死んで腐乱してゐる《吾》の死体を形象せずにはをれぬ、その《吾》のおかしな状況を鑑みると、《吾》が腐乱する死体として形象するのは、多分、《吾》が《生》の限界と、それと同時に《生》の限界を軽々と飛び越える《死》への跳躍を経て《超越》してしまふ《吾》、つまり、《生》と《死》の《存在》の在り方を《超越》する《吾》と名指せる何かへの仄かな仄かな仄かな期待が其処に込められてゐるのではないかと訝しりながらも、
――さうか。《吾》からの《超越》か――。
と、不思議に《超越》する《吾》といふ語感に妙に納得する《吾》を見出す一方で、
――はて、《吾》は《吾》に何を期待してゐるのか?
と、皮肉な嗤ひとともに《吾》を自嘲せずにはをれぬ私は、《超越》という言葉を錦の御旗に《存在》ににじり寄るれるとでも考へてゐるのか、
――腐乱し潰滅し往く《死体》たる《存在》のその頭蓋内の闇には、尚も、《吾》を認識する意識――意識といふ言葉には違和を感じるので、それを魂と呼ぶが――その意識若しくは魂が尚も脳の腐乱し潰滅し往く《吾》の頭蓋内の闇には確かに《存在》する筈だ!
と、考へると同時に、
――《生者》が《生者》の流儀で《存在》に対峙するのであれば、《死者》は《死者》の流儀で《存在》に対峙するのかもしれぬ。
と、無意識裡に、若しくは「先験的」に私は《生》と《死》に境を設けてしまふ単純な思考法若しくは死生観から遁れ出られずそれに捉はれてしまってゐる事を自覚しつつも、《生》の単純な延長線上に《死》は無いと、そして、また、私といふ生き物には、《死》は《生》が相転移し、全く新しい事象として《存在》する何かであると看做す「思考の癖」があることを自覚しながらも、
――然り。
と、何の根拠もないのに不敵な嗤ひを己に対して浮かべながら、《生》から《死》へと移行するその《存在》が相転移する様に、もしかすると《存在》の未知の秘密が隠されてゐるかもしれぬと、私の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象を浮かぶままにしながら茫洋とその《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場を覗き込むのであった。
…………
…………
――さて、《闇の夢》を見ざるを得ぬ《吾》は、其処に未だ出現せざる未知なる何かを隠し、それがほんの一寸でも姿を現はすのをじっと待ってゐるのであらうか?
と、不意に発せられた自問に、私は私が《闇の夢》を見るのはもしかすると、世界=内=存在たる《吾》の全否定の表はれではないかと訝しりながらも、
――それは面白い。
と、独りほくそ笑んでは
――私が《闇の夢》を見るのは、もしかすると《吾》は勿論の事、全世界、つまり、森羅万象の《存在》を無意識裡では全否定して、夢の中だけでも《存在》が、その見果てぬ夢たるこれまでの全宇宙史を通して《存在》した事がない未知なる何かが《闇》には尚も潜んでゐるに違ひないと看做してゐるのではないか?
と、私の《闇》への過剰な期待を嗤ってみるのであるが、しかし、《闇の夢》を見ながら
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と嗤ってゐた私を思ふと、私は、やはり、《闇》に未知なる何かを表象させようと《闇の夢》に鞭打ち、《闇》が未知なる何かに化けるのをずっと待ち望んでゐたと考へられなくもないのであった。
――《吾》は、多分、これまでその《存在》を想像だにしなかった何か未知なる《もの》の出現を、Messiah(メシア)の出現の如くにあるに違ひないと《吾》は《吾》といふ《存在》にじっと我慢しながら、確かにその未知なる何かたる「Messiah」を待ち望んでゐる。ぢゃなきゃあ、私は「《吾》だと、ぶはっはっはっはっ」などと《吾》が夢で見る《闇の夢》に対して嗤へる筈などないに違ひないではないか――。
成程、私は、多分、《吾》のどん詰まりに私を私の自由意思で私を追ひ込み、遂に《闇の夢》を見るに至ったに違ひないのである。つまり、此の世の森羅万象を全否定したその結果として、また、その途上として私は《闇の夢》を見、その《闇》にこれまで《存在》が想像だにしたことがない未知の何かを出現させることを無理強ひしつつも、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と《闇の夢》に対して嗤ふしかない私は、私において何か未知なる《もの》の形象の残滓が残っていないかと私の頭蓋内の闇たる五蘊場を弄(まさぐ)っては何も捉へられないその無念さを心底味はひながら、
――何にも無いんぢゃ仕方ない……。
と、私の頭蓋内の闇たる五蘊場にその未知なる何かの形象を何としても想像する事を己に鞭打ちやうにして私は《吾》に課してゐたに違ひないのであった。
(七の篇終はり)
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