思索に耽る苦行の軌跡

カテゴリ[ 哲学 文学 科学 宗教 ]の記事 (263件)

――これは愚問だが、《死》とはそんなにも醜悪な《もの》なのかね? 





――《死》も含め、《自然》なる《もの》はそもそも醜悪な《もの》さ。





――《自然》がか? それは反対で、《自然》は美しい《もの》ではないのかい? 





――いや。確かに《自然》は美しい《もの》には違ひないが、しかし、《自然》にもまた《パスカルの深淵》の如き特異点が《存在》するのであれば、それは醜悪な筈さ。





――ふっ、特異点とは醜悪かね? 





――当然だらう? 





――何故にさう言ひ切れるのかね? 





――へっ、何となくさ。





――何となく? 





――ああ、何となくだ。反対に聞くが、それ以上に特異点をどう形象すればいいと言ふのかね? 





――つまり、お前にも特異点は形象不能といふことか――。





――当然だらう。しかし、此の世に《死》が《存在》する以上、特異点は、多分、醜悪極まりない筈だ。





――へっ、《死》は醜悪かね? 





――《死》は《生者》にとっては醜悪な《もの》と太古の昔から相場が決まってゐるぜ。





――それは《生者》といふ有機体たる《死》が腐乱する現象を示すからといふだけの事だらう? 





――多分ね。しかし、姿形ある《もの》が《死》によって腐乱し壊れて行く様は、生きてある《もの》にとっては忌み嫌ふべき《もの》になるのは当然だらう? 





――当然? それは現代人のみの偏見ぢゃないかね? 





――いや、そんな事はないぜ。古代の神話世界では神すらも《死》を忌み嫌ってゐるぜ。





――しかし、《生》から《死》へ至り、そして《死》が腐乱して行くその醜悪極まりない《死者》の姿形を実際目にして、その腐乱する様を晒しながら《生》なる《もの》を鼓舞し、戒める如く《死》が白骨化する様を、日常の中に包含した《生》の営みを、近代化する以前の日常には、《死》は未だ当たり前に《存在》してゐた筈だがね? 





――さうだね。つまり、現代の《存在》の様態はといふと、現代においてはそれに現実といふ名が冠されてはゐるが、その実、現実の《死体》でしかない現実といふ「現象」を腑分けするが如くに論理的に分析しては、《死体》らしく論理で現実を規定する馬鹿な事を尤もらしく当然といった顔でさらりとやってのけてしまふ現代人程、《死》を忌み嫌った《生者》はゐないのぢゃないかね? 





――ちぇっ、それは多分、記憶に新しい過去に現代人は大量殺戮の世界を経験しちまったからね。





――それ故に尚更現代人なる生き物は《死》を日常から追ひ出したまでは良かったかもしれぬが、しかし、いざ《死》が日常に出現すると、蜂の巣を突っついたやうに大騒ぎするか、呆然とするかのどちらかといふ体たらくは、どうにかならぬかね。 





――するとお前は日常に《死》が普通に《存在》してゐる方が此の浮世は幸せだと考へてゐるのかね? 





――勿論だとも。「初めに《死》在りき」、そして《生》若しくは《性》が始まったのさ。





――つまり、《存在》と《死》が此の世の開闢時には在ったと? 





――さあ、それはどうか解からぬが、しかし、《生》よりも《死》が先に《存在》してゐたのは間違ひない。





――どうしてさう言ひ切れる? 





――へっ、唯、何となくさ。





――ちぇっ、また、何となくか――。





――下らぬ。《死》と《生》のどちらが先かなんてどうでもよいではないか! それより、単細胞が己のDNAを寸分違はず複製する自己複写故の自己増殖といふ《存在》の在り方が、世界の環境の激変と共に《死》するしかなかった故にDNAを組み替へて、新たなDNAの配列をもった子孫を残す、まあ言ふなれば一か八かの賭けによって、つまり、《生》と《性》と《死》とが切っても切れない紐帯で結ばれちまったのが、今を生きる生き物の主流なのは間違ひない。唯、主流が永劫に生き残る保証はないがね、へっ。





――つまり、それが生き残るかどうかは神のみぞ知るってか――。





(五十五の編終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 10/26 05:58:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、君は特異点の幻の面を見てしまったのか? 





――さうかもしれぬ……。しかし、あれは幻だったのか……。ちぇっ、仮令、幻であったとしてもだ、それも《存在》の一様態若しくは一位相に違ひないのだ。





――鏡ぢゃないのかね、のっぺらぼうは? 





――何の鏡といふのか? 





――己のに決まってゐるぢゃないか。





――つまり、己を映すのには無から無限までの相貌が現はれるのっぺらぼう――それを特異点と言ひ換へてもいいが――つまり、のっぺらぼうでなければならいのが自然か――な。





――へっ、納得するのかい、《主体》に特異点が隠されてゐることを? 





――納得するもしないも己が己を己と名指した刹那、のっぺらぼうたる《主体》内部の特異点がにたりといやらしく嗤ふのさ。





――それで済むかね? 





――いや、そのいやらしいにたり顔を見た途端、己は己を嫌悪する。





――己とはそもそも気色が悪い《もの》だらう? 





――へっ、それを言ふかね……。





――そして《主体》はそのいやらしい己を意識することで己たらうとする起動力を得てしまふのさ。





――つまり、それは《他》の渇望かね? 





――それを《吾》の渇望と言ひ換へてもいい。





――所詮、《吾》と《他》に差異は無いと? 





――ああ。のっぺらぼうを前にして《吾》も《他》もへったくれもあるものか! 





――つまり、君は一瞬にして無と無限の相貌を一瞥出来ると? 





――《主体》が《主体》たり得たければさうする外ないのさ。





――「嗚呼、絶えず無と無限に対峙する《吾》が過酷さよ――」。





――無と無限に《主体》が対峙するのは、《存在》が《存在》する為の最低限の礼儀だらう? 





――何に対しての礼儀だと? 





――死んだ《もの》達と未だ出現せざる《もの》達に対してさ。





――そして、《主体》は無限相たるのっぺらぼうを一瞥した時、初めて《杳体》の《影》に出会ふ筈……さ。違ふかね? 





――ふっ、多分だが、《杳体》はその《影》しか現はさぬ何かだと思はないかね? 





――つまり、この現実も《杳体》の《影》に過ぎぬと? 





――多分ね。しかし、《存在》がそもそも《杳体》の《影》に過ぎぬ……。





――君が言ふ《影》は様態若しくは位相と同義語かね? 





――或るひはさうかもしれぬ。





――つまり、《存在》はそれが何であれ《杳体》の《影》でしかないと? 





――違ふかね? 





――それは何でも《影》にしちまふのが楽だからぢゃないのかね? 





――例へばだ、《杳体》の中に手を突っ込んだところで何の感触があるといふのか? 





――反対に尋ねるが、《杳体》の中に手を突っ込んだ時、君は何の感触もないと看做してゐるのかね? 





――いや。





――では何かしらの感触はあると? 





――いや。





――いや? 





――《杳体》に手を突っ込んだ方の《存在》自体が、一瞬にして別の《もの》に変化するとしたならばどうかね? 





――つまり、主客の逆転が一瞬にして起こると? ふっふっふっ。それぢゃ、魔法と変はらぬぢゃないか? 





――魔法ね……。ふっ、魔法ぢゃ、主客逆転は起きやしないぜ。それ以前に君の言ふ主客逆転とは何かね? 





――つまり、《吾》と《吾》以外の全てが逆転するといふことだ。





(八 終はり)







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2009 10/24 05:20:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると、此の世の森羅万象を全て現在の相の下に置くと、其処には必然の欠片もない全てが偶然の中に《存在》すると看做しちまへといふ、或る種強引極まりない現実認識をする外に、《存在》しちまった《もの》は一時も《存在》出来ぬといふ事だね? 





――そもそも現在とは何だね? 





――へっ、言ふに事欠いて「現在とは何かね?」と来たぜ。つまり、《個時空》の問題なんだらう、現在は? 





――さう。《個時空》を持ち出せば、現在とは、唯、《吾》のみが世界の中に抛り出されて独り現在である事を強ひられ、独り現在に取り残された《もの》といふ事だ。





――つまり、現在のみが《吾》が《存在》する事のどん詰まりの牙城なんだらう? そして、現在においてのみ《吾》は《存在》出来る悲哀を噛み締め尽くさねばならぬのが、詰まる所、此の世に《存在》しちまった《もの》全ての宿命だ。





――つまり、《個時空》とは孤独の別称だらう? 





――ふっ、過去若しくは未来、即ち《距離》が《存在》しちまってゐる世界の中に抛り投げ出された《吾》は、言ふなれば、現在といふ名の絶海の孤島に《存在》させられてある。その様にしか《吾》は《存在》出来ぬ不思議を、お前は宿命の一言で片付けられるかね? 





――へっ、悪足掻きするのが、これまた《吾》の特性だらう? 





――そもそも何故に《吾》のみが現在に曝され続ける運命なのだらうか……? 





――ちぇっ、簡単さ。《存在》の喜怒哀楽を味はひ尽くす為さ。





――ふっふっふっ。それが我慢ならぬのも《吾》たる《存在》の本性だらう? 





――さうさ。《吾》は絶えず《吾》のみが《個時空》なる《もの》の現在に取り残される故に、《他》を模した何か《吾》とは別の《もの》への変容を願って已まない。





――それは、つまり、《吾》なる《存在》はそれが何であれ、全てその内部に特異点を隠し持つ矛盾を生きなければならぬ故にだらう? 





――ふっふっふっ。また堂々巡りだ。





と、其処で一息ついた彼は、瞼裡のその薄っぺらな闇に幽かに幽かに精液の如く乳白色の光をぼんやりと放ちながら浮かび上がった微小な微小なその内発する淡き光の粒が、ブラウン運動をしてゐるかの如く、その瞼裡の薄っぺらな闇に淡く発光する様を凝視しながら、その淡き発光物が何かを瞼裡に表象しつつあるのではないかと訝しりながらも、其処に見ず知らずの赤の他人の顔らしき《もの》が浮かび上がってゐることに気付いた途端、彼は、





――ふっ、ざまあないぜ。





と己に対して半畳を入れるのであった。





――此の世は《吾》に未知なる《もの》が多過ぎる。





――だから《吾》は必然を偶然と、偶然を必然と敢へて錯覚したいのさ。





――早い話が《吾》は渾沌の中に永劫にゐ続ければ、ふっ、満足なんぢゃないかね? 





