――存在論的窒息といふと?
――字義そのままの通り存在論的に《存在》はその息の根を止められる。
――だから、それは具体的に如何いふ事なのかね?
――つまり、物体といふ《存在》は光になり得ず、また、堪へられぬといふ事さ。
――へっ、物体といふ《存在》は光になり得ず、光に堪へられぬ? これは異な事を言ふ。《存在》はそれが何であれ絶えず光に曝露され、また、Energie(エネルギー)として扱ってゐる筈だがね?
――見かけ上はね、ふっ。
――見かけ上? つまり、それこそ《存在》が被ってゐるに違ひない特異点を蔽ふのみの能面の如き面でしかないと?
――当然だらう。高々光に曝された位で、特異点がその正体を現はす筈はないんだから。それ以前に《吾》たる《存在》はその様態を《もの》から《光》へ変化出来るかい?
――ふむ。《もの》から《光》か――。辛うじて核分裂反応を連鎖的に起こして僅かな僅かな僅かな《重さ》を光に変へてゐる、換言すれば原子力発電や原爆でほんのほんのほんのほんの一寸《もの》を《光》へ変化させたはいいが、そのほんのほんのほんの一寸の《重さ》が光に変化しただけで、ちぇっ、たった一発の原爆の凄まじさに、つまり、何十万もの人間が殺戮できるかもしれぬ事にこの馬鹿者の「ニンゲン」は愕然とし、へっ、とどのつまりが人間はその扱ひに四苦八苦して梃子摺ってゐる、ちぇっ、神の面前での赤子でしかない! 否、赤子ですらない! その人間が核融合に挑戦する危ふさを、人間はその存続を懸けてやるしかないんだが、さて、如何なる事やら……。まあ、原子力や核融合は別にしても、この《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する数多の表象群は如何かね?
――まあ、よからう。ところが、その表象群を外在化し、具体化すると、表象に《重さ》が授けられ、確かにそれら具体化された表象群は此の世に《存在》することになるのは間違ひないのだが、そして、街衢(がいく)が既に誰とも知らぬ《他》の脳、ちぇっ、否、《他=存在》の五蘊場の外在化でしかない事を世界=内=存在する《吾》は渋々ながら受け容れるしかないのだが、こと映像に関して、映像には《重さ》が、物体としての《重さ》が《存在》してゐるかね?
――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場で繰り広げられてゐることが、例へば映像となって外在化される事態に、さて、困ったことに「現存在」たる《吾》は為す術がないのが本当のところで、その映像に《重さ》がないことが問題だと?
――さうさ。それがどんなに異常な事か《吾》にはその自覚がない。つまり、映像なる《光》が如何に危険な毒薬かといふ自覚が全くない。《光》だぜ。ピカドンもまた物質が《光》に変化しただけの事なんだぜ。
――しかし、一方で毒薬は、適量を服せば、良薬にたちどころに変化する。
――だから、映像といふ《光》は尚更危険なのさ。
――つまり、それは映像といふ《光》が眼球の瞳孔を通って可視化されることで、ちぇっ、簡単に《主体》たる《吾》を洗脳出来ちまふ恐ろしさにもっと自覚的にならないと、《吾》は、へっ、地獄たる《吾》はあれよといふ間に簡単に芥子粒の如く自滅するのが落ちさ。
――ちぇっ、それで構はぬぢゃないかね?
――ああ、《吾》が生き残らうが自滅しようがそんな事は知ったこっちゃない。しかし、未だ此の世に未出現の未来の《存在》には、映像が残ってゐる事は、毒にこそなれ良薬には、多分、ならない事を自覚しておくんだな。
――何故に映像は毒にこそなれ良薬にはならぬのかね?
――頭蓋内の闇たる五蘊場が各々違った場として《存在》してゐる筈のこの《吾》なる《もの》にとって、映像は違ふ筈の《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場にも全く同じ表象若しくは記憶となって擦り込まれる恐ろしさは、確実に《吾》を自滅させるに違ひないのさ。
――それは言ふなれば《吾》においての《吾》の不在、換言すれば、《吾=他》といふ何とも奇怪な《存在》の在り方の事かね?
――はて、それは《吾》の膨脹若しくは拡散かな――?まあ、何れにせよ、《光》でしかない映像はその扱ひ方を間違へると洗脳の道具と紙一重の違ひしかないのさ。
――すると、例へば《吾》が厳然と《他》とは違った《吾》たる事を《個体力》と名付けると、その《個体力》が現代では確実に減退してゐると?
――さうさ。既にそんな危険極まりない事態は進行してゐて、世界について未だ訳も解からぬ乳飲み子の段階で《光》たる映像は母親よりも重要な位置付けがなされて、乳飲み子の頭蓋内の闇たる五蘊場は《個》である事を絶えず侵されながら、仕舞ひには映像と五蘊場が同調する事を強要される。それがどんなに《吾》を世界=外=存在に追ひ詰めるか解かるかい?
――つまり、《吾》はどんなに足掻かうが現前のMonitor(モニター)に映されてゐる世界に入れぬ、換言すればMonitorが恰も世界の如く振る舞ふ世界=外=存在として、己を否が応でも自覚せねばならぬ世界に投企されてゐる。そして、その状態に適応出来た《もの》のみが子孫を残して行く不気味さを、へっ、そんな下らぬ世界にお前はお前が《存在》する事を己で受容し、そして、そんな己をお前は許せるかね?
――いいや、決して。《吾》は自同律の事で精一杯の筈さ。
――しかし、お前の記憶は、お前と同じ映像を見た《もの》全てと同じ、つまり、お前はお前の頭蓋内の闇たる五蘊場ですら《他》と交換可能な《存在》にお前自身が最早なっちまってゐるんだぜ。
(六十の篇終はり)
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp