? 





――違ふかね? これは異な事を言ふ。此の宇宙は少なくとも無と無限を見せた若しくは明らかにした事なぞ一度もない筈だがね? 





――それが闇でもかね? 





――ふむ。闇か――。





――闇においてのみ、無と無限は包摂され其処に《パスカルの深淵》がばっくりと口を開けた《特異点》がその《存在》を暗示させて仕様がないのさ。





――それは暗示以上にはなり得ぬといふ事だらう? 





――さう。暗示以上にはなり得ぬ厄介な代物さ。例へば胎内回帰が《存在》の一つの在り方だとすると、此の宇宙も無と無限がぴたりと重なった宇宙の誕生以前へ回帰したいのは当然考へられることだらう? 





(七十二の篇終はり)







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2010 07/12 06:53:15 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《存在》は唯一つ大事な事を亡失しちまてゐる振りをしてゐる。





――それは……《死》だね。





――さう、《死》さ。頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場に生滅する数多の表象群をコツコツと具現化することだけに感(かま)け、挙句の果てにその頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で表象した《もの》を外在化し、その事に見事に成功した筈なのだが、しかし、その本質はといふと、へっ、全て《死》と紐帯で繋がってゐなければ、そもそも表象すらでない事を、《生者》、つまり、《存在》は見事に亡失し果せた振りをして見せたのだ。





――しかし、その振りも最早限界に来てしまったのだらう? 





――さう。最早《自然》に対して余りにも羸弱なこの《人工世界》は、その本質が《死》故に、絶えず《生者》は自殺へと誘はずにはゐられぬ。





――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ誘ふと? 





――さう。





――それは、つまり、《存在》の本質が《死》だから、この頭蓋内の闇に明滅する表象を具体化し外在化した《人工世界》は、《死》の具現化へと行き着く外なかったと? 





――違ふかね? 





――違ふかね? すると、へっ、《生者》は《存在》の代表者面をして、最も《生者》が忌避したかった《死》を、この《人工世界》つまり、街として具現化してしまったといふ事かね? 





――さうさ。更に言えば、街が計画的に造られてゐればゐる程、《死》に近しい。





――つまり、それは敗戦後の闇市的な猥雑な《場》こそ《生》に満ち満ちた人工の《場》たり得た筈さ。





――つまり、焼け野原といふ一つの主幹たる戦前の継続し得たであらう街がぽきりと折れた後に、蘗として猥雑極まりない闇市が自然発生的に生まれた筈だが、その蘗たる闇市的な生活空間を、後知恵に違ひない都市計画なる鉈(なた)でばっさりと切り倒され、其処に現出した人工的な更地たる時空間、つまり、蘗が全て切り倒された様相の街が此の世に出現し、そして、其処に人力以上の動力やら重機で人一人では全くびくともしない《人工世界》が造り上げられた。





――へっ、つまり、それが徹頭徹尾《死》の具現化でしかなかったと? 





――違ふかね? 





――違ふかね? 





――でなければ、この人工の街で《生者》が次次と自殺する筈がないではないか? 





――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ引き摺ってゐると? 





――違ふかね? 





――ぢゃ、人類の叡智とは、結局、《死》の具現化に過ぎなかったといふ事だね? 





――否、人類の叡智といふ《もの》は人一人でのみ体現できる、否、人一人で生きて行ける《もの》こそ人類の叡智であって、科学的技術といふ名の《知》は、《存在》の《生》とは全く無関係な代物で、叡智といふ《もの》は、人一人で具現化出来る《もの》であって始めて叡智と呼ばれるのであって、人一人で具現化出来ない《もの》は叡智とは言はないのさ。つまり、《生》に関して言へば、百年前と同じで、人類は何一つ《生》の様相を変へる事が出来なかったのさ。変わったのは全て《死》の様相さ。





――《知》は叡智にはなり得ぬと? 





――ふむ。多分だが、科学なり生命科学なり化学なりの高度極まりない《知》が叡智へ相転移を遂げる鍵を《存在》は未だ見出し得ぬのが正直なところさ。





――つまり、此の世に《存在》するといふ事は、《神》の夢の途中といふ事かね? 





――此の世の摂理が《神》による《もの》だと看做したければさうすればいいのさ。但し、摂理が摂理たる鍵は未だ何《もの》も見つけられず仕舞ひだ。





――では、その鍵を見つける手立ては? 





――《現実》を本来の《現実》に戻せばいいのさ。





――本来の《現実》? 





――さう。本来の《現実》さ。《存在》にとって最も不便極まりないのが《現実》だといふ事を思ひ出すがいいのさ。





――ふむ。《現実》は不便な《もの》か……。





(六の篇終はり)







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2010 07/05 06:34:36 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――確かに今は虚数なしで此の世を説明する事自体に無理があるが、とはいへ、普通に此の世に暮らしてゐる分には、虚数など全く意識しない。





――当然だらう。そんな事言ひ出したならば、《存在》する《もの》は、《存在》を意識せずに日常を送ってゐるといふ事で、全てがちゃんちゃんと手打ち出来ちまふぜ。だが、ひと度《私》に躓いた《存在》は、最早、《存在》について考へに考へ尽くさずば、此の世に一時たりとも生きるに値しないと思ひ詰める《もの》ぢゃないかね? 





――つまり、自同律に対する拭ひ切れない疑念だね? 





――さう。《私》は《私》であって《私》でないといふ、つまり、自同律の排中律といふ、へっ、矛盾以外の何《もの》でもない《私》に対する底知れぬ不審。





――そして、其処に無と無限にばっくりと口を開けたパスカルの深淵を前に呆然として、《存在》は唯佇立するのみ。





――そして、《吾》はそれを《特異点》と名指して、無と無限を或る有限にも見える擬態に近い∞といふ象徴記号に荒ぶる《もの》を封じ込めたのみだが――。





――しかし、《吾》は既に、つまり、「先験的」に無と無限を知ってゐる事にはたと気付くのさ。





――つまり、子宮といふ一大宇宙の主として羊水にたゆたふ《もの》として、《存在》の一例として哺乳類は胎児の時代に、たった一つの受精卵から細胞分裂を繰り返すうちに、その胎児は、これまでの生物史を全て体現するやうに胎児は変態を繰り返すのだが、そして、その全生物史を体現する胎児の成長こそに「先験的」に無と無限と虚、若しくは空の断崖にしがみ付き、絶えず色の方へと己の《存在》の在り処を求めずにはゐられぬそんな《存在》どもの性(さが)は「先験的」に賦与されてゐるといふ事か……。





――それは、つまり、色とは無と無限と虚、若しくは空の断念といふ事かね? 





――さうさ。無と無限と虚、若しくは空を断念する事で色たる《実体》が此の世に出現する。





――それも排中律と《特異点》の矛盾を抱へてな。





――其処さ。《存在》には、この頭蓋内の闇といふ五蘊場に無数の《異形の吾》が明滅し、《吾》はそれのどれも「《吾》だ!」と断言しながら、辛うじて《吾》が《吾》である事で、《吾》は《吾》たることを保持するのだが、《吾》は《吾》が五蘊場に生滅する無数の《吾》を受容して行くのかね? 





――ああ。必ずや《吾》を受容せねばならぬのが《存在》が《存在》たる宿命だ? 





――宿命? 





――つまり、《存在》にとって無数の《吾》を受容する事もまた「先験的」な《もの》なのかね? 





――さうさ。《吾》についてクラインの壺を或る象徴として、お手軽に具像化出来る《もの》として、この得体の知れぬ《吾》の位相として騙ってゐる《存在》の上っ面のみを眺めて全てを理解したがの如く自己満足に充足してゐる輩をたまに見かけるが、例へばその輩に「《吾》の《存在》とは?」と問ふと、何やら自信無げに口籠って《他》が徹頭徹尾作り上げた思考体系を持ち出して、己の正当性を訴へる馬鹿《もの》に結局、己の《存在》の尻拭ひを全て《他》に委ねてゐる事で、安寧を得てゐて、そして、どう足掻かうが遁れようのない《現実》から何としても逃避する《存在》の在り方が、一種のBoom(ブーム)のやうだが、それとて結局出口無しなのは虚無主義と同じ孔の狢(むじな)さ。





――つまり、ゲーデルを解かりもせずに持ち出して《存在》の不完全性に言及する事によって、《吾》は《現実》の《吾》に対峙する事を最後迄避けてゐる、ちぇっ、つまり、意気地無しの《吾》が現在量産されてゐるこの《現実》を前にして、《吾》はもう一度「存在論」の淵源から物事を思惟する苦行をする外に、この得体の知れぬ不気味な《吾》といふ《存在》に振り回されてばかりの、主体無き、つまり、主体を抹殺する暴挙を美徳とする勘違ひした論理に陥るのが関の山だぜ。





(七十一の篇終はり)







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2010 06/28 09:43:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、線形に非線形? 闇も《場》ならば偏微分が難なく成り立つ非線形の筈だがね。それ以前に闇が線形か非線形かを問ふ事自体下らぬ愚問だぜ。





――ふほっほっほっほっ。済まぬ済まぬ。わしの言ひ間違ひぢゃ。つまり、かうぢゃ。闇とは論理的かね、将又、非論理的かね? 





――両様だらう? 





――それはまた何故? 





――闇は絶対的な主観の《場》であるか、絶対的客観の《場》であるかの両様を何の苦もなく統覚しちまってゐるからさ。





――ふほっほっほっほっ。それぢゃと闇はどうあっても《存在》から遁れ果せてしまふぞ。





――だから闇は無と無限と空を誘ふのではないかね? 





――ふほっほっほつほっ。それこそお前の単なる思ひ過ごしぢゃないかね? 





――絶対的な主観、若しくは絶対的な客観が思ひ過ごしでも構はぬではないかね? 





――そうぢゃよ、どちらでも構はぬ。





――それぢゃ、お前にとって絶対的主観、若しくは絶対的客観といふ《もの》を敢へて名指せば何なのかね? 





――それは《存在》する《もの》の単なる気紛れぢゃ。





――気紛れ? 





――さうぢゃよ。《存在》する《もの》の気紛れを称して絶対的主観、若しくは絶対的客観と名付けだだけぢゃて。





――それでは此の世が何かの、つまり、神の気紛れで《存在》しちまったといふ事と同じぢゃないかね? 





――それで構はぬではないか。神の気紛れで此の世が誕生したといふ事で? 





――ぢゃ、何かね、この俺といふ《存在》も糞忌忌しい神の単なる気紛れで《存在》しちまひ、そして闇を、この頭蓋内の闇を見出す度に、無や無限や空に誘はれちまふのも、その神の単なる気紛れかね? 





――だからどうだといふのぢゃ? 「《存在》は有限故に無と無限と空を欲し、神は無限故に有限なる《もの》を欲す」ぢゃ。





――つまり、此の世の原理は無い《もの》ねだりといふ事かね、へっ――。





――だとしたならば、お前は神に唾でも吐き掛けるかね? 





――ああ。天に唾を吐くさ。馬鹿を承知でな。全く反吐が出さうだぜ。神は無限故に有限なる《もの》を欲す? 何だね、その言ひ分は? 





――ほら、ほら、神へ牙を剥けばいいぢゃよ、ふほっほっほっほっ。





――へっ、今更、神に牙を剥いたところで何にもなりゃしないぜ。だって、俺は既に《存在》してゐるのだからな。





――その《存在》を保証してゐるのは何かね? 





――《他》であり、俺の意識さ。





――それぢゃ、お前が此の世に《存在》する確たる証左にはならぬぞ。





――何故? 





――《他》もお前の意識も全てがその淵源を辿れば神が無限故に欲した、つまり、それを神の気紛れと看做すならば、お前が此の世に《存在》してゐる証は、全的に神に帰すぢゃらうが。





――つまり、《存在》とはどう足掻かうが、神の問題を避けられぬといふ事かね? 





――さうぢゃ。多かれ少なかれ、此の世に《存在》する森羅万象は、神問題で躓くのが此の世の道理ぢゃて。





――そして、《吾》は《吾》にも躓く。





――《吾》に躓き、神に躓いたその《存在》は、さて、それでは何故に己の存続を望むのかね? 





――全てが謎だからさ。





――謎ねえ。ふほっほっほっほっ。さて、その謎を解く自信が《存在》にあると思ふかね? 





――いいや。全くない筈だ。むしろ、その謎を解くのに二の足を踏んでゐる。





――さうかね? しかし、人間は自然を解明するのに躍起になってゐるぢゃないかね? 





――人間は全史を通じて神に躓き続けてゐるからね。しかし、人間は自然を科学でもってしてそのどん詰まりまで人間の智たる科学的知のみで組み立て段になると、それは信仰告白とちっとも変らぬ事に吃驚するだらうよ。





――ふほっほっほっほっ。それは、科学と神のどちらかを選べと森羅万象が問はれれば、此の世に《存在》する《もの》は、きっと神を選ばざるを得ぬといふ事かね?





――ああ、さうだ。《存在》は否応なく科学より神を選ばざるを得ぬのが此の世の道理だと言ふ事を嫌といふ程知らされることになる筈だ。





――何故に?





(五の篇終はり)







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2010 06/21 07:22:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、それは、此の世が、そして此の世の森羅万象が《実在》、ちぇっ、《存在》する事に既に虚数iのi乗といふ数学的に、また、論理的にも確実に実数として此の世に《存在》する法と言ったらいいのか、その主体ではどう仕様もない法に此の世のあらゆる《存在》は「先験的」に、へっ、支配されてゐて、それに対して《存在》は手も足も出ないといふ事かね? 





――だったらどうだといふのかね? 





――別にどう仕様もないさ。





――無と無限と虚、若しくは空を操る《もの》、既に《存在》の秘密を見し――か――。





――その空は、色即是空、空即是色の空だね。





――さうさ。





――すると、或る意識、へっ、俺は《存在》する《もの》全てに漏れなく意識は宿ると看做す悪癖があるが、仮に意識といふ《もの》が森羅万象に宿ってゐるとすると、それもまた無と無限と虚、若しくは空の仕業かね? 





――それ以外に何が考へられるといふのかね? 





――さうすると、その無と無限と虚、若しくは空により組み上げられた《もの》の総称が色といふ事かね? 





――ふむ。色か……。敢へてさう看做すのならばだ、無と無限と虚、若しくは空のみで色を論破出来なければ、つまり、色が、無と無限と虚、若しくは空から説明出来きねば、へっ、《存在》はそもそもが矛盾した《もの》だと烙印を押したやうなもんだぜ。





――《存在》はそもそもからして矛盾した《もの》ぢゃないのかね? 





――ふん、さうさ。この《吾》といふ《存在》はそもそも矛盾してゐるが故に思惟せずにはいられぬのさ。





――またぞろ、cogito,ergo sum.の出番か……。この頭蓋内といふ闇たる五蘊場の何処かでぽっと発火現象が起きると、少しの間も置かずにその発火現象に誘はれるやうにして、別の五蘊場の何処かで発火現象が連鎖的に起こり、それらが、或る表象をこの頭蓋内の闇たる五蘊場に浮沈させては、否、生滅させては、へっ、此の世の儚さと己の儚さとに同時に思ひを馳せながら、この《吾》といふ《存在》は、それでも「《吾》たらむ」として、無と無限と虚、若しくは空と対峙する。





――色即是空……か。もう何百年も前にこの思惟する《存在》は、空として虚数iの《存在》を予言しちまってゐた。





――さうさ。例へばだ、現代人の思惟行為は何千年も前に此の世に《存在》して古代人の思惟行為を遥かに越えてゐたと、お前は看做せるかね? 





――ふむ……。いや、さう看做せる筈がないぢゃないかい。





――さうさ。現代人の思惟行為、若しくは思惟活動が、何千年も前に此の世に《存在》した意識体に優ってゐたといふ証拠は全くと言っていい程、皆無で、むしろ現代に《存在》させられちまった意識体は下手をすると太古の昔に憧れさへ抱いてゐる。





――例へばだ、犬の思惟と人間の思惟のどちらが優れてゐると思ふかね? 





――ちぇっ、下らぬ。その問ひに何の疑念も抱かずに「人間!」と答へる輩は、愚劣極まりないぜ。犬も人間も、多分、同等な筈だ。





――さう、同等だ。現代に《存在》しちまってしまった《存在》は、それが何であれ全て同等さ。





――さて、それぢゃ、何故に同等なのかね? 





――答へは簡単ぢゃないかね。此の世の森羅万象は残らず無と無限と虚、若しくは空に絶えず曝されてゐて、此の世に不運にも《存在》しちまった《もの》全てはそれを我慢してゐる。





――己の滅びを我慢してゐるのだらう? 





――否、己の《存在》その《もの》を我慢してゐるのさ。





――へっ、結局、無と無限と虚、若しくは空の総体としてしか、此の世に《存在》出来ぬ《もの》は、此の世の摂理に従はずば此の世に《存在》する事を絶対に許されぬといふ事に帰結しちまふか――。





(七十の篇終はり)





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2010 06/14 06:38:05 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――その馬鹿な《存在》は、つまり、さうであっても、所詮、これまでの宇宙史に《存在》しなかった全く新たな《存在》の出現を望んでゐるのと違ふかね? 





――へっ、それは既に《存在》が《存在》する為にも必ず渇望する《もの》になっちまってゐる。とはいへ、それは宇宙もまた己自体の《存在》に我慢がならぬならばの話だがね。





――ふっふっふっ。当然、我慢がならぬだらう。すると《杳体》は、これまで《存在》しなかった全く新たな《もの》を出現させる為の揺籃だと看做せるのかい? 





――否、それ以前に《杳体》がそもそも《杳体》であることに我慢がならぬ筈さ。





――はて、それは一体全体何の事かね? 俺は未だに《杳体》なる《もの》をちっとも表象すら出来ぬままなのだが、そこでだ、先づ、お前が言ふ《杳体》は《存在》を《存在》させる《もの》の本質と考へてもいいのかね? 





――ああ。《杳体》すら己の《存在自体》に我慢がならぬ故に、へっ、哀しい哉、《存在》はこれまで宇宙史に一度たりとも《存在》しなかった《もの》の出現を渇望せざるを得ぬのさ。つまり、己の《存在》に我慢がならぬと言ふ自己矛盾が《存在》が《存在》たるべくある為の《存在》の揺籃なのさ。





――否、それは揺籃ではなく、多分、《渦》に違ひない筈さ。その《渦》の中心には、どうあっても自己であってはならぬ「先験的」な《存在》とも看做せちまふ《他》がなければ、《渦》は巻かぬ……。つまり、《存在》の揺籃としての時空間の《渦》は、多分、《カルマン渦》に相似した《渦》な筈だが、その《渦》の中心に《己》はどう足掻いても《存在》出来ず、その《渦》の中心を《反=自己》と名付けてみると、《存在》のその《渦》の形象をした坩堝の中心に陰陽魚太極図の目玉模様の如く《反=自己》が必ず《存在》する。そして、《反=自己》が《存在》しなければ自己は一時たりとも、これまた《存在》出来ぬのが此の世の道理だ。





――《反=自己》とは反物質にも似た《反体》の事かね? 





――別に何でも構はぬさ。《反=自己》が対自であらうが、脱自であらうが、《反体》であらうが、其処で時間が一次元的な《もの》から、∞次元の相の下に解放されてゐるのであれば、《反=自己》を何と呼ばうが構ひやせぬ。





――時間が∞次元の相の下に置かれるとなると、《杳体》はもしかするとその《面》を現はさざるを得ぬかね? 





――いや、それは解からぬが、少なくとも《世界》はその不気味な《面》を現はすに違ひない。《実体》も然り、《反体》も然り、《主体》も然り、《客体》も然りだ。森羅万象がそれまで隠してゐた醜悪極まりないその不気味な《面》を此の世に現はす。





――《面》はそれが何であれ、醜悪極まりないかね? 





――ああ。それはそれは悍ましい《面》をしてゐなければ、現在、此の世に起こってゐる愚劣極まりない事など起こりやしないぜ。





――それでは、その時、つまり、《世界》がその醜悪極まりない《面》を現はしたその瞬間に《物自体》の《影》、否、《杳体》の《影》の輪郭は少なくともはっきりするのかな? 





――つまり、それは《杳体》の《影》が、一瞬、此の世の森羅万象の上をちらりと蔽ふ醜悪極まりない《杳体》の《面》の《影》の中に没する途轍もなく嫌な嫌な嫌な、そして不愉快極まりない時空間の事だね。少なくとも《杳体》はその醜い《面》を被ってゐるに違いない筈だとすると、その《面》の《影》は《存在》する《もの》にとって《存在》そのものから遁走したいに違ひない不愉快極まりない《世界》が現実に出現してゐるのかもしれぬといふ事だね。さうしなければ∞次元の時間の相の下では《存在》は《存在》なんぞ出来っこないからな。





――《杳体》が《存在》出来ぬ? それはまた異な事を言ふ。《杳体》は「先験的」に、若しくは「超越論的」に《存在》してゐる《もの》ぢゃないのかね? 





――例えばだ、それまで漆黒の闇の中に隠れ潜んでゐたであらう《杳体》は、その隠れ蓑たる闇を取り去られると、へっ、其処に現はれるのは無限を手なづける事に成功した《存在》だけにちらりとその醜悪極まりない《面》を見せる、違ふかね? 





――はて、無限を手なづける? それはつまり特異点が剥き出しになった上に、その特異点は鋭き牙を剥いて《存在》に襲ひかかるといふ事かね? 





――∞次元の時間の相の下では、驚く事勿れ、特異点のみが平安の中に坐すのさ。





――えっ、一体全体それは何の事かね? 





――つまり、∞次元の時間の相の下での《存在》は特異点にのみ許される。





――何に許されると? 





――へっ、《神》と言はせたいのだらうが、此処では《存在》若しくは《イデア》若しくは《物自体》と言って置かうかな。





(十 終はり)







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2010 06/07 07:07:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――パスカル『パンセ』(英訳より)





205





When I consider the short duration of my life, swallowed up in the eternity before and after, the little space which I fill and even can see, engulfed in the infinite immensity of spaces of which I am ignorant and which know me not, I am frightened and am astonished at being here rather than there; for there is no reason why here rather than there, why now rather than then. Who has put me here? By whose order and direction have this place and time been allotted to me? Memoria hospitis unius diei praetereuntis.









拙訳





205





「私の一生の短い期間が、その前と後に続く永劫に呑み込まれ、私が占有し、そして見る事さへ可能なこの小空間が、私には無知なもので、そして私に未知である空間の永劫の巨大さに呑み込まれてゐるのを思ふ時、私は其処よりはむしろ此処にゐる事に戦き驚く、何故なら私が其処ではなく此処にゐるべき理由などなく、何故にその時ではなく今なのかといふ理由すら存在しないからだ。誰が吾を此処に置いた? 誰の命令そして指図でこの時空間が吾に与へられしか? 〈ただ一日留まれる客の思いで〉(松浪信三郎訳参照)」









206.





The eternal silence of these infinite spaces frightens me.









拙訳





206





「その永劫無際限の空間の永遠の沈黙が吾を戦かす」









207





How many kingdoms know us not!









拙訳





「何と多くの数の王国を吾等は知らぬのだ!」









208





Why is my knowledge limited? Why my stature? Why my life to one hundred years rather than to a thousand? What reason has nature had for giving me such, and for choosing this number rather than another in the infinity of those from which there is no more reason to choose one than another, trying nothing else?









拙訳





208





「何故吾の認識には限度があるのか? 何故吾の身長に限度があるのか? 何故吾の一生は千年よりもむしろ百年なのか? 如何なる理由でそのやうに吾に与へられし自然の摂理があるのか? そして別のものでなくこれを選ぶのに何の理由もないといふことからして、それら無限の中にある別の数字の中からこの数字が選ばれし事に関して、他の選択肢を試みたところで他の選択肢はなしといふ事か?」









――ふん。パスカルの『パンセ』の英訳が如何したと言ふのかね? 





――いや、何、此処に既に無限に対するどう仕様もない怯えが書き記されてゐると思ってね。





――つまり、有限なる《もの》は否が応でも無限と対峙するそのどう仕様もない恐怖の在り処こそ虚数iの正体だと俺に同意を求めてゐるのかね? 





――へっ、虚数iの正体だと? 





――つまり、《存在》とは、その《存在自体》に怯える《もの》であるといふ命題が「先験的」に《存在》してゐるんぢゃないかと思ってね。





――それは、つまり、此の世に《存在》する森羅万象は、「先験的」に無と無限と、そし虚数iの《存在》を認識してゐるとしふ事かね? 





――さう看做しても構はぬのぢゃないかね? 





――つまり、「先験的」に認識してゐなければ《存在》は例へば無限に対峙する筈もなく、また、無限に否応なく対峙し、そして怯える筈もないと? 





――さう。「先験的」に認識してゐなければ、そもそも無といふ概念も、無限といふ概念も、虚数の《存在》も知る由もなかったに違ひない。





――それは、つまり、無と無限と虚数は何かしらの関連がある《もの》で、そして《存在》しちまった《もの》の思ひも及ばぬ処でもしかすると、これは皮肉に違ひない筈だが、その関連が《存在》する事の暗示かね、「先験的」とは? 





―つまり、





213





Between us and heaven or hell there is only life, which is the frailest thing in the world.









拙訳





213





「吾らと天国若しくは地獄の間に、此の世で最も羸弱であるのみの生命が存在する。」









におけるbetweenといふ此の世の森羅万象の有様故の、つまり、必然といふ事を意味してゐるのかね? 





――さうさ。必然だ。必然故に此の世に《存在》する森羅万象はbetweenといふ《存在》の仕方に我慢がならぬのだ。





――へっ、それでも《存在》はbetweenでしかあり得ぬ。





――多分、パスカルは《存在》の有様がbetweenでしかあり得ない事を自覚しちまった時、自嘲したに違ひない。





――それはまた何故? 





――《存在》の振幅が無から無限まであるといふ恐怖からさ。





――それは果たして恐怖なのかね? 





――ああ。それは底知れぬ恐怖であったに違ひない。それ故、パスカルは此の世にabyss、つまり、《深淵》を見ちまった。そして、その《深淵》が虚数の《存在》をも暗示した。





――はて、それは何故かね? 





――虚数ii乗といふ《存在》が此の世に実在する事を暗示してしまったからさ。





――話を先に進める前に一つ尋ねるが、虚数ii乗とは一言で言ふと一体全体何の事かね? 





――約めて言へば、虚数ii乗が実数であるといふ事は、此の世、つまり、世界は何としても実在する《もの》である事を《吾》に強要する《もの》でしかないといふ事さ。





(六十九の篇終はり)







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2010 05/31 05:42:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうすると《吾》とはつくづく損な役回りでしかない《存在》といふ事だね? 





――ふっふっふっ。《吾》が損な役回り? これは異な事を。





――ちぇっ、全く、俺をおちょくってるな。何故、異な事なのかね? 





――だって、此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ、此の《存在》が畢竟《吾》以外の何《もの》でもありゃしない事を、もううんざりする程に自覚し、また、自覚させられてゐるからさ。





――何に自覚されてゐるといふのかね? 





――へっ、《他》さ。





――《他》? 





――さう、此の世の涯の《解》としての《他》だ。





――つまり、《吾》とは此の世の涯、つまり、世界といふ《もの》の有様の《解》をその相貌に具現化してゐる此の世の涯たる《他》に取り囲まれて《存在》する事を余儀なくされてゐる孤独な《存在》といふ事かね? 





――勿論! 





――勿論? 





――さう。勿論さ。此の世に《吾》として《存在》させられてしまった《もの》は、それが何であれ此の世の涯を絶えず目の当たりにしつつも《吾》の底無しの孤独をくっと噛み締めながら、また、その生存を脅かす《他》を、へっ、或る時はその《他》を殺して、己の食物としちまふのが、此の《吾》が置かれてゐる矛盾の源泉ぢゃないかね? 





――なあ、此の世は畢竟矛盾の坩堝かね? 





――さう、《吾》が《存在》する以上、矛盾の坩堝さ。そして、此の世は矛盾の坩堝でありながら、《神》以外にその全容を知る事が不可能な《秩序》若しくは《摂理》が厳然と《存在》する。さうぢゃなきゃ、《吾》なぞ一時も生存不可能と来てるから、ちぇっ、《吾》の《存在》とは厄介極まりないのさ。





――つまり、それは《他》といふ《存在》が厄介極まりないといふ事と同じ事だらう? 





――さうさ。《存在》がそもそも厄介極まりない。





――しかし、或る物体が生成し消滅するといふ事は、何か峻厳な、つまり、その《他》の《存在》の《誕生》と《死》に立ち会ふ《吾》なる《存在》は、《他》が《吾》の与り知らぬ理(ことわり)に従って生滅する事態に対して如何あっても厳粛に為らざるを得ぬではないかね? 





――当然だらう。《存在》が生滅するんだぜ。《吾》はその事実に謙虚になる外なく、そして、それはそれは厳粛極まりない事なのは当然だらう。





――何故に厳粛だと? 





――或る《存在》が生滅しても《世界》は眦一つ動かす事なく厳然と《存在》し続けるからさ。これ迄の哲学等の思惟は《生者》の論理が絶対的真理であるかの如く語られてきた節があるが、《存在》は《死》をもきちんと消化せずば、へっ、絶対的な真理なぞ、此の世に元来《存在》しないのぢゃないかね? 





――しかし、《生者》は《死》に思ひを馳せる事しか出来ないではないか! 





――はて、実際のところ、つまり、《生者》は《死》に思ひを馳せるだけしか出来ぬかね? 《生者》は《生》故に既に其処に《死》を内包してゐるのとは違ふのね? 





――む。それは一体全体何の事かね? 





――つまり、幽霊が此の世に厳然と《存在》してゐるとすると? 





――へっ、またぞろ幽霊の《存在》かね? 





――さう、幽霊の《存在》だ。例へば《生者》は、《生》の論理に徹頭徹尾、何の文句も言はずに従ってゐると思ふかい? つまり、換言すれば、《生者》は最早《死》してゐる数多の先達達も含めた《死》の上にしか《生》の砂上の楼閣は築けないのと違ふかね? 





――それぢゃ、《生》と《死》が表裏一体といふのは真っ赤な嘘で、《生》と《死》は障子で部屋が仕切られてゐるのかの如く、つまり、地続きで、それは畢竟《生》は絶えず《死》と対峙する事で辛うじて《生》は《生》たり得てゐるといふ何とも哀れな事態に為るが、ちぇっ、それが、仮令真であってもだ、《生者》は《生者》のみで群れてゐたいのもまた真ではいかね? 





――ふっふっふっ。その《生者》の群れの中に不意に《死者》の幽霊が現はれてゐるとすると? 





――それは言わずもがなだらう。つまり、不気味さ。





――へっへっへっ、土台、此の世はそもそも不気味ぢゃないかね? 





――すると《生者》の群れには《生者》が気付かぬだけで、必ず《死者》である幽霊が厳然と《存在》すると? 





――当然だらう? 





――当然? 





――さう、当然だ。元来《生》と《死》は親和的な《もの》であって、どちらも此の世ではありふれた《もの》だった筈だぜ。それが、何時しか《生者》の論理ばかりが重要視される事になっちまった。だがな、その《生者》が最も恐れるのが《死》と来りゃ、もうそれは笑い話以外の何ものでもないぢゃないか。





――つまり、現代では必ず《死》の復権が訪れると? 





――当然だらう。これからは誕生する人間より死んで行く人間の数が多くなるんだぜ。すると、《生者》は如何あっても《死》を直視する外ない筈さ。





(十の篇終はり)







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2010 05/17 06:21:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも《存在》は進歩する《もの》として想定可能な何かだと、何の前提もなしに看做しちまって構はないと、お前は断言出来るかね? 





――進歩? ふむ。





――《存在》とはそもそも進歩する《もの》なのか……? 





――ふむ。多分だが、己が生存しなければならぬ《環境》に強要される形で、《存在》は、例へばそれを進化と名指せば、己が生存せねばならぬ《環境》に順応する外に生存の道が残されてゐないと看做しちまって構はぬ筈だが、しかし、それは詰まる所、《世界》に《存在》は絶えず試されるのみの、ちぇっ、つまり、実験用のモルモットとして《存在》するしか此の世に《存在》を許されぬといふ事になっちまふが……。





――だから? 





――さうするとだ、《存在》は投企されたその《世界》に何としても順応するべく、へっ、此処で虚数iのその不可解極まりない相貌が不意にひょいと顔を此の世に現はす筈なのだが、例へば《存在》に蓋然性といふ曖昧模糊とした形の、つまり、それは確率論的に表記すれば如何あっても虚数iの《存在》がなければならぬ事態に、へっ、この《存在》といふ《もの》全て吃驚するのだがね、必ず此の世に虚数が《存在》してゐなければならぬ筈の、その《存在》といふそれ自体もまた虚数iが必ず此の世に《存在》することでしか、その《存在》自体の根拠が担保されぬ《存在》といふ面妖なる《もの》として、へっ、詰まる所、《存在》は漸くにして此の世での生存を許される、ちぇっ。





――何に許されると言ふのかね? 





――へっ、《神霊》さ。





――《神霊》? つまり、それは、《霊》、即ち虚数iのi乗が実数として此の世に出現するその出現の仕方において、此の世に確実に実在しなければならぬ《存在》の宿命をして《神霊》と言ってゐるのかな? 





――つまり、《霊》もまた《神》なる《存在》を渇望して已まない。





――えっ? 《霊》もまた《神》を渇望する? それは一体全体何の事かね? 





――字義通り、虚数iをi乗することで、此の世に実数として現はれてしまふ虚数の有様が、へっへっへっ、此の世に実在する《もの》全て、つまり、森羅万象の有様に外ならず、そしてそれらの《存在》は、また、《神》を渇望して已まないのさ。





――それはオイラーの公式が《神》の振舞ひの一例だといふ事かね? 





――公式とか公理とか定理とか法則とか呼ばれるものは全て《神》の《摂理》と言ひ換へ可能な筈だが、オイラーの公式を《神》の振舞ひの一例と看做したければさう看做せばいいのさ。しかし、これだけは忘れちゃならないぜ。つまり、オイラーの公式がなければ、今や、《世界認識》は全く不可能な時代に既にとっくの昔に突入しちまってゐるといふ事をな。つまり、虚数なしの世界は全て虚妄だといふ事だ。





――つまり、事態は《存在》が虚数を具象化出来ようが出来まいがそんな事はお構ひなしに《世界》について何か一言でも語たったとして、しかしながら其処に虚数の影すら見出せない論理は、つまり、そんな論理は自己満足しか齎さない夢心地の酔狂に等しい虚妄の虚妄の虚妄の《世界認識》でしかないといふ事であって、さうとは言へ、周りをちらりとでも見渡してみれば今もってニュートン力学から一歩たりとも踏み出せない臆病な臆病な臆病な《主体》がぽつねんと独り此の世で足掻いてゐる、へっへっへっ、それはつまりは相対論的な若しくは量子論的な若しくは余剰次元的な若しくは超弦理論的な《世界》の《認識》の仕方に全く付いて行けず、つまり、それは光恐怖症とでも言ったらいいのか、質量ある《もの》は如何あっても光速度には至り得ぬ此の世の宿命を受け入れられずに、また、《世界》に対峙することすら出来ず仕舞ひの《主体》のてんやわんやの喜劇ばかりで満たされた、それは《世界》がそんな《主体》を憐れみながらも「わっはっはっ」と嘲弄しながら嗤ふ、ちぇっ、《主体》はその事に余りにも無頓着なのだが、しかしだ、《主体》はそろそろ猛省をして此の世といふ《世界》を「あっ!」と驚かせるやうな曲芸をして見せなければ、《主体》が此の世に《存在》しちまった意味など全くないのぢゃないかね? 





――さうだね。表象といふ言葉一つ取っても、其処には虚数の《存在》が深く関はってしまってゐるのだらう? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》を外在化させる行為は、正に虚数iのi乗を無意識理とは言へ具現化してゐることに過ぎぬといふ事かな? 





――さて、それはどうかね? 一つ尋ねるが、お前が言ふ表象とは、一体全体何の事かね? 





――いや、何、つまり、思惟全般の事さ。





――へっ、すると、デカルトのcogito,ergo sumが此の世に発せられた時点で、其処には此の世に虚数が必ず《存在》せねばならぬ萌芽が隠されてゐたといふ事であって、ちぇっ、思惟の振舞ひが虚数なる《もの》の振舞ひをちらっとでも暗示しちまってゐるとするならばだ、この《他者》の頭蓋内の闇たる五蘊場で表象された《もの》が尽きる事無く外在化されるこの現代社会の街衢といふ時空間若しくは人工世界は、へっ、虚数iのi乗が導き出さずにはをれぬ結語ぢゃないのかね? 更に言へば、自然とは《神》の頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》の外在化、即ち、これまた虚数iのi乗の一つの厳然とした在り方に過ぎぬのぢゃないかね? 





――へっ、つまり、虚数iのi乗が実数になる事が《存在》を《存在》たらしめる、即ち《物自体》がその馬脚を表はしてゐる証左に過ぎず、ちぇっ、しかし、それが徹頭徹尾不快と来るから、お前は《他》に此の世の涯の《解》の如き《もの》、つまり、それを《物自体》と言っても差し支へない筈だか、その《解》を《他》に見出さずにはゐられぬ悪癖に絶えず悩まされる事になっちまったといふ事かね? 





――だとすると、どうだと言ふのかね? 





――別に、何にも。





――ふっふっふっ。





(六十八の篇終はり)







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2010 05/10 10:51:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 漆黒の中で無言のままぢっと蹲ってゐる《もの》がゐれば、また、ぶつぶつと独りごちて、その面に気色悪い薄笑ひを浮かべてゐる《もの》がゐたりと、思惟さへ出来得れば、即座に《存在》する、また、《存在》たる森羅万象が賦与されて此の世に《存在》する事を強要される、例へば頭蓋内の闇といふ五蘊場は、さて、此の宇宙全体とたった独りで対峙出来得る《存在》として《存在》は可能なのか、と問ふた処で、その不毛な疑問は《存在》に虚しさしか齎さない此の世の皮肉に苦笑ひしつつ、しかし、此の世の森羅万象は、例外なく、何《もの》がゐるとも杳として知れぬ眼前に無際限に拡がってゐるに違ひない虚空を睨みつけるべく、その面をむくりと擡げ上げるのであった。





…………





…………





――うあ〜あ。よく眠ったぜ。





――何を今更。





――また、如何して? 





――何故って、今といふ、ちぇっ、それを現在と名指せば、その現在は実に愚劣極まりないだらう? 





――はて、現在が愚劣? 





――では、お前にとって現在とは如何様にあるのかね? 





――もう遁れられぬどん詰まりの此の世の涯かな? 





――はて、現在とは果たして此の世の涯かな? ちゃんちゃら可笑しいぜ。





――へっへっ。ちゃんちゃら可笑しいかい? 





――へっ、この現在を愚劣としたり顔で断言するお前こそ、この現在のどん詰まりに追ひ詰められてゐるぢゃないか? 





――へっ、この、俺が此の世の涯に追ひ詰められてゐるだと? ちぇっ、下らねえ。元来、《存在》は、全て此の世の涯に置かれるべく定められた《もの》ぢゃないのかね? 





――なら、やっぱり此の世の涯に置かれるべく生滅する《もの》が《存在》の遁れられぬ有様だらう。





――だから愚劣極まりないのさ。





――その愚劣極まりない《もの》が仮に大慈悲の下に皆《存在》してゐるとしたならば? 





――大慈悲? ちぇっ、そんな事はとどの詰まりが《存在》の《主観》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――さう、《主観》だ。しかし、此の世は、この《存在》の《主観》以外にその有様はないのと違ふかね? 





――へっ、つまり、《客観》は徹底的に《存在》出来ぬと? 





――ああ。仮令《客観》があるとすれば、それは《神》の視点のみさ。





――ふっ、《神》と来たか! お前は《神》の《存在》を信ずるのかね? 





――まあ、幽霊の類も同じだが、《神》が此の世に《存在》した方が面白く、また、《主体》の《存在様態》は、幾分か楽になるのかもしれぬぢゃないかね? 





――楽は《地獄》の一丁目出ぜ。それよりも《神》の《存在》が《主体》の十字架になってしまってゐる例は、この宇宙史において枚挙に暇がないぜ。





――それでも《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとってはどうにか此の世に佇立出来得る支へにはなるに違ひない。





――はて、《主体》の支へとしての《存在形態》が、果たして《神》の《存在形態》に相応しいのだらうか? 





――しかし、《主体》は《主体》独りでは《存在》出来ぬ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――まあ、己の存続の為なら《他》を殺生して食す、つまり、《他》が己の存続のためのみに殺される事に平然としてゐられるこの《主体》といふ《存在》は、その原罪を甘受すべく、へっ、《神》がゐて呉れた方が、ちぇっ、一寸は気休めになるのかもしれぬな。





――さう。気休めさ。《主体》に今必要なのは気休めなのは間違ひない筈だ。





――また、何故に《主体》に今気休めが必要といふのかね? 





――実存する為さ。





――実存? 





――さう、実存だ。





――へっ、実存なんぞはもう使ひ古され手垢に塗れた時代錯誤の《もの》ぢゃないかね? 





――否。思惟する事に時代錯誤もへったくれもありゃしない。その証左に二千年余り以前のギリシアの思惟は今も燦然と輝いてゐるぢゃないかね? 





(一の篇終はり)







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2010 04/26 06:49:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは或る種の謎謎に属するかもしれぬが、虚数iのi乗は、さて、何かね? 





――ふっ、何を今更。虚数iのi乗はオイラーの公式を使へば、【iのi乗】=【(ネイピア数eのi×π/2)のi乗】、つまり、eの−π/2乗、即ちiのi乗は0.2078795……といふ実数へと変身しちまふ、違ふかね? 





――さうさ。さうするとだ、虚数iのi乗とは一体全体何の事かね? 





――さあね。土台、お前は俺に《虚体》とか《物自体》とかの尻尾だと言はせたいのだらうが、それはお門違ひだぜ。





――ふん。それは本音のところでは、虚数iのi乗こそが《虚体》の本質を物語ってしまってゐると、へん、お前が看做してゐる証左にしかならないぜ。





――だから、それが如何したと言ふのかね? 逆に尋ねるが、お前は虚数iのi乗を何だと看做してゐるのかね? 





――ふっ、《霊》さ。





――《霊》? 





――さう、《霊》さ。





――ちぇっ、それは幽霊の事かね? 





――《霊》が付けば何でも構ひやしない。





――さうすると《霊》は、実数、つまり、或る《存在体》として確実に此の世に実在する《もの》になるのが、お前にとって《霊》は確かに此の世に実在する《もの》と受け取って構はぬのだな。





――ああ。勿論! 





――すると、お前には《霊》が見えるのかい? 





――ふっふっふっ。《死》す《もの》全て《霊》ぢゃないかね? 





――はて、異な事を言ふ。お前の言ふ事を額面通り取ると、《存在》とはそもそも《霊》になっちまふが、この矛盾としか呼べない事態を如何考へればいいのか――? 





――へっ、例へば百年後、今生きてゐる、若しくは《存在体》として《存在》してゐる此の世の森羅万象は、さて、どれ程の《存在》が尚も《生》として《存在》してゐると思ふかね? 





――百年後? 





――さう、百年後だ。





――ちぇっ、つまり、百年後には、今現在《生》として《存在》してゐる《もの》、例へばそれを敢へて《生き物》と名指してみれば、その《生き物》の殆どは、へっ、《死》んでゐると言はせたいのだろう。





――さうさ。《死》さ。





――だから、それが《霊》と何の関係があると言ふのかね? 





――へっへっへっ。つまり、かう考へられるだらう? 既に百年後には《死》を迎へてゐる《存在》が生きてあるのは、それが《霊》故にだと……。





――お前の理屈は全く意味不明だぜ。





――つまり、《存在》に《死》が必ず賦与されてゐるならば、《生》とは此の世に起こるべくもない或る奇蹟と同じ、つまり、それが《霊》の意味するところさ。





――ふむ。未だ、よく解からぬがね? 





――それぢゃあ、逆に尋ねるが、《生》にとって《死》とは何ぞや? 





――ちぇっ、それが解かれば俺は大哲学者になってゐる筈だがね。





――つまり、お前にとって虚数iは今もって何だか解からず、具象化すら出来ず仕舞ひにある《もの》といふ事だらう? 





――だから、それが如何したと言ふのかね? 





――もっと端的に言へば、仮に精神なる《もの》が此の世に実在するならば、その精神とやらの振舞ひこそ、虚数iの振舞ひに違ひないと思はないかい? 





――つまり、お前は思惟する《もの》、つまり、此の世に《存在》しちまった森羅万象は、虚数の如く必ず此の世に実在しなければならぬ、若しくは虚数が《存在》するが如く此の世が成立する為には絶対に必要不可欠な必須条件と言う事かね? 





――さう、思惟さ。





――ちぇっ、それぢゃ、cogito, ergo sumから一歩も如何なる《存在》たる《もの》は、未だ踏み出してゐぬ前人未到の地が、この《存在》といふ《もの》の眼前には茫洋と果てしなく拡がってゐるといふ事と同じことぢゃないか! 





――さうさ。未だ何《もの》もデカルトのcogito, ergo sumから一歩も踏み出してゐないのさ。だから如何なる《存在》も虚数iを表象すらできず、況してや虚数iのi乗なんぞこれっぽっちも頭蓋内の片隅にすら《存在》せぬ、ちぇっ、愚劣極まりない《もの》としてしか如何なる《存在体》も自身の《存在》を語れぬではないか! 





(六十七の篇終はり)







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2010 04/19 06:14:42 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは愚問だが、0.9999999999……の小数点以下の数字、9が、例へば∞回続く0.999999999999……は、ひょいっと《一》に跳躍する不思議を、不思議とは思はずに吾等は何の疑念も抱かずに《一》を簡単に《一》と呼んでゐるが、しかし、その実、誰も《零》と《一》との間にも∞個の陥穽が彼方此方に口を開けてゐることすら気付かずに、否、気付かぬ振りをしながら、へっ、《一》=《一》などといふ嘘っ八を恰も真実かの如くに扱ふ事に慣れてしまった故に、へっ、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》たる《存在》にばっくりと口を開けた風穴の如き穴凹を、己の内部に、ちぇっ、何気無しに不意にばっくりと口を開けた様を見出してしまふと、哀しい哉、《吾》が内心、しくしくと哀しい涙を流しながら《吾》を愛撫しようとするのだが、しかし、《吾》の内部に開いた穴凹は如何ともし難く、そして、《吾》は如何仕様もなく苦悶に身を捩りつつ、《吾》は、唯、茫然と此の世に佇立する外ない《存在》だと嫌といふ程に味はひ尽くさねばならぬ宿命にあるとしたならば、さて、お前はそんな《吾》を何とする? 





――くっくっくっくっ。別に何ともしないがね。ちぇっ、下らぬ! お前は俺に「此の宿命を呪ひ給へ」なんぞとほざかせようとしてゐるやうだが、そんな小細工には乗らないぜ。





――それでもお前は《吾》が《吾》でしかない事に堪へ得るといふのかね? 





――さうさ。《存在》は此の世に《存在》しちまった以上、数多ある此の世の矛盾を死ぬ迄、ちぇっ、死んでも尚かな、まあ、どちらにせよだ、その数多の矛盾を死ぬ迄ずっと噛み締めなければならぬのさ。くっくっくっくっ。





 と、その時、《そいつ》はぎょろりと私を睨み付け、更にかう続けたのであった。





――お前にはその覚悟があるかね? くっくっくっくっ。





――覚悟がなくても《吾》が此の世に《存在》した以上、覚悟せねばならぬのだらうが、へっ。





――しかし、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》自体がそもそも夢幻空花な《もの》に等しい事に愕然とし、そして、誰しも《吾》に躓く外ないといふ何たる皮肉! 此奴をお前は何とする? 





――ちぇっ、何とするもしないも、それは、つまり、色即是空、空即是色、若しくは諸行無常なる《存在》の哀しみとして、《吾》たる《存在》は、それが何であれ甘受せねばならぬのではないのかね? 





――くっくっくっくっ。《存在》の哀しみと来たもんだ。《吾》とはつくづく哀れな《存在》なんだな、ふっふっふっ。





 と、《そいつ》はさう言ひ放つと、あらぬ方向へ目を向けて、其処にあるに違ひない《そいつ》にしか解からぬであらう虚空を凝視し始めたやうであった。そして、私はといふと、これまた瞼を開けて、此の世といふ名の世界を改めて眺め回してみるのであった。





 すると、不意に《そいつ》は、





――はくしょん! 





 と、くさめを放ったのであった。





――へっへっへっ。風邪でも引いたのかね? 





――何奴かが俺を睨みやがったのさ。





――それでくさめを? 





――さうさ。お前以外にこの俺を睨み付ける《存在》がゐるとは思ひもよらなかったからな。





――しかし、俺にはお前以外何《もの》も見えやしないぜ。





――当然だらうが! お前の視覚は此の世を見るべく定められてゐるからね、くっくっくっ。





――するとお前は何処の虚空かは知らぬが、お前にしか見えぬその虚空で誰とも、若しくは何《もの》とも知れぬ《存在》の幽霊、若しくは亡霊、へっ、この言ひ方は可笑しいがね、その《存在》の幽霊、若しくは亡霊でも見ちまったといふ事かね? 





――ご名答だ、くっくっくっくっ。彼の世の何《もの》かが俺を睨み付けたのさ。





――つまり、それは、お前にのみ見えてしまふのであらうその虚空に棲む幽霊、若しくは亡霊共が、彼の世といふ処で、つまり、幽霊若しくは亡霊共が、お前の噂で持ち切りといふ事ぢゃないかね? 





――へっ、誰かが俺の噂をしてゐるから俺が「はくしょん!」とくさめをしたと、お前は如何あっても看做したいらしいが、さうは問屋が卸さないぜ。お前が考へてゐる事と逆の事が今起きたのさ。つまり、俺の頭蓋内の闇を何《もの》かがすっと通り抜けたのさ。





――それを何《もの》かの《存在》の幽霊、若しくは亡霊と言ふのではないのかね? 





――へっ、さう看做したければ差う看做せばいいだけのことさ、ちぇっ、下らぬ。





(十の篇終はり)







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2010 04/12 05:52:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、《吾》は此の世からさうすんなりと消えられる《もの》かね? ふっ、つまり、《吾》は此の世と彼の世、そして、過去と未来を繋ぐ《時空間》の結節点として《存在》する《吾》たる自覚は、《吾》がどうあっても「《吾》たらむ」とあらうとする志向の中に自然と芽生える《もの》なのだらうか? 





――つまり、それは一言で言っちまふと、如何なる《吾》も歴史といふ《もの》への人身御供からは遁れられぬといふ事だらう? 





――歴史への人身御供……か――。ちぇっ、すると《吾》とは歴史における《存在》の標本として、若しくは典型として人生を終へる、即ち歴史へと生を捧げる人身御供でしかない事を甘受せよ、と。





――約めて言へば、現在よりも未来が優れてゐる事を不知不識(知らず識らず)のうちに《吾》なる《存在》は自然と望んでしまふ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――ふむ。現在よりは未来を……か。つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ夢を見、そして、その夢を繋ぐ為のみ、即ち、夢をRelayするべく歴史の人身御供、若しくは生贄としてのみ《存在》する事が許される――といふ事か……。





――それ故、《吾》は己の死を夢に見、己の死後を夢に見ちまふのさ。つまり、Imaginary numberたる虚数が此の世に《存在》しなければ此の世の事象が何一つ語れぬといふ或る種の必然と違ふのかね、それは? 





――ふっ、念ある処には即ち虚数あり、か――。





――cogito,ergo sum……。





――ふっふっふっ。肉体と精神と言ふと単純化された二分法に陥りやすいが、しかし、肉体と精神とを《存在》に見出しちまふのは、此の世に虚数がある限り必然といふ訳か……。





――さうさ。例えば肉体が実部であれば精神は虚部の複素数が《存在》の様態だと看做せなくもない。





――つまり、《存在》は此の世に虚数が《存在》する以上、ちぇっ、《存在》は思念せざせるを得ぬといふ事かね? つまり、複素数の虚部が思惟その《もの》だと? 





――さうさ。此の世の森羅万象は、思念する事を強ひられる。





――さて、何に思念する事を強ひられるのか――。





――ふっ、自然にだらう? 





――つまり、自然においてAはAである事は、これ迄もなかったし、これからもないといふ事だね? 





――さうさ。俺もお前も複素数の世界に投企されてしまってゐるんだからな。





――つまり、俺の実部が仮初にAとすると、俺はAであってAであらず、つまり、俺の虚部は絶えず変化して已まない精神の状態、ちぇっ、肉体もまた変化して已まないが、しかし、精神が《存在》するならば、俺の虚部はまさしくその千変万化する精神に違ひなく、それを此の世の実部として実体化するべく、例えば数学における共役なる複素数を持ち出して虚部を実数へと相転移させる事で、あっ、さうか、《反=生》は、この俺の共役の複素数たる《存在》の事か――。





――ふっ、それぢゃ、《存在》を余りに単純化しすぎてゐるぜ。





――しかし、《存在》はそれが何であれ夢を見、思念すると看做せちまふ以上、へっ、それは《生》と《反=生》の対発生と対消滅によってのみ此の世に表象可能な《もの》ぢゃないのかね? 





――へっへっへっへっ。ところが、お前はお前の《反=生》たるお前と共役な《存在》関係にあるだらう《存在》を死んでも尚、確定出来ぬとすると、さて、この俺とは一体何なのかね? 





――つまり、《吾》=《吾》は未来永劫確定出来ぬ、つまり、自同律の不確定性原理とも呼ぶべき法則が此の世に厳然と《存在》すると? 