――つまり、《吾》は《吾》なる《存在》も《吾》ならざる世界も、どちらも攪乱したまま、現在から永劫に逃げ果せれば、己の《存在》に納得出来るかもしれぬと、これまた敢へて錯覚したいだけだらう? 





――詰まる所、《吾》とは《吾》のみが現在に曝されてゐる事に不満たらたらで、その現在に《他》も巻き込んで、《吾》は互ひに顔を見合はせて、「いっひっひっ、あっはっはっ」と、哄笑したいだけなのかもしれぬ。





――何故に? 





――現在を忘れたいからさ。





――何故に現在から逃げる事ばかり《吾》はしてしまふのだらうか? 





――へっ、簡単さ。《吾》はその内部に隠し持ってゐる特異点、即ち《吾》の醜悪極まりないその本性から目を背けたいのさ。





――《吾》の本性、即ち特異点の相貌は醜悪極まりないかね? 





――ああ。《存在》とはそもそも死する故に醜悪な《もの》なのさ。





(五十四の篇終はり)







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2009 10/19 06:45:29 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ぐふっ。





と、息苦しさに堪へ切れずに思はず口から漏れ出た空気が皆球状になって水中をゆらゆらと水面に向かって上昇するその様を、最早何故にか水面へ浮かぶ事を禁じられた《吾》なる《もの》が、その息苦しさの中で遠ざかる気泡をぼんやりと眺めてゐる姿を、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象するこの《吾》は、その表象にこそ《生》の何たるかが隠されてゐると錯覚してゐる事を知りつつも、尚、その溺死しかけてゐる《吾》の表象に《吾》の実存する姿を《重ね合はせ》ては、《生》をさも大仰な何かにせずには己が生存しているという事が最早実感出来ぬ、その存在の危ふさの中に結局のところ蹲るしかない《吾》――。





…………





…………





――雄の孔雀の飾り羽の目玉模様の如く、仮に幽霊となりし《吾》が数多の目玉を持ち、此の世を傍観してゐるとするならば、その数多の目に映る此の世の有様は、如何なる《もの》なのだらうか? 





――さてね。そんな事は己の死後の楽しみの為に取って置くに限ると言ってゐるだらう。





――しかし、仮に《生》たる此の世に《存在》した《吾》が数多の目玉を持つならば、世界認識の仕方は目玉が二つに、例へば心眼を加へて、それら三つの目で眺めた此の現実とは全く違った何かが見える筈だがね。





――さて、それは如何かな。多分、数多の目玉で見える現実は、盲目の人がその頭蓋内の闇たる五蘊場に表象する世界と大して変はりが無い筈だぜ。





――何を根拠にそんな事が言へるのかね? 





――土台、現実は《吾》の《存在》などに目もくれぬ筈だからさ。





――つまり、《個時空》は泡沫の夢に過ぎぬといふ事かね? 





――泡沫の夢で構はぬではないか。詰まる所、《吾》は此の世に《個時空》として《存在》する事を許され、《個時空》を成立させる為に《吾》はその《存在》を此の世に間借りしてゐるやうな《もの》ぢゃないかね? 





――つまり、世界に従順になれと? 





――勘違ひするなよ。《吾》あっての世界ぢゃなく、世界あっての《吾》といふ事をな。





――その世界に旋風の如く渦巻く《個時空》は、あっといふ間に消え失せるってか――。





――それで十分だらう。





――何故に? 





――《存在》したからさ。





――つまり、それは《存在》したくても未来永劫に亙って《存在》出来ぬ未出現の《もの》達が数多ゐるといふ事かね? 





――そして、死滅した《もの》達の念もだ。





――仮に未だ出現せざる未出現の《もの》達が犇いてゐるのを《無》と名付け、死滅した《もの》達で犇いてゐるのを《無限》と名付けてみると、《無》と《無限》の何たるかが解かったかの如き気分になるが、しかし、実際のところ、《生者》たる《吾》に《無》と《無限》の違ひなぞこれっぽっちも解かりっこないといふのが、本当のところだらう? 





――それで構はぬではないか。《吾》が此の世に出現し《存在》する故に《無》と《無限》は裂けるのさ。





――つまり、《存在》とは《パスカルの深淵》の面だと? 





――違ふかね? 





――しかし、《無》と《無限》の間に宙づりにされた《吾》は、ちぇっ、それが現実といふ《もの》か! 忌々しい! 





――さうさ。絶えず現在に投げ出されてある《個時空》たる《吾》は、《無》と《無限》を過去にも未来にも自在に転換させながら、現実に宙づりにされた己の悲哀を有無も言はずにじっと噛み締めなければ、へっ、《吾》たる《個時空》は、時空間のカルマン渦をちっとも巻くことなど出来ぬのさ。





――《存在》とは残酷な《もの》だね……。





――今頃気付いたのか、へっ。





(八の篇終はり)







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2009 10/17 06:12:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、だが、後の世代の宇宙は、前の世代の宇宙のその念、即ち霊魂をちゃんとRelayするのかね? 





――否応なくそれをRelayしそれを背負ふしかないのさ。





――つまり、《存在》する事が、そもそも既に先達の宇宙共の念、即ち霊魂を背負ふ事だと言ひ得るのだらうか? 





――勿論だとも。《存在》する事は、それの誕生以前もそれの死滅以降もまた別の《《存在》の念を背負って新たな《存在》が生ずる、つまり、《存在》は《他》の《存在》と念が「先験的」な前提となって初めて《存在》は《存在》出来るのさ。





――はて、お前は何時から運命論者になったのかな? 





――ふっふっふっ。偶然の居場所がないと言ひたいのだらうが、現在に《存在》してゐる《もの》のみに偶然は授けられるのさ。





――はて、現在に《存在》する《もの》とはハイデガーの言ふところの「現存在」ではないのかね? 





――その通り《存在》する《もの》はそれが何であれ己が《存在》することを認識、つまり、自覚してゐる筈さ。つまり、《存在》する《もの》は全て世界を認識し、更には己の《存在》を認識する「現存在」だ。





――それに加へて念と来ちゃあ、汎神論ならぬ「汎念論」若しくは「汎霊論」と呼ぶに相応しい幻想に過ぎぬぜ。





――何を持って幻想と言ふのかね? 





――ふっ、何でもお見通しか――。ふはっはっはっはっ。「現存在」は人間のみの《もの》ぢゃないんだらう? 





――さう。此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ己の《存在》を自覚してゐる筈だ。





――つまり、神を《存在》から解放する「苦悩による苦悩の封建制」を創生するには、此の世の森羅万象が各々己の苦悩を担ひ、更に此の宇宙の《存在》する事から必然的に発生する《存在》する事の苦悩を此の世の森羅万象は認識しなければならぬ。しかし、さうすると、此の悪意に満ちてゐるとしか思へぬ此の宇宙の《存在》とは、さて、怨念とどう違ふのかね? 





――ふっ、怨念ね……。怨念もまた念だからな。さて、なあ、怨念はどうやって生まれるのだらう? 





――己が己でしかない《存在》である事を知ってしまふ事から怨念は生まれるに違ひない。





――何故に? 





――へっ、それはお前も知ってゐる筈だがね? 





――ふっふっふっふっ。《存在》はちょっとやそっとぢゃ己の《存在》、つまり、《吾》が《吾》でしかないと達観なぞ出来ぬからな。





――つまり、それが《現在》の本性だらう? 





――ん? といふと? 





――《存在》が《存在》してゐる事を自覚するその底無しの懊悩の事さ。





――ふっ、何度も言ふが、《存在》は、その内部に底無しの、若しくは天井知らずの深淵を隠し持つ外に、この得体の知れぬ《現実》にすら対峙出来ぬ悲哀を否応なく噛み締めなければならぬ定めにあるとするならばだ、偶然は此の絶えず現在であり続ける宇宙全体の中で、局所的に《存在》する外に《吾》が《吾》であり得ぬ《存在》の悲哀を象徴する何か不可知なる《もの》に違ひない筈だ。





――それを一言で言ふと? 





――局所的時空間における《存在》の不確実性。





――はて、すると、宇宙全体を仮に俯瞰出来るとするならば、その全体の中には偶然の欠片すらも微塵もなく、つまり、大局的時空間においては全て必然的な確実性が支配してゐると無理矢理看做してゐるやうに思ふが、実のところは如何かね? 





――へっへっへっへっ。此の宇宙もまたもしかすると大大大大大宇宙の局所的な宇宙に過ぎぬかもしれぬぜ。さうすると、局所的時空間における《存在》の不確実性、つまり、偶然を表象する未知なる何かかもしれぬ筈だがね。





――つまり、局所的時空間とは、例へば大局的なる時空間を不意に切り取ってみて、その局所的な時空間が如何様になるのかをその切り取った部分を現在においてのみ俎上にのぼす、へっ、つまり、現在においてのみで因果律を完結した《もの》として語る誤謬を敢へてしておいて、結局のところそれを偶然と名付けて喚いてゐるに過ぎぬのぢゃないかね? 





――だが、《吾》たる《存在》が《現実》に対峙することはさういふ事でしかない、つまり、局所的に《吾》の確率が《一》に突出して近しい故に、《吾》は《存在》出来、またその様にしか《現実》に《存在》出来ぬ故に結果として《現実》を決して俯瞰する術がないことで、偶然なる事も含めて何もかも全て《存在》の悲哀に帰してしまってゐるのぢゃないかね? そして森羅万象の《吾》なる《存在》は全て現在を不気味な何かとしてしか認識出来ぬのぢゃないかね? 





(五十三の篇終はり)







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2009 10/12 05:43:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――性交時若しくは食事時若しくは睡眠時はいづれも《吾》の行為に夢中で或る種忘我の状態に、つまり、因果律などお構ひなしのそれを特異点といってしまふが、その忘我なる特異点の状態にある事は認めるね? 





――だからそれが如何した? 





――つまり、忘我故に《吾》は《吾》に夢中といふ矛盾を何とする! 





――くっくっくっ。矛盾なことは大いに結構ぢゃないか。つまり、それが特異点の《存在》を暗示する証左だらう? それよりも自ら生き残り、更に尚も種を保存することを《存在》は前宇宙に託されてゐると思はぬかね? 





――はて、前宇宙とは? 





――此の宇宙誕生以前の宇宙の事さ。つまり、約めて言へば「先験的」なる事さ。





――へっ、此の宇宙誕生以前もまた宇宙と呼べる代物なのかね? それは宇宙とは全く別の《もの》と違ふのぢゃないかね? 





――そんな事は如何でもよからうが。ちぇっ、それよりも数学が《存在》してしまふ事が前宇宙の名残りだと思はぬか? 





――それはまた何故にさう言へるのかね? 





――くっくっくっ。唯、何となくそんな気がするだけさ。ちぇっ、お前は「先験的」なる事に《存在》が全く歯が立たないのは癪に障らぬのかね? 





――へっ、土台そんなこったらうと思ったぜ。「先験的」なることは勘の《存在》で巧く説明出来るかもしれぬが、しかし、第六感若しくは直感は信じられる《もの》、ちぇっ、土台、直感が《存在》の最初の砦でありまた同時に最後の砦であるならばだ、《存在》は直感に、つまり、「先験的」なる《もの》に従順たれといふことで、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる――のか? 





――これは同性でも構はぬが、つまり、異性に惚れる時は如何かね? 





――ふむ。惚れちまったものはどう仕様もないのは確かだが、それにしても数多ゐる異性の中からたった一人の異性に惚れちまふ不思議、つまり、存在論的に見て惚れる事は面白い対象なのは間違ひない。





――さて、惚れちまふ事は偶然かね? 





――不慮の事故死と共にそれは偶然の出来事さ。





――くっくっくっ。何を嘯く? 本当のところは必然、即ち運命若しくは宿命と言ひたいのだらう? 





――ちぇっ、お見通しか――。だが、主体たる《吾》は何事にも自由、つまり、あらゆる時点に偶然と呼べる余地を残しておきたいのもまた《吾》の習性さ。





――くっくっくっ。其処でだ、お前は自由かね? 





――ふむ。それが解からぬのだ。





――つまり、自由の余地を残しておきたいと言ひ条、その実は惚れたのを運命等の必然に帰したいのが本音ぢゃないかね? 





――さう。惚れてしまふ不思議を引き受けるのに運命的な出会ひ等と称して必然の《もの》として引き受けたいのが本音さ。





――くっくっくっ。しかし、主体たる《吾》は何時でも自由でありたい。くっくっくっ。つくづく《存在》とは矛盾に満ちた《もの》だぜ。





 と、其処で《そいつ》は不意に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中に姿を消したのであった。それでも私は尚も閉ぢられた瞼裡の闇をじっと凝視し続けるのであった。





――さて、偶然的な出会ひと運命的な出会ひの違ひは、徹底的に主観の問題に違ひない。否、主体たる《吾》は強欲故に全てを主観の裁量に帰したいのだ。へっ、性交時若しくは食事時若しくは睡眠時の忘我の状態に《吾》が陥らうが、それでも主体たる《吾》は《吾》であること、つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ恍惚の中でも絶えず《吾》を追ひ求め、「俺は俺だ!」と叫びたいに違ひない。性交に貪るように耽るのも、何《もの》にも目も呉れずに只管貪り喰ふ事に夢中な食事時も、必ず《吾》なる《もの》が全肯定され《存在》する睡眠時の夢の中でも、《吾》は《吾》を夢中で追ひ求めざるを得ぬのだ。さうして、性交後の、食事後の、そして睡眠から覚醒した時の虚脱感の中で、《吾》は《吾》の《存在》を味はひ尽くさねばならぬのだ。そして、それは偶然と必然の両様が宙づりにされた両様の相《存在》する未決の状態、ちぇっ、つまり、《吾》は自由度が只管確保される可能性の中に《吾》をぶち込めておきたいに違ひない。それは、しかし、愚劣極まりない打算が働いてゐるだけではないか! ちぇっ、主体たる《吾》は何時も因果律が壊れた可能性と言ふ耳に心地よく響く《存在》のMoratorium(モラトリアム)に唯留まりたいだけぢゃないのか。可能性と言へば聞こえはいいが、それは単に可能性が全て閉ざされその本性が露になった《現実》からの遁走にすぎぬのではないか! 





(八の篇終はり)







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2009 10/10 05:17:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――もういい加減、神を《存在》から解放させなければ、主体も客体も神も皆共倒れだぜ。





――それはその通りなのだが、主体たる《吾》は神との関係を断絶出来るかね? 





――へっ、主体たる《吾》が世界をたった一人で背負ってゐるかの如き幻想を先づ捨てなけりゃ、主体たる《吾》は何時まで経っても神から自立出来ぬ赤子の様な《存在》に終始するだけだぜ。





――それで「苦悩による苦悩の封建制」って訳かね? 





――さうなるには先づ主体たる《吾》は己の事を弁へなければならぬ。





――つまり、世界の苦悩は世界にしか背負へぬと? 





――さうさ。《吾》は詰まる所、《吾》の苦悩しか知り得ぬし背負へぬ。しかし、その《吾》は神を《存在》から解放すべく背負ひ切れっこない程の苦悩を何としても背負はなければならないどん詰まりの処にまで主体も客体も神も全て追ひ詰められてしまったのさ。もう神を《存在》から解放させてあげようぜ。そして、主体は、その背負ひ切れっこない苦悩を背負ふべく新=存在体、即ち《新体》へと相転移を遂げる外に、主体も客体も神も世界も全て存続出来ぬのさ。





――つまり、《存在》の円環を主体が先づぶった切って、此の宇宙からの自存を成し遂げよと? 





――それを主体は夢想すればいいのさ。





――へっ、夢想だって? 《新体》を夢想すると簡単に言ふが、《新体》とはこれまで全宇宙史を通じて未だ《存在》した事のない《もの》だぜ。そんな《もの》をどうやって夢想するのさ。





――唯、念ずればいいのさ。





――念ずる? また念か――。此の宇宙の開闢の時に念が不意に無と無限がぴたりと重なったその心地良さから「ぷふぃ。」と嗤ひ声を発したその破裂が、Big Bang(ビッグバン)だと言ひ、今度は未だに此の世に《存在》した事がない《もの》を念じるだと? へっ、念ずれば主体は《新体》へと変化出来るのかね? 





――それは解からぬが、しかし、何もしないよりは念ずる事の方がずっとましな事は確かだぜ。





――確かだぜ? 念ずるんだぜ。唯、念ずるんだぜ。《吾》が《吾》としては背負ひ切れぬ苦悩を背負って「苦悩による苦悩の封建制」を招いて、そして、神を《存在》の呪縛から解放するといふ夢みたいな事をぬかしをって。ちぇっ、只管念じたところで主体は結局主体以外の何《もの》にも変化など出来ぬ上に、己の無力感を嫌といふ程に味はふだけに過ぎぬのぢゃないかね、結局のところは? 





――だから尚更此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、只管思念するしかないのさ。





――何故に? 





――生き延びる為にさ。





――生き延びる? 





――さう。主体も客体も世界も神も此の世の森羅万象全てが生き延びる為に、主体として《存在》しちまった《もの》は、只管、未だ此の世に《存在》した事がない《新体》なる《もの》を念ずるのさ。





――つまり、念は、換言すれば霊魂は、何世代にも亙ってRelay(リレー)されるといふ事かね? 





――さう。Relayだ。霊魂は書物の如く何千年も此の宇宙に《存在》させられた主体たる《もの》によってRelayされ続ける。





――さうして仮初にも此の宇宙に誕生した《新体》は此の宇宙の死滅する姿を黙してじっと凝視する――。





――ふっふっふっ。





――何が可笑しい? 





――いや何ね、《新体》の出現が此の宇宙の死滅を意味するのが何やら可笑しくてね。





――否。お前の言ふ通り此の宇宙から自存する《新体》の出現は此の宇宙の死滅以外の何《もの》でもない。しかし、念は、つまり、霊魂は此の宇宙が死滅しても次世代の宇宙に必ずRelayされなければならぬの筈だ。





(五十二の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 10/05 06:45:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会った場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちぇっ、それは爆発的に誕生すると言った方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君は如何思ふ? 





――それは銀河同士の衝突を思っての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかったに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききぃぃぃぃぃんんんんん〜〜」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。





――へっ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげっぷだらう、その《ざわめき》は? 





――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげっぷさ。





――くくくききききぃぃぃぃぃんんんんん。





と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであった。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を





――あっは。





と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかったのであった。





――ぷふぃ。





…………





…………





――何が可笑しい? 





――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺には可笑しくて仕様がないのさ。





――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へっ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にある可笑しさは、最早嗤ふしかないぢゃないか。





――あっは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやって《吾》と《他》は輪廻する。





――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふことだらう? 





――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。





――《存在》の原質? 





――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもってして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたってゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通って生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。





――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になってしまふといふことか? 





――だから、げっぷなのさ。《吾》はげっぷを発することで朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちぇっ、《吾》は《吾》であることを受容するのさ。





――受容するからこそ《吾》がげっぷを発する、否、発することが可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢゃないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。





――さう。全《存在》が己のことを自己同一させることを拒否するのが此の世の摂理だとすると、へっ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負った此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。





(八 終はり)







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2009 10/03 05:28:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると霊魂は宇宙背景輻射の如く或る「ゆらぎ」を持って、つまり、或る偏差が在りつつも、此の世に遍在してゐると? 





――例へば、此の世の森羅万象に己の《存在》を自覚する或る意識体、即ち、霊魂が《存在》せずば、ちぇっ、《存在》は何故此の世に《存在》せねばならなかったのか、そして何故《存在》は生滅するのか、つまり、《存在》そのものがその因果を引き受ける覚悟なんぞ決して持てぬではないか? 





