思索に耽る苦行の軌跡

2009年 09月 26日 の記事 (1件)


 それにしても夢において闇を形象するといふ曲芸、否、《インチキ》を堂々と成し遂げてしまって





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、自嘲の嵐の中で





――それは至極当然だ。





といった態度で恰も泰然自若を装ひ嘯くその《吾》は、その実、闇そのものを訝しりながらも途轍もなく偏愛して已まないのも、これまた厳然とした事実として自覚してゐる何ともふてぶてしい私は、闇を《物自体》として仮初にも仮象してゐるのかもしれなかったのである。つまり、





――此の世の根本は闇である。





と、何かを達観した僧侶の如く己を偽装したいが為に私は、夢でも《闇の夢》を、つまり、《闇》の虜と化した何《もの》かに変化し果(おほ)せてしまって、それは、また、恰も木の葉隠れの術の如き忍法にも似た《私》の隠れ蓑になってゐる可能性が無くもないのであった。その証左に





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、夢の中の私はその《闇の夢》たる《吾》を形象して、無意識裡に私自身から私が死ぬまで、否、私が夢を見なくなるまで永劫に隠し果したい醜悪極まりない《異形の吾》を《闇の夢》に隠してゐるのは間違ひなく、その氷山の一角として、若しくはその証左として、《夢》となって私の眼前に現はれる《闇の夢》は、大概何かに変容するのが常なのであった。そして、私はといふと、浅い眠りの中で見る《闇の夢》が何かに変容するのを何時も待ち構へてゐて、大抵は《闇の夢》は《世界》へと変容し、夢は夢見中の私の眼前にその可視可能な《世界》となって拡がるばかりの何の変哲もない《もの》へと変容を遂げるのであった。斯様に《闇の夢》は大概《世界》へと変容はするが、尤も、何かの具体物、例へば、人間や動物などの創造物たる《もの》への変容は稀であり、それは多分に《吾》によって《吾》の本質の尻尾を捕まへられるのを極度に嫌ひ何としても私に私の本質が見破られる事を避ける《インチキ》をすることで、《吾》と夢の中で対峙する事態を回避してゐるのも間違ひのない事であった。そして、その《闇の夢》に隠されてゐる《もの》の一つに《死》の形象が《存在》するのは確かで、もしかすると私は、《死》といふ《もの》が無上の恍惚状態であるかもしれぬことを、何となく《闇の夢》が醸し出す雰囲気から無意識裡にでも感じ取ってゐたのかもしれなかったのである。其処で、





――へっ、《死》が無上の恍惚? 





といふ半畳を《吾》が《吾》に対して入れる自己矛盾に自嘲するでもなくはないのであるが、しかし、仮に《死》が無上の恍惚状態の涯に《存在》する何かであるならば、《吾》が《吾》に問ふ自問自答といふ《吾》における「阿片」たるその問ひ掛けの源が《死》といふ無上の恍惚状態から発してゐる《存在》の欠くべからざる必須の《もの》の如く、換言すれば、《存在》が《存在》であり続けるには、何としても必要な糧が《死》の無上の恍惚状態との仮定に立てば、成程、細胞六十兆程の統一体として《生きてゐる》私の個々の細胞の多くは、しかしながら自死してゐる事態を鑑みれば、《死》の無上の恍惚状態といふ事態が不思議と納得出来てしまふのも、また、私にとっては厳然とした事実なのであった。





 さて、其処で、私は、不意に腐敗Gas(ガス)で腹がぱんぱんに膨れ上がり、どろりと目玉が眼窩から零れ落ち、彼方此方で腐敗して肉体が欠落し白骨が剥き出した私の《死》の形象が脳裡を過る刹那に時々遭遇するのであるが、しかし、現代では死体は故意に遺棄されるか孤独死をしなければ腐敗するに任せることはなく、小一時間程の焼却で火葬され、さっきまで死体であった《もの》が白き骨の残骸に劇的に変化を遂げる、否、焼却といふ激烈な化学反応によって《死体》を無機物へと無理矢理還元させる現代において、私の《死》の形象は、妄想以外の何《もの》でもないのであったが、尤も、私が徐に深々と一息吸ひ込み《闇の夢》へと投身した時の深い眠りの時に見てゐるであらう夢は、もしかすると私の腐乱した《死体》との出会ひでしかないのかもしれぬ可能性も無くはないのであった。そして、私が《闇の夢》の中に隠してゐるのが《死》の無上の恍惚状態であるならば、私は、私の《死体》が時の移ろひと共に腐乱して行く《吾》の醜悪な、しかし、《自然》な姿を凝視しながら、即自、対自、そして脱自を繰り返しながら、或る時は《吾》は《吾》と分離した《異形の吾》として、また或る時は眼前に横たはる《吾》の腐乱した《死体》と同化しては、この上なく《死》の無上の恍惚状態を心行くまで堪能し尽くす《快楽》へと《吾》は身投げをし、更にはその恍惚状態の《吾》から幽体離脱しつつも、《吾》は尚も恍惚状態のままでゐる大いなる矛盾の中で絶えず《吾》である事を強制された《存在》として、《吾》を《闇の夢》が生んだ更なる夢の奥深くに《吾》を投企してゐるのかもしれなかったのである。





(六の篇終はり)







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2009 09/26 06:18:55 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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