思索に耽る苦行の軌跡

2009年 09月 の記事 (8件)

――すると霊魂は宇宙背景輻射の如く或る「ゆらぎ」を持って、つまり、或る偏差が在りつつも、此の世に遍在してゐると? 





――例へば、此の世の森羅万象に己の《存在》を自覚する或る意識体、即ち、霊魂が《存在》せずば、ちぇっ、《存在》は何故此の世に《存在》せねばならなかったのか、そして何故《存在》は生滅するのか、つまり、《存在》そのものがその因果を引き受ける覚悟なんぞ決して持てぬではないか? 





――へっ、また堂々巡りだ! 





――堂々巡りこそ思考に与へられた最上の《もの》で、《存在》は堂々巡りする、つまり、渦巻く思索の型以外、何《もの》によっても理論武装若しくは論理を打ち立てる事は出来やしないのぢゃないかね? 





――渦を巻く思索ね……。





 彼は其処で深々と一息息を





――ふ〜〜う。





と、吐いた後に、瞼といふ何とも薄っぺらな《もの》で閉ぢられたにしては余りにも深い眼前に拡がる闇を凝視しながら、此の薄っぺらな瞼裡の影に過ぎぬ闇に潜む森羅万象の表象群を思っては、





――ふっふっふっ。





と、何とも皮肉な嗤ひを発するのであった。





――さて、俺は何に対して嗤ってゐるのやら……。





――へっ、《存在》に対してに決まってゐるだらうが! 





――その通りだ、俺は《存在》に対して思はず「ふっふっふっ。」と嗤ったのだ――。だが、何故俺は《存在》を嗤へるのか? 





――答へは簡単さ。お前自体が《存在》しちまってゐるからさ。





――俺の《存在》? ふっ。





――はて、此岸にゐる《もの》は彼岸を思ふが、彼岸にゐる《もの》は果して此岸に《存在》する《もの》を思ふのであらうか? 





――またぞろ《反=生》の登場かね? 





――へっ、《反=吾》でも構はぬがね、しかし、それが《反=死》であらうと《反=生》であらうと《反=吾》であらうと、霊魂は余剰次元の概念で登場する或るbraneworld(ブレーンワールド)と、そしてそれとは離れて《存在》する別のbraneworldとを自在に行き交ふbulk(バルク)粒子の如く此岸と彼岸を自在に行き交ふ《もの》として《存在》せずば、仮令それが夢であらうが、《存在》が己の《死》若しくは死後の世界を想像若しくは表象してしまふ暴挙など決して出来ぬ筈だ。





――つまり、霊魂こそ《自在》を体現する《もの》といふことだね? 





――《自在》と《幽閉》の両方さ。





――あっは。それが《存在》が《存在》する為の《存在》の「ゆらぎ」だね? 





――さう、「ゆらぎ」だ。





――つまり、霊魂は此の世と彼の世を自在に行き交ひ、そしてその霊魂は此の宇宙に遍在しつつも「ゆらぎ」がある故に《存在》が《存在》出来るのだね? 





――さう、此岸と彼岸を《自在》に行き交へてしまふことからの必然として霊魂はそもそも因果律が壊れた《もの》の一つとして現はれ、そしてそのやうに現はれてしまふ故に或る「ゆらぎ」を持ってしまひ、その「ゆらぎ」故に物体として《存在》した《もの》全てに霊魂は宿ってゐる……。





――つまり、《存在》する《もの》全てに霊魂は宿り、その因は、あらゆる《もの》に遍在する「ゆらぎ」故に《吾》は《他》よりも突出して確率《一》に近い《存在》として、つまり、それこそ「ゆらぎ」故に《吾》は《吾》たらむとする。





――しかし、《吾》は、ちぇっ、つまり、《存在》する《もの》全ては自同律に躓く。





――此の世に「ゆらぎ」が《存在》せずば、何《もの》も《存在》しなかったとするならばだ、その「ゆらぎ」が《存在》しちまふ以上、それは如何ともし難い。





――ふっ、《吾》は此の世には在り得べからざる確率《一》で《存在》する《もの》を夢想し、その夢想が恰も実在するかの如く《吾》に棲み付き、それ故に「俺は俺だ!」と虚しく木霊する叫びを発するのだが、へっ、此の世の神的な《存在》、ちぇっ、それは単なる時空間に過ぎぬ筈なのだが、その神格化された時空間は何も答へちゃくれぬ。ざまあないぜ。





(五十一の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 09/28 06:22:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 それにしても夢において闇を形象するといふ曲芸、否、《インチキ》を堂々と成し遂げてしまって