――へっ、また堂々巡りだ! 





――堂々巡りこそ思考に与へられた最上の《もの》で、《存在》は堂々巡りする、つまり、渦巻く思索の型以外、何《もの》によっても理論武装若しくは論理を打ち立てる事は出来やしないのぢゃないかね? 





――渦を巻く思索ね……。





 彼は其処で深々と一息息を





――ふ〜〜う。





と、吐いた後に、瞼といふ何とも薄っぺらな《もの》で閉ぢられたにしては余りにも深い眼前に拡がる闇を凝視しながら、此の薄っぺらな瞼裡の影に過ぎぬ闇に潜む森羅万象の表象群を思っては、





――ふっふっふっ。





と、何とも皮肉な嗤ひを発するのであった。





――さて、俺は何に対して嗤ってゐるのやら……。





――へっ、《存在》に対してに決まってゐるだらうが! 





――その通りだ、俺は《存在》に対して思はず「ふっふっふっ。」と嗤ったのだ――。だが、何故俺は《存在》を嗤へるのか? 





――答へは簡単さ。お前自体が《存在》しちまってゐるからさ。





――俺の《存在》? ふっ。





――はて、此岸にゐる《もの》は彼岸を思ふが、彼岸にゐる《もの》は果して此岸に《存在》する《もの》を思ふのであらうか? 





――またぞろ《反=生》の登場かね? 





――へっ、《反=吾》でも構はぬがね、しかし、それが《反=死》であらうと《反=生》であらうと《反=吾》であらうと、霊魂は余剰次元の概念で登場する或るbraneworld(ブレーンワールド)と、そしてそれとは離れて《存在》する別のbraneworldとを自在に行き交ふbulk(バルク)粒子の如く此岸と彼岸を自在に行き交ふ《もの》として《存在》せずば、仮令それが夢であらうが、《存在》が己の《死》若しくは死後の世界を想像若しくは表象してしまふ暴挙など決して出来ぬ筈だ。





――つまり、霊魂こそ《自在》を体現する《もの》といふことだね? 





――《自在》と《幽閉》の両方さ。





――あっは。それが《存在》が《存在》する為の《存在》の「ゆらぎ」だね? 





――さう、「ゆらぎ」だ。





――つまり、霊魂は此の世と彼の世を自在に行き交ひ、そしてその霊魂は此の宇宙に遍在しつつも「ゆらぎ」がある故に《存在》が《存在》出来るのだね? 





――さう、此岸と彼岸を《自在》に行き交へてしまふことからの必然として霊魂はそもそも因果律が壊れた《もの》の一つとして現はれ、そしてそのやうに現はれてしまふ故に或る「ゆらぎ」を持ってしまひ、その「ゆらぎ」故に物体として《存在》した《もの》全てに霊魂は宿ってゐる……。





――つまり、《存在》する《もの》全てに霊魂は宿り、その因は、あらゆる《もの》に遍在する「ゆらぎ」故に《吾》は《他》よりも突出して確率《一》に近い《存在》として、つまり、それこそ「ゆらぎ」故に《吾》は《吾》たらむとする。





――しかし、《吾》は、ちぇっ、つまり、《存在》する《もの》全ては自同律に躓く。





――此の世に「ゆらぎ」が《存在》せずば、何《もの》も《存在》しなかったとするならばだ、その「ゆらぎ」が《存在》しちまふ以上、それは如何ともし難い。





――ふっ、《吾》は此の世には在り得べからざる確率《一》で《存在》する《もの》を夢想し、その夢想が恰も実在するかの如く《吾》に棲み付き、それ故に「俺は俺だ!」と虚しく木霊する叫びを発するのだが、へっ、此の世の神的な《存在》、ちぇっ、それは単なる時空間に過ぎぬ筈なのだが、その神格化された時空間は何も答へちゃくれぬ。ざまあないぜ。





(五十一の篇終はり)







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2009 09/28 06:22:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 それにしても夢において闇を形象するといふ曲芸、否、《インチキ》を堂々と成し遂げてしまって





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、自嘲の嵐の中で





――それは至極当然だ。





といった態度で恰も泰然自若を装ひ嘯くその《吾》は、その実、闇そのものを訝しりながらも途轍もなく偏愛して已まないのも、これまた厳然とした事実として自覚してゐる何ともふてぶてしい私は、闇を《物自体》として仮初にも仮象してゐるのかもしれなかったのである。つまり、





――此の世の根本は闇である。





と、何かを達観した僧侶の如く己を偽装したいが為に私は、夢でも《闇の夢》を、つまり、《闇》の虜と化した何《もの》かに変化し果(おほ)せてしまって、それは、また、恰も木の葉隠れの術の如き忍法にも似た《私》の隠れ蓑になってゐる可能性が無くもないのであった。その証左に





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、夢の中の私はその《闇の夢》たる《吾》を形象して、無意識裡に私自身から私が死ぬまで、否、私が夢を見なくなるまで永劫に隠し果したい醜悪極まりない《異形の吾》を《闇の夢》に隠してゐるのは間違ひなく、その氷山の一角として、若しくはその証左として、《夢》となって私の眼前に現はれる《闇の夢》は、大概何かに変容するのが常なのであった。そして、私はといふと、浅い眠りの中で見る《闇の夢》が何かに変容するのを何時も待ち構へてゐて、大抵は《闇の夢》は《世界》へと変容し、夢は夢見中の私の眼前にその可視可能な《世界》となって拡がるばかりの何の変哲もない《もの》へと変容を遂げるのであった。斯様に《闇の夢》は大概《世界》へと変容はするが、尤も、何かの具体物、例へば、人間や動物などの創造物たる《もの》への変容は稀であり、それは多分に《吾》によって《吾》の本質の尻尾を捕まへられるのを極度に嫌ひ何としても私に私の本質が見破られる事を避ける《インチキ》をすることで、《吾》と夢の中で対峙する事態を回避してゐるのも間違ひのない事であった。そして、その《闇の夢》に隠されてゐる《もの》の一つに《死》の形象が《存在》するのは確かで、もしかすると私は、《死》といふ《もの》が無上の恍惚状態であるかもしれぬことを、何となく《闇の夢》が醸し出す雰囲気から無意識裡にでも感じ取ってゐたのかもしれなかったのである。其処で、





――へっ、《死》が無上の恍惚? 





といふ半畳を《吾》が《吾》に対して入れる自己矛盾に自嘲するでもなくはないのであるが、しかし、仮に《死》が無上の恍惚状態の涯に《存在》する何かであるならば、《吾》が《吾》に問ふ自問自答といふ《吾》における「阿片」たるその問ひ掛けの源が《死》といふ無上の恍惚状態から発してゐる《存在》の欠くべからざる必須の《もの》の如く、換言すれば、《存在》が《存在》であり続けるには、何としても必要な糧が《死》の無上の恍惚状態との仮定に立てば、成程、細胞六十兆程の統一体として《生きてゐる》私の個々の細胞の多くは、しかしながら自死してゐる事態を鑑みれば、《死》の無上の恍惚状態といふ事態が不思議と納得出来てしまふのも、また、私にとっては厳然とした事実なのであった。





 さて、其処で、私は、不意に腐敗Gas(ガス)で腹がぱんぱんに膨れ上がり、どろりと目玉が眼窩から零れ落ち、彼方此方で腐敗して肉体が欠落し白骨が剥き出した私の《死》の形象が脳裡を過る刹那に時々遭遇するのであるが、しかし、現代では死体は故意に遺棄されるか孤独死をしなければ腐敗するに任せることはなく、小一時間程の焼却で火葬され、さっきまで死体であった《もの》が白き骨の残骸に劇的に変化を遂げる、否、焼却といふ激烈な化学反応によって《死体》を無機物へと無理矢理還元させる現代において、私の《死》の形象は、妄想以外の何《もの》でもないのであったが、尤も、私が徐に深々と一息吸ひ込み《闇の夢》へと投身した時の深い眠りの時に見てゐるであらう夢は、もしかすると私の腐乱した《死体》との出会ひでしかないのかもしれぬ可能性も無くはないのであった。そして、私が《闇の夢》の中に隠してゐるのが《死》の無上の恍惚状態であるならば、私は、私の《死体》が時の移ろひと共に腐乱して行く《吾》の醜悪な、しかし、《自然》な姿を凝視しながら、即自、対自、そして脱自を繰り返しながら、或る時は《吾》は《吾》と分離した《異形の吾》として、また或る時は眼前に横たはる《吾》の腐乱した《死体》と同化しては、この上なく《死》の無上の恍惚状態を心行くまで堪能し尽くす《快楽》へと《吾》は身投げをし、更にはその恍惚状態の《吾》から幽体離脱しつつも、《吾》は尚も恍惚状態のままでゐる大いなる矛盾の中で絶えず《吾》である事を強制された《存在》として、《吾》を《闇の夢》が生んだ更なる夢の奥深くに《吾》を投企してゐるのかもしれなかったのである。





(六の篇終はり)







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2009 09/26 06:18:55 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――だが、これは愚問だけれども、何故《吾》の相対化は下らないのかね? 





――簡単なこった。《吾》が《吾》である責任を放棄してゐる《存在》のMoratorium(モラトリアム)こそが《吾》の相対化の本質に過ぎぬからさ。更に言へば、《吾》を相対化することで虚無主義に《吾》が堕する馬鹿馬鹿しさを、へっ、これまた相対化して阿呆面した《吾》がにたにたと嗤ってゐるに過ぎぬことにお前は未だ気が付かないのか、ちぇっ。





――つまり、《吾》は《吾》であることに、最早腹を括るしかないと? 





――たまさか、《吾》が《他》より確率が大きいばかりに、つまり《吾》は《他》より確率が《一》に突出して近いが為に《吾》は《吾》であることを強ひられることになったに過ぎぬのだが、ちぇっ、尤も、《吾》が《吾》であることは神すらも覆せない事実だと観念して受け入れるのが《吾》が此の世で生を享けた報ひに違ひないのだ。





――《吾》が《吾》であることはたまさかな事かね? 





