思索に耽る苦行の軌跡

2010年 01月 の記事 (2件)

――へっへっへっ。最早、何《もの》も、ちぇっ、「俺は俺だ!」ときっぱりと断言出来る《存在》としての、換言すれば、此の《生者》のみが「俺は俺だ!」と宣ふ事を許された《存在》としての、へっへっ、この《生者》たる《吾》は、恰もそんな《吾》が此の世に《存在》するが如く《吾》といふ《存在》を無理矢理にも、若しくは自棄(やけ)のやんぱちにでも架空せざるを得ず、また、神から掠奪した人工の《世界》において、《吾》を《吾》と名指す事のその底無しの虚しさは、《吾》の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》の底無しを表はしてゐるに違ひないのだが、さて、《死》を徹底的に排除した《生者》のみが棲息するこの人力以上の動力で作り上げられた此の人工の《世界》は、へっ、自然に対して余りにも羸弱(るいじゃく)ではないかね? 





――それは全く嗤ひ話にもならぬ事だが……。此の《生者》の為のみに作り上げられた人工の《世界》は全くもって自然に対して羸弱極まりない! 





――すると、此の人工の《世界》に生きる事を、若しくは《存在》する事を強要された《吾》といふ架空され、《吾》の妄想ばかりが膨脹した此の《吾》もまた、自然、ちぇっ、単刀直入に言へば《死》を含有する自然に対しては羸弱ではないかね? 





――へっ、元来、《吾》が《死》に対して強靭だった事など、此の宇宙全史を通じてあったかね? 





――だが、自然にその生存を全的に委ねてゐた時代の《吾》たる《もの》は、傍らに《死》が厳然と《存在》してゐた分、それを敢へて他力本願と名指せば、己の命を《吾》為らざる《もの》に全的に委ねるといふ、何とも潔い《生》を生きてゐた筈だ。つまり、《死》が身近故に、《存在》は《存在》する事に腹を括り、そして、《吾》は蘗の《吾》をも含めて如何様の在り方をする千差万別の《吾》を、《世界》も《吾》も極当然のこととして受け容れてゐた。





――ふむ……。《生》が《死》へと一足飛びに踏み越え、簡単に自ら死んで行く、つまり、それ故、原理主義が彼方此方に蔓延(はびこ)る、へっ、その結果、《死》に対して何とも余りに羸弱極まりない《吾》、そして、その《吾》の《存在》の無理強ひが《死》を徹底的に排除した人工の《世界》へと遂には結実して行くのだが、しかし、嘗ての《吾》が多様に《存在》する、若しくは自在に《存在》出来てゐたに違ひない神と共に《存在》出来た神の世において、果たして、狂信は齎されなかったとでも思ふのかい? 





――いいや、何時の時代でも《もの》は何かを狂信してゐたに違ひない筈さ。





――ならば、何故、彼方此方に蔓延る現代の原理主義ばかりを特別視するのかね? 





――現代の原理主義は、徹頭徹尾《生者》の論理、ちぇっ、それは裏を返せば冷徹な《死》の原理に地続きなのだが、それ故、現代の原理主義は、二分法を極めて厳格に適応した末に生まれてしまった、その実、背筋がぞっとせずにはいられぬ代物でしかないからさ。





――つまり、蘗の《吾》としてしか《存在》する事が許されぬこの《吾》といふ《インチキ》を平然と為し遂げて、いけしゃあしゃあと恰もその蘗の《吾》を本当の《吾》と仮想、否、狂信し、而も、その蘗の《吾》の出自に目をやる余裕すら失ってしまった此の《生者》の論理ばかりが罷り通る人工の《世界》は、へっ、その人工の《世界》自体が自然に対して極めて羸弱極まりないといふその論理的な破綻を、果たして、此の世に《存在》する《もの》の何(いづれ)かは論理的に破綻せずに語り果(おほ)られるかね? 





――ふっふっふっ。自然に対して極めて極めて羸弱な《世界》って、さて、何なのだらうか……? 





――つまり、人工の《世界》と自然とが相容れない状態でしか互ひに《存在》してゐない事それ自体、へっ、つまり、詰まる所、此の人工の《世界》そのものが、元々自然と重なり合ってゐたに違ひない《世界》なる《もの》もまた、その本質をぽっきりと折られ、蘗の《世界》としてしか《存在》してゐないとすると、ちぇっ、人類史とは一体全体何の事なのだらうか? 





――無知無能なる《生者》が、全智全能なる《もの》の振りをするべく、神の下の《世界》をぽきりと折って、神を、そして、《死》を徹底的に排除する事で、《生者》天国の人工の《世界》が、恰も此の世に創出可能な如くに《生者》が見栄を張ってゐたに過ぎぬとすると、《存在》とはそもそも何と虚しき《存在》なのであらうか? 





