(これから複数の者らしき存在が出てきますが、敢へてそれらを一人物として分けせずに書いています。この「雑談」がたった一人なのか幾人もの「雑談」なのかは読者の判断に任せます)
――おっと、お前ら二体で何を話してゐるのかね?
――いや、何、《神》についてさ。
――《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとって、その《存在》が楽、若しくは気休めになると話してゐたのさ。
――ふむ……。《神》ね……。
――何、何、何?
――今、此奴にも言ったのだが、《神》が《存在》した方が《主体》にとっては気休めになると話してゐたのさ。
――ふむ。《神》か――。また、余りに人間臭い事を、へっ。
――そして、さうしてゐる内に《実存》といふ現在では人間の手垢に塗れた時代錯誤の世界認識の方法を再び此奴が持ち出したのさ。
――それにギリシア哲学もだぜ。
――早い話が人類史を、否、此の宇宙史全史を問ひたいのだらう?
――さう! 此の宇宙史全史だ。
――さうすると、此の世に《存在》する森羅万象のその《存在》を問ふてゐるとていふ訳か……。
――へっ、《杳体御仁》!
――《杳体御仁》とは私の事かね?
――へっ、私って一体誰の事だい? 全員が《吾》だらう。
――さういふお前は一体何を話さうとしてゐたのかな。
――つまり、《神》は数学を《超越》出来るかね? 《杳体御仁》ならば、何と答へる?
――ふっ、それこそ不確定な事しか言へぬぞ。
――ゲーデルかね?
――ゲーデル?
――誰だ、ゲーデルとは?
――いや、ゲーデルの不確定性原理をここで持ち出すのは危険だ。
――しかし、《神》に関して言へば、《神》が《存在》するとも《存在》しないとも、いづれも証明不可能だ。ならばだ、《神》は数学を《超越》するかどうかは気になるのが自然な事だらう?
――それぢゃ、お前が今言った様にゲーデルを持ち出す以前に既にカントが《神》についてアンチノミー(二律背反)として、《神》に関しては手を出さない方が身の為だと警告してゐるぢゃないかね?
――ふっ、《杳体御仁》よ、しかし、《存在》にとって、それは森羅万象について言へるのだが、《神》は《存在》した方が《吾》たる《主体》にとって気が楽だらう?
――何の事かね、それは?
――ふむ。
――何、何、何? 《神》が何と?
――つまり、《神》が《存在》した方が《主体》は楽だといふ事さ。
――何を根拠にさう言へるのさ。
――さうだ。《神》が《存在》した方が《吾》といふ《主体》、または《他者》と共有する世界=内=存在する「現存在」にとって気が楽といふその根拠を示せよ。
――《個時空》をここで持ち出せばハイデガー的な《時間》では最早世界認識は永劫に不可能と言ふ事だ。しかし、《死》を《神》と共有するのであれば、もしかすると「現存在」にとって《存在》することは気が楽なのは確かなのかもしれぬ。
――さうなんだ。《神》を媒介としてこの世界=内=存在と呼ぶところのその《世界》を《他者》ばかりでなく《死》とも共有した《世界》であった方が自然な気がする。
――しかし、《死》の可視化は金輪際出来ぬぜ。
――へっ、そこでだ、《杳体御仁》よ、《生》と《死》について考へると《神》が此岸と彼岸を繋ぐ或る何かだとして、その《神》が《存在》すると看做した方が、「世人」にとっては此の《世界》は断然意味深い《もの》へと変貌する筈だが、どうかね?
――どうかね、だってさ。
――《杳体御仁》よ、ずばりと言っちまひな、つまり、《神》は何として《存在》してゐた方が絶対的に自然だ、と。
(二の篇終はり)
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