――ふむ。それは如何とも解釈可能だな。たまさかな事かもしれぬし、宿命かもしれぬ、な。ふっふっふっ。だが、そんな事は別にどちらでも構はないぢゃないかね? 





――ああ、さうだ。別にどっちでも構はぬ。だが、《吾》にとっては全てが必然の方が安心するのは間違ひない。





――へっ、ここで自由の問題を持ち出すのかい? 





――いや、神の問題だ。





――詰まる所、自由の問題と神の問題は同じ事ぢゃないかね? 





――しかし、此の世の開闢の時を考へると、無と無限がぴたりと重なって、その重なり具合が絶妙この上ないが為に、《吾》の萌芽と成るべく不意に湧き出た《念》から思はず「ぷふぃ。」とその無上この上ない悦びから発せられたその無邪気な笑ひ声こそが、此の世の開闢を知らしめる喇叭の高らかで華やかな響きにも似たBig Bang(ビッグバン)の破裂音だと仮定すれば、自由の問題と神の問題とは似て非なる《もの》ぢゃないのかね? 





――さう、似て非なる《もの》だ。ひと言で言へば、無と無限の同一相において《念》は「ぷふぃ。」と思はず笑ひ声を発せずにはゐられなかった。それは何故だと思ふ? 





――へっ、その《念》が《吾》を《吾》だと認識したが為に《吾》なる《もの》が出現し、その《吾》はといふと、無と無限が裂けて大口を開けた刹那にこれまた出現した《パスカルの深淵》に此の世の開闢の瞬間、ちぇっ、思はず見蕩れてしまったのさ――。





――つまり、それ故《吾》と《他》が出現してしまったと? 





――ちぇっ、無と無限が裂けたのさ。





――だから、それで? 





――ちぇっ、唯、それだけの事だ。





――それで因果律が発生したと? 





――互いに離れ行く無と無限を時空間なる《もの》が何とか無と無限を串刺しにすることで辛うじて底無しの深淵がぱっくりとその大口を開けた無と無限の裂け目を弥縫した……。





――つまり、此の世には無と無限が共に《存在》し、無と無限が永劫に離れないやうに辻褄を合わせるが如くに、はっ、時空間が出現したと? 





――ちぇっ――。





――へっ、こんな様なら、神を《存在》から解放すべき神のゐない創世記をでっ上げるにしては何とも弱弱しくて而も物足りない。





――しかし、無と有を結ぶ何かの糸口は必要だ。





――それが《念》だと? その《念》が、無と無限がぴたりと重なった無上の愉悦の極点に達した刹那に思はず発してしまった「ぷふぃ。」といふ笑ひ声によって、その無上の愉悦の瓦解が始まった故に有たる此の世の時空間が生まれたと? 





――しかし、特異点は何をおいても先づは《存在》しなければならぬ……。





――それは、また、何故かね? 





――此の世が《存在》する為に決まってらあ。





――はて、特異点無くして此の世が生まれぬといふのは、へっ、大いなる矛盾を抱へ込むことになるが、さて、それを如何やって解きほぐすのだ? 





――重力ある処、即ち、《存在》ある処、また、特異点も在りき、さ。





――つまり、《存在》とは、特異点の仮面に過ぎぬと? 





――ああ。《存在》は特異点を蔽ひ隠す仮初の此の世での《存在》、即ち《物自体》の仮面に過ぎぬ。





――だが、それでも未だ神を《存在》から解放し、神のゐない創世記をでっち上げるには、へっ、論理的に矛盾してゐて、而もその論理では弱すぎるぜ。





――付かぬ事を尋ねるが、お前は霊魂が《存在》すると思ふかい? 





――何を藪から棒に! 





――実際のところ、如何なんだい? 





――ちぇっ。ぞんざいな物言ひだが、霊魂は《存在》した方が自然だ。しかし、それは飽くまで《念》と同様の《もの》としてだ。つまり、初めに生まれし《念》は、今も霊魂として有の世界若しくは時空間、即ち此の世に撒き散らされた形で、即ちBig Bang(ビッグバン)の残滓として《存在》してゐる筈さ。それは此の世に《存在》する宇宙背景輻射と、多分、同等の《もの》に違ひないのだ。





(五十の篇終はり)







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2009 09/21 06:22:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると《吾》とは既に幻影の類に成り果ててしまったのかね? 





――ふっふっふっふっ、さう望んだのは人間自身ぢゃないのかね? 





――何をしてお前にさう言はしめるのかね? 





――へっ、人間は人力以上の《力》を手にした途端、《世界》を神から掠奪する事に一見成功したやうに見えるが、その実、人力以上の《力》で作られ、その挙句、人工物で埋め尽くした此の人工の《世界》は、へっ、既に人間の想像の範疇を超えた何かでしかないからさ。そんな《世界》における世界=内=存在を一身で体現出来る《吾》なんて、へっ、幻影でなければ一体何だといふのかね? 





――つまり、この世界=内に《存在》する《吾》は、己の手で此の現実に対さねばならぬのっぴきならぬ立場に自らを追ひ込み、そして、人力の無力さを嫌といふ程味はひ尽くした上に、此の《世界》に対峙する事の辛酸を嘗め尽くさずば、《吾》の本当のところは不明といふ事かね? 否、むしろ己の虚無さ加減が解からぬといふ事かね? 





 その時、彼はゆっくりと瞑目し、瞼裡に朧にその相貌を浮き上がらせた或る《異形の吾》をきっと睨み付けてかう問ふたのであった。





――人間が人力以上の動力を手にした瞬間に、《吾》は《吾》の化け物と化して、その或る仮構された《吾》らしき《もの》を如何足掻いても《吾》と名指す外なく、そして、さう名指すことでやっとその無力なる己の屈辱感を一瞬でも忘却したかった、ちぇっ、つまり、この世界=内=存在を一身で体現しなければならぬこの《吾》といふ生き物のどん詰まりを味はひ尽くさずば、最早《吾》など泡沫の夢に過ぎぬといふことかね? 





――さう、人間は人間の欲望の涯に人力以上の動力を手に入れて、その《力》で強引にすら思へる程にこの現実を作り変へた結果、《吾》といふ実体を見失ってしまったのさ……否! 最早、《吾》といふ《もの》を実感を持って《吾》と、この《吾》は断言出来なくなってしまったのだ! 





――それは人力以上の動力を手にした《吾》は最早《世界》に対峙する術を、つまり、《生身の吾》によってしか対峙出来ぬ此の《世界》を見失ったといふことかね? 更に言へば、《吾》は《吾》本来の姿から遥かに膨脹してしまった何かに既に成り果ててしまったといふことかね? 





――ふっ、《吾》の膨脹ね――。人力以上の《力》で《世界》を人工の《もの》として神から掠奪し果せた人間は、換言すれば、その神から掠奪しようと己の手を汚して《世界》を手にした第一世代は、多分、未だ《吾》が《吾》である実感がしっかりとあったに違ひない筈だが、それ以降の世代、つまり、生まれる以前に既に《世界》が誰とも知らぬ他人(ひと)の手で人力以上の《力》で人工の《もの》へと変はってしまってゐた第二世代以降の人間は、さて、どうやって己の生存を保障したのかお前にも想像はつくだらう。





――つまり、《吾》は、《吾》であることを断念し、その誰とも知れぬ他人の手になる、しかも、人力以上の《力》で作り変へられてしまった人工の世界=内=存在に徹する外に、この《吾》が生き延びる術は最早残されてゐなかった……違ふかね? 





――詰まるところ、《吾》は《吾》本来備わってゐた筈の《生身の吾》といふ主幹を自らぽきりと折って、この人工の《世界》に適応するべく生える筈がない《吾》の蘗の生長を、へっ、架空する外なかったのさ、ちぇっ。





――へっ、その結果出現したのが、中身ががらんどうの、それでゐて人力以上の《力》を手にした故に膨脹せずにはゐられなかった《吾》の化け物を、ちぇっ、《吾》と名指す愚劣を犯す外になかったこの何とも哀れなる《吾》といふ訳か――。





――しかし、さうすると、この人工の《世界》をぶち壊せば、簡単に、元通りの再び神の《世界》の中の実感ある《吾》を取り戻せるのぢゃないのかね? 





――へっ、「創造と破壊」と言っては、ぷふぃっ、洒落る訳ね? 





――といふ事は、「創造と破壊」は最早無意味な呪文の一種でしかないと? 





――へっ、さうさ。シヴァ神を復活させたところで、最早其処にはTerrorism(テロ)の恐怖しか齎さないのは、忌まわしき日本のオーム真理教による地下鉄Sarin(サリン)事件といふTerrorismや宗教の忌まわしき処を具現化しちまった原理主義者による亜米利加(US)で起きた同時多発Terrorismが図らずも証明しちまったのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》の実感を追ひ求めることは、即ち、原理主義の台頭を、就中(なかんづく)、暴力を絶対的に肯定する「聖戦」を掲げた原理主義に直結しちまふ時代が到来しちまったといふことだね? 





――さう、哀しい哉、《吾》は、ちぇっ、この主幹なき《吾》の蘗が生長し、その内部に《虚(うろ)の穴》を持つこの《吾》は、人力以上の《力》を手にし膨張に膨張を重ねた揚句に誕生しちまったこの《吾》といふ名の化け物と何とか折り合ひをつけなければ、只管、無意味な《死》、つまり、犬死する《吾》、若しくは現代の人身御供たる《吾》を大量に生み出すのみの何とも惨憺たる状況に《吾》は既に陥っているといふことさ。





――その因が、即ち人類が人力以上の《力》を手にして此の《世界》を神から掠奪したといふことなのか――。





(三の篇終はり)







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2009 09/19 06:18:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、人類の、此の叡智に満ちた人類、ちぇっ、人類が何《もの》かは知らぬが、その人類の未踏の地として脳はあるが、はっはっ、人間は脳を科学的に理論付けるのにまたしてもへまをやらかしてゐる。





――人間のへま? 





――さうさ。脳科学では脳は何処まで行っても脳以外の何ものでもない! 





――しかし、お前も俺も此の頭蓋内の闇を脳といふ構造をした五蘊場と敢へて名付けて、脳が脳でしかないことを飽くまで否認してゐる……違ふかね? 





――ふっふっふっふっ、その通りさ。此の頭蓋内の闇は脳といふ構造をした《場》でなければ、其処で底無しのパスカルの深淵が大口をばっくりと開けたり、《異形の吾》共がにたにたといやらしい嗤ひをその醜悪なる顔貌に浮かべながら《存在》したり、将又(はたまた)、因果律が全く役に立たずに壊れてゐる虚空が現出する筈はないのさ。





――すると此の五蘊場は特異点とFractal(フラクタル)な関係、換言すれば、自己相似の関係にあると? 





――おそらくな。それ以前に電気がある処電磁場が発生する如く、頭蓋内の闇もまたその様にあるに違ひない筈だ。





――つまり、脳細胞の一つ一つが超絃理論の《ひも》の如くにあるといふことかね? 





――それは解からぬが、唯、この頭蓋内の闇を全て脳の仕業に帰すのは本末転倒もいいところなのは間違ひない。





――つまり、脳による思考は、例へば、無限を内包したり、論理を軽々と飛び越えるからかね? 





――例へば、非論理的な《もの》を論理に閉ぢ込めれば如何なると思ふかね? 





――へっ、《一》=《一》が絶対君主としてその権勢を揮ふ、論理の恐怖政治が、つまり、論理の絶対主義が始まる。





――その時、この非論理的なる《吾》は如何なると思ふ? 





――自死するに決まってる……。





――でなけりゃ、《吾》は非論理的なる世界の、つまり、闇世界に潜るしかない。





――それでも此の人間は、哀しい哉、脳すらも徹頭徹尾論理的に語り果(おほ)したい欲望には抗へない。





――ぶはっはっはっはっ。何処まで論理が非論理的なる《もの》に迫れるか見物だぜ。





――まあ、そんな事より、《個時空》といふ考へ方に従へば、此の頭蓋内の闇たる五蘊場は《吾》の内部故に、つまりは《吾》の文字通りの《皮袋》から負の距離にある故に、例へば、速度vと時間tが共に仮初に虚数、つまり、viとtiといふ状態にあると仮定すれば、当然其処で表はれる距離vi×tiは負数になるのは言はずもがなであるが、それ故に此の頭蓋内の闇たる五蘊場は虚数的なる《もの》が犇めく「先験的」に因果律が不成立な《場》として《吾》に賦与されてゐるに違ひないとすると、五蘊場もまた量子「色」力学と関係した量子的な《場》と考へずにはゐられぬ筈なのに、何故に、人間は解剖すれば眼前に現はれる《実体》たる脳にばかりにそれ程まで拘るのだらうか? 





――へっ、脳細胞が電気信号のやり取りで情報を伝達してゐると解かった段階で、脳に量子場の考へ方を導入しなければならないのは当然として、つまり、其処で五蘊場に表象される《もの》は確率《一》には決してなり得ぬ表象群に支へられてゐて、その表象群は決して《一》にはならぬ、換言すれば現実で《実体》として具体化してはならぬといふことがさっぱり解からぬのか、人間はその考え、つまり、《一》≠《一》が通常の姿で、《一》=《一》は異常極まりない事象だといふ考へ方に我慢がならぬさ。その結果が、此の人工物で埋め尽くされた《外界》といふ名の世界の、哀れな、そして悲惨極まりない姿の現出だ。





――つまり、人間が頭蓋内の闇たる五蘊場に生滅する表象群を外界で《実体》として具体化してしまふのは、人間が《実感》が欲しいといふこと、たったそれだけのことぢゃなのかね? 





――さう、《実感》だ。《吾》は《吾》といふ確率が《他》より大きいだけに過ぎぬことに、つまり、《吾》が《吾》であるその《存在根拠》が決して確率《一》になり得ぬことに我慢がならぬのさ。《吾》は何処まで行っても《吾》であって欲しい、唯、それだけの理由で、《一》=《一》といふ特異な事象が恰も一般的な事象であるかの如く振舞ふ自同律の恐怖政治、換言すれば、論理が暴君として支配する「解かりやすい」世界観の天下に《吾》は甘えたいのさ。





――ふっ、《吾》の確率が《一》になることは不可能事に違ひない……か。





――しかしだ、さうだとすれば尚更《吾》の《存在》は何もかも相対的なる《存在》といふ陥穽に陥ると思はないかい? 





――ちぇっ、実際、《吾》は《吾》を相対化した論理で語られてゐるのが現状じゃないか! 下らない事にな。





――やはり《吾》の相対化は下らないかね? 





――ああ、下らないね。





(四十九の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 09/14 05:56:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――別に如何仕様もしないが、しかし、虚空とはそもそも何なのかね? 





――ふほっほっほっほっ。「在ると思へば立ちどころに出現し、無いと思へば立ちどころに消滅するところの、その時空間自体」のことぢゃて。





――ちぇっ、それは主観、それも絶対的な主観のことではないのかね? 





――さて、お前は夢が徹頭徹尾お前の《もの》だと断言出来るかね? 





――くっ、口惜しくてならないのだが、俺にはさう断言出来ぬのだ! 





――つまりぢゃ、それは主観は主観で完結出来ぬといふことぢゃが、はて、其処で何か言ひたいことはあるかね? 





――つまり、主観と吾等が呼んでいる《もの》は、この肉体同様、耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々、外部に開かれた穴凹だらけの《存在》に違ひないといふことではないのかね? 





――その外部が虚空ぢゃよ。





――主観の外部? 主観の外部は客観ではないのかね? 





――ふほっほっほっほっ。さて、客観とは何のことかね? 





――ちっ。





――客観とは主体の傲りの表はれではないのかね? 





――主体の傲り? 





――さうぢゃ。「《吾》此処に在り、それ故、客観は主観に従属せよ!」といふことを暗黙裡の前提として、正にその主体が己のことを主体と名指す《吾》のその悪癖故に、主体は客体を悪し様に扱ふ。其処でぢゃ、さて、《吾》は本当に《吾》かね? 





――つまり、《吾》そのものが虚妄だと? 





――ふほっほっほっほっ。虚妄故に《吾》を《吾》が虚妄と断言することは、《吾》が《吾》に対する《存在》の責任を放棄することに直結する故に、《吾》は《吾》として実在する《もの》と狂信する外ないのぢゃ、ふほっほっほっほっ。





――何故《吾》が《吾》を虚妄と名指すことが《吾》に対する《存在》の責任放棄に結び付いてしまふのかね? 





――《吾》が《吾》を虚妄であると断言することは、或る「神」の視点から眺めると言へばよいのか、否、つまり、悪意的にその事を曲解すればぢゃ、《吾》はその時全的自由を獲得したと一見見えるかもしれぬが、しかし、その実、《吾》がその様に振舞ふことをこの《吾》は絶対に受け入れぬし、また、全的自由なんぞ、この《吾》に持ち切れる筈がない! 





――つまり、《吾》が野放図に堕してしまふからかね? 





――はて、つかぬことを聞くが、お前は絶対の無限なる《もの》を持ち切れるかね? 





――ふっ、否が応でも《吾》はその無限なる《もの》を持ち切る外ないんだらう? 





――ふほっほっほっほっ。その通りぢゃて。《吾》はその無限なる《もの》から遁れたい故に《吾》なる《存在》を虚妄と看做したいのぢゃ。





――だが、しかし、《吾》はそもそも泡沫の夢の如く生滅する虚妄の一事象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっ、その通りぢゃ。しかし、《吾》には決してさうは出来ぬ、つまり、この《吾》の《存在》を虚妄と看做すことは出来ぬ宿命を負ってゐる。





――宿命? 何の宿命かね? 





――《吾》が《吾》故に《吾》ならざる《吾》へと絶えず変容する外に此の宇宙での存在意義がないといふ宿命、ふっ、つまり、此の無限にすら思へる宇宙に対峙するには、《吾》は《吾》を徹底的に擁護せずにはゐられぬ宿命だからぢゃて。





――そして、《吾》は《吾》を絶えず弾劾せずにはゐられぬ《もの》として此の世に《存在》することを強要される……違ふかね? 





――それは「神」の摂理と言ひたいところぢゃが、詰まる所、《吾》は《吾》にのみにその《存在》を弾劾される《存在》としてしか、ふっ、《存在》出来ぬ悲哀……。





――やはり《存在》は悲哀かね? 





――ふほっほっほっほっ。それは絶えず《吾》に「《吾》とはそもそも何《もの》か?」といふ猜疑心が爆発する危険を孕んだ《吾》といふ《存在》が「先験的」に持つ危うさ故に、《存在》はそれが何であらうと悲哀なのぢゃ。





――へっ、だが、《吾》が《吾》で完結するなどといふ愚劣極まりない存在論にしがみ付く時代は疾うに終わってしまった事だけは間違ひないぜ。





(二の篇終はり)







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2009 09/12 05:04:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――やはり全ての元凶は《吾》か……。





――Big Bang(ビッグバン)以降、此の宇宙が膨張すればするほど、《吾》のその底無しの深淵は更に更に更にその正体をその深淵の奥底深く隠すのさ。





――それでは何故Big Bangは始まってしまったのだらう……。





――多分、無と無限がぴたりと重なったその無上の恍惚感が、その恍惚故に自壊したに違ひない。





――此の宇宙の開闢は恍惚の自壊故にと? 





――多分、無と無限がぴたりと重なった己の不思議を無時空が認識しちまった刹那、無時空は思はず「ぷふぃ。」と笑ひ声を発してしまった……。





――へっ、また「ぷふい。」か。





――さう、それ故「初めに念生まれし」なのさ。そして、その残滓が《存在》の内部に隠されてゐるであらう特異点の《存在》さ。





――やはり自同律が成立するには如何あっても《吾》といふ《存在》には底無しの特異点が《存在》することを考慮に入れなけりゃ、駄目だっていふことか? 





――でなければ、此の宇宙が出現する必要はなかった……。





――しかし、《吾》と《反=吾》とが、陰陽魚太極図の目玉模様を為す太極の如く、勾玉状の《もの》が渦を巻くその特異点の《存在》を端的に名指した存在論が、これまで《存在》しなかったのは何故かね? 