――ああ。それを《存在》は《摂理》と名付けて、己が己であるといふ《断念》のうちに、辛うじて《吾》は《吾》を此の世に見出してゐるに過ぎぬのさ。





――つまり、此の世の夢の最たる《もの》が、この《吾》といふ事かね? 





――へっ、《吾》が泡沫の夢でなくてどうする? 





――しかし、《吾》は《吾》として此の世に《存在》せねば、へっ、一時も生き永らへない代物と来りゃあ、実際のところ、この《吾》といふ《存在》は、目も当てられない《もの》、ちぇっ、つまりは《存在》の筈だぜ。





(六十六の篇終はり)







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2010 04/05 06:10:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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『審問官 第一章「喫茶店迄」』(日本文学館刊)がいよいよ四月一日に発売になります。興味のある方は、是非ともお手にどうぞ。





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2010 03/30 06:23:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾《吾》を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 





――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 





――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 





――当然だらう。





――当然? 





――所詮、《存在》は、ちぇっ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。





――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。





――さうさ。《一》すらも、へっ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被った《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被った《存在》として此の世に現はれなければ可笑しいんだぜ。





――へっ、さうだとすると? 





――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 





――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。





――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へっ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 





――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげっぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであった。





――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 





――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちぇっ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。





――ちぇっ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙って一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。





――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 





――後は野となれ山となれってか――。つまり、《他》によって観測の対象なり下がってしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちぇっ、忌々しい事だがね。





――だから、《存在》は皆《ざわめく》のさ。





――つまり、《一》者である事を《他》の観測によって強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は−∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちぇっ、実在出来ぬとすると、へっ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――だから如何したと言ふのかね? へっ、哀しい《もの》だからと言って、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を止められるかね? 





――へっ、止められる訳がなからうが――。





――土台、《吾》とは何処まで行っても《吾》によって仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によって観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。





――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 





――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であって、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へっ、何時迄経っても止められぬのだ。哀しいかな、この《存在》といふ《もの》は――。





(十 終はり)







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2010 03/15 06:46:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそもお前が言ふ私性とは何かね? 





――ふむ。さうさねえ、頭蓋内の闇といふ五蘊場を、図らずも付与されてしまふ《存在》全ての事かな。





――ふっ、その五蘊場は、此の世に《存在》する森羅万象には必ず《存在》すると? 





――ああ。《場》が《存在》すれば、其処には必ず五蘊場が生滅する。





――何故さう看做せるのかね? 





――何《もの》をも皆「《吾》たらむ」と渇望しちまふからさ。





――「《吾》たらむ」? それは「《吾》以外の何かたらむ」ではないかね? 





――へっへっへっ。さうは問屋が卸さないぜ。





――つまり、《吾》は単純化に全く馴染まない《もの》と言ひたいのかね? 





――はて? 《吾》の単純化とは何の事かね? 





――つまり、《吾》=《一》者といふ自同律の事さ。





――またぞろ自同律かね。何度も言ふがね、これ迄《吾》が《一》であった事はなかったし、これからもありはしないぜ。





――何故? 





――答へは簡単さ。《一》は此の世に実数として《存在》した事はなかったし、これからも実数としてはあり得ぬのさ。





――つまり、《一》は数多ある複素数の実部を表してゐるといふ事だらう? 





――さうさ。そもそも《一》=《一》が成立する世界こそ異様な世界な筈だぜ。





――つまり、これは禅問答に近いが、《一》は《無》であり《無限》でもあるといふ事かね? 





――でなければ、《一》は何だといふのかね? 





――ちぇっ、《吾》にとって《一》は何としても実在する《もの》であって欲しいのさ。





――へっへっへっ、これはまた異な事を言ふ。





――異な事? 





――ああ、さうさ。世界認識の仕方が実数から複素数へと拡張される事が受け入れられぬのかね? 





――お前にすれば、《存在》のこれ迄の世界認識の仕方は未熟でしかないといふ事かね? 





――へっ、世界の認識の仕方が拡張されるんだぜ。何故にそれを《吾》は拒むのかね? 





――拒むも拒まぬもないではないか! 既に世界は仮想化されつつある、ちぇっ、つまり、虚数、英語で言へばImaginarity number、へっ、それを直訳すれば想像上の数といふ事だが、その虚数といふ仮想数字なくして最早世界は一言たりとも語れぬ事態に突入しちまってゐるのではないかね? 





――其処さ。既に世界は仮想化される事を免れぬのに、何故、今もって《吾》は《一》=《一》といふ此の世では決してあり得ぬ自同律に拘り続けるのかね? 





――へっ、此の世に決してあり得ぬから《吾》はそれを夢見るのと違ふかね? 





――つまり、《吾》といふ観念自体がそもそも嘘っ八だと? 





――ああ、さうさ。





――ああ、さうさ? 





――ではお前は《吾》を何だと思ってゐたのかね? つまり、それを換言すれば、《吾》は此の世に自然に発生するとでも看做してゐたのかね? 





――ふはっはっはっはっ。《吾》が《吾》でなければ、さて、その《吾》は一体全体何なのかね? 





――さっき言ったではないか、「《吾》たらむ」とする《存在》だと。





――つまり、《吾》は未来永劫《吾》に至り得ぬ《存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――当然だ! 





――当然? 





――では、《吾》とは一体何なのかね? 





――ふっ、「《吾》たらむ」と渇望して已まない《存在》が、苦し紛れにさう呼んでしまった一時しのぎの仮初の《もの》の名さ。





――仮初の《もの》の名? 《吾》とは、つまり、此の世においての仮初の《存在》以上にはなれぬ、ちぇっ、しかし、此の世で《吾》を「《吾》!」と名指した《もの》、つまり、此の世の森羅万象は、未来永劫に亙って此の世に《存在》不可能な《吾》なる何《もの》かを、それが何だか解からずに、へっ、夢見ずにはゐられぬ皮肉に満ちた哀れな哀れな哀れな《存在》といふ事かね? 





――へっ、其処が《吾》の甘ちゃんなところだ。《吾》を指して哀れな哀れな哀れな《存在》と看做しちまふ《吾》は、結局、哀れの何たるかすら全く解からずに、此の世から消える、ふっ。





(六十五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2010 03/01 07:00:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 さて、私が、夢で見る《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は、果たして、光に満ちた輝く世界なのであらうか、などと想像してはみるのであるが、《光》と《闇》といふ単純な二分法でしか《もの》を考へられぬ己を、





――未だ未だ甘ちゃんだな。





 と、自嘲しながらも、私は、心の何処かでは《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は、光に満ちてゐてほしいと望んでゐた事も、また、紛れもない事実なのであった。





――それでは、何故、私は《吾》の内奥に潜むであらう《吾》の五蘊場に《存在》するに違ひない《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は光に満ちてゐなければならぬのか? 





 と、その事を不思議に思はなくもなかったのである。そして、それを、





――《特異点》!





 と、名指しても、





――さて、虚数iを零で割った場合は、それはまた±∞、若しくは±∞×iに発散するのか? 





 と、余りにも幼稚な疑問が浮かぶのであった。さてさて、困った事に私は、無限大、若しくは無限に、∞といふ記号を用ゐるのは、今のところ《存在》がその「現存在」を宙ぶらりんのまま、何事も決することなく、《存在》が永劫に《存在》に肉薄、若しくはにじり寄る事を止揚し、《存在》が《存在》から逃げ果す為の《インチキ》の最たる《もの》と看做す悪癖があり、





――そろそろ《存在》は己を語るべく、数学の世界も複素数を更に拡張した、例へばそれを《杳数(えうすう)》と名付ければ、《特異点》や虚数i÷零を∞と表記しない《もの》を考へ出さなければならない。





 などと、考へてみるのであるが、∞は、その論理からするりと摺り抜けて、相変はらず∞として厳然と《存在》する事を已めないのであった。





――しかし、《無限》は何としても《超越》しなければ《存在》の新たな地平は拓けぬ! 





 と、己に言ひ聞かせるやうにして、私は、尚も沈思黙考に耽ざるを得ぬのであった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。





 それは、多分に《存在》の新たな地平を拓く、若しくは《存在》のParadigm(パラダイム)変換が何時迄経っても出来ぬ私を嗤ってゐる事に外ならないとも思へて来るのであった。





――《吾》が何時迄経っても《吾》でしかない事は、最早、《存在》する《もの》全ての怠慢であって、《吾》が《吾》でしかない事は、侮蔑の対象でしかないのではないのか? 





 と、不意に私の内部の深奥のところから浮かぶその疑問は、あながち何の根拠もない出鱈目ではなく、もしかすると、《存在》の本質、即ち《物自体》を衝いてゐるのではないか、と看做してしまへば、私が、夢で見る《闇の夢》は、もしかすると、《特異点》をも∞をも虚数iを呑み込んで恬然とした《もの》、即ち《杳数》が此の世に出現する為には何としても被らなければならぬ仮面なのかもしれぬと思はずにはゐられなかったのである。





――ふっ、《杳数》、ちぇっ、つまり、《杳体》か――。





 それを《杳体》と名付けたはいいが、それが一体全体何を意味してゐるか皆目解からぬ未知との遭遇なのは間違ひないのであったが、しかし、《杳体》は、既に此の世に出現してゐて、《存在》は、《存在》自体を語り出すには、この《杳体》なる《もの》の《存在》を定義付けなければならぬ局面に、今現在、遭遇してゐるに違ひないと思へなくもないのであった。





――《闇の夢》が《杳体》の仮面? 





 私は、今のところ、《杳体》なる《もの》の《存在》について何ら確信めいた《もの》を持ち得、若しくは《存在》の物理的な事象が、まるで現在あるところの物理的なる事象とは全く別の《もの》へと相転移したかの如くに、自棄のやんぱちで「えいっ!」と一言の下に新たな《もの》たる《異=世界》とそれを看做して、強引に∞を発散から収束へとその持つ意味を逆転させてしまふ論理的な術など一切持ってゐなかったが、しかし、最早、《存在》はそれが何であれ《存在》において∞が未だ仮初の記号に過ぎず、《杳数》なる《もの》を持ってして数字の拡張を敢へて試みなければ、《存在》は《存在》を一言も語れないのではないかといふ、或る種の予感めいた《もの》は、既に私にはあって、だが、虚数、つまり、英訳するとImaginary numberたるiをごくりと呑み込んでも平気の平左でゐられる《杳数》、これを仮に英訳すると、Obscurity numberとなるのでその頭文字を取って《杳数》単位をoとすれば、そのoなる《もの》が、例へば【「杳数oの二乗」=虚数i】などと定義するなどして此の世に何となく異形の《もの》として《存在》してゐるのではないかと示唆が出来るのみであって、残念ながら今の私の能力では《杳数》若しくは《杳体》に、確たる具体的な姿形を思ひ描き与へる事は、それこそ杳としてをり、そして、未だ《杳数》並びに《杳体》にその《存在根拠》を与へられず仕舞ひなのであった。多分、その忌忌しい結果として、私は《杳体》なる《もの》の表象として《闇の夢》を見る外ない何とも歯痒い事態に陥ってゐて、





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。





 と、思はず《吾》を《吾》が嗤ふといふ、多分、此の世が《存在》する限りにおいて永劫に続くのであらう堂堂巡りを繰り返す外ないどん詰まりに、私は、とっくの昔に追ひ遣られてゐるのは間違ひのない事であった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。《闇の夢》が《杳体》? ぶはっはっはっ。





(八の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 02/22 05:58:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――付かぬ事を尋ねるが、お前にとって《死》は怖い《もの》かね? 





――また何故にそんな事を? 





――いや、何ね、《生》と《死》は表裏一体を為す《もの》、つまり、《生》の裏面が《死》であると単純に看做せるのかと思ってね? つまり、《生》と《死》は《対‐存在》する《もの》なのかね? 





――ふっ、《生》の裏面が《死》でないとすると、では《生》の裏面とは何かね? 





――へっ、《反=生》さ。





――それが《死》の事ではないのかね? 





――へっへっへっ。《反=生》が《死》の事だと? これは異な事を言ふ。《反=生》は、《生》といふ《存在》の不在によって初めて露はになる、此の世に《存在》する《もの》が《対‐存在》している事を此の世に射影する何かの事さ。





――はて? それは一体全体何の事かね? ふん、不在故に《存在》の有様が尚更露はに為る《存在》の有様、譬へて言へばその《存在》の有様は《仮象=存在》とは言へると思ふが、《反=生》とはその《仮象=存在》とはまた別の《存在》の此の世に実在する有様ではないのかね? 





――へっへっへっ、何ともまどろっこしいが、つまり、端的に言っちまへば、その《仮象=存在》を夢の一種と看做しちまへば、《反=生》は何だと思ふ?   





――はて? 先程からお前は一体全体何を言ってゐるのか己で理解出来てゐるのかね? 





――ちぇっ、ふん、いや。





――つまり、単なる言葉遊びをしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね? 





――しかし、これは直感的だが、《生》の裏面は《死》ではなく、やはり、《反=生》にしか思へぬのだが……。





――だから、その《反=生》とは一体全体何の事なのかね? 





――強ひて言へば、《生》といふ《存在》が此の世で出合ふ仮象の、若しくは夢幻空花な《死》の事かな? 





――かな? そもそも仮象の《死》とは何の事かね? 





――へっ、《生者》にとって、どう足掻いても自身の《死》については想像する外ないその想像上の《死》、つまり、《鏡面上の吾》にしか為れぬ《対‐存在》の悲哀の事さ。





――つまり、論理的な飛躍、ちぇっ、ここには大いなるインチキがあるんだが、まあ、それはそれとして、つまり、約めて言へば、《死》した《吾》さへ思念するこの《鏡面上の吾》と《対‐存在》する外ない《吾》なる《存在》全般が思念するといふその思念のみが、《生》をも《死》をも《超越》出来得ると? 





――さあ? それは解からぬ。





――さあ? 





――さうさ。実際、生きてゐる《存在》が思惟する事で、さて、その思惟する事の中に何かしら不可能事と看做せてしまふ《もの》が必ず《存在》するに違ひない筈だが、ところで、《生》ある《もの》が思惟不可能と看做してしまふその根拠は何処にあると考へるかね? 





――つまり、所詮、《生》が思念出来る事と言へば、《生》の事象にある《もの》に限られると? 





――さう……。しかし、《生者》は《死》をも夢想しちまふ。





――さうすると、《反=生》とは、《生》と《対‐存在》する限りにおいてのみ《存在》可能な有限なるその《対‐存在》が、《対‐存在》でしかあり得ぬこと故に此の世に《存在》する森羅万象が、《無》や《無限》に思いを馳せてしまふ事と何かしら関係があるのかな? 





――森羅万象は、それが何であれ、此の世に《対‐存在》としてしかあり得ぬ故に、《存在》は皆、《渾沌》へと発散しちまふ《存在》の、或ひは《事象》の《陥穽》に落ちる恐怖と、何時も隣り合はせにしか《存在》出来ぬ。それ故、此の世の森羅万象は《無》と《無限》を如何しても想像しちまふ悪癖を「先験的」に負ってゐる。





――つまり、《反=生》とは《渾沌》としてしか《存在》しない此の世の《陥穽》の事かね? 





――いや、《反=生》もまた秩序がある或る何かに違ひない筈さ。ぢゃなきゃ、《生》と《反=生》は、此の世で《対‐存在》として《存在》する筈がない。





――ふむ……。もしかすると、お前の言ふ《反=生》とは、此の世に現実存在する、即ち、実存の対極にあり《存在》と《対》を為すに違ひないの《霊性》の事ぢゃないかね? 





――さて、付かぬ事を聞くが、ずばり、《霊性》とはそもそも何かね? 





――ふむ。《霊性》とは魂魄と同類の《もの》だらう――か? 





――へっ、「《霊性》とは何かね?」と尋ねながら誠に申し訳ないんだがね、へっ、別に何でも構はぬぢゃないか、《霊性》が何であらうが。





――つまり、《存在》に纏わり付く《霊性》のみが、《生》をも《死》をも《超越》する《反=生》か――。つまり、《生》と《反=生》か此の世に《対‐存在》する。





――その《もの》の不在である事によって尚更露はになる《存在》或ひは《もの》が、詰まる所、《霊性》であると強引に看做しちまへば、さうすると、《霊性》とは、永劫の事象にある何かしらの《もの》ぢゃないかね? 





――多分、此の世に《存在》若しくは《対‐存在》する森羅万象の《もの》から私性を剥ぎ取れば、《霊性》は永劫な何かさ。





――私性? 





――さう。《吾》は《死》して《吾》から解放される。





――ふっ、実際のところ、お前は、《吾》は未来永劫に亙って《吾》から解放される事はないと思ってゐるから、そんな事が言へるのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。つまり、《反=生》は、私性がある《死》の仮象であって、換言すれば、私性は当然《反=生》にも纏わり付いてゐる《もの》で、それ故に《死》その《もの》は、《生》と《反=生》と《対‐存在》する此の世の《存在》全てに付与されてゐるその私性からの解放に違ひないとは思はないかね? 





(六十四の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 02/15 06:13:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっへっへっ。最早、何《もの》も、ちぇっ、「俺は俺だ!」ときっぱりと断言出来る《存在》としての、換言すれば、此の《生者》のみが「俺は俺だ!」と宣ふ事を許された《存在》としての、へっへっ、この《生者》たる《吾》は、恰もそんな《吾》が此の世に《存在》するが如く《吾》といふ《存在》を無理矢理にも、若しくは自棄(やけ)のやんぱちにでも架空せざるを得ず、また、神から掠奪した人工の《世界》において、《吾》を《吾》と名指す事のその底無しの虚しさは、《吾》の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》の底無しを表はしてゐるに違ひないのだが、さて、《死》を徹底的に排除した《生者》のみが棲息するこの人力以上の動力で作り上げられた此の人工の《世界》は、へっ、自然に対して余りにも羸弱(るいじゃく)ではないかね? 





――それは全く嗤ひ話にもならぬ事だが……。此の《生者》の為のみに作り上げられた人工の《世界》は全くもって自然に対して羸弱極まりない! 





――すると、此の人工の《世界》に生きる事を、若しくは《存在》する事を強要された《吾》といふ架空され、《吾》の妄想ばかりが膨脹した此の《吾》もまた、自然、ちぇっ、単刀直入に言へば《死》を含有する自然に対しては羸弱ではないかね? 