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、自嘲の嵐の中で





――それは至極当然だ。





といった態度で恰も泰然自若を装ひ嘯くその《吾》は、その実、闇そのものを訝しりながらも途轍もなく偏愛して已まないのも、これまた厳然とした事実として自覚してゐる何ともふてぶてしい私は、闇を《物自体》として仮初にも仮象してゐるのかもしれなかったのである。つまり、





――此の世の根本は闇である。





と、何かを達観した僧侶の如く己を偽装したいが為に私は、夢でも《闇の夢》を、つまり、《闇》の虜と化した何《もの》かに変化し果(おほ)せてしまって、それは、また、恰も木の葉隠れの術の如き忍法にも似た《私》の隠れ蓑になってゐる可能性が無くもないのであった。その証左に





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、夢の中の私はその《闇の夢》たる《吾》を形象して、無意識裡に私自身から私が死ぬまで、否、私が夢を見なくなるまで永劫に隠し果したい醜悪極まりない《異形の吾》を《闇の夢》に隠してゐるのは間違ひなく、その氷山の一角として、若しくはその証左として、《夢》となって私の眼前に現はれる《闇の夢》は、大概何かに変容するのが常なのであった。そして、私はといふと、浅い眠りの中で見る《闇の夢》が何かに変容するのを何時も待ち構へてゐて、大抵は《闇の夢》は《世界》へと変容し、夢は夢見中の私の眼前にその可視可能な《世界》となって拡がるばかりの何の変哲もない《もの》へと変容を遂げるのであった。斯様に《闇の夢》は大概《世界》へと変容はするが、尤も、何かの具体物、例へば、人間や動物などの創造物たる《もの》への変容は稀であり、それは多分に《吾》によって《吾》の本質の尻尾を捕まへられるのを極度に嫌ひ何としても私に私の本質が見破られる事を避ける《インチキ》をすることで、《吾》と夢の中で対峙する事態を回避してゐるのも間違ひのない事であった。そして、その《闇の夢》に隠されてゐる《もの》の一つに《死》の形象が《存在》するのは確かで、もしかすると私は、《死》といふ《もの》が無上の恍惚状態であるかもしれぬことを、何となく《闇の夢》が醸し出す雰囲気から無意識裡にでも感じ取ってゐたのかもしれなかったのである。其処で、





――へっ、《死》が無上の恍惚? 





といふ半畳を《吾》が《吾》に対して入れる自己矛盾に自嘲するでもなくはないのであるが、しかし、仮に《死》が無上の恍惚状態の涯に《存在》する何かであるならば、《吾》が《吾》に問ふ自問自答といふ《吾》における「阿片」たるその問ひ掛けの源が《死》といふ無上の恍惚状態から発してゐる《存在》の欠くべからざる必須の《もの》の如く、換言すれば、《存在》が《存在》であり続けるには、何としても必要な糧が《死》の無上の恍惚状態との仮定に立てば、成程、細胞六十兆程の統一体として《生きてゐる》私の個々の細胞の多くは、しかしながら自死してゐる事態を鑑みれば、《死》の無上の恍惚状態といふ事態が不思議と納得出来てしまふのも、また、私にとっては厳然とした事実なのであった。





 さて、其処で、私は、不意に腐敗Gas(ガス)で腹がぱんぱんに膨れ上がり、どろりと目玉が眼窩から零れ落ち、彼方此方で腐敗して肉体が欠落し白骨が剥き出した私の《死》の形象が脳裡を過る刹那に時々遭遇するのであるが、しかし、現代では死体は故意に遺棄されるか孤独死をしなければ腐敗するに任せることはなく、小一時間程の焼却で火葬され、さっきまで死体であった《もの》が白き骨の残骸に劇的に変化を遂げる、否、焼却といふ激烈な化学反応によって《死体》を無機物へと無理矢理還元させる現代において、私の《死》の形象は、妄想以外の何《もの》でもないのであったが、尤も、私が徐に深々と一息吸ひ込み《闇の夢》へと投身した時の深い眠りの時に見てゐるであらう夢は、もしかすると私の腐乱した《死体》との出会ひでしかないのかもしれぬ可能性も無くはないのであった。そして、私が《闇の夢》の中に隠してゐるのが《死》の無上の恍惚状態であるならば、私は、私の《死体》が時の移ろひと共に腐乱して行く《吾》の醜悪な、しかし、《自然》な姿を凝視しながら、即自、対自、そして脱自を繰り返しながら、或る時は《吾》は《吾》と分離した《異形の吾》として、また或る時は眼前に横たはる《吾》の腐乱した《死体》と同化しては、この上なく《死》の無上の恍惚状態を心行くまで堪能し尽くす《快楽》へと《吾》は身投げをし、更にはその恍惚状態の《吾》から幽体離脱しつつも、《吾》は尚も恍惚状態のままでゐる大いなる矛盾の中で絶えず《吾》である事を強制された《存在》として、《吾》を《闇の夢》が生んだ更なる夢の奥深くに《吾》を投企してゐるのかもしれなかったのである。





(六の篇終はり)







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2009 09/26 06:18:55 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――だが、これは愚問だけれども、何故《吾》の相対化は下らないのかね? 





