――しかし、或る種の人間は人身御供としての生贄を欲せざるを得なかった。
――それは何故かね。
――つまり、己の《存在》するといふ事態に堪へられなかったのさ。
――つまり、私は、私によって躓いてしまった。それ故に《吾》が《存在》する担保として基督を、人類を救ふべく生贄として差し出してしまった。
――そして、今も尚、基督は磔刑されたままの姿の塑像となってまで人前にその無惨極まりない姿を曝すやうに強要され続けてゐるのは一体全体何としたことか!
――つまり、それは、人類がさうである事を欲してゐるからか……。
――さう。基督が死んでから既に二千年以上経ってゐるのに、《存在》の全苦悩を背負へる《存在》は、基督や釈迦牟尼仏陀やムハンマドなど、哀しい哉、ほんのほんのほんの一握りの《存在》だけなのさ。
――つまり、それはドストエフスキイが図らずも予言してゐた一握りの人々、それを猊下(げいか)と称すれば、そのほんのほんのほんの一握りの猊下が人類をはじめとするあらゆる《存在》の全苦悩を背負ひ、それ以外の大多数の「世人」若しくは《もの》は、苦悩から全的に解放されるといふ考へへとどうしても至らざるを得ぬと言ふ事だね?
――現実が既にさうなってゐるぢゃないか。それを何とか変へやうと自然、もしくは《神》に言挙げしたのが、ドストエフスキイやニーチェなど、極極少数の人間といふ意識体で、しかし、《存在》は《存在》する事で「先験的」に背負ふ苦悩をその極極少数の猊下に帰して、その苦悩を自分の事ではなく、つまり、他人事の《もの》として仮象する何とも便利な思考法を身に付けてしまった。
――では、何故に基督は今も磔刑された姿で人前に曝されなければならないのか?
――見せしめさ。
――見せしめ? それぢゃ、基督は晒首と同じ事ぢゃないのかね?
――当然だらう?
――当然? これは異な事を言ふ。
――逆に尋ねるが、何故に異な事なのかね?
――基督は、磔刑にされたその時、罪人だったかね?
――其処さ。今もってよく解からないのは。福音書を読む限り、基督は「ローマ政府への叛逆」がその罪状となってゐるが、それは、しかし、後付されたものに過ぎぬだらう。するとだ、何故に基督は磔刑にされ、現在に至るまでその惨たらしい磔刑像として、その御姿を人前に曝し続けなければならないのかね?
――基督教徒にとっては、今も尚、基督しか《存在》する事の苦悩を全的に背負ひ切れぬからさ。
――それで、基督教徒たちは自己卑下して己を「羊」と名指すのか――。
――だが、「羊」と己の事を名指す《もの》は、へっ、一皮捲れば、いやらしい醜悪、且、狡猾な此の世の支配者然として、己の《存在》を誇示して已まないといふ矛盾を、ちぇっ、矛盾だとこれっぼっちも気付かぬ振りをして、自然に対峙するといふ愚劣な事を平気でやってのけるのさ。
――そのための免罪符としての基督の磔刑かね?
――さう、どんな宗教も同じだが、「全ては神の子、イエス・キリストの為」といふ、若しくは「全ては天皇の為」といふお題目は、全て、残虐行為をなす為の目隠しとして機能する、ちぇっ、大儀なのさ。
――つまり、全《存在》が行ふ残虐非道な行為へと《存在》がひょいっと簡単に踏み出す己の正当性を、例へば基督に求めて、へっ、此の人類史、否、此の宇宙史でなされた残虐非道で愚劣極まりない行為のその罪過を全て基督など極極少数の、それも基督に至っては無実の罪で磔刑にされたのだか、つまり、人間が残虐非道な行為を行ふその免罪符として基督は磔刑にされ、「神の子」といふ《神=人》へと昇華させざるを得なかった程に、へっ、《存在》は己の為ならば《他》を平気で殺す己の残虐非道性に酔ひ痴れたかったと?
――さうさ。歴史とは元来がさういふ残虐非道な《もの》ぢゃないかね?
――ふっふっふっ。さうだな。残虐非道な事を《存在》が行はなければ己が滅んでゐたに違ひないからな。
――すると、《存在》が尚も《存在》を続ける為には必ず基督などの人身御供たる生贄が必要だと?
(七十五の篇終はり)
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