――へっ、元来、《吾》が《死》に対して強靭だった事など、此の宇宙全史を通じてあったかね? 





――だが、自然にその生存を全的に委ねてゐた時代の《吾》たる《もの》は、傍らに《死》が厳然と《存在》してゐた分、それを敢へて他力本願と名指せば、己の命を《吾》為らざる《もの》に全的に委ねるといふ、何とも潔い《生》を生きてゐた筈だ。つまり、《死》が身近故に、《存在》は《存在》する事に腹を括り、そして、《吾》は蘗の《吾》をも含めて如何様の在り方をする千差万別の《吾》を、《世界》も《吾》も極当然のこととして受け容れてゐた。





――ふむ……。《生》が《死》へと一足飛びに踏み越え、簡単に自ら死んで行く、つまり、それ故、原理主義が彼方此方に蔓延(はびこ)る、へっ、その結果、《死》に対して何とも余りに羸弱極まりない《吾》、そして、その《吾》の《存在》の無理強ひが《死》を徹底的に排除した人工の《世界》へと遂には結実して行くのだが、しかし、嘗ての《吾》が多様に《存在》する、若しくは自在に《存在》出来てゐたに違ひない神と共に《存在》出来た神の世において、果たして、狂信は齎されなかったとでも思ふのかい? 





――いいや、何時の時代でも《もの》は何かを狂信してゐたに違ひない筈さ。





――ならば、何故、彼方此方に蔓延る現代の原理主義ばかりを特別視するのかね? 





――現代の原理主義は、徹頭徹尾《生者》の論理、ちぇっ、それは裏を返せば冷徹な《死》の原理に地続きなのだが、それ故、現代の原理主義は、二分法を極めて厳格に適応した末に生まれてしまった、その実、背筋がぞっとせずにはいられぬ代物でしかないからさ。





――つまり、蘗の《吾》としてしか《存在》する事が許されぬこの《吾》といふ《インチキ》を平然と為し遂げて、いけしゃあしゃあと恰もその蘗の《吾》を本当の《吾》と仮想、否、狂信し、而も、その蘗の《吾》の出自に目をやる余裕すら失ってしまった此の《生者》の論理ばかりが罷り通る人工の《世界》は、へっ、その人工の《世界》自体が自然に対して極めて羸弱極まりないといふその論理的な破綻を、果たして、此の世に《存在》する《もの》の何(いづれ)かは論理的に破綻せずに語り果(おほ)られるかね? 





――ふっふっふっ。自然に対して極めて極めて羸弱な《世界》って、さて、何なのだらうか……? 





――つまり、人工の《世界》と自然とが相容れない状態でしか互ひに《存在》してゐない事それ自体、へっ、つまり、詰まる所、此の人工の《世界》そのものが、元々自然と重なり合ってゐたに違ひない《世界》なる《もの》もまた、その本質をぽっきりと折られ、蘗の《世界》としてしか《存在》してゐないとすると、ちぇっ、人類史とは一体全体何の事なのだらうか? 





――無知無能なる《生者》が、全智全能なる《もの》の振りをするべく、神の下の《世界》をぽきりと折って、神を、そして、《死》を徹底的に排除する事で、《生者》天国の人工の《世界》が、恰も此の世に創出可能な如くに《生者》が見栄を張ってゐたに過ぎぬとすると、《存在》とはそもそも何と虚しき《存在》なのであらうか? 





――ちぇっ、何を今更? 元来、頭蓋内の闇に明滅する表象群は、恰も絶えずその表象群が無辺際に湧出するが如く看做すこの《吾》は、己の頭蓋内の闇を覗き込んで、その頭蓋内の闇といふ五蘊場に明滅する数多の表象群を眼前に取り出した揚句に、ちぇっ、結局のところ、頭蓋内の闇の表象群を外在化させて作り上げた人工の《世界》から帰結出来る事と言へば、《生者》の頭蓋内の闇といふ五蘊場から《死》を徹底的に排除してゐるに過ぎぬといふ事ぢゃないかね? 





(五の篇終はり) 







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2010 01/30 05:46:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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※お詫び



【只今「審問官 第一章」を書籍にする作業に取り掛かっているため、このブログの更新は暫くの間、不定期となります。悪しからず。】








――だが、「科学」的な世界認識の仕方は、数多あるであらう世界認識法の一つに過ぎない。それ以前に「科学」の最終目標は《神》の《摂理》を解き明かす事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。つまり、未だに此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ《無》から《有》を生んでゐない。換言すれば、《神》の《摂理》を超える論理を見出せず仕舞ひの、へっ、唯の木偶(でく)の坊に過ぎぬ! 





――さう。《存在》はそれが何であれ己の出自すら解からぬ木偶の坊さ。そして、木偶の坊故に《もの》皆考へるのさ。





――さて、思念は時空間を《超越》するかね? 





――何故思念が時空間を《超越》すると? 





――《神》に《存在》からの解放を齎す為さ。





――その為に木偶の坊は思考すると? 





――さう。無い智慧で、どう足掻いたところで《神》になれぬ木偶の坊は、只管考へるしか《存在》に対峙する術はない。





――《存在》に対峙する? それは、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ考へる木偶の坊に過ぎぬ《もの》全ては、さて、考へる事によって《存在》と対峙してゐるつもりが、さうぢゃなく、へっ、只管《存在》から遁走してゐるのぢゃないかね? 





――それで別に構はぬではないか? 





――別に構はぬ? それぢゃ、《神》を《存在》から解放するなど夢のまた夢に過ぎぬぢゃないかね? 





――土台、此の世に《存在》しちまった《もの》は《神的=もの》、それは《神》にも変容可能な筈だが、此の世の森羅万象はその《神的=もの》を渇望して已まない。つまり、《存在》する《もの》はそれが何であれ独りでは、または、一つでは決して《存在》することなぞ不可能なやうに「先験的」に定められてゐるのさ。





――つまり、《存在》する《もの》全てに祈りの対象は必要不可欠と? 





――違ふかね? 





――無神論者は、すると、なにかね? 





――へっ、己を信仰の対象にしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね、無神論者は。





――つまり、《存在》しちまった《もの》は、《存在》する為にその拠り所、若しくは依拠する《存在》が、つまり、《存在》は必ず《対‐存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――さう。己を映す鏡的な《存在》、つまり、《吾》と《鏡面上の吾》の《対‐存在》としてしか《存在》することは不可能に違ひない。





――その《鏡面上の吾》は《異形の吾》であり、《他》であり、そして《闇》の事だらう? 





――ちぇっ、だから《吾》なる《もの》は駄目なのだ! 《鏡面上の吾》とは、《吾》を此の世の中心から退かす何かでなければならぬのさ。





――それは、つまり、《吾》を相対化する、《吾》の《存在》からの逃げ口上に過ぎぬのぢゃないかね? 





――それでも《吾》は一遍世界の中心から周縁へと《存在》する場所を、ちぇっ、それを場所と名指していい《もの》かどうかは解からぬがね、その《吾》の場所を世界の中心から世界の周縁へとその席を譲らなければならぬのだ。





――何に席を譲ると? 





――《吾》ならざる何かさ。





――《吾》ならざる何かは《他》ではないのかね? 





――へっ、《他》もまた己の事を《吾》と名指すだらう。





――すると、その《吾》ならざる何かとは、具体的に言ふと何かね? 





――さうさねえ……、無理矢理言ふと、《吾》ならざる何かとは彼の世の、嘗て《吾》だった《もの》かな。





――つまり、此の世の中心は《死》が相応しいと? 





――ああ。《生》なんぞ信ずるに値しないだらう? 





――しかし、《生》として《存在》する《もの》は《生》故に考へる事も可能ではないかね? 





――ちぇっ、お前は《死》が考へないとでも端から看做してゐるのか! 





――いいや、決して。唯、《生者》にとって《死》は《超越》出来ぬ何かだからね。





――しかし、《死》こそ日常の本質ぢゃないかね? 





(六十三の篇終はり)







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2010 01/11 06:24:21 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、ざまあ見ろ、だ! 





――ふほっほっほっほっ。それぢゃ、その意気ぢゃ。





――ちぇっ、忌々しい! お前が己自体に、つまり、俺の夢に出現させられる事に我慢がならぬのであれば、さっさと消えればよからうが! 





――ふほっほっほっほっ。それは不可能ぢゃて。何せお前がわしの世界に、つまり、わしの虚空にお前が無理矢理出現してゐるのだからぢゃ。





――む? 俺がお前の虚空に出現してゐるだと? それはまた異な事を言ふ。此の夢は俺が見てゐる夢ぢゃないのかね? 





――さうぢゃ。





――さうぢゃ? ならば俺の夢は俺においてちゃんと完結してゐるのぢゃないかね? 





――いいや。それでは一つ尋ねるが、お前の夢がお前のみで完結してゐる証左は何かね? 





――夢が、俺が見てゐる夢が俺において完結してゐる証左だと? 此の今、俺が見てゐる夢は、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場で明滅してゐる仮象たる心象風景ではないのかね? つまり、俺の頭蓋内は俺として完結、否、閉ぢてゐる! 





――ふほっほっほっほっ。ならば聞くが、闇は元来お前の《もの》かね? 





――闇が俺の《もの》? ちぇっ、俺はそんな事一言も言っちゃゐないぜ。唯、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場は、俺において完結若しくは閉ぢてゐると言ってゐるに過ぎぬのだがね。





――だからぢゃ。闇は元来お前の《もの》かね? 





――ちぇっ、下らぬ! 





――下らぬかね? もう一度聞くが、闇はそもそもお前の《もの》かね? 





――ちぇっ、いいや、としか答へやうがないぢゃないか。ふん、闇は、つまり、万物の《もの》さ。





――ふほっほっほっほっ。万物と来たか。簡単に言へばかうぢゃらう。つまり、お前が言ふ頭蓋内の闇たる五蘊場は、元を糺(ただ)せば、不純物が溶解してゐる《水》が頭蓋内の闇を脳といふ構造をした《場》にした、つまり、高が《水》をもってしてそんな脳といふ構造をした《場》を作り出すといふ芸当ができるのだから、《水》以外の森羅万象が闇を何かしらの構造をした《場》にしてしまふ事態は、此の宇宙を見渡せば在り来たりの《もの》、否、現象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、それは意識は、ちぇっ、魂は何《もの》にも宿り得るといふ事かね? 





――違ふかね? 





――違ふかね? すると、万物に、否、森羅万象に魂が宿るといふのは、お前の独断でしかないのぢゃないかね? 





――さうぢゃ。ふほっほっほっほっ。





――ちぇっ、下らぬ! 





――さう断言するお前は、さて、何《もの》かね? 元を糺せば唯の《水》と違ふかね? 





――さうだが、それが如何したといふのか? 





――つまり、《水》は有機物とは違ふ無機物ぢゃらう? 





――だから、それが如何した? 





――つまり、無機物の、ふほっほっほっほっ、此の宇宙には在り来たりの《もの》の一つでしかない《水》が闇を脳といふ構造をした《場》へと昇華させられるのであれば、何《もの》も闇を《場》へと昇華させられる筈ぢゃがね。





――元々、闇は、それが仮令《真空》であったとしてもだ、闇といふ時空間は元々《場》ぢゃないのかね? 





――ならば闇の同質性は認めるかね? 





――闇の同質性? ふん。それはをかしくないかな? 





――何処がをかしいのかな? 





――だって闇は何《もの》も呑み込む何かぢゃないかね? すると、闇は連続した線形として語れるのか、それとも非連続の非線形として語れるのか、どちらだと思ふ? 





――さてね。多分、闇は線形と非線形の両様の様態をしてゐるんぢゃないのかな。ところが闇は何《もの》も呑み込まなければならぬ宿命にある。ふほっほっほっわ。闇もまた哀れぢゃの。





(四の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 12/26 07:36:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それ以前に世界自体が《吾》として自律し、《吾》として完結した《存在》として《存在》してゐるかね? 





――ふむ。世界の自律か……。絶えず変化して已まない世界の有様から類推すると、世界もまた《吾》である事を苦々しく思ひながら、しかし、さう《吾》を《吾》と認識する外なく、さうであるから、時々刻々と変化する諸行無常を已めないのさ。





――ふっ、それは何度も聞いたよ。唯、此の宇宙=外から此の宇宙を鳥瞰する《存在》が仮に仮象出来るとして、その仮象した《存在》なる《もの》が、此の宇宙を凝視した時、さて、此の宇宙=外に《時空間》に匹敵する何かは、《存在》可能だと思ふかい? 





――へっへっへっ。その《存在》が仮令仮象出来たとしてそれが如何様の意味があるのかね? 





――ふっ、別に何の意味も無いさ。唯、神なる《存在》を《存在》から解放させる為に、此の宇宙=外から此の宇宙を眦一つ動かすことなく、唯、じっと凝視する、例へばそれを《神的=もの》と名付ければ、その《神的=もの》なる《もの》は仮象可能かね? 





――へっ。思考するあらゆる《存在》、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ必ず思考する《もの》に違いない筈だが、その森羅万象は、如何あってもその《神的=もの》なる《もの》の《存在》を渇望して已まない! 





――けっ、それは何故かね? 





――去来現(こらいげん)の中に自ら望むことなく《吾》の与り知らぬ処で、《吾》の《存在》を此の世に出現させた《もの》が、《生き物》または《もの》であるといふ事が、土台、此の世に《存在》させられし森羅万象はそれが何であれ、最早、その理屈に我慢がならぬのだが、困った事に、その憤懣をぶつける若しくは訴へる《存在》たる相手が、此の世には《存在》しない故に、尚更《吾》なる《もの》は、それが何であれ《神》なる《もの》に似た何かを渇望して已まないのさ。





――へっ、《神》に似た何かね――。はっきり「《神》!」と言明すればいいぢゃないか? 





――既に《神》はその役目を終へた、否、終はらしてあげなければ、最早、あらゆる《存在》は《神》に対して不敬を働く事に相為ってしまふのさ。





――《神》に対する《存在》の不敬? それは《吾》の傲慢故の事ではないのかね? 





――勿論! しかし、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、最早、《神》を《存在》から解放させてあげなければ《神》が可哀相だらう? 





――可哀相? 《神》がかね? 





――さう。《存在》が此の宇宙に《存在》する限り、例へば、基督の磔刑像がRosary(ロザリオ)の如く《祈り》の道具として今尚基督は十字架に磔刑されたまま、基督の死から《存在》が未だ一歩もその歩を進めないまま、既に二千年余りが経過しちまった事の虚しさに、ちぇっ、《存在》する《もの》はその《存在》の遣り切れなさに愕然としたまま、未だ、誰一人として、否、如何なる《もの》もその《存在》の尻拭ひを《神》以外の《もの》に、譬へそれが釈迦牟尼仏陀であらうが、道元であらうが、親鸞であらうが、大雄であらうが、アッラーであらうが、ヤハヴェであらうが、何れにせよ人間が《摂理》と呼んでゐる《もの》以外に、その自らの《存在》の尻拭ひを、つまり、己でした例(ためし)がないのさ。





――それは、詰まる所、《吾》は己の《存在》から自刃せよ、といふ事かね? 





――ちぇっ、何故自刃なのかね? これだから《吾》なる《存在》は駄目なのさ。





――しかし、《存在》のParadigm(パラダイム)変換を貫徹するには、これまでのあらゆる《存在》に対して抱いてゐる《存在》といふ観念を自ら滅ぼさずして、つまり、《存在》の破壊なくして新たな《もの》の創造はある筈がない! 





――へっ、其処さ。破壊と創造こそ、既に《存在》の手垢に塗れた思考法だぜ。そして、破壊と創造を持ち出したところで、つまり、その《存在》の手垢で塗れた思考法からの脱却なぞ、土台、絵に描いた餅でしかない事の証左だぜ。





――すると、《存在》は生き恥を曝して、ふっ、武田泰淳の『司馬遷』ぢゃないがね、《存在》はその羞恥の塊でしかない生き恥をしっかりと曝して、尚、生きろと? 





――勿論。《存在》は仮令それが何であれ生き恥をしっかりと《他》に曝して《存在》しなければ、何故、《吾》なる《もの》が此の世に出現せざるを得なかったのか、未来永劫に亙って解からず仕舞ひだぜ。





――しかし、ふん、生き恥を曝して《他》と共に《吾》が《存在》するとして、其処に《神》に代わる若しくは《摂理》に代わる、《存在》を《存在》たらしめる《もの》の《存在》の何かの糸口でも見つからないのだらうか? 





――へっ、輝かしき「科学」があるぢゃないか! 





――それは皮肉かね? 





――だとしたなら「科学」以外で何か《存在》を語り尽くせる何かは、さて、あると思ふかい? 





(六十二の篇終はり)







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2009 12/21 06:45:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも君の言ふ《吾》とは何かね? つまりだ、自同律で言ふと、《吾》が《吾》であるとは、《吾》が《吾》である確率が《《他》に比べて一寸ばかり一に近しいからに過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》は確率が零から確率一までを自在に揺らいでゐると? ふはっはっはっはっ。それはその通りに違ひないが、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、己を「《吾》!」と名指したいのさ。





――その君の言ふところの己とは何かね? 君は何の躊躇ひもなく、今、己と口にしたが、君が言ふ己とは、君の頭蓋内の闇たる五蘊場で君が勝手に作り上げ、己と祭り上げた《幻影》、換言すれば夢幻空花なる《吾》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――《幻影》の《吾》、つまり、《吾》なる《もの》は何処まで行っても夢幻空花なる《吾》以上にはなり得ぬといふ事の何処がまづいのかね? 己なる《もの》が、つまり、《吾》は何処まで行っても《幻影》で構はぬではないか? 





――へっ、居直ったね。すると《客体》も《幻影》に過ぎぬと? 





――ふっ、違ふかね? 





――すると、単刀直入に言っちまふと、此の世の森羅万象が《杳体》の《影》に過ぎぬと? 





――違ふかね? 





――さうすると、森羅万象が《杳体》の《影絵》でしかないといふ乱暴極まりない論理が罷り通る事になるが、ちぇっ、つまり、一言で言ふと、《杳体》と《物自体》の何が違ふのかね? 





