思索に耽る苦行の軌跡

2010年 09月 の記事 (4件)

――だが、直立歩行を始めた人類は、どうあっても 己自体の進化よりも環境を己のままに変へたい性(さが)はどう仕様もないのだらう、それが人類が誕生した「意味」だとしたならば? 





――はて、それは人類の性かね? つまり、環境がこれ迄生き物がその環境に順応するべく進化と言ふものは進んできた筈だが、人類が誕生したことで進化の過程は全生物史を通じてコペルニクス的転回をしてしまってゐて、《存在》が心身を進化させるのぢゃなく、人類は環境を徹底的に人工的な《もの》へと変へる事で、へっ、さうした結果、人類は生物学的な進化を已めてしまった《存在》として此の世に君臨したのだ。





――へっ、でも、人類は生物学の目覚ましい進歩により、人工的に生命を弄(いぢ)る技術を手にしただらう。





――すると何かね、人類にかかれば生物は如何様にも創り出す事が可能、つまり、到頭人類に至って生き物は創造主たる《神》をその玉座から引き摺り下ろしたと? 





――さあ、それはどうかな? つまり、人類が遺伝子操作をした生き物が、此の人工的な環境に適応出来るどうかは、譬へそれが人工的に遺伝子操作されてゐやうが、その生物次第だと言ふ事には何の変りもなく、つまり、《神》のみぞ知る以外に、今のところ何とも言へないのが本当のところかな。





――ふっふっふっ。つまり、人間が幾ら遺伝子操作を出来やうが、その遺伝子操作された《存在》が此の世で生き残れるか、死滅するかは今も未だ、《神》の御手のままとしか言へない、ちぇっ、博奕みたいな《もの》と言ふ事か――。





――つまり、《存在》の鬼子を人類は生み出してしまふ可能性を手にしたのだ。





――《存在》の鬼子とは? 





――多分、人類によって遺伝子操作されて此の世にいやいや出現させられた数多の《存在》の中で、此の世の人工的な世界に最も巧く適応する《存在》たる生き物は貪婪極まりなく、庶民を含めたその他大勢の《存在》が反対したとしてどう足掻かうが、科学者の性としてその貪婪極まりない未知の生き物は誕生させずにはいられぬ筈だが、へっ、さうするとその此の人工的な世界に巧く適応出来たその遺伝子操作された《存在》たる未知の生き物は、その外の生き物全てを喰らふことで全生物を鏖殺(あうさつ)し、、己の種のみ繁殖させる事だけを第一に、最早自身では種の繁殖に歯止めがかからず、とどのつまりは、その生物のみがこの世に《存在》することから、その遺伝子操作された未知なる貪婪極まりない生き物たる《存在》は共食ひをする外なく、つまり、他の《存在》たる生き物を全て喰らって鏖殺してしまった暁には、同類のその《存在》たる生き物を喰らふしかその《存在》たる生き物は《存在》する術がなく、さうなって初めて《存在》は同種の《他》の餌になる可能性を秘めたまま《存在》する、つまり、共食ひによってしか生き残れない生き物たる《存在》を誕生させて初めて、《存在》は己の《存在》の何たるかの一端が垣間見られる筈だぜ。





――それが《存在》の鬼子? 





――さう。俺には究極的には《存在》は己を餌にして生きる《存在》を誕生させる事を最終目標にしてゐる節があるとしか思へぬのでね。





――己を喰らって生きる《存在》? 馬鹿らしい! 





――何故馬鹿らしいと言い切れるのかね? 人類は遺伝子操作する事で此の世で最強の生物を創り得る術をとっくの昔に手にしてしまったのだぜ。其処で、仮にその最強の生物をこの世に誕生させて解き放せば、詰まる所、その最強の生き物は最強故にその生き物の種以外は全て喰らって鏖殺せずば最強たる所以である筈もなく、さうすると生物多様性は完全に消滅し一種の生き物のみが此の世に君臨する単調極まりない世界が到来するに違ひなく、その時、最強の生き物たるその《存在》は己と同類の《もの》を共食ひする外なく、しかし、生き物の本質に《他》を喰らふ事を何としても回避する性が潜んでゐるならば、その最強たる《存在》の生き物は、最終的に己を喰らって生きる、へっ、大いなる矛盾を生きる生き物をもしかすると人類は遺伝子操作によって生み出すかもしれないんだぜ。





――ちぇっ、それはお前の単なる妄想でしかない! 





――だが、妄想は、生物の進化に関はってゐるのぢゃないかね? でなければ、闇の中にある深海の生き物がGrotesque(グロテスク)な姿形である筈がない。そして、人類は人類の妄想をすら遺伝子を操作する事で、人類の妄想を具現化した生物を、つまり、《妄想=存在》を創り出す術を手にしちまったのさ。





――しかし、それは《存在》の自滅でしかないのぢゃないかね? 





――勿論、さうさ。しかし、《存在》が究極的に望む事は《存在》の自滅ぢゃないかね?





(七十七の篇終はり) 







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2010 09/27 08:59:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふむ。人口減少社会の突入か……。





――さう。人間が生物に対してしてきた報ひとしか俺には思へぬ人口減少社会へと移行する外ない此の社会では、これから圧倒的に《死》の《存在》が多くなる。つまり、《生者》は生存する限り《他》の《死》を何度となく見届けなければならぬのさ。





――それには、勿論、富の移動も必然と言ふ事だね。? 





――ああ、当然だ。これまで貧困に喘いでゐた国国の勃興で富は其方へ移動する筈さ。そして、人口減少社会へと突入した此の国は徐徐に貧しくなるのが道理だ。





――へっ、さうなって初めて此の国の《生者》は切羽詰まった上での自棄のやんぱちででも存在論を、その言説が誰にも理解可能な言質で新たなる存在論を立ち上げるしかない、かな? 





――既に此の国には貧困が厳然としてあり、その悲惨な現状が社会問題化してゐるが、こんな《もの》でこの国の貧困が済む筈がない。





――ふっふっふっ。衰退をとことん味ははなければならぬ定めなのだらう? 





――さうさ。《生者》の論理ばかりが罷り通ってきたその報ひを《生者》は生き残るために受容しなければならない。





――つまり、何を《生者》は受容しなければならぬのかね? 





――諦念、若しくは悲哀、それも《存在》する事の悲哀さ。





――そんな事は、既に現在《存在》してゐる《生者》は嫌と言ふ程に味はひ尽くしてゐる筈だがね? 





――へっ、これからはそれがもっと露骨になるのさ。衰退し始めた国から富が逃げ出すのに一日もゐらなんだぜ。





――それぢゃ、《生者》は子を産めよ殖やせよと? 





――いいや。子を儲けるのは既に《生者》の裁量に、つまり、《生者》が《自由》に決定する《もの》に成り下がっちまった故に、子供が増へるなんてあり得べくもないお手上げ状態と言ふのが正直なところさ。しかし、《生者》が《生》の《自由》を味はふには、《生者》は《自由》である事の全責任を担はざるを得ぬのさ。





――《自由》の全責任とは? 





――つまり、徹頭徹尾独りで死ねことさ。





――ちぇっ、そんな事はお前が言はずとも太古の昔より《死》は死して行く《もの》しか解からぬ《もの》ぢゃないかね? 





――へっへっへっ。さうぢゃないさ。誰にも看取る《生者》が《存在》しない中で、その死に行く《生者》はたった独りで《死》を迎へるのさ。





――だが、孤独死の話なんぞは今に始まった事ではないぜ。





――誰も孤独死の話なんぞしてやしないぜ。





――ぢゃ、お前の言ふたった独りでの《死》とは何かね? 





――神も仏も《存在》せぬ《死》さ。





――神も仏も《存在》せぬ《死》? そんな《死》が《存在》するのかね? 





――へっ、人類史の残酷さを見れば神も仏もない《死》なんぞ珍しくとも何ともないぜ。





――しかし、それは、これまでは特異な《死》であったに違ひない筈だが、これからはその特異な《死》が普通一般の《死》となるのは間違ひないと言ふ事か……。





――何故さう思ふ? 





――《生者》は何としても《死》を此の世から隠し通したいからさ。それ故に《死》を迎へる最期の《生者》は《生》とは隔絶した処で、ひっそりと独りで死んで行くのさ。





――つまり、それは《生者》が《自由》に対して最期まで無責任極まりなかったことの哀れなる最期と違ふかね? 





