思索に耽る苦行の軌跡

2010年 03月 の記事 (3件)

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2010 03/30 06:23:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾《吾》を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 





――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 





――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 





――当然だらう。





――当然? 





――所詮、《存在》は、ちぇっ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。





――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。





――さうさ。《一》すらも、へっ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被った《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被った《存在》として此の世に現はれなければ可笑しいんだぜ。





――へっ、さうだとすると? 





――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 





――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。





――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へっ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 





――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげっぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであった。





――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 





――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちぇっ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。





――ちぇっ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙って一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。





――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 





――後は野となれ山となれってか――。つまり、《他》によって観測の対象なり下がってしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちぇっ、忌々しい事だがね。





――だから、《存在》は皆《ざわめく》のさ。





――つまり、《一》者である事を《他》の観測によって強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は−∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちぇっ、実在出来ぬとすると、へっ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――だから如何したと言ふのかね? へっ、哀しい《もの》だからと言って、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を止められるかね? 





――へっ、止められる訳がなからうが――。





――土台、《吾》とは何処まで行っても《吾》によって仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によって観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。





――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 





――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であって、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へっ、何時迄経っても止められぬのだ。哀しいかな、この《存在》といふ《もの》は――。





(十 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 03/15 06:46:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそもお前が言ふ私性とは何かね? 





――ふむ。さうさねえ、頭蓋内の闇といふ五蘊場を、図らずも付与されてしまふ《存在》全ての事かな。





――ふっ、その五蘊場は、此の世に《存在》する森羅万象には必ず《存在》すると? 





――ああ。《場》が《存在》すれば、其処には必ず五蘊場が生滅する。





――何故さう看做せるのかね? 





――何《もの》をも皆「《吾》たらむ」と渇望しちまふからさ。





――「《吾》たらむ」? それは「《吾》以外の何かたらむ」ではないかね? 





――へっへっへっ。さうは問屋が卸さないぜ。





――つまり、《吾》は単純化に全く馴染まない《もの》と言ひたいのかね? 





――はて? 《吾》の単純化とは何の事かね? 





――つまり、《吾》=《一》者といふ自同律の事さ。





――またぞろ自同律かね。何度も言ふがね、これ迄《吾》が《一》であった事はなかったし、これからもありはしないぜ。





――何故? 





――答へは簡単さ。《一》は此の世に実数として《存在》した事はなかったし、これからも実数としてはあり得ぬのさ。





――つまり、《一》は数多ある複素数の実部を表してゐるといふ事だらう? 





――さうさ。そもそも《一》=《一》が成立する世界こそ異様な世界な筈だぜ。





――つまり、これは禅問答に近いが、《一》は《無》であり《無限》でもあるといふ事かね? 





――でなければ、《一》は何だといふのかね? 





――ちぇっ、《吾》にとって《一》は何としても実在する《もの》であって欲しいのさ。





――へっへっへっ、これはまた異な事を言ふ。





――異な事? 





――ああ、さうさ。世界認識の仕方が実数から複素数へと拡張される事が受け入れられぬのかね? 





――お前にすれば、《存在》のこれ迄の世界認識の仕方は未熟でしかないといふ事かね? 





――へっ、世界の認識の仕方が拡張されるんだぜ。何故にそれを《吾》は拒むのかね? 





――拒むも拒まぬもないではないか! 既に世界は仮想化されつつある、ちぇっ、つまり、虚数、英語で言へばImaginarity number、へっ、それを直訳すれば想像上の数といふ事だが、その虚数といふ仮想数字なくして最早世界は一言たりとも語れぬ事態に突入しちまってゐるのではないかね? 





――其処さ。既に世界は仮想化される事を免れぬのに、何故、今もって《吾》は《一》=《一》といふ此の世では決してあり得ぬ自同律に拘り続けるのかね? 





――へっ、此の世に決してあり得ぬから《吾》はそれを夢見るのと違ふかね? 





――つまり、《吾》といふ観念自体がそもそも嘘っ八だと? 





――ああ、さうさ。





――ああ、さうさ? 





――ではお前は《吾》を何だと思ってゐたのかね? つまり、それを換言すれば、《吾》は此の世に自然に発生するとでも看做してゐたのかね? 





――ふはっはっはっはっ。《吾》が《吾》でなければ、さて、その《吾》は一体全体何なのかね? 





――さっき言ったではないか、「《吾》たらむ」とする《存在》だと。





――つまり、《吾》は未来永劫《吾》に至り得ぬ《存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――当然だ! 





――当然? 





――では、《吾》とは一体何なのかね? 





――ふっ、「《吾》たらむ」と渇望して已まない《存在》が、苦し紛れにさう呼んでしまった一時しのぎの仮初の《もの》の名さ。





――仮初の《もの》の名? 《吾》とは、つまり、此の世においての仮初の《存在》以上にはなれぬ、ちぇっ、しかし、此の世で《吾》を「《吾》!」と名指した《もの》、つまり、此の世の森羅万象は、未来永劫に亙って此の世に《存在》不可能な《吾》なる何《もの》かを、それが何だか解からずに、へっ、夢見ずにはゐられぬ皮肉に満ちた哀れな哀れな哀れな《存在》といふ事かね? 





――へっ、其処が《吾》の甘ちゃんなところだ。《吾》を指して哀れな哀れな哀れな《存在》と看做しちまふ《吾》は、結局、哀れの何たるかすら全く解からずに、此の世から消える、ふっ。





(六十五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 03/01 07:00:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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