――へっ、所詮人間の存在論は自同律の呪縛から一歩も遁れられなかったのさ。





――つまり、如何なる存在論も性と生と死の問題に目を瞑ってゐたといふことかね? 





――《即自》や《対自》や《脱自》等と《吾》を色々と定義付けをしてみたが、結局のところ、それらは全て《吾》の、つまり、《一》=《一》の自同律の呪縛から脱することは出来なかったのさ。ふっ、《吾》は先づ《存在》に対しての敗北を認めることからしか《存在》を語ることは出来ないと観念するのが先決さ。





――つまり、それは《一》=《一》が特異な事象だと、換言すれば、大概は此の宇宙は《一》≠《一》の事象にあるといふことだね? 





――ああ、さうさ。しかし、へっ、《一》≠《一》と聞いただけで《吾》は苦笑して、その論理から逃げることばかりに終始するのがこれまでの存在論の惨憺たる状況だ。





――「初めに念生まれし。そして、《吾》は《吾》の底無しの深淵を発見せし。そして、《吾》は思はずその深淵を覗き込みし。その後、《吾》は《吾》から面を上げて《他》を見出しぬ。」





――つまり、その《他》とは此の宇宙の涯の一つの解としての相貌だった……。





――すると、《もの》が《存在》するとはその《存在》が此の宇宙の涯を表象してゐるといふことだね? 





――ああ。でなければ、時空間が膨張に膨張を続け《吾》と《他》が何処までも離れ行くBig Bangは起こる筈がなかった。





――《吾》が《吾》と認識した刹那、無と無限は引き裂かれ、パスカルの深淵がばっくりとその大口を開けた……。





――そして、《吾》は、特異点を包含せざるを得ぬこの《吾》の自意識は、そのパスカルの深淵を永劫に自由落下する。





――その一つの表れが重力だと思ふかね? 





――ああ。





――ちぇっ、此の宇宙の開闢は、念が生まれてしまった所為で《吾》の底無しの深淵、つまり、特異点の底の底の底を覗き込んでしまったことにその因があるのか――。其処でだ、単刀直入に聞くが、《存在》に内包されてゐる特異点の《存在》を暗示するその根拠は何かね? 





――意識の《存在》さ。意識において、つまり、その意識は永劫にパスカルの深淵を自由落下してゐるのだが、其処では因果律は壊れてゐることが特異点の《存在》を如何しても暗示してしまふのさ。





――つまり、この頭蓋内の闇たる五蘊場では、《吾》は未来へも過去へも、勿論現在にも自在に行き交ふことが可能といふ異常事態が何の変哲もない日常茶飯事といふことが、如何あっても特異点の《存在》を表象せずにはをれぬといふことかね? 





(四十八の篇終はり)







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2009 09/07 06:48:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ああ、その通りさ。しかし、《存在》は無若しくは無限をも掌中に収める特異点を内包してゐなければ《存在》自体が成立しない。





――つまり、《パスカルの深淵》は外部にも内部にもあるといふことか……。《主体》にとってそれは過酷だね。





――何を他人事のやうに? 君も《自意識》を持つ《存在》たる《主体》ならば、この地獄の如き底無しの《深淵》は知ってゐる筈だし、現に君はその底無しの《深淵》に飛び込んでゐるじゃないか? 





――私の場合は強ひて言へば、最早《存在》といふ《もの》が綱渡りの如くにしか《存在》出来ない《主体》において、私といふこの《主体》が、その《存在》の綱を踏み外してしまって、結果的にこの《深淵》に落っこっちまったに過ぎぬのさ。今の世、《主体》が《主体》であり続けるのはCircus(サーカス)の曲芸よりも至難の業だぜ。





――君はそんな《主体》の有様に疑念を抱かなかったのかい? 





――疑念で済んでゐれば《存在》の綱を踏み外してこんな《深淵》に落っこちっこなかった筈さ。





――自虐、それも徹底した自虐の末路がこの《深淵》といふことかね? 





――いいや、私の場合は唯《杳体》に魅せられて《杳体》の虜になっただけのことさ。つまり、《杳体》の面が見たかったのさ。





――《杳体》の面? 





――《存在》の綱渡りをしてゐる最中に《杳体》なる《もの》の幻影を見てしまったのさ。





――それが《存在》の陥穽、つまり、特異点と知りながらかい? 





――ああ、勿論だとも。端的に言へば《存在》することに魔がさしたのさ。《主体》であることが馬鹿らしくなってね。其処へ《杳体》の魔の囁きが不図聞こえてしまったのさ。





――どんな囁きだったんだい? 





――「無限が待ってゐるよ」とね。さう囁かれると《主体》はどう仕様もない。一見すると有限にしか思へない《主体》は《無限》に平伏する。《無限》を前にすると最早《主体》は抗へない。つまり、《主体》内部の特異点が《無限》と呼応してしまふのさ。





――ふむ。ところで君は《杳体》がのっぺらぼうだとは思はなかったのかい? 





――のっぺらぼうの筈がないじゃないか! 





――何故さう断言出来るのかね? 





――つまり、《主体》にすら面があるからさ。そして《他者》にも面がある。更に言へば、此の世の森羅万象全てに面がある。





――だから《杳体》にも面があると? 





――一つ尋ねるが、闇に面があるかね? 





――ふむ。闇といふ言葉が《存在》する以上、面はあるに違ひない。





――へっ、さうさ。その通り。だから《杳体》も《杳体》と名指した刹那に面が生じるのさ。





――すると、のっぺらぼうものっぺらぼうと名指した刹那にのっぺらぼうといふ面が生じるのかい? 





――へっ、のっぺらぼうとは無限相の別称さ。





――無限相? 





――無限に相貌を持つといふことは面貌の無いのっぺらぼうに等しい――。





――それぢゃ、無と無限がごちゃ混ぜだぜ。





――逆に尋ねるが、無と無限の違ひは何かね? 





――ふっ、それは愚問だよ。





――さうかね? 愚問かね。それぢゃ、端的に言ふが、無と無限の違ひはその位相の違ひに過ぎない。





――詰まる所、それは特異点の問題か……。





――無と無限が此の世に《存在》するならば――この言ひ方は変だがね――特異点も必ず《存在》する。それをのっぺらぼうと名付けたところで、無から無限までの∞の相貌がのっぺらぼうの面には《存在》してしまふのさ。





(七 終はり)







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2009 09/05 11:16:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さう看做した方が自然だらう。





――「初めに念生まれし」。





――さて、それは何の呪文かね? 





――いや何ね、創世記なる《もの》をでっち上げようと思ってね。





――「初めに無在りき」、ではないのかね? 





――いや、永劫といふ時空の相の下では、つまり、無時空において、幽かな幽かな幽かな念なる《もの》が不意に生まれてしまふのさ。そのやうに不意に時空なる《もの》が生まれる契機が《存在》しちまったに相違ない。ぢゃなきゃ、此の宇宙は生まれる筈はなかった……。





――それはまた何故かね? 





――永劫といふ時空を与へられし無時空において、否が応にもその無時空は《吾》といふ念へと生長してしまふその念の萌芽が、不意に、それは不意にでなければならぬ筈だが、つまり、此岸と彼岸の間(あはひ)が不意に生まれてしまったに違ひないのさ。





――詰まる所、その念は《吾》へと志向するのだね? 





――いや、《吾》への志向はもっと後の事に相違ない。ちぇっ、否、むむっ、念など嘘っぱちだ。くっ、如何あっても私の想像力では特異点の壁は越えられぬ――、ちぇっ。特異点と聞いただけで思考停止になっちまふ、このぼんくらの頭蓋内は。





――それはむしろ当然だらう。未だに何人たりとも、否、何《もの》も特異点のその状態を想像し論理的に語り果(おほ)せた《もの》はゐない筈だからな。





――「初めに何もない自他無境の無時空が無と無限の相がぴたりと重なりし摩訶不思議の中に《未存在》のみがゆったりとたゆたふ神若しくは神々のゐない、それでゐて神話的なる《存在》の、否、《未存在》の「黄金時代」が永劫の相の下に《無=存在》せし」。





――つまり、「初めに初めもなければ終はりもなく、そして何もない事象が在りき」、だらう。さて、其処には、しかし、大問題が潜んでゐる。つまり、何もない処に此の宇宙の全Energie(エネルギー)を或る一点に凝縮した特異点なる《もの》が《存在》しなけりゃならない訳だが、無とその特異点とを如何橋渡しするのかね? 





――うむ。多分、無時空が無時空なることに「ぷふぃ。」と思わず笑ひ声を発した刹那、big bang(ビッグバン)がおっ始まってしまったに違ひない。そして、その時の無時空の後悔若しくは懊悩は量り知れぬ程に深かった筈だ。





――そして、その刹那、自同律の不快が始まった……。





――むっ。それは何故にかね? 





――無時空の相が時空へとその様相を一変させた刹那、《吾》と《他》もまた発生してしまったに違ひないからさ。





――さうして自同律の不快が始まった――か。 





――へっへっへっ。そんなんぢゃ、科学的な理論に堪へ得ぬぜ。ちぇっ、無時空が無時空なることの愉悦から思はず「ぷふぃ。」と笑い声を発してしまっただと?  





――しかし、零たる無と∞たる無限がぴたりと重なった様相において無時空は無時空なることに無上の悦びを感じてしまった筈だ。





――つまり、お前の見方だと、特異点は無上の悦びに満ちてゐることになるが、それはまた何故かね? 





――だって零たる無と∞たる無限の相がぴたりと重なってゐるんだぜ。





――それが如何したと言ふのか。無時空における特異点ではそれは当り前の事でしかなく、詰まる所、無と無限の相がぴたりと重なってゐることに無上の愉悦を感ずる道理はない筈だぜ。それ以前に無時空は意識を持つのかね? 





――さあ、それは解からぬ……が、しかし、無時空に意識が《存在》しても不思議ではない。まあ、無時空に意識が《存在》してゐようがゐまいがとちらにせよ、無時空が無時空たる事を已めた故に此の宇宙が誕生したのは間違ひない筈だ。しかしながら、特異点たるbig bangを如何説明すればよいのか……? 