――簡単なこった。《吾》が《吾》である責任を放棄してゐる《存在》のMoratorium(モラトリアム)こそが《吾》の相対化の本質に過ぎぬからさ。更に言へば、《吾》を相対化することで虚無主義に《吾》が堕する馬鹿馬鹿しさを、へっ、これまた相対化して阿呆面した《吾》がにたにたと嗤ってゐるに過ぎぬことにお前は未だ気が付かないのか、ちぇっ。





――つまり、《吾》は《吾》であることに、最早腹を括るしかないと? 





――たまさか、《吾》が《他》より確率が大きいばかりに、つまり《吾》は《他》より確率が《一》に突出して近いが為に《吾》は《吾》であることを強ひられることになったに過ぎぬのだが、ちぇっ、尤も、《吾》が《吾》であることは神すらも覆せない事実だと観念して受け入れるのが《吾》が此の世で生を享けた報ひに違ひないのだ。





――《吾》が《吾》であることはたまさかな事かね? 





――ふむ。それは如何とも解釈可能だな。たまさかな事かもしれぬし、宿命かもしれぬ、な。ふっふっふっ。だが、そんな事は別にどちらでも構はないぢゃないかね? 





――ああ、さうだ。別にどっちでも構はぬ。だが、《吾》にとっては全てが必然の方が安心するのは間違ひない。





――へっ、ここで自由の問題を持ち出すのかい? 





――いや、神の問題だ。





――詰まる所、自由の問題と神の問題は同じ事ぢゃないかね? 





――しかし、此の世の開闢の時を考へると、無と無限がぴたりと重なって、その重なり具合が絶妙この上ないが為に、《吾》の萌芽と成るべく不意に湧き出た《念》から思はず「ぷふぃ。」とその無上この上ない悦びから発せられたその無邪気な笑ひ声こそが、此の世の開闢を知らしめる喇叭の高らかで華やかな響きにも似たBig Bang(ビッグバン)の破裂音だと仮定すれば、自由の問題と神の問題とは似て非なる《もの》ぢゃないのかね? 





――さう、似て非なる《もの》だ。ひと言で言へば、無と無限の同一相において《念》は「ぷふぃ。」と思はず笑ひ声を発せずにはゐられなかった。それは何故だと思ふ? 





――へっ、その《念》が《吾》を《吾》だと認識したが為に《吾》なる《もの》が出現し、その《吾》はといふと、無と無限が裂けて大口を開けた刹那にこれまた出現した《パスカルの深淵》に此の世の開闢の瞬間、ちぇっ、思はず見蕩れてしまったのさ――。





――つまり、それ故《吾》と《他》が出現してしまったと? 





――ちぇっ、無と無限が裂けたのさ。





――だから、それで? 





――ちぇっ、唯、それだけの事だ。





――それで因果律が発生したと? 





――互いに離れ行く無と無限を時空間なる《もの》が何とか無と無限を串刺しにすることで辛うじて底無しの深淵がぱっくりとその大口を開けた無と無限の裂け目を弥縫した……。





――つまり、此の世には無と無限が共に《存在》し、無と無限が永劫に離れないやうに辻褄を合わせるが如くに、はっ、時空間が出現したと? 





――ちぇっ――。





――へっ、こんな様なら、神を《存在》から解放すべき神のゐない創世記をでっ上げるにしては何とも弱弱しくて而も物足りない。





――しかし、無と有を結ぶ何かの糸口は必要だ。





――それが《念》だと? その《念》が、無と無限がぴたりと重なった無上の愉悦の極点に達した刹那に思はず発してしまった「ぷふぃ。」といふ笑ひ声によって、その無上の愉悦の瓦解が始まった故に有たる此の世の時空間が生まれたと? 





――しかし、特異点は何をおいても先づは《存在》しなければならぬ……。





――それは、また、何故かね? 





――此の世が《存在》する為に決まってらあ。





――はて、特異点無くして此の世が生まれぬといふのは、へっ、大いなる矛盾を抱へ込むことになるが、さて、それを如何やって解きほぐすのだ? 





――重力ある処、即ち、《存在》ある処、また、特異点も在りき、さ。





――つまり、《存在》とは、特異点の仮面に過ぎぬと? 





――ああ。《存在》は特異点を蔽ひ隠す仮初の此の世での《存在》、即ち《物自体》の仮面に過ぎぬ。





――だが、それでも未だ神を《存在》から解放し、神のゐない創世記をでっち上げるには、へっ、論理的に矛盾してゐて、而もその論理では弱すぎるぜ。





――付かぬ事を尋ねるが、お前は霊魂が《存在》すると思ふかい? 





