――さて、《吾》は此の世からさうすんなりと消えられる《もの》かね? ふっ、つまり、《吾》は此の世と彼の世、そして、過去と未来を繋ぐ《時空間》の結節点として《存在》する《吾》たる自覚は、《吾》がどうあっても「《吾》たらむ」とあらうとする志向の中に自然と芽生える《もの》なのだらうか?
――つまり、それは一言で言っちまふと、如何なる《吾》も歴史といふ《もの》への人身御供からは遁れられぬといふ事だらう?
――歴史への人身御供……か――。ちぇっ、すると《吾》とは歴史における《存在》の標本として、若しくは典型として人生を終へる、即ち歴史へと生を捧げる人身御供でしかない事を甘受せよ、と。
――約めて言へば、現在よりも未来が優れてゐる事を不知不識(知らず識らず)のうちに《吾》なる《存在》は自然と望んでしまふ哀しい《存在》ぢゃないかね?
――ふむ。現在よりは未来を……か。つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ夢を見、そして、その夢を繋ぐ為のみ、即ち、夢をRelayするべく歴史の人身御供、若しくは生贄としてのみ《存在》する事が許される――といふ事か……。
――それ故、《吾》は己の死を夢に見、己の死後を夢に見ちまふのさ。つまり、Imaginary numberたる虚数が此の世に《存在》しなければ此の世の事象が何一つ語れぬといふ或る種の必然と違ふのかね、それは?
――ふっ、念ある処には即ち虚数あり、か――。
――cogito,ergo sum……。
――ふっふっふっ。肉体と精神と言ふと単純化された二分法に陥りやすいが、しかし、肉体と精神とを《存在》に見出しちまふのは、此の世に虚数がある限り必然といふ訳か……。
――さうさ。例えば肉体が実部であれば精神は虚部の複素数が《存在》の様態だと看做せなくもない。
――つまり、《存在》は此の世に虚数が《存在》する以上、ちぇっ、《存在》は思念せざせるを得ぬといふ事かね? つまり、複素数の虚部が思惟その《もの》だと?
――さうさ。此の世の森羅万象は、思念する事を強ひられる。
――さて、何に思念する事を強ひられるのか――。
――ふっ、自然にだらう?
――つまり、自然においてAはAである事は、これ迄もなかったし、これからもないといふ事だね?
――さうさ。俺もお前も複素数の世界に投企されてしまってゐるんだからな。
――つまり、俺の実部が仮初にAとすると、俺はAであってAであらず、つまり、俺の虚部は絶えず変化して已まない精神の状態、ちぇっ、肉体もまた変化して已まないが、しかし、精神が《存在》するならば、俺の虚部はまさしくその千変万化する精神に違ひなく、それを此の世の実部として実体化するべく、例えば数学における共役なる複素数を持ち出して虚部を実数へと相転移させる事で、あっ、さうか、《反=生》は、この俺の共役の複素数たる《存在》の事か――。
――ふっ、それぢゃ、《存在》を余りに単純化しすぎてゐるぜ。
――しかし、《存在》はそれが何であれ夢を見、思念すると看做せちまふ以上、へっ、それは《生》と《反=生》の対発生と対消滅によってのみ此の世に表象可能な《もの》ぢゃないのかね?
――へっへっへっへっ。ところが、お前はお前の《反=生》たるお前と共役な《存在》関係にあるだらう《存在》を死んでも尚、確定出来ぬとすると、さて、この俺とは一体何なのかね?
――つまり、《吾》=《吾》は未来永劫確定出来ぬ、つまり、自同律の不確定性原理とも呼ぶべき法則が此の世に厳然と《存在》すると?
――ああ。それを《存在》は《摂理》と名付けて、己が己であるといふ《断念》のうちに、辛うじて《吾》は《吾》を此の世に見出してゐるに過ぎぬのさ。
――つまり、此の世の夢の最たる《もの》が、この《吾》といふ事かね?
――へっ、《吾》が泡沫の夢でなくてどうする?
――しかし、《吾》は《吾》として此の世に《存在》せねば、へっ、一時も生き永らへない代物と来りゃあ、実際のところ、この《吾》といふ《存在》は、目も当てられない《もの》、ちぇっ、つまりは《存在》の筈だぜ。
(六十六の篇終はり)
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