――そもそも《他》の死肉を喰らふことでしか生き残れないこの《主体》なる《もの》の《存在》の有様は、残酷に創られちまってゐる。
――だから、反旗を翻すのさ。此の宇宙の摂理なる《もの》にさ。
――しかし、それは何処まで行っても虚しい《もの》ぢゃないのかね?
――当然だらう。《吾》といふ《主体》の在り処がそもそも虚しいのさ。そして、《吾》は《他》の死肉を喰らって生き延びる、ちぇっ。
――へっ、皮肉なもんだな。《他》の死肉は消化器官で消化出来るのに《吾》は《吾》を今もって消化出来ずにゐる。
――そもそも、この《吾》が《吾》をして《吾》を《吾》と名指すことに大いなる矛盾が潜んでゐるのだが、ちぇっ、しかし、《吾》にはそれを如何する事も出来ぬ歯痒さのみが、《吾》の《存在》を《吾》に知らせる。
――それは歯痒さかね? 不快ではないのかね?
――ちぇっ、また、自同律の問題か――。詰まる所、《吾》以外の事に全く興味がないんぢゃないかね?
――へっ、当然だらう。《吾》たる《もの》、《吾》以外に興味なし!
――しかし、《他》は、《世界》は、《吾》の《存在》などにお構ひなしに、これまた「《吾》とは何ぞや?」と懊悩してゐる筈に違ひないのだ。
――へっ、何処も彼処も「《吾》とは何ぞや?」と己の内界を覗き込むのだが、果たせる哉、《吾》の内界に《吾》はゐないか、若しくは無数に《異形の吾》が犇めいてゐる事に愕然とする。
――《存在》とはそもそも猜疑心の塊ではないのかね?
――さう。《存在》とはそもそも猜疑心の塊としてでしか《存在》する事が許されぬ。
――何に許されぬのかね?
――「《神》!」と答へさせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が唯一《存在》する事の許しを乞ふのは、へっ、《吾》のみだぜ。
――ふっふっふっ。何処まで行っても《吾》は《吾》から遁れられぬか――。
――さてさて、其処で《吾》は如何する?
――如何するも何もありゃしないさ。《吾》は《吾》である事を渋々と受容する外ない。
――へっ、《吾》に《吾》を受容する度量があるかね?
――仮令、そんな度量がなくとも《吾》は《吾》を受容するさ。
――仮に《吾》が《吾》を受容出来なかったならば、《吾》は如何なる?
――それでも《吾》が《吾》を止められやしないし、《吾》は《吾》を《吾》と名指してしまふ宿命にある。
――それはまた何故にかね?
――《吾》なる《もの》が《存在》した時点で、既に時空間のカルマン渦、即ち、《個時空》といふ渦を巻いてしまってゐるからさ。ひと度渦を巻いてしまった《個時空》たる時空間のカルマン渦は、最早、《吾》の埒外にその回転軸があるのさ。
――ふむ。《吾》の埒外に《個時空》といふ名の時空間のカルマン渦の回転軸がある……か……。
――先づは、《吾》には《吾》が《存在》する事に決して手出しが出来ぬやうに《吾》は此の世に《存在》させられちまってゐる事を自覚せねばならぬ皮肉――。
――さて、全宇宙史を通じて《吾》が《吾》から遁走出来た《存在》は《存在》した事があると思ふかい?
――いいや、全く思はぬがね。それに加へて全宇宙史を通じて己のみで自存した《存在》もまた《存在》した事はない筈さ。
――それぢゃあ、《個時空》といふ時空間のカルマン渦たる《吾》は何なのかね?
――ふっ、それは《吾》をも含めたあらゆる《存在》に忌み嫌はれる外ない、何とも不憫な《存在》なのさ。だが、《吾》は決して己を憐れんだりしちゃあならない定めにある、つまり、自慰行為は《吾》にとって未来永劫に亘って禁じられてゐるのさ。
(九の篇終はり)
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