――何を藪から棒に! 





――実際のところ、如何なんだい? 





――ちぇっ。ぞんざいな物言ひだが、霊魂は《存在》した方が自然だ。しかし、それは飽くまで《念》と同様の《もの》としてだ。つまり、初めに生まれし《念》は、今も霊魂として有の世界若しくは時空間、即ち此の世に撒き散らされた形で、即ちBig Bang(ビッグバン)の残滓として《存在》してゐる筈さ。それは此の世に《存在》する宇宙背景輻射と、多分、同等の《もの》に違ひないのだ。





(五十の篇終はり)







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2009 09/21 06:22:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると《吾》とは既に幻影の類に成り果ててしまったのかね? 





――ふっふっふっふっ、さう望んだのは人間自身ぢゃないのかね? 





――何をしてお前にさう言はしめるのかね? 





――へっ、人間は人力以上の《力》を手にした途端、《世界》を神から掠奪する事に一見成功したやうに見えるが、その実、人力以上の《力》で作られ、その挙句、人工物で埋め尽くした此の人工の《世界》は、へっ、既に人間の想像の範疇を超えた何かでしかないからさ。そんな《世界》における世界=内=存在を一身で体現出来る《吾》なんて、へっ、幻影でなければ一体何だといふのかね? 





――つまり、この世界=内に《存在》する《吾》は、己の手で此の現実に対さねばならぬのっぴきならぬ立場に自らを追ひ込み、そして、人力の無力さを嫌といふ程味はひ尽くした上に、此の《世界》に対峙する事の辛酸を嘗め尽くさずば、《吾》の本当のところは不明といふ事かね? 否、むしろ己の虚無さ加減が解からぬといふ事かね? 





 その時、彼はゆっくりと瞑目し、瞼裡に朧にその相貌を浮き上がらせた或る《異形の吾》をきっと睨み付けてかう問ふたのであった。





――人間が人力以上の動力を手にした瞬間に、《吾》は《吾》の化け物と化して、その或る仮構された《吾》らしき《もの》を如何足掻いても《吾》と名指す外なく、そして、さう名指すことでやっとその無力なる己の屈辱感を一瞬でも忘却したかった、ちぇっ、つまり、この世界=内=存在を一身で体現しなければならぬこの《吾》といふ生き物のどん詰まりを味はひ尽くさずば、最早《吾》など泡沫の夢に過ぎぬといふことかね? 





――さう、人間は人間の欲望の涯に人力以上の動力を手に入れて、その《力》で強引にすら思へる程にこの現実を作り変へた結果、《吾》といふ実体を見失ってしまったのさ……否! 最早、《吾》といふ《もの》を実感を持って《吾》と、この《吾》は断言出来なくなってしまったのだ! 





――それは人力以上の動力を手にした《吾》は最早《世界》に対峙する術を、つまり、《生身の吾》によってしか対峙出来ぬ此の《世界》を見失ったといふことかね? 更に言へば、《吾》は《吾》本来の姿から遥かに膨脹してしまった何かに既に成り果ててしまったといふことかね? 





――ふっ、《吾》の膨脹ね――。人力以上の《力》で《世界》を人工の《もの》として神から掠奪し果せた人間は、換言すれば、その神から掠奪しようと己の手を汚して《世界》を手にした第一世代は、多分、未だ《吾》が《吾》である実感がしっかりとあったに違ひない筈だが、それ以降の世代、つまり、生まれる以前に既に《世界》が誰とも知らぬ他人(ひと)の手で人力以上の《力》で人工の《もの》へと変はってしまってゐた第二世代以降の人間は、さて、どうやって己の生存を保障したのかお前にも想像はつくだらう。





――つまり、《吾》は、《吾》であることを断念し、その誰とも知れぬ他人の手になる、しかも、人力以上の《力》で作り変へられてしまった人工の世界=内=存在に徹する外に、この《吾》が生き延びる術は最早残されてゐなかった……違ふかね? 





――詰まるところ、《吾》は《吾》本来備わってゐた筈の《生身の吾》といふ主幹を自らぽきりと折って、この人工の《世界》に適応するべく生える筈がない《吾》の蘗の生長を、へっ、架空する外なかったのさ、ちぇっ。





――へっ、その結果出現したのが、中身ががらんどうの、それでゐて人力以上の《力》を手にした故に膨脹せずにはゐられなかった《吾》の化け物を、ちぇっ、《吾》と名指す愚劣を犯す外になかったこの何とも哀れなる《吾》といふ訳か――。





――しかし、さうすると、この人工の《世界》をぶち壊せば、簡単に、元通りの再び神の《世界》の中の実感ある《吾》を取り戻せるのぢゃないのかね? 