――ちぇっ、何を今更? 元来、頭蓋内の闇に明滅する表象群は、恰も絶えずその表象群が無辺際に湧出するが如く看做すこの《吾》は、己の頭蓋内の闇を覗き込んで、その頭蓋内の闇といふ五蘊場に明滅する数多の表象群を眼前に取り出した揚句に、ちぇっ、結局のところ、頭蓋内の闇の表象群を外在化させて作り上げた人工の《世界》から帰結出来る事と言へば、《生者》の頭蓋内の闇といふ五蘊場から《死》を徹底的に排除してゐるに過ぎぬといふ事ぢゃないかね? 





(五の篇終はり) 







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2010 01/30 05:46:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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※お詫び



【只今「審問官 第一章」を書籍にする作業に取り掛かっているため、このブログの更新は暫くの間、不定期となります。悪しからず。】








――だが、「科学」的な世界認識の仕方は、数多あるであらう世界認識法の一つに過ぎない。それ以前に「科学」の最終目標は《神》の《摂理》を解き明かす事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。つまり、未だに此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ《無》から《有》を生んでゐない。換言すれば、《神》の《摂理》を超える論理を見出せず仕舞ひの、へっ、唯の木偶(でく)の坊に過ぎぬ! 





――さう。《存在》はそれが何であれ己の出自すら解からぬ木偶の坊さ。そして、木偶の坊故に《もの》皆考へるのさ。





――さて、思念は時空間を《超越》するかね? 





――何故思念が時空間を《超越》すると? 





――《神》に《存在》からの解放を齎す為さ。





――その為に木偶の坊は思考すると? 





――さう。無い智慧で、どう足掻いたところで《神》になれぬ木偶の坊は、只管考へるしか《存在》に対峙する術はない。





――《存在》に対峙する? それは、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ考へる木偶の坊に過ぎぬ《もの》全ては、さて、考へる事によって《存在》と対峙してゐるつもりが、さうぢゃなく、へっ、只管《存在》から遁走してゐるのぢゃないかね? 





――それで別に構はぬではないか? 





――別に構はぬ? それぢゃ、《神》を《存在》から解放するなど夢のまた夢に過ぎぬぢゃないかね? 





――土台、此の世に《存在》しちまった《もの》は《神的=もの》、それは《神》にも変容可能な筈だが、此の世の森羅万象はその《神的=もの》を渇望して已まない。つまり、《存在》する《もの》はそれが何であれ独りでは、または、一つでは決して《存在》することなぞ不可能なやうに「先験的」に定められてゐるのさ。





――つまり、《存在》する《もの》全てに祈りの対象は必要不可欠と? 





――違ふかね? 





――無神論者は、すると、なにかね? 





――へっ、己を信仰の対象にしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね、無神論者は。





――つまり、《存在》しちまった《もの》は、《存在》する為にその拠り所、若しくは依拠する《存在》が、つまり、《存在》は必ず《対‐存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――さう。己を映す鏡的な《存在》、つまり、《吾》と《鏡面上の吾》の《対‐存在》としてしか《存在》することは不可能に違ひない。





――その《鏡面上の吾》は《異形の吾》であり、《他》であり、そして《闇》の事だらう? 





――ちぇっ、だから《吾》なる《もの》は駄目なのだ! 《鏡面上の吾》とは、《吾》を此の世の中心から退かす何かでなければならぬのさ。





――それは、つまり、《吾》を相対化する、《吾》の《存在》からの逃げ口上に過ぎぬのぢゃないかね? 





――それでも《吾》は一遍世界の中心から周縁へと《存在》する場所を、ちぇっ、それを場所と名指していい《もの》かどうかは解からぬがね、その《吾》の場所を世界の中心から世界の周縁へとその席を譲らなければならぬのだ。





――何に席を譲ると? 





――《吾》ならざる何かさ。





――《吾》ならざる何かは《他》ではないのかね? 





――へっ、《他》もまた己の事を《吾》と名指すだらう。





――すると、その《吾》ならざる何かとは、具体的に言ふと何かね? 





――さうさねえ……、無理矢理言ふと、《吾》ならざる何かとは彼の世の、嘗て《吾》だった《もの》かな。





――つまり、此の世の中心は《死》が相応しいと? 





――ああ。《生》なんぞ信ずるに値しないだらう? 





――しかし、《生》として《存在》する《もの》は《生》故に考へる事も可能ではないかね? 





――ちぇっ、お前は《死》が考へないとでも端から看做してゐるのか! 





――いいや、決して。唯、《生者》にとって《死》は《超越》出来ぬ何かだからね。





――しかし、《死》こそ日常の本質ぢゃないかね? 





(六十三の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2010 01/11 06:24:21 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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