――それを言っちゃあ、お仕舞ひぢゃないかね? ふっふっふっ。
――でもさう言はざるを得ぬのは解かるよな?
――ああ。さうさ。《吾》が本当の地獄だと。
――Abyss、つまり、深淵が彼方此方に《存在》の仮象を被ってる――ふっ。
――また、特異点かね?
――さう。特異点だ。これ程摩訶不思議な、しかし、多分、《物自体》を不意に露はにするに違ひない特異点こそ、地獄といふ名に相応しいと思はないかい?
――つまり、特異点にこそ《存在》の不気味な正体が何食はぬ顔で潜んでゐて、また、《存在》にこそ特異点が潜んてゐないと、「苦悩による苦悩の封建制」が成立せずに尚も神を《存在》の十字架に磔にしたまま、ちぇっ、下らぬ主体天国の世で、へっ、しかし、それでも《主体》は、《吾》たる《もの》の不可解さから、神を《存在》の十字架に磔にしながらも、自らも《吾》の《存在》、即ち自同律の陥穽に落っこちて、へっ、そのAbyss若しくは深淵がその大口をばっくりと開けた中に《存在》するであらう虚空を自由落下若しくは自由上昇することで、重力からの解放といふ勘違ひの中に《吾》の仮象を夢幻空花しちまふへまを何時までも続ける愚行が止められぬまま、《吾》なる《もの》はその仮象の惑はしの中で犬死にするのが関の山だ。
――しかし、《吾》たる《もの》は、土台、《吾》を夢幻空花して《吾》といふ名の仮象に翻弄されながら、結局、《吾》の《存在》は、死ぬ事のみによって《存在》の何たるかが仄かに解かる《存在》の謎に拘泥したまま、《存在》は次世代といふ《存在》に《存在》の不可解さを残したまま、自らは死すべき運命を受容するしかないとしたならば、ちぇっ、そんな《吾》といふ《存在》をお前は憐れむかね?
――へっ、自らを憐れむ自慰行為は決して止められないのさ、この《吾》といふ名の地獄は――。
――つまり、《吾》が自らの《存在》を憐れむ自慰行為こそが、《存在》たる《もの》が全て神に甘えてゐる証左でしかないと?
――さうさ。《吾》たる《もの》は苦悩しか背負へぬ宿命になければならぬ。
――何故、そんな宿命になければならぬのかね?
――《吾》たる《もの》は、詰まる所、《吾》を心行くまで味はひ尽くさねば気が済まぬからさ。
――気が済まぬ?
――さう、気が済まぬ、それだけの事さ。
――それから?
――へっ、JAGATARAの故・江戸アケミを気取ってゐるのかね?
――別に構はぬだらう、《吾》が誰を気取らうが――。
――まあね。JAGATARAの音楽が江戸アケミの遺言にしか聴けぬ俺にとって、かうして《吾》が《吾》と自問自答する事が、即ち、俺の遺言に、そして、《吾》の死後も頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅した表象群が虚空で尚も明滅しながらその表象群が《もの》となって《存在》する事になるかもしれぬ可能性だってあるといふ事さ。
――言葉はそれが発せられるか、記されるかした途端に、既に、《吾》たる《もの》の遺言に変化する。
――ふっ、それもまた《個時空》の事だらう?
――さう。《個時空》だ。言葉を発するか、記すかする等の行為によって《吾》は言葉を外在化させる。それは、つまり、《吾》の内部に留まってゐた未来とも過去とも現在とも何れにおいても不確定だった内在化した言葉をひと度外在化させると、言葉はその言葉を発した《吾》との距離を授けられ、言葉を発した《吾》にとってそれは過去か未来かの何れかに言葉を呪縛させる行為に外ならない。そして、《吾》たる《もの》はさうやって《存在》した証を世界に残すのさ。
――ふはっはっはっ。過去か未来の何れかの呪縛? それぢゃ、未だ、言葉は不確定のままだぜ。つまり、過去と未来の様相がその外在化された言葉において《重ね合はされ》た状態、つまり、量子論的な《存在》として現在の俎上に上る。さうして、言葉は過去と未来の両様が《重ね合わされ》た状態で《存在》しちまふ。そして、その《吾》から外在化された言葉は絶えず現在の俎上に上らされてその《存在》を露はにする。言葉がさうだとすると、映像は《吾》において何を意味するのかね?
――過去若しくは未来と言はせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。映像は《吾》において一見、過去にも未来にも変化したかの如く《吾》にとって外在化した《もの》に思へるが、しかし、映像はそれが徹頭徹尾或る《主体》、例へば、それを故・タルコフスキー監督と名指せば、映像は徹頭徹尾、タルコフスキー監督の意のままに映され編集され、最終的にはその映像を撮った《もの》たるタルコフスキー監督の責任において《他者》に見られるのでなければ、そんな映像は《吾》の《存在》の「苦悩による苦悩の封建制」にある、つまり、この《吾》といふ《存在》の「苦悩」を麻痺させるだけの鎮静剤の如き毒でしかないのさ。
――しかし、映像も記録に変化するぜ。
――其処さ、言葉を記した書物は物体となってゐるので手に持てる《存在》であり続け、其処には自ずと《存在》の限界が必ず《存在》するが、しかし、どう足掻いても世界の断片でしかない映像が、波でも量子でもある光といふ《存在》故に恰も全世界を映してゐるかの如き錯覚を齎して《吾》といふ《存在》をまるで蜃気楼を見てゐるのと同様な出口なき錯覚の中で溺死させる、つまり、世界といふ名の世界の仮象を実像と看做しちまふしかないどん詰まりに、それが光故に映像は《吾》といふ《存在》を追ひ込んで已まない! そして、《吾》は、最後は映像といふ名の光の量子論的な振舞ひ翻弄されて、そして、光に溺れて存在論的に窒息死するしかない!
(五十九の篇終はり)
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp