※お詫び
【只今「審問官 第一章」を書籍にする作業に取り掛かっているため、このブログの更新は暫くの間、不定期となります。悪しからず。】
――だが、「科学」的な世界認識の仕方は、数多あるであらう世界認識法の一つに過ぎない。それ以前に「科学」の最終目標は《神》の《摂理》を解き明かす事に過ぎぬのぢゃないかね?
――ふっふっふっ。つまり、未だに此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ《無》から《有》を生んでゐない。換言すれば、《神》の《摂理》を超える論理を見出せず仕舞ひの、へっ、唯の木偶(でく)の坊に過ぎぬ!
――さう。《存在》はそれが何であれ己の出自すら解からぬ木偶の坊さ。そして、木偶の坊故に《もの》皆考へるのさ。
――さて、思念は時空間を《超越》するかね?
――何故思念が時空間を《超越》すると?
――《神》に《存在》からの解放を齎す為さ。
――その為に木偶の坊は思考すると?
――さう。無い智慧で、どう足掻いたところで《神》になれぬ木偶の坊は、只管考へるしか《存在》に対峙する術はない。
――《存在》に対峙する? それは、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ考へる木偶の坊に過ぎぬ《もの》全ては、さて、考へる事によって《存在》と対峙してゐるつもりが、さうぢゃなく、へっ、只管《存在》から遁走してゐるのぢゃないかね?
――それで別に構はぬではないか?
――別に構はぬ? それぢゃ、《神》を《存在》から解放するなど夢のまた夢に過ぎぬぢゃないかね?
――土台、此の世に《存在》しちまった《もの》は《神的=もの》、それは《神》にも変容可能な筈だが、此の世の森羅万象はその《神的=もの》を渇望して已まない。つまり、《存在》する《もの》はそれが何であれ独りでは、または、一つでは決して《存在》することなぞ不可能なやうに「先験的」に定められてゐるのさ。
――つまり、《存在》する《もの》全てに祈りの対象は必要不可欠と?
――違ふかね?
――無神論者は、すると、なにかね?
――へっ、己を信仰の対象にしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね、無神論者は。
――つまり、《存在》しちまった《もの》は、《存在》する為にその拠り所、若しくは依拠する《存在》が、つまり、《存在》は必ず《対‐存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと?
――さう。己を映す鏡的な《存在》、つまり、《吾》と《鏡面上の吾》の《対‐存在》としてしか《存在》することは不可能に違ひない。
――その《鏡面上の吾》は《異形の吾》であり、《他》であり、そして《闇》の事だらう?
――ちぇっ、だから《吾》なる《もの》は駄目なのだ! 《鏡面上の吾》とは、《吾》を此の世の中心から退かす何かでなければならぬのさ。
――それは、つまり、《吾》を相対化する、《吾》の《存在》からの逃げ口上に過ぎぬのぢゃないかね?
――それでも《吾》は一遍世界の中心から周縁へと《存在》する場所を、ちぇっ、それを場所と名指していい《もの》かどうかは解からぬがね、その《吾》の場所を世界の中心から世界の周縁へとその席を譲らなければならぬのだ。
――何に席を譲ると?
――《吾》ならざる何かさ。
――《吾》ならざる何かは《他》ではないのかね?
――へっ、《他》もまた己の事を《吾》と名指すだらう。
――すると、その《吾》ならざる何かとは、具体的に言ふと何かね?
――さうさねえ……、無理矢理言ふと、《吾》ならざる何かとは彼の世の、嘗て《吾》だった《もの》かな。
――つまり、此の世の中心は《死》が相応しいと?
――ああ。《生》なんぞ信ずるに値しないだらう?
――しかし、《生》として《存在》する《もの》は《生》故に考へる事も可能ではないかね?
――ちぇっ、お前は《死》が考へないとでも端から看做してゐるのか!
――いいや、決して。唯、《生者》にとって《死》は《超越》出来ぬ何かだからね。
――しかし、《死》こそ日常の本質ぢゃないかね?
(六十三の篇終はり)
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