思索に耽る苦行の軌跡

――しかし、何もかも地獄に帰したところで何も目新しい《もの》は生まれやしないぜ。





――へっ、それで構はぬではないか。別に何か目新しい《もの》の出現は誰も望んぢゃゐないぜ。





――ぢゃあ、この《吾》とは何なのだ? 





――だから地獄と言ってゐるではないか! 





――だが、何《もの》も地獄なんぞには棲みたかないぜ。





――これまでの存在論の脆弱さのその根本は、何《もの》も《吾》を心底味はひ尽くさない事に尽きるのさ。逆に尋ねるが、お前は《吾》に《存在》の全権を委ねてるかね? 





――《存在》の全権といふと? 





――《吾》が外ならぬ《吾》でしかないといふ事さ。





――つまり、全宇宙史を通じて《吾》なる《もの》は《吾》以外であった事がないといふ事かね、その《存在》の全権とは? 





――ちぇっ、結論を先に言ってしまへば、地獄を知らずして浄土が解かる筈はないといふ事さ。





――つまり、《吾》が《吾》なる事を心底味はふ地獄を生き延びぬ内は、《吾》ならざる《吾》が何なのか《吾》には結局名指し出来ぬといふ事だらう? 





――へっ、そんな尤もらしい事をぬかしをって、ちぇっ、腹の底は煮えくり返ってゐるのぢゃないかね? 





――所詮、《吾》は《吾》に我慢がなぬ《存在》として、此の宇宙に《存在》することを強要されてゐるとしか《吾》には《吾》の《存在》自身を認識出来ぬ《吾》なる《もの》の不幸――。





――へっ、それは不幸かね。幸ひではないのかね? 





――嗚呼、《吾》なる《もの》は《吾》なる事に苦悶する――。





――だから? 





――だから《吾》は《吾》ならざる《もの》を渇望して已まない。





――ちぇっ、《吾》はそんなに下らぬ《もの》かね? 





――下らぬ? 





――さう、下らぬ《存在》かね、《吾》なる《もの》は? 





――ふむ。





――それさ。《吾》なる《もの》はそれが何であれ尊大極まりない下らぬ《存在》だといふ事にそろそろ気が付いても良いが! 





――《吾》が尊大? 





――ああ、尊大極まりない! 





――それはまた何故に? 





――何故もへったくれもありゃしない! 《吾》は無数の《異形の吾》共を抱へ込んでゐるにも拘はらず、ちぇっ、さうである故にか、まあ、どちらにせよ、その《吾》が無数の《異形の吾》を抱へ込んでゐるにも拘はらず、とどの詰まり《吾》は結局《吾》である事に満足してゐるのさ。





――ぷふぃ。全宇宙史を通じて《吾》が《吾》なる事に満足した《存在》は出現したかね? へっ、未出現な筈さ。





――否、地獄に堕ちた《もの》共は全て《吾》なる事に満足してゐる筈だ。





――地獄に堕ちた《もの》共が《吾》たる事に満足してゐる? はて、地獄では有無も言はずに《吾》は未来永劫《吾》である事を強要されるのぢゃないかね? 





――さて、本当に地獄に堕ちた《もの》共は《吾》なる事を強要されてゐるのかね? 俺は逆に思ふがね。





――逆? 





――つまり、《吾》が《吾》である事を全的に認めて《吾》たる恍惚の中に溺れてゐるのが地獄の本当の姿ぢゃないかね? 





――それぢゃ、地獄絵図は真っ赤な嘘だと? 





――ああ。《吾》が一番恐れてゐる事が《吾》なる事を全肯定した自同律の恍惚に溺れた悦楽だから、それを避けるべく地獄絵図はあれ程おどろおどろしくなったに違ひないのさ。





――へっ、つまり、地獄こそ《吾》なる《もの》の桃源郷だと? 





――ああ、さうさ。





(五十八の篇終はり)







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2009 11/23 04:34:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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