――別に《杳体》と《物自体》が同じでも構わぬではないか。更に言へば、《杳体》は《物自体》をも呑み込んだ何かには違ひない! 





――つまりは、色即是空、空即是色か――。





――だからと言って《吾》は《吾》から遁れられやしないぜ。《吾》が《吾》である確率が《他》より一寸ばかり高いが故に、《吾》は「先験的」に《吾》をとことんまで突き詰めねばならぬ定めにある。そして、《吾》は《吾》を捩ぢ伏せるとともに、此の宇宙を震へ上がらせるのさ。





――それが可能だと? 





――ふっ、《杳体》の鼻をあかしてみようぢゃないか! 





――何故《杳体》の鼻をあかさねばならぬのか? 





――ふっふっ、決まってゐるぢゃないか。此の世に満ち満ちた怨嗟の類は何も死んだ《もの》達や未だ出現せざる《もの》達の専売特許ぢゃないぜ。此の世に《存在》させられてしまった《もの》達もまた、この悪意に満ちた宇宙に対して怨嗟の類を抱き呻吟してゐるのさ。





――何故此の宇宙に悪意ばかりが満ち満ちてゐるのか? 





――君は悪意なんぞは全く此の宇宙に満ちてなんかゐやしないとでも思ふのかい? 





――いや、決して。





――《存在》が《存在》するのに《他》の死が必須な仕組みは、其処に悪意がなければ絶対成立しない理不尽極まりない《もの》だ。





――しかし、ちぇっ、此の宇宙をこれっぽっちも弁護はしたくないが、新たな《存在》を生む為にはさうせずにはゐられなかったとすれば、此の宇宙もまた深い深い深い深い懊悩の中にあるに違ひない筈だ! 





――其処さ。つまり、その懊悩を背負はされてゐる《存在》の象徴が神だらう? 





――否、森羅万象の《存在》と《非在》と《無》と《空》のそれらに類する《もの》全てが、神をもそれに含めて、あらゆる《もの》が、深き深き深き深き懊悩の中にゐる。





――何故さうなってしまふのだらうか……? 





――つまり、これまで《存在》した事がない《もの》を何としても此の世に出現させる為に《存在》などの全ての《もの》は、どうあっても深き深き深き深き懊悩の中にゐなければならぬ宿命になければ、ちぇっ、詰まる所、此の世の森羅万象は何にも生み出せず仕舞ひにその運命を終へるしかない能なしに過ぎぬ《存在》のまま、へっ、絶えず己を呪って、遂には呪ひ殺さずには済まぬ、のっぴきならぬところへと《吾》は《吾》を追ひ込む馬鹿をするしかないんぢゃないのかね? 





(九 終はり)







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2009 12/19 06:05:10 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、記録は、映像の記録としての記録は、ちゃんと後世の為に残さなければならぬのもまた信なり――ってか。ふん。土台、歴史としての記録は何らかの形で自然と残っちまふ《もの》ぢゃないのかね? 





――それは当然だらう。何らかの媒体が記録に変化して必ず残るのは当たり前さ。それが口伝であらうが、言語であらうが、映像であらうが、歴史といふ記録は必ず何らかの形で残る。唯、問題なのは現在を生きる《もの》の記憶が《他》の記憶といとも簡単に交換可能な現在の異常事態の中で、《吾》たる《もの》は如何生存して行けばよいのか、未だ何《もの》も解かっちゃゐない事が危ふいのさ。





――馬鹿が! そんな事、解かっちまった方がむしろ《吾》たる《存在》にとって脅威だぜ。





――何故? 





――何故もへったくれもなからうが! 記録もまた生き残る《もの》しか残らないのさ。それ故に、群れてしか《存在》出来ぬ《もの》として仕組まれて創られた、つまり、「先験的」に群れるやうに仕組まれてゐる《存在》は、己の記憶を《他》と共有せずにはゐられぬのもまた自然の道理だらう? 





――だが、しかし、唯の映像が、ちぇっ、映像を見て何か解かった気になる事の馬鹿らしさに、《存在》は既にうんざりしてゐるのと違ふかね? 





――だが、映像は退屈な《時間》を紛らはして呉れるぜ。





――それは別に映像に限ったことぢゃないぜ。音楽鑑賞にしろ読書にしろ《個時空》の《吾》の時空を作品といふ《他》の《個時空》、それは既に死んじまった《もの》の作品といふ名の《他》の《個時空》の場合が多いのだか、その《他》の《個時空》に流れ渦巻く時間に、《吾》の《個時空》の時間は同調し、また、重なり合ふ。





――へっ、それは同調、そして、重なり合ふと言へるのかね? むしろそれは、《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐるのと違ふかね? 





――《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐる? それはさもありなむだな。ふっ、《個時空》と名付けたは良いが《個時空》なる《もの》をよくよく見れば、世界の中でしか《存在》出来ぬ代物、つまり、《吾》も《他》も全て世界に流れ渦巻いてゐるに違ひない世界=時空の大河に身を委ねちまってしか《存在》出来ぬ、即ち、《個時空》は元来が世界といふ《他》なくしては一時も《存在》出来ぬParadox(パラドックス)を《吾》は生きるしかないのかな……ふっ。





――へっ、《個時空》そのものが元々矛盾してゐるのさ。





――そんな何かを達観した如くに語るのは《吾》は《吾》らしくないぜ。





――《吾》らしい? ふっ、《吾》は元来が《吾》を捕捉し損なった《存在》としてしか此の浮世には《存在》出来ぬのぢゃないかね? 





――土台、《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》が夢幻空花なる《もの》、つまり、映像と同様、《物自体》の影しか捕捉できぬ憾みは如何ともし難い! 





――つまり、《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がれぬといふ事さ。





――さて、本当に《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がってゐないのだらうか? 





――つまり、共同幻想と言ひたいのかね? 





――さう。しかも映像は、それが実際の世界に近しい故に尚更共同幻想を暴走させる。





――ちぇっ、濁流の中にカルマン渦は《存在》出来ぬといふ事かね? 





――さう。映像により尚更助長され暴走を始めてしまった共同幻想の中に《吾》の《個時空》は既に渦巻く事を断念せざるを得ぬのだ。





――それが現代社会だと? 





――付かぬ事を聞くが、お前は社会から自律した《存在》かね? 





――社会から自律した《存在》の筈がないぢゃないか! 





――それはまた如何してかね? 





――社会若しくは世界からの自律とは、つまり、世界から独立し自存した《存在》として《吾》はあれといふ事ぢゃないかね? 





――ふっ、それが出来ていれば《存在》の様式は今とは全く違った《もの》として《存在》出来た筈だのか、実際は、《吾》を初めとするあらゆる《存在》は世界=内=存在としてしか《存在》の有様は実現不可能なのは一体全体何なのか! ちぇっ。





(六十一の篇終はり)







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2009 12/14 06:07:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそも《他》の死肉を喰らふことでしか生き残れないこの《主体》なる《もの》の《存在》の有様は、残酷に創られちまってゐる。





――だから、反旗を翻すのさ。此の宇宙の摂理なる《もの》にさ。





――しかし、それは何処まで行っても虚しい《もの》ぢゃないのかね? 





――当然だらう。《吾》といふ《主体》の在り処がそもそも虚しいのさ。そして、《吾》は《他》の死肉を喰らって生き延びる、ちぇっ。





――へっ、皮肉なもんだな。《他》の死肉は消化器官で消化出来るのに《吾》は《吾》を今もって消化出来ずにゐる。





――そもそも、この《吾》が《吾》をして《吾》を《吾》と名指すことに大いなる矛盾が潜んでゐるのだが、ちぇっ、しかし、《吾》にはそれを如何する事も出来ぬ歯痒さのみが、《吾》の《存在》を《吾》に知らせる。





――それは歯痒さかね? 不快ではないのかね? 





――ちぇっ、また、自同律の問題か――。詰まる所、《吾》以外の事に全く興味がないんぢゃないかね? 





――へっ、当然だらう。《吾》たる《もの》、《吾》以外に興味なし! 





――しかし、《他》は、《世界》は、《吾》の《存在》などにお構ひなしに、これまた「《吾》とは何ぞや?」と懊悩してゐる筈に違ひないのだ。





――へっ、何処も彼処も「《吾》とは何ぞや?」と己の内界を覗き込むのだが、果たせる哉、《吾》の内界に《吾》はゐないか、若しくは無数に《異形の吾》が犇めいてゐる事に愕然とする。





――《存在》とはそもそも猜疑心の塊ではないのかね? 





――さう。《存在》とはそもそも猜疑心の塊としてでしか《存在》する事が許されぬ。





――何に許されぬのかね? 





――「《神》!」と答へさせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が唯一《存在》する事の許しを乞ふのは、へっ、《吾》のみだぜ。





――ふっふっふっ。何処まで行っても《吾》は《吾》から遁れられぬか――。





――さてさて、其処で《吾》は如何する? 





――如何するも何もありゃしないさ。《吾》は《吾》である事を渋々と受容する外ない。





――へっ、《吾》に《吾》を受容する度量があるかね? 





――仮令、そんな度量がなくとも《吾》は《吾》を受容するさ。





――仮に《吾》が《吾》を受容出来なかったならば、《吾》は如何なる? 





――それでも《吾》が《吾》を止められやしないし、《吾》は《吾》を《吾》と名指してしまふ宿命にある。





――それはまた何故にかね? 





――《吾》なる《もの》が《存在》した時点で、既に時空間のカルマン渦、即ち、《個時空》といふ渦を巻いてしまってゐるからさ。ひと度渦を巻いてしまった《個時空》たる時空間のカルマン渦は、最早、《吾》の埒外にその回転軸があるのさ。





――ふむ。《吾》の埒外に《個時空》といふ名の時空間のカルマン渦の回転軸がある……か……。





――先づは、《吾》には《吾》が《存在》する事に決して手出しが出来ぬやうに《吾》は此の世に《存在》させられちまってゐる事を自覚せねばならぬ皮肉――。





――さて、全宇宙史を通じて《吾》が《吾》から遁走出来た《存在》は《存在》した事があると思ふかい? 





――いいや、全く思はぬがね。それに加へて全宇宙史を通じて己のみで自存した《存在》もまた《存在》した事はない筈さ。





――それぢゃあ、《個時空》といふ時空間のカルマン渦たる《吾》は何なのかね? 





――ふっ、それは《吾》をも含めたあらゆる《存在》に忌み嫌はれる外ない、何とも不憫な《存在》なのさ。だが、《吾》は決して己を憐れんだりしちゃあならない定めにある、つまり、自慰行為は《吾》にとって未来永劫に亘って禁じられてゐるのさ。





(九の篇終はり)







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2009 12/12 06:18:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――存在論的窒息といふと? 





――字義そのままの通り存在論的に《存在》はその息の根を止められる。





――だから、それは具体的に如何いふ事なのかね? 





――つまり、物体といふ《存在》は光になり得ず、また、堪へられぬといふ事さ。





――へっ、物体といふ《存在》は光になり得ず、光に堪へられぬ? これは異な事を言ふ。《存在》はそれが何であれ絶えず光に曝露され、また、Energie(エネルギー)として扱ってゐる筈だがね? 





――見かけ上はね、ふっ。





――見かけ上? つまり、それこそ《存在》が被ってゐるに違ひない特異点を蔽ふのみの能面の如き面でしかないと? 





――当然だらう。高々光に曝された位で、特異点がその正体を現はす筈はないんだから。それ以前に《吾》たる《存在》はその様態を《もの》から《光》へ変化出来るかい? 





――ふむ。《もの》から《光》か――。辛うじて核分裂反応を連鎖的に起こして僅かな僅かな僅かな《重さ》を光に変へてゐる、換言すれば原子力発電や原爆でほんのほんのほんのほんの一寸《もの》を《光》へ変化させたはいいが、そのほんのほんのほんの一寸の《重さ》が光に変化しただけで、ちぇっ、たった一発の原爆の凄まじさに、つまり、何十万もの人間が殺戮できるかもしれぬ事にこの馬鹿者の「ニンゲン」は愕然とし、へっ、とどのつまりが人間はその扱ひに四苦八苦して梃子摺ってゐる、ちぇっ、神の面前での赤子でしかない! 否、赤子ですらない! その人間が核融合に挑戦する危ふさを、人間はその存続を懸けてやるしかないんだが、さて、如何なる事やら……。まあ、原子力や核融合は別にしても、この《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する数多の表象群は如何かね? 





――まあ、よからう。ところが、その表象群を外在化し、具体化すると、表象に《重さ》が授けられ、確かにそれら具体化された表象群は此の世に《存在》することになるのは間違ひないのだが、そして、街衢(がいく)が既に誰とも知らぬ《他》の脳、ちぇっ、否、《他=存在》の五蘊場の外在化でしかない事を世界=内=存在する《吾》は渋々ながら受け容れるしかないのだが、こと映像に関して、映像には《重さ》が、物体としての《重さ》が《存在》してゐるかね? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場で繰り広げられてゐることが、例へば映像となって外在化される事態に、さて、困ったことに「現存在」たる《吾》は為す術がないのが本当のところで、その映像に《重さ》がないことが問題だと? 





――さうさ。それがどんなに異常な事か《吾》にはその自覚がない。つまり、映像なる《光》が如何に危険な毒薬かといふ自覚が全くない。《光》だぜ。ピカドンもまた物質が《光》に変化しただけの事なんだぜ。





――しかし、一方で毒薬は、適量を服せば、良薬にたちどころに変化する。





――だから、映像といふ《光》は尚更危険なのさ。





――つまり、それは映像といふ《光》が眼球の瞳孔を通って可視化されることで、ちぇっ、簡単に《主体》たる《吾》を洗脳出来ちまふ恐ろしさにもっと自覚的にならないと、《吾》は、へっ、地獄たる《吾》はあれよといふ間に簡単に芥子粒の如く自滅するのが落ちさ。





――ちぇっ、それで構はぬぢゃないかね? 





――ああ、《吾》が生き残らうが自滅しようがそんな事は知ったこっちゃない。しかし、未だ此の世に未出現の未来の《存在》には、映像が残ってゐる事は、毒にこそなれ良薬には、多分、ならない事を自覚しておくんだな。





――何故に映像は毒にこそなれ良薬にはならぬのかね? 





――頭蓋内の闇たる五蘊場が各々違った場として《存在》してゐる筈のこの《吾》なる《もの》にとって、映像は違ふ筈の《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場にも全く同じ表象若しくは記憶となって擦り込まれる恐ろしさは、確実に《吾》を自滅させるに違ひないのさ。





――それは言ふなれば《吾》においての《吾》の不在、換言すれば、《吾=他》といふ何とも奇怪な《存在》の在り方の事かね? 





――はて、それは《吾》の膨脹若しくは拡散かな――?まあ、何れにせよ、《光》でしかない映像はその扱ひ方を間違へると洗脳の道具と紙一重の違ひしかないのさ。





――すると、例へば《吾》が厳然と《他》とは違った《吾》たる事を《個体力》と名付けると、その《個体力》が現代では確実に減退してゐると? 





――さうさ。既にそんな危険極まりない事態は進行してゐて、世界について未だ訳も解からぬ乳飲み子の段階で《光》たる映像は母親よりも重要な位置付けがなされて、乳飲み子の頭蓋内の闇たる五蘊場は《個》である事を絶えず侵されながら、仕舞ひには映像と五蘊場が同調する事を強要される。それがどんなに《吾》を世界=外=存在に追ひ詰めるか解かるかい? 





――つまり、《吾》はどんなに足掻かうが現前のMonitor(モニター)に映されてゐる世界に入れぬ、換言すればMonitorが恰も世界の如く振る舞ふ世界=外=存在として、己を否が応でも自覚せねばならぬ世界に投企されてゐる。そして、その状態に適応出来た《もの》のみが子孫を残して行く不気味さを、へっ、そんな下らぬ世界にお前はお前が《存在》する事を己で受容し、そして、そんな己をお前は許せるかね? 





――いいや、決して。《吾》は自同律の事で精一杯の筈さ。





――しかし、お前の記憶は、お前と同じ映像を見た《もの》全てと同じ、つまり、お前はお前の頭蓋内の闇たる五蘊場ですら《他》と交換可能な《存在》にお前自身が最早なっちまってゐるんだぜ。





(六十の篇終はり)







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2009 12/07 06:50:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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と、さう私が吐き捨てると同時に《そいつ》は完全に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中にその気配を晦(くら)まし、はたと消えたのであった。





――姑息な!





と思ひながら、私はゆっくりと瞼を開けて世界を眺めるのであった。





――ほら、其処だ! 





 私はぎろりと眼球を動かし、私の視界の縁に《そいつ》がゐるのを確認すると、





――何のつもりかね? 





と、私が問ふと《そいつ》がかうぬかしよるのであった。





――いや、何ね、俺も∞に重なってみたくなったのさ。





――∞? 





――それは、つまり、俺の瞼裡には∞はないと? 





――瞼裡の薄っぺらな闇も闇には違ひなく、へっ、詰まる所、闇といふ闇には零と∞の区別はないのさ。





――だから、また、俺の視界の縁をうろちょろし始めたと? 





――ふっふっふっ。何せ此の世の裂け目としてお前といふ《存在》は目を開けたのだから、つまり、お前は此の世に誕生してその目玉を開けて世界を見てしまったのだから、零と∞は、無限を内包し、既に開かれてしまったのさ。くっくっくっ。





――つまり、目玉を開けることが即ち世界を裂く行為に等しいといふ事かね? 





――さうさ。盲た人には誠に誠に申し訳ないが、眼球を此の世で開けるといふ事は、世界に《穴》を開ける事に違ひないからさ。





――《穴》? それは《零の穴》でも《∞の穴》とも違ふ《穴》かね? 





――つまり、その眼球といふ《穴》は、《闇》として重なり合ってゐた零と∞を仮初にも分かつ此の世に開いた《零の穴》、否、《一の穴》とでも言ふべきかな。





――へっ、《一の穴》? そもそも《一》に《穴》はあるのかね? 





