思索に耽る苦行の軌跡

――へっ、そもそも《存在》は進歩する《もの》として想定可能な何かだと、何の前提もなしに看做しちまって構はないと、お前は断言出来るかね? 





――進歩? ふむ。





――《存在》とはそもそも進歩する《もの》なのか……? 





――ふむ。多分だが、己が生存しなければならぬ《環境》に強要される形で、《存在》は、例へばそれを進化と名指せば、己が生存せねばならぬ《環境》に順応する外に生存の道が残されてゐないと看做しちまって構はぬ筈だが、しかし、それは詰まる所、《世界》に《存在》は絶えず試されるのみの、ちぇっ、つまり、実験用のモルモットとして《存在》するしか此の世に《存在》を許されぬといふ事になっちまふが……。





――だから? 





――さうするとだ、《存在》は投企されたその《世界》に何としても順応するべく、へっ、此処で虚数iのその不可解極まりない相貌が不意にひょいと顔を此の世に現はす筈なのだが、例へば《存在》に蓋然性といふ曖昧模糊とした形の、つまり、それは確率論的に表記すれば如何あっても虚数iの《存在》がなければならぬ事態に、へっ、この《存在》といふ《もの》全て吃驚するのだがね、必ず此の世に虚数が《存在》してゐなければならぬ筈の、その《存在》といふそれ自体もまた虚数iが必ず此の世に《存在》することでしか、その《存在》自体の根拠が担保されぬ《存在》といふ面妖なる《もの》として、へっ、詰まる所、《存在》は漸くにして此の世での生存を許される、ちぇっ。





――何に許されると言ふのかね? 





――へっ、《神霊》さ。





――《神霊》? つまり、それは、《霊》、即ち虚数iのi乗が実数として此の世に出現するその出現の仕方において、此の世に確実に実在しなければならぬ《存在》の宿命をして《神霊》と言ってゐるのかな? 





――つまり、《霊》もまた《神》なる《存在》を渇望して已まない。





――えっ? 《霊》もまた《神》を渇望する? それは一体全体何の事かね? 





――字義通り、虚数iをi乗することで、此の世に実数として現はれてしまふ虚数の有様が、へっへっへっ、此の世に実在する《もの》全て、つまり、森羅万象の有様に外ならず、そしてそれらの《存在》は、また、《神》を渇望して已まないのさ。





――それはオイラーの公式が《神》の振舞ひの一例だといふ事かね? 





――公式とか公理とか定理とか法則とか呼ばれるものは全て《神》の《摂理》と言ひ換へ可能な筈だが、オイラーの公式を《神》の振舞ひの一例と看做したければさう看做せばいいのさ。しかし、これだけは忘れちゃならないぜ。つまり、オイラーの公式がなければ、今や、《世界認識》は全く不可能な時代に既にとっくの昔に突入しちまってゐるといふ事をな。つまり、虚数なしの世界は全て虚妄だといふ事だ。





――つまり、事態は《存在》が虚数を具象化出来ようが出来まいがそんな事はお構ひなしに《世界》について何か一言でも語たったとして、しかしながら其処に虚数の影すら見出せない論理は、つまり、そんな論理は自己満足しか齎さない夢心地の酔狂に等しい虚妄の虚妄の虚妄の《世界認識》でしかないといふ事であって、さうとは言へ、周りをちらりとでも見渡してみれば今もってニュートン力学から一歩たりとも踏み出せない臆病な臆病な臆病な《主体》がぽつねんと独り此の世で足掻いてゐる、へっへっへっ、それはつまりは相対論的な若しくは量子論的な若しくは余剰次元的な若しくは超弦理論的な《世界》の《認識》の仕方に全く付いて行けず、つまり、それは光恐怖症とでも言ったらいいのか、質量ある《もの》は如何あっても光速度には至り得ぬ此の世の宿命を受け入れられずに、また、《世界》に対峙することすら出来ず仕舞ひの《主体》のてんやわんやの喜劇ばかりで満たされた、それは《世界》がそんな《主体》を憐れみながらも「わっはっはっ」と嘲弄しながら嗤ふ、ちぇっ、《主体》はその事に余りにも無頓着なのだが、しかしだ、《主体》はそろそろ猛省をして此の世といふ《世界》を「あっ!」と驚かせるやうな曲芸をして見せなければ、《主体》が此の世に《存在》しちまった意味など全くないのぢゃないかね? 





――さうだね。表象といふ言葉一つ取っても、其処には虚数の《存在》が深く関はってしまってゐるのだらう? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》を外在化させる行為は、正に虚数iのi乗を無意識理とは言へ具現化してゐることに過ぎぬといふ事かな? 





――さて、それはどうかね? 一つ尋ねるが、お前が言ふ表象とは、一体全体何の事かね? 





――いや、何、つまり、思惟全般の事さ。





――へっ、すると、デカルトのcogito,ergo sumが此の世に発せられた時点で、其処には此の世に虚数が必ず《存在》せねばならぬ萌芽が隠されてゐたといふ事であって、ちぇっ、思惟の振舞ひが虚数なる《もの》の振舞ひをちらっとでも暗示しちまってゐるとするならばだ、この《他者》の頭蓋内の闇たる五蘊場で表象された《もの》が尽きる事無く外在化されるこの現代社会の街衢といふ時空間若しくは人工世界は、へっ、虚数iのi乗が導き出さずにはをれぬ結語ぢゃないのかね? 更に言へば、自然とは《神》の頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》の外在化、即ち、これまた虚数iのi乗の一つの厳然とした在り方に過ぎぬのぢゃないかね? 





――へっ、つまり、虚数iのi乗が実数になる事が《存在》を《存在》たらしめる、即ち《物自体》がその馬脚を表はしてゐる証左に過ぎず、ちぇっ、しかし、それが徹頭徹尾不快と来るから、お前は《他》に此の世の涯の《解》の如き《もの》、つまり、それを《物自体》と言っても差し支へない筈だか、その《解》を《他》に見出さずにはゐられぬ悪癖に絶えず悩まされる事になっちまったといふ事かね? 





――だとすると、どうだと言ふのかね? 





――別に、何にも。





――ふっふっふっ。





(六十八の篇終はり)







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2010 05/10 10:51:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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