闇また闇。吾もまた闇。闇はしかし《無限》を誘ふのだ。果て無き闇故、闇の中に今蹲るまた闇の吾は闇に溶け入るやうな錯覚を覚える。
――吾は《無限》なりしや。
ところが吾に執着する吾は途端に身震ひして吾であることを渇望する。
――けっけっけっ、お前はちっぽけなお前でしかない。
と、何処とも知れぬ何処かで闇が吾を嘲笑ふ。と、その刹那吾は闇の中の《浮島》に浮いてゐるのみの吾が置かれた現状を思ひ出し血の気がさっと引き蒼ざめる。
――嗚呼。
眩暈が吾を襲ふ。
――このまま闇の中に投身しようか……。
闇は吾に闇に飛び込むことを強要する誘惑者であった。吾は絶えずええいっと闇に飛び込む吾を想像せずにはゐられぬまま、唯じっと《浮島》の上で蹲る外なかった。この《無限》に拡がるやうに見える闇また闇の中、吾の出口無し。
――矢張り吾に《無限》は持ち切れぬか……。
――けっけっけっ、お前はやっぱりちっぽけなお前さ。
と再び何処とも知れぬ何処から闇が吾を嘲笑ふ。
とその刹那、吾はすっくと立ち上がり闇のその虚空を睥睨する。
――己自身に対峙出来なくて何とする!
さうである。この闇全てが吾なのだ。吾の心に巣食ふ異形の吾達がこの眼前の闇の中に潜んでゐる。闇は吾の頭蓋内の闇と呼応し吾の心を映す鏡に思はれた。
――異形の吾の気配共が蠢き犇めき合ふこの闇め!
それ故、闇は《無限》を誘ふのか。彼方此方に吾の顔が浮かんでは消え、また、浮かんでは消える……。
――へっ、お前は己の顔を見たことがあるのか? これまでずっと腕に顔を埋め自己の内部に閉ぢ籠ってゐたくせに?
さうであったのだ。吾は己の顔をこれまで見たことがない。それにも拘らず吾は己の顔を知ってゐる。不思議であった。眼前の闇に生滅する顔、顔、顔、これら全てが吾の顔であった。さうとしか思へない。
――けっけっけっ、どれがお前の顔かな? けっけっけつ、この顔無しめが! お前もまた闇なのさ、ちぇっ。
吾が闇? これは異なことをいふものである。だが、しかし、吾も闇か?
――闇であるお前が吾なぞとほざくこと自体が笑止千万だ!
しかしである。吾は吾が《存在》してゐることを感じてゐるし知ってゐる筈だ。これはどうしたことか? 吾は闇?
――嗚呼、もしかすると吾は闇の鬼子なのかも知れぬではないか。
それは闇における不穏な動きを伝える前兆なのであった。それは闇に芽生えた自意識の始まりなのであったのかも知れぬ……。
――吾は吾である……のか……。ふむ、む! 揺れてゐる?
さうなのであった。闇全体が何故か突然とぶるぶると震へ出したのであった。闇もまた《自同律の不快》によって何か別の《もの》への変容を渇望する……。
――吾が吾であることのこの不愉快。闇もまたこの不愉快を味はってゐるのか……。
吾は再び眼前に《無限》に拡がる闇の虚空を睥睨する。
――《無限》もまた《無限》を持ち切れぬのか……。
眼前の闇には今も無数の顔が生滅する。
――解らぬ。何もかもが解らなくなってしまった……。そもそも眼前の闇に去来する無数の顔は吾の顔なのか……。吾そのものが解らなくなってしまった……。
次第に意識が混濁し始めた。吾の意識が遠くなる……。
――嗚呼、この吾と感じてゐるこの吾は……そもそも《存在》してゐるのか……何もかもが解らなくなってきた……。
闇また闇の中に一つの呻き声が漏れ出る……。
――嗚呼!
その呻き声は水面の波紋の如く闇全体にゆっくりとゆっくりと響き渡っては何度も何度も闇の中で何時までも反響を繰り返してゐた。
――嗚呼、吾はそもそも《存在》してゐるのか!