――へっへっへっ、下らぬ事を訊くが、そもそも《主体》は己が《存在》してゐる事を、直感的にも論理的にも遺漏なく《完璧》に証明できる代物かね?
――ふむ。それは俺には解からぬな。
――解からない? はて、するとお前は己の《存在》を認識出来ぬといふ事かね?
――反対に訊くが、お前は己が明確に此の世に《存在》してゐると、胸を張って言へるのかね? へっ、言へる訳がないわな。仮に「《吾》此処に《存在》せり!」と胸を張って言へる《主体》は百害あって一利なしの愚劣な《存在》と相場が決まってゐる。
――だからと言って「《吾》、《存在》せず!」とも胸を張って言へやしないぜ。
――其処さ。全ては曖昧なのさ。在るとも無いとも言ひきれぬ悲哀! 《存在》はその何とも名状し難い悲哀を噛み締める《もの》ぢゃないかね?
――再び《存在》は《パスカルの深淵》に立ち竦む。
――無と無限の間(あはひ)で弥次郎兵衛の如く揺れ続ける外ない《存在》といふ《もの》の悲哀。
――へっ、しかし、《存在》しちまった《もの》はその悲哀を哀しむ資格が「先験的」に喪失してゐる。
――喪失してゐる? それはまた何故に?
――それは簡単に言ってしまへば、唯、《存在》は既に《存在》してゐるからさ。
――それは、《存在》に意識が芽生える以前に既に《存在》は《存在》してゐるからといふ、たったそれだけの理由からかね?
――否、《存在》はその《存在》が出現する以前に既に「先験的」に意識の萌芽は必ず《存在》してゐる筈で、また、さうでなければ、《存在》は《存在》に躓く筈はない!
――え! 《存在》の出現以前、つまり、未出現の状態でも、へっ、意識の在りさうでゐてはっきりと無いとも言へぬ萌芽が既に芽生えてゐるといふ事かね? ふはっはっはっはっはっ。ちゃんちゃらをかしくて、それぢゃ、臍で茶が沸かせるぜ。
――それでは逆に尋ねるが、幽霊に意識はないのかね?
――ふむ。幽霊ね……。お前は先に幽霊が《存在》した方が此の世は面白いと言った筈だが、ちぇっ、さうさねえ、幽霊に意識は宿ってゐるに違ひないか――。
――ならば、未出現の《もの》にも既に意識は宿ってゐる筈だ。《存在》は未だ出現せざる内に既に《存在》する事の底無しの悲哀を味はひ尽くしてゐる。さうして、《存在》は、皆、此の世に出現するのさ。
――つまり、それは此の世の《特異点》としてといふ事だらう?
――ああ、さうさ。《存在》はそれが何であれ、《存在》が《存在》である以上、それは此の世の《特異点》としてどう仕様もない、否、やり場のない自同律の不快を絶えず噛み締める――か――。
――へっ、何せ、《存在》はパスカル風に言へばbetween、つまり、無と無限の中間者としてしか此の世で《存在》する事を許されぬ。
――それは、此の宇宙に関しても同様だと?
――当然だらう。多分、自同律の不快に此の世で最もうんざりしてゐるのが何を隠さう此の宇宙で、尚且、それ故に此の宇宙自体が《特異点》だと白状してゐるやうなもんだぜ。
――違ふかね?
――違ふかね? これは異な事を言ふ。此の宇宙は少なくとも無と無限を見せた若しくは明らかにした事なぞ一度もない筈だがね?
――それが闇でもかね?
――ふむ。闇か――。
――闇においてのみ、無と無限は包摂され其処に《パスカルの深淵》がばっくりと口を開けた《特異点》がその《存在》を暗示させて仕様がないのさ。
――それは暗示以上にはなり得ぬといふ事だらう?
――さう。暗示以上にはなり得ぬ厄介な代物さ。例へば胎内回帰が《存在》の一つの在り方だとすると、此の宇宙も無と無限がぴたりと重なった宇宙の誕生以前へ回帰したいのは当然考へられることだらう?
(七十二の篇終はり)
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