――仮初にも《一の穴》は仮象は出来る筈だ。





――例へば? 





――例へば、此の世が複素数ならば、当然、此の世に《存在》する森羅万象は、己を《一》として自覚しながらも、その《一》は《零》にも《∞》にも仮象出来てしまふのさ。





――つまり、それは《存在》が特異点を内包してゐるからだらう? 





――さう。距離が《存在》しちまふが故に過去世若しくは未来世でしかない世界の中で、唯、《吾》を《吾》と自覚した《存在》のみは未来永劫に亙って現在に独り取り残されてあるのみ――。





――さうすると、現在とはそもそも世界=内においては特異な現象といふ事になるが、さう看做してしまって良いものか……? 





――ふっ。現在が此の世に《存在》する事がそもそも異常なのさ。





――異常? ふむ。現在は去来現(こらいげん)の中では異常な事象か――ね……。





――お前はすると現在を何だと思ってゐたのかね? 





――現在が此の世の度量衡だとばかり考へてゐたが、さて、その現在のみが去来現において特異な事象であるならば、ずばり聞くが、実存とはそもそも何の事かね? 





――へっ、《吾》の泡沫の夢に過ぎぬ《もの》さ。





――泡沫の夢? すると、実存とは《吾》の勘違ひに過ぎぬと? 





――《吾》を《一》の《もの》と規定しなければ、《吾》は《吾》といふ《存在》に一時も堪へられなかったのさ。そして、これからも《吾》は《吾》を恰も《一》の《もの》であるかのやうに取り扱ふ以外に、最早、為す術がない! しかしだ、《吾》が《存在》である以上、《吾》は特異点を何としても内包せずば、これまた一時も《存在》出来ぬのだ。





――それはお前の単なる独断でしかないのではないかね? 





――ああ、さうさ。俺の独断論に過ぎぬ。しかし、此の世が去来現としてあるならば、現在のみが特異な現象でなければ《存在》は特異点をその内部に内包出来ぬ筈なのだ。つまり、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象群は、元来、因果律は壊れて表象されるだらう? 





(九の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 12/05 06:12:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それを言っちゃあ、お仕舞ひぢゃないかね? ふっふっふっ。





――でもさう言はざるを得ぬのは解かるよな? 





――ああ。さうさ。《吾》が本当の地獄だと。





――Abyss、つまり、深淵が彼方此方に《存在》の仮象を被ってる――ふっ。





――また、特異点かね? 





――さう。特異点だ。これ程摩訶不思議な、しかし、多分、《物自体》を不意に露はにするに違ひない特異点こそ、地獄といふ名に相応しいと思はないかい? 





――つまり、特異点にこそ《存在》の不気味な正体が何食はぬ顔で潜んでゐて、また、《存在》にこそ特異点が潜んてゐないと、「苦悩による苦悩の封建制」が成立せずに尚も神を《存在》の十字架に磔にしたまま、ちぇっ、下らぬ主体天国の世で、へっ、しかし、それでも《主体》は、《吾》たる《もの》の不可解さから、神を《存在》の十字架に磔にしながらも、自らも《吾》の《存在》、即ち自同律の陥穽に落っこちて、へっ、そのAbyss若しくは深淵がその大口をばっくりと開けた中に《存在》するであらう虚空を自由落下若しくは自由上昇することで、重力からの解放といふ勘違ひの中に《吾》の仮象を夢幻空花しちまふへまを何時までも続ける愚行が止められぬまま、《吾》なる《もの》はその仮象の惑はしの中で犬死にするのが関の山だ。





――しかし、《吾》たる《もの》は、土台、《吾》を夢幻空花して《吾》といふ名の仮象に翻弄されながら、結局、《吾》の《存在》は、死ぬ事のみによって《存在》の何たるかが仄かに解かる《存在》の謎に拘泥したまま、《存在》は次世代といふ《存在》に《存在》の不可解さを残したまま、自らは死すべき運命を受容するしかないとしたならば、ちぇっ、そんな《吾》といふ《存在》をお前は憐れむかね? 





――へっ、自らを憐れむ自慰行為は決して止められないのさ、この《吾》といふ名の地獄は――。





――つまり、《吾》が自らの《存在》を憐れむ自慰行為こそが、《存在》たる《もの》が全て神に甘えてゐる証左でしかないと? 





――さうさ。《吾》たる《もの》は苦悩しか背負へぬ宿命になければならぬ。





――何故、そんな宿命になければならぬのかね? 





――《吾》たる《もの》は、詰まる所、《吾》を心行くまで味はひ尽くさねば気が済まぬからさ。





――気が済まぬ? 





――さう、気が済まぬ、それだけの事さ。





――それから? 





――へっ、JAGATARAの故・江戸アケミを気取ってゐるのかね? 





――別に構はぬだらう、《吾》が誰を気取らうが――。





――まあね。JAGATARAの音楽が江戸アケミの遺言にしか聴けぬ俺にとって、かうして《吾》が《吾》と自問自答する事が、即ち、俺の遺言に、そして、《吾》の死後も頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅した表象群が虚空で尚も明滅しながらその表象群が《もの》となって《存在》する事になるかもしれぬ可能性だってあるといふ事さ。





――言葉はそれが発せられるか、記されるかした途端に、既に、《吾》たる《もの》の遺言に変化する。





――ふっ、それもまた《個時空》の事だらう? 





――さう。《個時空》だ。言葉を発するか、記すかする等の行為によって《吾》は言葉を外在化させる。それは、つまり、《吾》の内部に留まってゐた未来とも過去とも現在とも何れにおいても不確定だった内在化した言葉をひと度外在化させると、言葉はその言葉を発した《吾》との距離を授けられ、言葉を発した《吾》にとってそれは過去か未来かの何れかに言葉を呪縛させる行為に外ならない。そして、《吾》たる《もの》はさうやって《存在》した証を世界に残すのさ。





――ふはっはっはっ。過去か未来の何れかの呪縛? それぢゃ、未だ、言葉は不確定のままだぜ。つまり、過去と未来の様相がその外在化された言葉において《重ね合はされ》た状態、つまり、量子論的な《存在》として現在の俎上に上る。さうして、言葉は過去と未来の両様が《重ね合わされ》た状態で《存在》しちまふ。そして、その《吾》から外在化された言葉は絶えず現在の俎上に上らされてその《存在》を露はにする。言葉がさうだとすると、映像は《吾》において何を意味するのかね? 





――過去若しくは未来と言はせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。映像は《吾》において一見、過去にも未来にも変化したかの如く《吾》にとって外在化した《もの》に思へるが、しかし、映像はそれが徹頭徹尾或る《主体》、例へば、それを故・タルコフスキー監督と名指せば、映像は徹頭徹尾、タルコフスキー監督の意のままに映され編集され、最終的にはその映像を撮った《もの》たるタルコフスキー監督の責任において《他者》に見られるのでなければ、そんな映像は《吾》の《存在》の「苦悩による苦悩の封建制」にある、つまり、この《吾》といふ《存在》の「苦悩」を麻痺させるだけの鎮静剤の如き毒でしかないのさ。





――しかし、映像も記録に変化するぜ。





――其処さ、言葉を記した書物は物体となってゐるので手に持てる《存在》であり続け、其処には自ずと《存在》の限界が必ず《存在》するが、しかし、どう足掻いても世界の断片でしかない映像が、波でも量子でもある光といふ《存在》故に恰も全世界を映してゐるかの如き錯覚を齎して《吾》といふ《存在》をまるで蜃気楼を見てゐるのと同様な出口なき錯覚の中で溺死させる、つまり、世界といふ名の世界の仮象を実像と看做しちまふしかないどん詰まりに、それが光故に映像は《吾》といふ《存在》を追ひ込んで已まない! そして、《吾》は、最後は映像といふ名の光の量子論的な振舞ひ翻弄されて、そして、光に溺れて存在論的に窒息死するしかない! 





(五十九の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 11/30 06:52:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢゃないか! 





――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。





――へっ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね? 





――特異点を見出してしまった時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(おもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると? 





――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある? 





――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると? 





――ぶはっ。





――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちぇっ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》することで既に特異点を暗示しちまふのさ。





――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(おほ)せると? 





――現にお前は《存在》してゐるだらう? 





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであった。





…………





…………





――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。





――ふっふっふっ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。





――やはり、《存在》は仮初かね? 





――仮初でなけりゃ、何《もの》も《吾》である事に我慢が出来ぬではないか! 《存在》は《存在》において、《一》=《一》を見事に成し遂げ、此の世ならざる得も言はれぬ恍惚の境地に達するとでも幽かな幽かな幽かな幻想でも抱いてゐたのかね? 





――それぢゃ、お前がげっぷと言ふこの不愉快極まりない《ざわめき》は何なのかね? この《ざわめき》こそ《存在》が《存在》しちまふ事の苦悶の叫び声ではないのかね? 





――仮にさうだとしてお前に何が出来る? 





――やはり、苦悶の叫び声なんだな……。





――さう。《存在》するにはそれなりの覚悟が必要なのさ。だが、今もって何《もの》も《吾》が《吾》である事に充足した《存在》として、此の全宇宙史を通じて《存在》なる《もの》が出現した事はない故に、へっ、《吾》が《吾》でしかあり得ぬ地獄での阿鼻叫喚が《ざわめき》となって此の世に満ちるのさ。しかし、その《吾》といふ名の地獄での阿鼻叫喚は苦悶の末の阿鼻叫喚であった事はこれまで一度もあったためしがなく、つまり、地獄の阿鼻叫喚と呼ぶ《もの》の正体は、《吾》が《吾》である事に耽溺した末の《吾》に溺れ行く時の阿鼻叫喚、つまり、性交時の女の喘ぎ声にも似た恍惚の歓声に違ひないのさ。





――歓声? 





――さう。喜びに満ちた《存在》の歓声さ。





――ちぇっ、これはまた異な事を言ふ。この不愉快極まりない《ざわめき》が喜びに満ちた歓声だと? 





――性交時の女の喘ぎ声にも似た《吾》が《吾》の快楽に溺れた歓声だから、へっ、尚更、《吾》はこの《ざわめき》が堪(たま)らないのさ。惚れた女の恍惚の顔と喘ぎ声は、男を興奮させるが、しかし、その興奮は、また、気色悪さで吐き気を催す感覚と紙一重の違ひでしかなく、つまり、酩酊するのも度が過ぎれば嘔吐を催すといふ事に等しく、女と交合してゐる男は、さて、どれ程恍惚の中に耽溺してゐる《存在》か、否、交合においてのみ死すべき宿命の《存在》たる《吾》といふ名の《地獄》が極楽浄土となって拓ける――のか? 





――つまり、約(つづ)めて言へば、この《ざわめき》は恍惚に満ちた《他》の《ざわめき》だと? 





――さうさ。





――すると、《吾》にとって《他》の恍惚が不愉快極まりないのは、《吾》が《吾》に耽溺するその気色悪さ故にその因があると? 





――当然だらう。特異点では別に《一》=《一》が成り立たうが、成り立たなからうが、どうでもよい事だからな。





――へっ、そりゃさうだらう。だが、《一》の《もの》として仮初にも《存在》せざるを得ぬ《吾》なるあらゆる《もの》は、此の世で《一》=《一》となる確率が限りなく零に近いにも拘はらず、《吾》は現世において《吾》=《吾》を欣求せずにはいられぬ故に、ちぇっ、《吾》は《吾》に我慢がならず、その挙句に《吾》は《吾》を忌み嫌ふ結果を招くのではないか? 





(九 終はり)







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2009 11/28 05:49:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、何もかも地獄に帰したところで何も目新しい《もの》は生まれやしないぜ。





――へっ、それで構はぬではないか。別に何か目新しい《もの》の出現は誰も望んぢゃゐないぜ。





――ぢゃあ、この《吾》とは何なのだ? 





――だから地獄と言ってゐるではないか! 





――だが、何《もの》も地獄なんぞには棲みたかないぜ。





――これまでの存在論の脆弱さのその根本は、何《もの》も《吾》を心底味はひ尽くさない事に尽きるのさ。逆に尋ねるが、お前は《吾》に《存在》の全権を委ねてるかね? 





――《存在》の全権といふと? 





――《吾》が外ならぬ《吾》でしかないといふ事さ。





――つまり、全宇宙史を通じて《吾》なる《もの》は《吾》以外であった事がないといふ事かね、その《存在》の全権とは? 





――ちぇっ、結論を先に言ってしまへば、地獄を知らずして浄土が解かる筈はないといふ事さ。





――つまり、《吾》が《吾》なる事を心底味はふ地獄を生き延びぬ内は、《吾》ならざる《吾》が何なのか《吾》には結局名指し出来ぬといふ事だらう? 





――へっ、そんな尤もらしい事をぬかしをって、ちぇっ、腹の底は煮えくり返ってゐるのぢゃないかね? 





――所詮、《吾》は《吾》に我慢がなぬ《存在》として、此の宇宙に《存在》することを強要されてゐるとしか《吾》には《吾》の《存在》自身を認識出来ぬ《吾》なる《もの》の不幸――。





――へっ、それは不幸かね。幸ひではないのかね? 





――嗚呼、《吾》なる《もの》は《吾》なる事に苦悶する――。





――だから? 





――だから《吾》は《吾》ならざる《もの》を渇望して已まない。





――ちぇっ、《吾》はそんなに下らぬ《もの》かね? 





――下らぬ? 





――さう、下らぬ《存在》かね、《吾》なる《もの》は? 





――ふむ。





――それさ。《吾》なる《もの》はそれが何であれ尊大極まりない下らぬ《存在》だといふ事にそろそろ気が付いても良いが! 





――《吾》が尊大? 





――ああ、尊大極まりない! 





――それはまた何故に? 





――何故もへったくれもありゃしない! 《吾》は無数の《異形の吾》共を抱へ込んでゐるにも拘はらず、ちぇっ、さうである故にか、まあ、どちらにせよ、その《吾》が無数の《異形の吾》を抱へ込んでゐるにも拘はらず、とどの詰まり《吾》は結局《吾》である事に満足してゐるのさ。





――ぷふぃ。全宇宙史を通じて《吾》が《吾》なる事に満足した《存在》は出現したかね? へっ、未出現な筈さ。





――否、地獄に堕ちた《もの》共は全て《吾》なる事に満足してゐる筈だ。





――地獄に堕ちた《もの》共が《吾》たる事に満足してゐる? はて、地獄では有無も言はずに《吾》は未来永劫《吾》である事を強要されるのぢゃないかね? 





――さて、本当に地獄に堕ちた《もの》共は《吾》なる事を強要されてゐるのかね? 俺は逆に思ふがね。





――逆? 





――つまり、《吾》が《吾》である事を全的に認めて《吾》たる恍惚の中に溺れてゐるのが地獄の本当の姿ぢゃないかね? 





――それぢゃ、地獄絵図は真っ赤な嘘だと? 





――ああ。《吾》が一番恐れてゐる事が《吾》なる事を全肯定した自同律の恍惚に溺れた悦楽だから、それを避けるべく地獄絵図はあれ程おどろおどろしくなったに違ひないのさ。





――へっ、つまり、地獄こそ《吾》なる《もの》の桃源郷だと? 





――ああ、さうさ。





(五十八の篇終はり)







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2009 11/23 04:34:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 死んで腐乱してゐる《吾》の死体を形象せずにはをれぬ、その《吾》のおかしな状況を鑑みると、《吾》が腐乱する死体として形象するのは、多分、《吾》が《生》の限界と、それと同時に《生》の限界を軽々と飛び越える《死》への跳躍を経て《超越》してしまふ《吾》、つまり、《生》と《死》の《存在》の在り方を《超越》する《吾》と名指せる何かへの仄かな仄かな仄かな期待が其処に込められてゐるのではないかと訝しりながらも、





――さうか。《吾》からの《超越》か――。





と、不思議に《超越》する《吾》といふ語感に妙に納得する《吾》を見出す一方で、





――はて、《吾》は《吾》に何を期待してゐるのか? 





と、皮肉な嗤ひとともに《吾》を自嘲せずにはをれぬ私は、《超越》という言葉を錦の御旗に《存在》ににじり寄るれるとでも考へてゐるのか、





――腐乱し潰滅し往く《死体》たる《存在》のその頭蓋内の闇には、尚も、《吾》を認識する意識――意識といふ言葉には違和を感じるので、それを魂と呼ぶが――その意識若しくは魂が尚も脳の腐乱し潰滅し往く《吾》の頭蓋内の闇には確かに《存在》する筈だ! 





と、考へると同時に、





――《生者》が《生者》の流儀で《存在》に対峙するのであれば、《死者》は《死者》の流儀で《存在》に対峙するのかもしれぬ。





と、無意識裡に、若しくは「先験的」に私は《生》と《死》に境を設けてしまふ単純な思考法若しくは死生観から遁れ出られずそれに捉はれてしまってゐる事を自覚しつつも、《生》の単純な延長線上に《死》は無いと、そして、また、私といふ生き物には、《死》は《生》が相転移し、全く新しい事象として《存在》する何かであると看做す「思考の癖」があることを自覚しながらも、





――然り。





と、何の根拠もないのに不敵な嗤ひを己に対して浮かべながら、《生》から《死》へと移行するその《存在》が相転移する様に、もしかすると《存在》の未知の秘密が隠されてゐるかもしれぬと、私の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象を浮かぶままにしながら茫洋とその《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場を覗き込むのであった。





…………





…………





――さて、《闇の夢》を見ざるを得ぬ《吾》は、其処に未だ出現せざる未知なる何かを隠し、それがほんの一寸でも姿を現はすのをじっと待ってゐるのであらうか? 





と、不意に発せられた自問に、私は私が《闇の夢》を見るのはもしかすると、世界=内=存在たる《吾》の全否定の表はれではないかと訝しりながらも、





――それは面白い。





と、独りほくそ笑んでは





――私が《闇の夢》を見るのは、もしかすると《吾》は勿論の事、全世界、つまり、森羅万象の《存在》を無意識裡では全否定して、夢の中だけでも《存在》が、その見果てぬ夢たるこれまでの全宇宙史を通して《存在》した事がない未知なる何かが《闇》には尚も潜んでゐるに違ひないと看做してゐるのではないか? 





と、私の《闇》への過剰な期待を嗤ってみるのであるが、しかし、《闇の夢》を見ながら





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と嗤ってゐた私を思ふと、私は、やはり、《闇》に未知なる何かを表象させようと《闇の夢》に鞭打ち、《闇》が未知なる何かに化けるのをずっと待ち望んでゐたと考へられなくもないのであった。





――《吾》は、多分、これまでその《存在》を想像だにしなかった何か未知なる《もの》の出現を、Messiah(メシア)の出現の如くにあるに違ひないと《吾》は《吾》といふ《存在》にじっと我慢しながら、確かにその未知なる何かたる「Messiah」を待ち望んでゐる。ぢゃなきゃあ、私は「《吾》だと、ぶはっはっはっはっ」などと《吾》が夢で見る《闇の夢》に対して嗤へる筈などないに違ひないではないか――。





 成程、私は、多分、《吾》のどん詰まりに私を私の自由意思で私を追ひ込み、遂に《闇の夢》を見るに至ったに違ひないのである。つまり、此の世の森羅万象を全否定したその結果として、また、その途上として私は《闇の夢》を見、その《闇》にこれまで《存在》が想像だにしたことがない未知の何かを出現させることを無理強ひしつつも、





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と《闇の夢》に対して嗤ふしかない私は、私において何か未知なる《もの》の形象の残滓が残っていないかと私の頭蓋内の闇たる五蘊場を弄(まさぐ)っては何も捉へられないその無念さを心底味はひながら、





――何にも無いんぢゃ仕方ない……。





と、私の頭蓋内の闇たる五蘊場にその未知なる何かの形象を何としても想像する事を己に鞭打ちやうにして私は《吾》に課してゐたに違ひないのであった。





(七の篇終はり)







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2009 11/21 05:52:53 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、一つ尋ねるが、お前は自存した《存在》かね? 





――何からの自存かね? 





――世界さ。





――ふむ。世界から自存した《存在》……。





――ちぇっ、考へるまでもなからう。





――つまり、俺は世界から自存する訳がないと?





――実際さうだらう。これまで全宇宙史を通じて世界から自存した《存在》が、へっ、《存在》したかね? ちぇっ、《存在》する訳がなからうが!





――だから世界が、《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅した表象群に埋め尽くされた《吾》のみ其処に居場所がないことに、文句も言はず、その、ちぇっ、下らぬ世界を受容せよと? 





――現にお前は世界の中で生きてゐる、つまり、《存在》してゐるだらうが。





――つまり、《存在》は世界を選べないといふ事かね? 





――当然だらう。此の世界、否、此の宇宙を選べぬばかりでなく、《存在》は絶えず世界に試されてゐるのさ。





――つまり、《吾》は《吾》を選べぬ故に《吾》は《吾》たらむと欲すること試されてゐるが、しかし、《吾》が《吾》であることには実際我慢がならぬ! 





――へっ、皮肉なもんだな。《吾》は《吾》ばかりでなく、世界も選べぬ悲哀! そして、それをとことん味はひ尽くすのみといふ創造主の残酷な仕打ち――。





――なあ、一つ尋ねるが、《吾》は《吾》に対して、そして、《吾》は世界に対して反りが合ふやうに《存在》させられる、つまり、《吾》は《吾》といふ《存在》を《吾》からも世界からも強要され、ちぇっ、つまり、何《もの》も《吾》の存在を祝福することなく、世界の中に《存在》することを強要される外に、最早、《存在》が《存在》する余地は残されてゐないと? 





――実際さうだらう。





――すると、さうして《吾》は《吾》なる《もの》を標榜するうちに、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に逃げ込んだとしたならば、《吾》とはそもそも悲哀その《もの》ぢゃないのかね? 





――さうだとしたなら、如何する? 





――如何するも何もないさ。唯、《吾》を呪ってみるがね、ふはっはっはっはっ、ちぇっ。





――それで? 





――木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になったまでさ。





――それは如何いふ意味かね? 





――つまり、《吾》といふ木乃伊を奪還、ちぇっ、それが何からの奪還かは依然不明のままだがね、その木乃伊たる《吾》を何かから奪還する筈が、へっ、《吾》そのものが干からびた《吾》の死体たる木乃伊でしかなかったといふ話だ。





――つまり、《吾》が《吾》を語り始めるや否や、その《吾》は最早解剖可能な死体でしかないといふ事だらう? 





――何をもって《吾》の死体といふかの問題は残るがね。しかし、《吾》が《吾》のことを一言でも語り始めた刹那、その語られる《吾》は何時でも、最早、《死体》でしかないのさ。





――つまり、《吾》が《吾》を客観視する場合、その客観視される《吾》は、最早、《吾》の死体でしかないと? 





――仮にさうだとすると、主観と客観を自在に使ひ分け、つまり、ある時は主観的に、またある時は客観的にいとも簡単に成り果(おほ)せる《吾》は、此岸と彼岸の境を、つまり、《生》と《死》を生きながらも死の予行練習を兼ねる形で自在に往ったり来たりしてゐるといふ事なんだらう? 





――《吾》は《異形の吾》を「先験的」に認識してゐる摩訶不思議なる《存在》だ――。





――さうして《吾》は永劫に《吾》に成れぬ宿命! これを何とする? 





――へっ、地獄に堕ちればいいのさ。





――つまり、《吾》が《吾》であるのは地獄のみといふ事かね? 





――ああ、さうさ。





――さうすると、ぷふぃっ。《吾》の桃源郷は地獄になるが、それは如何かね? 





――それで構はぬではないか。





――構はぬ? するとお前は《吾》が《吾》なることを欣求するこの《吾》を地獄と名指すのか? 





――それは前にも言った筈だが、《吾》は地獄の別称でしかない。《吾》も世界も皆《吾》なる事を欣求する以上、それは地獄と名指すしかないのさ、ちぇっ。





(五十七の篇終はり)







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2009 11/09 09:18:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――其処で一つ尋ねるが、《吾》は人力以上の動力で神の世を人の世に作り変へた、つまり、その徹頭徹尾《吾》の与り知らぬ《他》の手による人工の世界で、世界は時空間的には伝達若しくは《存在》の輸送手段の高速化故に見かけ上縮小し、それは即ち此の人工の世界に誕生させられた《吾》が否が応でも生き残る為に、膨張した架空の《吾》を《吾》と名指してみたはいいが、その実、己の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》に閉ぢ籠る外なかったのが、《吾》の置かれたのっぴきならぬ現状だとは思はぬか? 





――つまり、其処には《反=吾》が棲まなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に、へっ、当の《吾》が己の身を《他》が満ち溢れてゐるとしか認識できない人工の世界から守るべく閉ぢ籠ったと? 





――さう。《零の穴》若しくは《虚の穴》は《吾》にとって最後の砦になっちまったのさ。





――それは《吾》にとっては堪へ難き矛盾だらう? 





――さうさ。《吾》が《吾》であることに「先験的」に矛盾しちまってゐる。





――それでその一つの帰結が決してその《存在》は許されぬところの《吾》は存在論的な蘗といったらいいのか、それは摩訶不思議な《存在》の仕方を選ばざるを得ぬといふ事だったのか? 





――ああ。《吾》に《零の穴》若しくは《虚の穴》があり《吾》の蘗が生えるといふ事は、元来、世界が《吾》にとって慈悲深き《もの》といふ事の証左であったが、世界が神の世から人の世に変はった為に《反=吾》が其処にゐなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に《吾》それ自身が閉ぢ籠り、へっ、《吾》と《反=吾》はその《零の穴》若しくは《虚の穴》の中で縄張り争ひをしながら、人工の世界ではその存在が存在論的にあり得ぬ、つまり、架空にでっち上げられた存在論的な蘗の《吾》を《吾》と名指して、何とか《吾》と《反=吾》の棲み分けを試みてゐるが、へっ、土台《吾》と《反=吾》は一度出会ふと光となって霧散消滅する。





――つまり、絶えず《吾》と《反=吾》は《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で出会って、そして、光となりて消滅してゐるとするならば、一体《吾》が《吾》と名指し《吾》と呼んでゐる《もの》は何なのかね? 





――だから言ったらう、《吾》がでっち上げた架空の膨張に膨張を重ねた醜い《吾》の化け物だと。





――つまり、この人工の世界に生き残るには、《吾》は率先して《吾》を滅却する外に、最早《吾》の、ちぇっ、これは変な言い分だが、その《吾》の生き残る《存在》の在り方は残されてゐないといふ事か――。





――それでも《吾》は生き延びなければならぬ。





――へっ、それは如何してかね? 





――聞くまでもないだらう? 





――つまり、後世に必ず出現する未だ出現せざる未知なる《もの》達の為に、世界を人力以上の動力で人工の世界に変へる狂気の例証として《吾》は、この異常極まりない人工の都市で生き残る外ない……違ふかね? 





――更に言へば、《吾》は、《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で絶えず《吾》は生成しては即座に其処に棲まふ《反=吾》と出会っては光となりて霧散消滅することを繰り返してゐるとは言ひ条、其処には新たな《吾》の《存在》の仕方が生まれるのではないかといふ密かな密かな期待が、ちぇっ、《吾》のEgo(エゴ)に満ち満ちた下らぬ、誠に下らぬ淡き期待が隠されてゐるのさ。





――しかし、それは《吾》の化け物とはいへ、少なくとも《吾》はそれが人工の世界では存在論的にはあり得ぬ《吾》の蘗に過ぎぬとしてもだ、《吾》が人工の世界=内=存在としての「現存在」たる《吾》が、「《吾》とは何ぞや?」と「現存在」たる《吾》に絶えず問はずにはゐられぬのは、自然の道理ぢゃないかね? 





――ああ。《吾》は《吾》を喪失しても、やはり《吾》は《吾》として《存在》することを強要され、そして、「現存在」たらむとしてあり続ける、言ふなれば何処までもみっともない《存在》ぢゃないかね? 





――へっ、やっと腹を括ったか――。





――腹を括るも括らないも、現に今俺は《存在》してゐる――筈だ。





――筈だ? つまり、《存在》してゐると断言は出来ないんだね、へっ。





(四の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 11/07 08:00:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――いや、神すらも最早何が何だか解からぬ筈さ。





――ふん、また「苦悩による苦悩の封建制」か? 





――さうさ。《吾》たる《主体》は神のゐない《個時空》によって成立する此の世を「苦悩による苦悩の封建制」で統治しなければならぬ筈さ。





――何故に? 





――何度も同じことを念仏の如く繰り返すが、神を《存在》から解放する為さ。





――その一つの帰結として、現代人たる《吾》は誰とは知らぬ全くの赤の他人が作った徹頭徹尾《他》の手になる《他》の世界=内に《存在》する、つまり、《他》の頭蓋内の闇たる《他》の五蘊場に表象し形象された、敢へて言へば《他》の頭蓋内=世界の中に《吾》は独り《存在》する《存在》の様態へ辿り着いたのぢゃないかね? 





――つまり、人間といふ生き物は世界たる環境を己の都合で変へてしまったといふ事だらう? 





――さう。今や世界は「神の御手にあらず、《他》の掌中にのみありし」、さ。





――へっ、そして其処に《吾》の居場所のみ用意されず仕舞ひってか――、ちぇっ。





――一つ尋ねるが、神の御手から全く見ず知らずの赤の他人が《吾》の与り知らぬところで作り上げた、例へば都市といふ世界に《存在》することの居心地はどうかね? 





――ちぇっ、下らぬ事だが、《吾》たる《もの》達はそれが何であれ、皆、ちぇっ、「自分探し」をこの《他》の掌中にある世界、ふん、もしかすると最早世界は《他》の掌中にすらないかもしれぬが、その世界で《存在》する為に「自分探し」といふ下らぬ事にかまける外ない《存在》に堕してしまったよ。





――その「自分探し」の《自分》て何かね? 





――へっ、それが解からぬから《存在》は、皆、「自分探し」をせずにはゐられぬのさ。





――其処さ。最早此の世に《存在》することは、《他》の五蘊場に表象された《もの》がてんでんばらばらに外在化したに過ぎぬその世界に《存在》することの《苦悩》を、若しくは、《吾》のみが其処にゐない世界で《存在》する、へっ、《苦悩》を、《吾》は背負ふしかないのぢゃないかね? 





――つまり、「自分探し」は《吾》が《吾》として《存在》する為に如何しても背負はなければならぬ《原罪》だと? 





――さう。人間を初めとする森羅万象は、自らの手で《存在》することの《原罪》を神から奪ひ取ったのさ。





――その挙句が、果たせる哉、それが全く見ず知らずの赤の他人の手になる、例えば都市といふ世界の出現に帰結したのかね? 





――さうさ。最早、神に《存在》することの《苦悩》、即ち《原罪》を背負はせる訳にはいかなくなったのさ。





――だが、それは《吾》たる《存在》が世界に対して復讐を成し遂げた一つの証左ではないのかね? 





――へっ、世界、ちぇっ、此の宇宙がそれで怯えたとでも思ってゐるのかね? 





――いや。





――そりゃさうだらう。此の宇宙にとって世界が都市にならうが痛くも痒くもないからな。





――さて、簡単にさう看做しちまっていいものか……。





――といふと? 





――つまり、世界自らが《存在》を使って世界自体を作り変へてゐるとしたならば如何かね? 





――つまり、世界はとっくの昔に神から自立してゐたと? 





――ああ。





――ああ? 





――ああ、さうさ。世界、即ち此の宇宙もまた、己が《存在》することの《苦悩》を背負ってゐる、つまり、此の宇宙もまた「自分探し」の陥穽に落っこっちまったのさ。





――それは、つまり、此の宇宙もまた《存在》しちまった以上、死滅する宿命を負ってゐるからかね? 





――さう。死滅する故にさ。《死》が《存在》する以上、最早、「苦悩による苦悩の封建制」は渋々ながらも《存在》はそれが何であれ受け入れるしかないのさ。





――その一つの帰結が「自分探し」といふ何処まで行っても底無しの虚しさしか味はへぬ、《吾》のみ居場所がない《他》の頭蓋内の闇たる《他》の五蘊場に明滅する表象群に埋め尽くされた都市の如き此の世界の出現かね? 





(五十六の篇終はり)







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2009 11/02 06:42:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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-ほほう。すると、《吾》の《存在》と世界の関係は如何様になったのかね? 





-相変はらず《吾》無くして世界無しの見方が根強いが、しかし、俺は《吾》無くしても世界は只管《存在》といふ立場だがね。





-するとぢゃ、世界は絶えず《吾》の《存在》を待ち望んでゐるといふ事かな? 





-或るひはさうかもしれぬ。





-さうかもしれぬね? ふほっほっほっほっ。





と、私の瞼裡の薄っぺらな闇にゐ続けるその夢魔は相好を崩して、さもありなむといった哄笑を上げるのであった。





――どうやらわしに対する憤怒は収まったやうだな。





――そんな事なぞ如何でもよい! それより、するとだ、世界は《吾》の《存在》を只管待ち望んでゐるとすると、世界に永劫に《吾》が出現しなければ、例へば世界は自滅するかね? 





――ふほっほっほっほっほっ。世界もまた《存在》する以上、己の自同律の陥穽から遁れられぬのぢゃて。





――ならば、世界は世界自体が《存在》することで既に世界自体の事を《吾》と認識してゐると? 





――違ふとでも? 





――へっ、汎神論の如く何であれそれが《存在》しちまへば、其処に自意識が《自然》と宿るとでも思ってゐるのかね? 





――ああ、さうぢゃ。





――さう? へっ、何を寝惚けた事を! ふはっはっはっはっはっ。すると、意識は《存在》が《存在》すると必ず宿るといふ事かね? 





――さうだとしたならばぢゃ、お前はお前自身の《存在》と世界に《存在》する森羅万象の《存在》の関係を如何する? 





――別に如何仕様もないがね。《吾》と世界の関係は、其処に意識が介在したとしても、《吾》は己と世界の事を認識した「現存在」として、つまり、世界=内=存在として此の世に屹立し、世界は世界でその《存在》が何であれ此の世に出現しちまへば、世界は何の文句も言はずにその《存在》を受け入れる筈だ。





――筈だ? ふほっほっほっほっほっ。お前は未だに己の《存在》に対して確たる確信が持てぬままかね? 





――ああ、さうさ。己に対しても世界に対してもその《存在》に確信が持てぬのさ。





――それでもお前は此の世に《存在》してしまってゐる。それがそもそも気に食はぬのぢゃらう? 





――だから如何したといふのか! 





――それぢゃよ、それぢゃ、ふほっほっほっほっほっ。牙を剥きな、己に対しても世界に対してもぢゃ。





――牙を剥く? 





――さうぢゃ。牙を剥くのぢゃ。





――しかし、牙を剥いたところで、その牙を剥いた相手は何食はぬ顔で《吾》の《存在》を無視し続けるぜ。





――当然ぢゃ。





――当然? 





――当たり前ぢゃて。これまで此の世に《存在》した《もの》が牙を剥かなかったとでも思ってゐるのかね? 





――すると、既に死滅した数多の《もの》達もやはり己と世界に対して牙を剥き、未だ此の世に出現せざる未知なる何かに変容すべく、牙を剥きながら《吾》といふ《存在》に忍従してゐたと? 





――当然ぢゃ。此の世に《存在》した《もの》はそれが何であれ、絶えず未だ此の世に出現せざる何かに化けるべく、己に対しても世界若しくは宇宙に対しても牙を剥いて己の《存在》をじっと我慢する外ないのぢゃ。





――この宇宙自体も例外ではないと? 





――ふほっほっほっほっほっ。当然ぢゃ。





――すると、お前は如何なのだ? 





――ふほっほっほっほっほっ。わしとて例外ぢゃない! 当然、お前がわしをお前の夢世界に呼び出すことには腹を立ててゐるがね。しかし、これは言わずもがなだが、果たせる哉、わしがお前の夢の中に《存在》しちまふ事を、わしはじっと歯を食ひしばって堪へてゐるのぢゃ、ちぇっ、忌々しい! 





(三の篇終はり)







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2009 10/31 06:14:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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