――へっ、「創造と破壊」と言っては、ぷふぃっ、洒落る訳ね? 





――といふ事は、「創造と破壊」は最早無意味な呪文の一種でしかないと? 





――へっ、さうさ。シヴァ神を復活させたところで、最早其処にはTerrorism(テロ)の恐怖しか齎さないのは、忌まわしき日本のオーム真理教による地下鉄Sarin(サリン)事件といふTerrorismや宗教の忌まわしき処を具現化しちまった原理主義者による亜米利加(US)で起きた同時多発Terrorismが図らずも証明しちまったのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》の実感を追ひ求めることは、即ち、原理主義の台頭を、就中(なかんづく)、暴力を絶対的に肯定する「聖戦」を掲げた原理主義に直結しちまふ時代が到来しちまったといふことだね? 





――さう、哀しい哉、《吾》は、ちぇっ、この主幹なき《吾》の蘗が生長し、その内部に《虚(うろ)の穴》を持つこの《吾》は、人力以上の《力》を手にし膨張に膨張を重ねた揚句に誕生しちまったこの《吾》といふ名の化け物と何とか折り合ひをつけなければ、只管、無意味な《死》、つまり、犬死する《吾》、若しくは現代の人身御供たる《吾》を大量に生み出すのみの何とも惨憺たる状況に《吾》は既に陥っているといふことさ。





――その因が、即ち人類が人力以上の《力》を手にして此の《世界》を神から掠奪したといふことなのか――。





(三の篇終はり)







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2009 09/19 06:18:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、人類の、此の叡智に満ちた人類、ちぇっ、人類が何《もの》かは知らぬが、その人類の未踏の地として脳はあるが、はっはっ、人間は脳を科学的に理論付けるのにまたしてもへまをやらかしてゐる。





――人間のへま? 





――さうさ。脳科学では脳は何処まで行っても脳以外の何ものでもない! 





――しかし、お前も俺も此の頭蓋内の闇を脳といふ構造をした五蘊場と敢へて名付けて、脳が脳でしかないことを飽くまで否認してゐる……違ふかね? 





――ふっふっふっふっ、その通りさ。此の頭蓋内の闇は脳といふ構造をした《場》でなければ、其処で底無しのパスカルの深淵が大口をばっくりと開けたり、《異形の吾》共がにたにたといやらしい嗤ひをその醜悪なる顔貌に浮かべながら《存在》したり、将又(はたまた)、因果律が全く役に立たずに壊れてゐる虚空が現出する筈はないのさ。





――すると此の五蘊場は特異点とFractal(フラクタル)な関係、換言すれば、自己相似の関係にあると? 





――おそらくな。それ以前に電気がある処電磁場が発生する如く、頭蓋内の闇もまたその様にあるに違ひない筈だ。





――つまり、脳細胞の一つ一つが超絃理論の《ひも》の如くにあるといふことかね? 





――それは解からぬが、唯、この頭蓋内の闇を全て脳の仕業に帰すのは本末転倒もいいところなのは間違ひない。





――つまり、脳による思考は、例へば、無限を内包したり、論理を軽々と飛び越えるからかね? 





――例へば、非論理的な《もの》を論理に閉ぢ込めれば如何なると思ふかね? 





――へっ、《一》=《一》が絶対君主としてその権勢を揮ふ、論理の恐怖政治が、つまり、論理の絶対主義が始まる。





――その時、この非論理的なる《吾》は如何なると思ふ? 





――自死するに決まってる……。





――でなけりゃ、《吾》は非論理的なる世界の、つまり、闇世界に潜るしかない。





――それでも此の人間は、哀しい哉、脳すらも徹頭徹尾論理的に語り果(おほ)したい欲望には抗へない。





――ぶはっはっはっはっ。何処まで論理が非論理的なる《もの》に迫れるか見物だぜ。





――まあ、そんな事より、《個時空》といふ考へ方に従へば、此の頭蓋内の闇たる五蘊場は《吾》の内部故に、つまりは《吾》の文字通りの《皮袋》から負の距離にある故に、例へば、速度vと時間tが共に仮初に虚数、つまり、viとtiといふ状態にあると仮定すれば、当然其処で表はれる距離vi×tiは負数になるのは言はずもがなであるが、それ故に此の頭蓋内の闇たる五蘊場は虚数的なる《もの》が犇めく「先験的」に因果律が不成立な《場》として《吾》に賦与されてゐるに違ひないとすると、五蘊場もまた量子「色」力学と関係した量子的な《場》と考へずにはゐられぬ筈なのに、何故に、人間は解剖すれば眼前に現はれる《実体》たる脳にばかりにそれ程まで拘るのだらうか? 