――さうさ。その通りだ。これ迄《生者》は《自由》に途轍もない、《生者》独りでは背負ひきれぬ《生者》たる事の責任が厳然として《存在》してゐるにも拘はらず、其処から目を背けてゐたし、これからも《死》ばかりが増える衰退して行く社会でも《生者》たる事の責任をどんな手を使ってでも回避する事ばかりに現を抜かす筈だ。





――それぢゃ、《生者》は如何に《死》から逃げられるかばかりを追ひ求める卑劣な《存在》に等しい、ちぇっ、つまり、下らぬ《存在》に成り下がっちまっただけぢゃないか! 





(十一の篇終はり)







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2010 09/20 09:20:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――例へばそれを人類に絞った処で、その残虐非道な出来事を語るのに枚挙に暇がないのは勿論だらう。





――そのために基督、並びにその外大勢が殉教と言へば聞こえはいいが、詰まる所、人類史は即ち、死屍累累の歴史に外ならない《存在》の皮肉! 





――一つ尋ねるが、これから生まれ出る未来人は、その残虐非道を極めたとも言へる人類史のその残虐非道の歴史を背負はざるを得ぬかね? 





――どうあっても《存在》する以上、それから遁れられない! 





――すると、未だ生まれもせぬ未来人は、生まれる以前に《存在》に呪縛されてゐるといふ事になるが、さて、未来人はそれを受け容れるべき宿命として認めるしかないと? 





――ああ、未だ生まれざる未来人は、全宇宙史を背負ふやうに強要されてゐる。





――それは何故にかね? 





――へっ、簡単さ。《存在》する故にさ。





――つまり、《存在》は「先験的」に呪はれた《もの》でしかないと? 





――ああ。だから宗教が《存在》するのだらう。





――しかし、《存在》にとって宗教では未来永劫に救はれぬのだらう? へっ。





――勿論だとも。《存在》は、宗教といふ《もの》に縋り付いた処で、最後は《弧》に帰す。その《弧》が独りで全宇宙史における《存在》の残虐非道ぶりに愕然とし、それでも尚、《存在》する事を自ら選ぶのさ。





――そこに、例へば、《存在》するかはないかの選択の自由が《存在》するとしたならば? 





――《存在》せぬ方を選ぶ腑抜けは、さっさと自殺でも何でもしちまへばいいのさ。





――へっ、つまり、お前は自殺も《存在》に「先験的」に備はった選択肢の一つだと? 





――勿論。自殺は何の悪い事がある《もの》か。むしろ、現在では、自殺をする人間の方が正常ぢゃないかね? 





――しかし、自殺は地獄行きなんだらう。





――当然だ。しかし、生きるも地獄ぢゃないのかね? 





――つまり、それは《存在》は絶えず自死するか存続するかを問はれ続ける《もの》として、「先験的」に決められてゐる事になるが、《存在》はそれが《存在》する以前に「先験的」に決まってゐる事が余りにも多過ぎやしないかね? 





――ふっ、お前は少ない方がいいとでも考へてゐるのかね? 





――ふむ。成程、「先験的」な事が多過ぎる故に《存在》が成立するか……。





――「先験的」といふ制約が多岐に亙ってゐなければ、《存在》は《存在》の影すら此の世で拝めないとすると、つまり、此の宇宙の秩序に忠実に従へられる《もの》しか此の世に《存在》せぬとしたならば、へっ、《存在》とはそもそも何なのかね? 





――生老病死だらう。





――そして、諸行無常か! はっはっはっは。





――しかし、《存在》は時空間を自らの望むやうには全く手出し出来ぬ故に、つまり、時空間を思ひのままに変容させることは不可能だらう。





――だが、この愚劣な人間は、環境を人間の頭蓋内で明滅した表象を具現化して、環境を内界を外在化するべき《もの》と人間が勝手に看做して、環境を勝手気ままに変へ放題だらうが! 





――つまり、それは内も外も脳の中といふ何とも異常な世界の事だらう。





――さう。愚劣な人間は《存在》が背負はずにはゐられぬ呪縛が少しでも解放されるのではないかと、環境を人工化した、その結果どうなったかね? 





――更に《存在》の苦悩は深まった……。





――さうさ。環境が人工化すればする程、愚劣な人間の孤独感は深まるばかりで、世界を《吾》以外が《存在》する処としてしか、実感する事がいつの間にか出来なくなってしまってゐた。へっ、もう手遅れだらう。環境が自然に戻るのは? 





(七十六編終はり)







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2010 09/13 10:16:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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(これから複数の者らしき存在が出てきますが、敢へてそれらを一人物として分けせずに書いています。この「雑談」がたった一人なのか幾人もの「雑談」なのかは読者の判断に任せます)









――おっと、お前ら二体で何を話してゐるのかね? 





――いや、何、《神》についてさ。





――《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとって、その《存在》が楽、若しくは気休めになると話してゐたのさ。





――ふむ……。《神》ね……。





――何、何、何? 





――今、此奴にも言ったのだが、《神》が《存在》した方が《主体》にとっては気休めになると話してゐたのさ。





――ふむ。《神》か――。また、余りに人間臭い事を、へっ。





――そして、さうしてゐる内に《実存》といふ現在では人間の手垢に塗れた時代錯誤の世界認識の方法を再び此奴が持ち出したのさ。





――それにギリシア哲学もだぜ。





――早い話が人類史を、否、此の宇宙史全史を問ひたいのだらう? 





――さう! 此の宇宙史全史だ。





――さうすると、此の世に《存在》する森羅万象のその《存在》を問ふてゐるとていふ訳か……。





――へっ、《杳体御仁》! 





――《杳体御仁》とは私の事かね? 





――へっ、私って一体誰の事だい? 全員が《吾》だらう。





――さういふお前は一体何を話さうとしてゐたのかな。





――つまり、《神》は数学を《超越》出来るかね? 《杳体御仁》ならば、何と答へる? 





――ふっ、それこそ不確定な事しか言へぬぞ。





――ゲーデルかね? 





――ゲーデル? 





――誰だ、ゲーデルとは? 





――いや、ゲーデルの不確定性原理をここで持ち出すのは危険だ。





――しかし、《神》に関して言へば、《神》が《存在》するとも《存在》しないとも、いづれも証明不可能だ。ならばだ、《神》は数学を《超越》するかどうかは気になるのが自然な事だらう? 





――それぢゃ、お前が今言った様にゲーデルを持ち出す以前に既にカントが《神》についてアンチノミー(二律背反)として、《神》に関しては手を出さない方が身の為だと警告してゐるぢゃないかね? 





――ふっ、《杳体御仁》よ、しかし、《存在》にとって、それは森羅万象について言へるのだが、《神》は《存在》した方が《吾》たる《主体》にとって気が楽だらう? 





――何の事かね、それは? 





――ふむ。





――何、何、何? 《神》が何と? 





――つまり、《神》が《存在》した方が《主体》は楽だといふ事さ。





――何を根拠にさう言へるのさ。





――さうだ。《神》が《存在》した方が《吾》といふ《主体》、または《他者》と共有する世界==存在する「現存在」にとって気が楽といふその根拠を示せよ。





――《個時空》をここで持ち出せばハイデガー的な《時間》では最早世界認識は永劫に不可能と言ふ事だ。しかし、《死》を《神》と共有するのであれば、もしかすると「現存在」にとって《存在》することは気が楽なのは確かなのかもしれぬ。





――さうなんだ。《神》を媒介としてこの世界==存在と呼ぶところのその《世界》を《他者》ばかりでなく《死》とも共有した《世界》であった方が自然な気がする。





――しかし、《死》の可視化は金輪際出来ぬぜ。





――へっ、そこでだ、《杳体御仁》よ、《生》と《死》について考へると《神》が此岸と彼岸を繋ぐ或る何かだとして、その《神》が《存在》すると看做した方が、「世人」にとっては此の《世界》は断然意味深い《もの》へと変貌する筈だが、どうかね? 





――どうかね、だってさ。





――《杳体御仁》よ、ずばりと言っちまひな、つまり、《神》は何として《存在》してゐた方が絶対的に自然だ、と。





(二の篇終はり)







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2010 09/06 07:26:54 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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