思索に耽る苦行の軌跡

2008年 03月 13日 の記事 (1件)


それはそれは不思議な感覚であった。私が珈琲を一口飲み干すと、恰も私の頭蓋内の闇が或る液体と化した如くに変容し、その刹那ゆったりとゆったりと水面に一粒の水滴が零れ落ちてゆらゆらと波紋が拡がるやうに私の頭蓋内の闇がゆらゆらと漣だったのであった。そして、私の全身はその漣にゆっくりと包まれ、私は一個の波動体となった如くにいつまでもいつまでもその余韻に浸ってゐたのであった。



それは譬へてみると朝靄の中に蓮の花がぽんと小さな小さな音を立てて花開く時のやうにその花開いた時の小さな小さなぽんといふ音が朝靄の中に小さく波打つやうに拡がるやうな、何かの兆しに私には思はれたのであった。意識と無意識の狭間を超えて私の頭蓋内が闇黒の水を容れた容器と化して何かを促すやうに一口の珈琲が私に何かを波動として伝へたのであったのか……。私は確かにその時私が此の世に存在してゐる実感をしみじみと感じてゐたのであった。



――この感覚は一体何なのだらう。



私の肉体はその感覚の反響体と化した如くに、一度その感覚が全身に隈なく伝はると再びその波立つ感覚は私の頭蓋内に収束し、再び私の頭蓋内の闇黒に波紋を呼び起こすのであった。その感覚の余韻に浸りながらもう一口新たに珈琲を飲み干すと再び新たな波紋が私の頭蓋内の闇黒に拡がり、その感覚がゆっくりとゆっくりと全身に伝はって行くのであった。



――生きた心地が無性に湧き起って来るこの感覚は一体何なのであらうか。



それにしてもこれ程私が《存在》するといふ実在感に包まれることは珍しい出来事であったのは間違ひない。私はその余韻に浸りながら煙草に火を点けその紫煙を深々と吸いながら紫煙が全身に染み渡るやうに息をしたのであった。



――美味い! 



私にとって珈琲と煙草の相性は抜群であった。珈琲を飲めば煙草が美味く、煙草を喫めば珈琲が美味いといふやうに私にとって珈琲と煙草は切っても切れぬ仲であった。



煙草を喫んだ事で私の全身を蔽ふ実在感はさらに増幅され私の頭蓋内の闇黒ではさらに大きな波紋が生じてその波紋が全身に伝わり私の全身をその快楽が蔽ふのであった。



――それにしてもこの感覚はどうしたことか。



それは生への熱情とも違ってゐた。それは自同律の充足とも違ってゐた。何か私が羽化登仙して自身に酩酊してゐる自己陶酔とも何処かしら違ってゐるやうに思はれた。しかしそれは何かの兆しには違いなかった筈である。



――《存在》にもこんな境地があるのか。



それはいふなれば自同律の休戦状態に等しかった。自己の内部では何か波体と化した如くにその快楽を味はひ尽くす私のその時の状態は、全身の感覚が研ぎ澄まされた状態で、いはば自身が自身であることには不快ばかりでなく或る種の快楽も罠として潜んでゐるのかもしれないと合点するのであった。それは《存在》に潜んでゐる罠に違いなかったのである。私はその時《存在》にいい様にあしなわれてゐただけだったのかもしれぬ。



――しかしそれでもこの全身を蔽ふ感覚はどうしたことか。



絶えず《存在》といふ宿命からの離脱を夢想してゐた私にはそれは《存在》が私に施した慈悲だったのかもしれぬと自身の悲哀を感じずにはゐられなかったのである。それは《存在》が私に対した侮蔑に違いなかった。



―《存在》からの離脱といふ不可能を夢見る馬鹿者にも休息はは必要だ。



《存在》がさう思ってゐたかどうかは不明であるがその時自己に充足してゐた私は、唯唯、この全身を蔽ふ不思議な感覚にいつまでも浸りたい欲望を抑えきれないでゐた。



――へっ、それでお前の自同律の不快は解消するのか。そんなことで解消してしまふお前の自同律の不快とはその程度の稚児の戯言の一つに過ぎない! 



その通りであった。私は全身でこの不思議な感覚に包まれ充足してゐるとはいへ、ある疑念が頭の片隅から一時も離れなかったのである。



案の定、その翌日、私は高熱を出し途轍もない不快の中で一日中布団の中で臥せって過ごさなければならなかったのである。



あの不思議な充足感に満ちた実在を感じた感覚は病気への単なる兆しに過ぎなかったのであった……。









































2008 03/13 03:47:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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