――へっ、脳細胞が電気信号のやり取りで情報を伝達してゐると解かった段階で、脳に量子場の考へ方を導入しなければならないのは当然として、つまり、其処で五蘊場に表象される《もの》は確率《一》には決してなり得ぬ表象群に支へられてゐて、その表象群は決して《一》にはならぬ、換言すれば現実で《実体》として具体化してはならぬといふことがさっぱり解からぬのか、人間はその考え、つまり、《一》≠《一》が通常の姿で、《一》=《一》は異常極まりない事象だといふ考へ方に我慢がならぬさ。その結果が、此の人工物で埋め尽くされた《外界》といふ名の世界の、哀れな、そして悲惨極まりない姿の現出だ。





――つまり、人間が頭蓋内の闇たる五蘊場に生滅する表象群を外界で《実体》として具体化してしまふのは、人間が《実感》が欲しいといふこと、たったそれだけのことぢゃなのかね? 





――さう、《実感》だ。《吾》は《吾》といふ確率が《他》より大きいだけに過ぎぬことに、つまり、《吾》が《吾》であるその《存在根拠》が決して確率《一》になり得ぬことに我慢がならぬのさ。《吾》は何処まで行っても《吾》であって欲しい、唯、それだけの理由で、《一》=《一》といふ特異な事象が恰も一般的な事象であるかの如く振舞ふ自同律の恐怖政治、換言すれば、論理が暴君として支配する「解かりやすい」世界観の天下に《吾》は甘えたいのさ。





――ふっ、《吾》の確率が《一》になることは不可能事に違ひない……か。





――しかしだ、さうだとすれば尚更《吾》の《存在》は何もかも相対的なる《存在》といふ陥穽に陥ると思はないかい? 





――ちぇっ、実際、《吾》は《吾》を相対化した論理で語られてゐるのが現状じゃないか! 下らない事にな。





――やはり《吾》の相対化は下らないかね? 





――ああ、下らないね。





(四十九の篇終はり)







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2009 09/14 05:56:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――別に如何仕様もしないが、しかし、虚空とはそもそも何なのかね? 





――ふほっほっほっほっ。「在ると思へば立ちどころに出現し、無いと思へば立ちどころに消滅するところの、その時空間自体」のことぢゃて。





――ちぇっ、それは主観、それも絶対的な主観のことではないのかね? 





――さて、お前は夢が徹頭徹尾お前の《もの》だと断言出来るかね? 





――くっ、口惜しくてならないのだが、俺にはさう断言出来ぬのだ! 





――つまりぢゃ、それは主観は主観で完結出来ぬといふことぢゃが、はて、其処で何か言ひたいことはあるかね? 





――つまり、主観と吾等が呼んでいる《もの》は、この肉体同様、耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々、外部に開かれた穴凹だらけの《存在》に違ひないといふことではないのかね? 





――その外部が虚空ぢゃよ。





――主観の外部? 主観の外部は客観ではないのかね? 





――ふほっほっほっほっ。さて、客観とは何のことかね? 





――ちっ。





――客観とは主体の傲りの表はれではないのかね? 





――主体の傲り? 





――さうぢゃ。「《吾》此処に在り、それ故、客観は主観に従属せよ!」といふことを暗黙裡の前提として、正にその主体が己のことを主体と名指す《吾》のその悪癖故に、主体は客体を悪し様に扱ふ。其処でぢゃ、さて、《吾》は本当に《吾》かね? 





――つまり、《吾》そのものが虚妄だと? 





――ふほっほっほっほっ。虚妄故に《吾》を《吾》が虚妄と断言することは、《吾》が《吾》に対する《存在》の責任を放棄することに直結する故に、《吾》は《吾》として実在する《もの》と狂信する外ないのぢゃ、ふほっほっほっほっ。





――何故《吾》が《吾》を虚妄と名指すことが《吾》に対する《存在》の責任放棄に結び付いてしまふのかね? 





――《吾》が《吾》を虚妄であると断言することは、或る「神」の視点から眺めると言へばよいのか、否、つまり、悪意的にその事を曲解すればぢゃ、《吾》はその時全的自由を獲得したと一見見えるかもしれぬが、しかし、その実、《吾》がその様に振舞ふことをこの《吾》は絶対に受け入れぬし、また、全的自由なんぞ、この《吾》に持ち切れる筈がない! 





――つまり、《吾》が野放図に堕してしまふからかね? 





――はて、つかぬことを聞くが、お前は絶対の無限なる《もの》を持ち切れるかね? 





――ふっ、否が応でも《吾》はその無限なる《もの》を持ち切る外ないんだらう? 





――ふほっほっほっほっ。その通りぢゃて。《吾》はその無限なる《もの》から遁れたい故に《吾》なる《存在》を虚妄と看做したいのぢゃ。





――だが、しかし、《吾》はそもそも泡沫の夢の如く生滅する虚妄の一事象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっ、その通りぢゃ。しかし、《吾》には決してさうは出来ぬ、つまり、この《吾》の《存在》を虚妄と看做すことは出来ぬ宿命を負ってゐる。





――宿命? 何の宿命かね? 





――《吾》が《吾》故に《吾》ならざる《吾》へと絶えず変容する外に此の宇宙での存在意義がないといふ宿命、ふっ、つまり、此の無限にすら思へる宇宙に対峙するには、《吾》は《吾》を徹底的に擁護せずにはゐられぬ宿命だからぢゃて。





――そして、《吾》は《吾》を絶えず弾劾せずにはゐられぬ《もの》として此の世に《存在》することを強要される……違ふかね? 





――それは「神」の摂理と言ひたいところぢゃが、詰まる所、《吾》は《吾》にのみにその《存在》を弾劾される《存在》としてしか、ふっ、《存在》出来ぬ悲哀……。





――やはり《存在》は悲哀かね? 





――ふほっほっほっほっ。それは絶えず《吾》に「《吾》とはそもそも何《もの》か?」といふ猜疑心が爆発する危険を孕んだ《吾》といふ《存在》が「先験的」に持つ危うさ故に、《存在》はそれが何であらうと悲哀なのぢゃ。





――へっ、だが、《吾》が《吾》で完結するなどといふ愚劣極まりない存在論にしがみ付く時代は疾うに終わってしまった事だけは間違ひないぜ。





(二の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 09/12 05:04:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――やはり全ての元凶は《吾》か……。





――Big Bang(ビッグバン)以降、此の宇宙が膨張すればするほど、《吾》のその底無しの深淵は更に更に更にその正体をその深淵の奥底深く隠すのさ。





――それでは何故Big Bangは始まってしまったのだらう……。





――多分、無と無限がぴたりと重なったその無上の恍惚感が、その恍惚故に自壊したに違ひない。





――此の宇宙の開闢は恍惚の自壊故にと? 





――多分、無と無限がぴたりと重なった己の不思議を無時空が認識しちまった刹那、無時空は思はず「ぷふぃ。」と笑ひ声を発してしまった……。





――へっ、また「ぷふい。」か。





――さう、それ故「初めに念生まれし」なのさ。そして、その残滓が《存在》の内部に隠されてゐるであらう特異点の《存在》さ。





――やはり自同律が成立するには如何あっても《吾》といふ《存在》には底無しの特異点が《存在》することを考慮に入れなけりゃ、駄目だっていふことか? 





――でなければ、此の宇宙が出現する必要はなかった……。





――しかし、《吾》と《反=吾》とが、陰陽魚太極図の目玉模様を為す太極の如く、勾玉状の《もの》が渦を巻くその特異点の《存在》を端的に名指した存在論が、これまで《存在》しなかったのは何故かね? 





――へっ、所詮人間の存在論は自同律の呪縛から一歩も遁れられなかったのさ。





――つまり、如何なる存在論も性と生と死の問題に目を瞑ってゐたといふことかね? 





――《即自》や《対自》や《脱自》等と《吾》を色々と定義付けをしてみたが、結局のところ、それらは全て《吾》の、つまり、《一》=《一》の自同律の呪縛から脱することは出来なかったのさ。ふっ、《吾》は先づ《存在》に対しての敗北を認めることからしか《存在》を語ることは出来ないと観念するのが先決さ。





――つまり、それは《一》=《一》が特異な事象だと、換言すれば、大概は此の宇宙は《一》≠《一》の事象にあるといふことだね? 





――ああ、さうさ。しかし、へっ、《一》≠《一》と聞いただけで《吾》は苦笑して、その論理から逃げることばかりに終始するのがこれまでの存在論の惨憺たる状況だ。





――「初めに念生まれし。そして、《吾》は《吾》の底無しの深淵を発見せし。そして、《吾》は思はずその深淵を覗き込みし。その後、《吾》は《吾》から面を上げて《他》を見出しぬ。」





――つまり、その《他》とは此の宇宙の涯の一つの解としての相貌だった……。





――すると、《もの》が《存在》するとはその《存在》が此の宇宙の涯を表象してゐるといふことだね? 





――ああ。でなければ、時空間が膨張に膨張を続け《吾》と《他》が何処までも離れ行くBig Bangは起こる筈がなかった。





――《吾》が《吾》と認識した刹那、無と無限は引き裂かれ、パスカルの深淵がばっくりとその大口を開けた……。





――そして、《吾》は、特異点を包含せざるを得ぬこの《吾》の自意識は、そのパスカルの深淵を永劫に自由落下する。





――その一つの表れが重力だと思ふかね? 





――ああ。





――ちぇっ、此の宇宙の開闢は、念が生まれてしまった所為で《吾》の底無しの深淵、つまり、特異点の底の底の底を覗き込んでしまったことにその因があるのか――。其処でだ、単刀直入に聞くが、《存在》に内包されてゐる特異点の《存在》を暗示するその根拠は何かね? 





――意識の《存在》さ。意識において、つまり、その意識は永劫にパスカルの深淵を自由落下してゐるのだが、其処では因果律は壊れてゐることが特異点の《存在》を如何しても暗示してしまふのさ。





――つまり、この頭蓋内の闇たる五蘊場では、《吾》は未来へも過去へも、勿論現在にも自在に行き交ふことが可能といふ異常事態が何の変哲もない日常茶飯事といふことが、如何あっても特異点の《存在》を表象せずにはをれぬといふことかね? 





(四十八の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 09/07 06:48:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ああ、その通りさ。しかし、《存在》は無若しくは無限をも掌中に収める特異点を内包してゐなければ《存在》自体が成立しない。





――つまり、《パスカルの深淵》は外部にも内部にもあるといふことか……。《主体》にとってそれは過酷だね。





――何を他人事のやうに? 君も《自意識》を持つ《存在》たる《主体》ならば、この地獄の如き底無しの《深淵》は知ってゐる筈だし、現に君はその底無しの《深淵》に飛び込んでゐるじゃないか? 





――私の場合は強ひて言へば、最早《存在》といふ《もの》が綱渡りの如くにしか《存在》出来ない《主体》において、私といふこの《主体》が、その《存在》の綱を踏み外してしまって、結果的にこの《深淵》に落っこっちまったに過ぎぬのさ。今の世、《主体》が《主体》であり続けるのはCircus(サーカス)の曲芸よりも至難の業だぜ。





――君はそんな《主体》の有様に疑念を抱かなかったのかい? 





――疑念で済んでゐれば《存在》の綱を踏み外してこんな《深淵》に落っこちっこなかった筈さ。





――自虐、それも徹底した自虐の末路がこの《深淵》といふことかね? 





――いいや、私の場合は唯《杳体》に魅せられて《杳体》の虜になっただけのことさ。つまり、《杳体》の面が見たかったのさ。





――《杳体》の面? 





――《存在》の綱渡りをしてゐる最中に《杳体》なる《もの》の幻影を見てしまったのさ。





――それが《存在》の陥穽、つまり、特異点と知りながらかい? 





――ああ、勿論だとも。端的に言へば《存在》することに魔がさしたのさ。《主体》であることが馬鹿らしくなってね。其処へ《杳体》の魔の囁きが不図聞こえてしまったのさ。





――どんな囁きだったんだい? 





――「無限が待ってゐるよ」とね。さう囁かれると《主体》はどう仕様もない。一見すると有限にしか思へない《主体》は《無限》に平伏する。《無限》を前にすると最早《主体》は抗へない。つまり、《主体》内部の特異点が《無限》と呼応してしまふのさ。





――ふむ。ところで君は《杳体》がのっぺらぼうだとは思はなかったのかい? 





――のっぺらぼうの筈がないじゃないか! 





――何故さう断言出来るのかね? 





――つまり、《主体》にすら面があるからさ。そして《他者》にも面がある。更に言へば、此の世の森羅万象全てに面がある。





――だから《杳体》にも面があると? 





――一つ尋ねるが、闇に面があるかね? 





――ふむ。闇といふ言葉が《存在》する以上、面はあるに違ひない。





――へっ、さうさ。その通り。だから《杳体》も《杳体》と名指した刹那に面が生じるのさ。





――すると、のっぺらぼうものっぺらぼうと名指した刹那にのっぺらぼうといふ面が生じるのかい? 





――へっ、のっぺらぼうとは無限相の別称さ。





――無限相? 





――無限に相貌を持つといふことは面貌の無いのっぺらぼうに等しい――。





――それぢゃ、無と無限がごちゃ混ぜだぜ。





――逆に尋ねるが、無と無限の違ひは何かね? 





――ふっ、それは愚問だよ。





――さうかね? 愚問かね。それぢゃ、端的に言ふが、無と無限の違ひはその位相の違ひに過ぎない。





――詰まる所、それは特異点の問題か……。





――無と無限が此の世に《存在》するならば――この言ひ方は変だがね――特異点も必ず《存在》する。それをのっぺらぼうと名付けたところで、無から無限までの∞の相貌がのっぺらぼうの面には《存在》してしまふのさ。





(七 終はり)







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2009 09/05 11:16:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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