――何らかの理由で、恒常不変で無と無限がぴたりと重なりし無時空は最早恒常不変ではゐられなくなったのだらう。





――その理由とは? 





――己に飽き飽きしたといふのは如何かね? 





――からかってゐるのか? 





――いや、何ね、無時空は恒常不変なる事を断念し、諸行無常に己の存在理由を見出してしまったのだらう。





――だからそれは何故にかね? 





――多分、無時空は《吾》なる《もの》の底無しの深淵を覗き込んでしまったからに違ひない……。





(四十七の篇終はり)







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2009 08/31 05:28:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、《主体》自ら進んで《存在》の人身御供となったところで、此の悪意に満ちた宇宙は皮肉に満ちた薄笑ひをその無限相に浮かべて眦一つ動かさずに人身御供として供された《存在》の生贄をぺろりと呑み込んで、後は何事もなかったかの如く知らん顔してるぜ。つまり、此の悪意に満ちた宇宙にとって人身御供は当たり前の日常茶飯事に過ぎぬのさ。





――ふっふっ、当然だらう。しかし、それでも《主体》たる《吾》は未だ出現ならざる《もの》達の為にも何としても人身御供になるしかないのさ。





――しかし、それで《他》は満足か? 





――いいや。《他》にとって《吾》の人身御供は百害あって一利なしの厄介《もの》さ。





――それはまた如何して? 





――《他》もまた《吾》の人身御供の巻き添へを食ふからさ。





――なあ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》が人身御供としてその身を《存在》の生贄にするのは、此の悪意に満ちた宇宙への当て付けに過ぎず、へっ、それは結局のところ、何の効果も齎さない全く無意味な事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっ、その通りさ。しかし、それでも《主体》たる《吾》は身命を賭しても己の《存在》を確かめたい《もの》に生まれつき出来ちまってゐる。さて、これを如何とする? 





――それは、《吾》は絶えず《吾》を捨てて《吾》ならざる《吾》といふ全く矛盾に満ちた事を夢想する《存在》だからだらう。それ故《吾》たる《存在》に過ぎぬその《存在》は惜しげもなく人身御供として此の悪意に満ちた宇宙に生贄としてその身を「返納」するのさ。





――つまり、それは何処まで行っても《他》でしかない此の宇宙に入水(じゅすい)するといふことかね? 





――或るひはさうかもしれぬが、《吾》が此の悪意に満ちた宇宙にその《存在》を人身御供としてその身を供する事は、《吾》が《吾》であることを断念する一つの方法に違ひないのさ。





――これも愚問だが、《吾》は何故その《存在》を人身御供に処するのか? つまり、《吾》は《存在》の人身御供となることで《吾》は、ちぇっ、本音のところでは「悲劇の主人公」になったといふ大いなる錯覚の中で、己の《存在》を滅したいからに過ぎぬのぢゃないのかね? 





――ふっ、それは当然だらう。《吾》が《吾》でしかないと認識しちまった《もの》は、その《存在》が滅する時は如何あっても「悲劇の主人公」でなくちゃならいなのさ。





――まあ、よい。それよりも人身御供としてその《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に犠牲にしたその《吾》の《個時空》は、虚空の中で主のゐない、そして、何時果てるとも知れぬ渦として、消えてはまた渦巻く事を未来永劫繰り返してゐるのかな? 





――幾つもの目玉模様が鏤められた孔雀の雄の羽を思ひ描けば、それが人身御供としてその《吾》といふ《存在》を此の悪意に満ちた宇宙に生贄として捧げし《もの》達の《吾》の滅した後の《個時空》の虚空の中での有様さ。





――その根拠は? 





――《個時空》の墓場とは土台そんな《もの》さ。





――だから、その根拠は? 





――何となくそんな気がするぢゃ駄目かね? 





――つまり、お前の夢想に過ぎぬといふことだらう? 





――なあ、これも愚問だが、お前は幽霊の、つまり、霊体の《存在》を認めるかね? 





――藪から棒に何かね? しかし、うむ。多分だが、《存在》は死滅しても、星の死滅後の様相と、つまり、星の死後にも厳然と白色矮星やら中性子星やらBlack hole(ブラックホール)やらが《存在》することから推し量れば、当然幽霊などの霊体は《存在》の死滅後に《存在》すると看做した方が自然な気がするがね。





――つまり、幽霊などの霊体の《存在》を認める訳だね? 





――《存在》すると看做した方が自然なだけさ。それに幽霊が此の世に《存在》する方が此の世が断然面白くなるぢゃないか。





――其処で雄の孔雀の羽だか……。主が死滅した《個時空》の有様は、何処とも知れぬ虚空の中で人知れず未來永劫ひっそりと渦巻いてゐる……違ふかね? 





――しかし、それぢゃ、空想の域を脱してゐない……、ちぇっ。





――へっへっへっ、それで結構ぢゃないか? 死後の彼の世の事なぞ想像の手に委ねたままである方が、現在《存在》しちまった《もの》にとっては返って有益に違ひないのさ。此の世で死んでも彼の世があれば《吾》から脱せられるといふ希望を抱けるといふものさ。





――それはまた何故? 





――へっ、それは死滅した後も《個時空》を《吾》たる《もの》が担ふと考へることに、へっ、この《吾》共はもういい加減うんざりしてゐるのさ。





(七の篇終はり)







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2009 08/29 17:33:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それはまやかしではないのかね? 





――まやかしで結構ぢゃないか! 土台、《主体》が己の事を《吾》と認識しちまふ事自体が、或る意味まやかしに外ならないのだから。





――それは言ひっこなしだぜ。《吾》が己を《吾》と認識する事自体まやかしと言っちまったなら、それは虚無主義のど壺に嵌るだけだぜ。





――しかし、お前は「苦悩による苦悩の封建制」を担ふ《主体》たる《吾》の有様そのものをまやかしに、つまり、虚妄にしたいんだらうが――。





――だって神若しくは神々のゐない創世記なぞ、このちっぽけな《主体》たる《吾》に創造出来る筈がないぢゃないか! 





――否! 《主体》たる《吾》は如何あっても神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる外ないのさ。へっ、未だ夢半ばとはいへ、このちっぽけな《主体》たる《吾》は科学的に素粒子理論や超絃理論や余剰次元の理論や、そしてそれらを元にして何とか宇宙論を作り上げたぢゃないか。





――それさ。つまり、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるといふのは、特異点を人智の埒内に、つまり、《主体》たる《吾》が徹頭徹尾此の世の生々流転の有様を理詰めで語り果(おほ)す事に違ひない筈なのだが、しかし、実際のところ、《主体》たる《吾》の現状と言ったなら未だ無と無限を何とも仕様がないその己の無力さ加減にうんざりしてゐる、ちぇっ、そんな脱力感に包まれた《主体》たる《吾》が此の世に有象無象としてゐるばかりなのさ。





――へっ、詰まる所、無と無限にすら四苦八苦してゐる《もの》に特異点を語る資格はないといふことかね? 





――ふっ、それでもお前は語り果せと言ふんだらろう? 





――でっち上げてしまへばいいのさ。そして神若しくは神々を《存在》から解放させてやるのさ。





――簡単にでっち上げればいいと言ふが、そのでっち上げた創世記は科学的な理論にも堪へ得る《もの》でなければ、へっ、そのでっち上げた創世記なる《もの》は邯鄲の夢と五十歩百歩に過ぎぬのぢゃないかね? 





――何故? 





――何故だと! 乱暴な物言ひをするが、つまり、《主体》たる《吾》は、この科学万能の世に科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》は何の役にも立たぬ《もの》として、神若しくは神々すらもその《存在》を此の世から抹消しちまふ何とも無情且無常な体たらくの、ちぇっ、科学的に理論武装した中に、さも心地良ささうにたゆたひながら、結局は《主体》たる《吾》は、此の世の穴凹たる不可知な無と無限と特異点から論理的に回避しする事に、若しくはそれらを乱用することに終始し、挙句の果てはなるべくそれらに触れぬやうにする事に最早疲れ果ててその身を窶(やつ)してゐるのが本当のところだらう?  





――ちょっ、《もの》を有益か無益かで差別するのは《もの》に対してこれ以上失礼千万な事があるかい? 





――しかし、科学的な理論に堪へ得ぬ《もの》はそれが何であれ、それは無益で切り捨てるべき《もの》で、そんな《もの》には誰も目を向けやとないのが実際のところだぜ。





――さうさ。つまり、それは《存在》する《もの》が、例へば科学的といふ名の《他》、つまり、客体に開かれた《もの》、換言すれば、自閉した《存在》を《吾》を初めとする全《存在》が嫌悪するといふ事を科学に託けて言明してゐるに過ぎぬのぢゃないかね? つまり、《存在》は既に自閉することを禁じた《存在》として此の世に「先験的」に投企された《存在》なのさ。





――それは、つまり、《存在》とは《他》に開かれた穴凹だらけの《存在形式》若しくは《存在》の位相しか、最早受け付けぬといふことだよね? 





――ああ。《存在》が穴凹だらけならば此の世に開いたその穴凹の一つに違ひない特異点も己の穴凹から類推して、その類推した《もの》を元に無理矢理にでも何とか語り果してしまひ、その上、徹頭徹尾《主体》たる《吾》と《他》のみで出来た神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げる事は可能な筈だかね。 





――つまり、其処には《他》=宇宙の《存在》が暗黙裡に含意されてゐるといふ訳だね。 





――ああ、さうさ。此の《吾》=宇宙は、《吾》のみで自閉した事など金輪際ないのさ。即ち、「《吾》とは《吾》で自閉するに能はず、《吾》は《他》をして《他》に開かれし穴凹複合体なり!」。





――さうすると、人間の耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、そして生殖器、更には各細胞に無数に開いてゐる穴凹、将又(はたまた)物質を構成する例へば分子群がすかすかの隙間だらけなのは、飛躍した物言ひをすれば、必ず《吾》には未知なる《他》が《存在》してゐる証左と看做していいんだね? 





――違ふとでも? 





――いや。しかし、穴凹だらけが即《他》の《存在》を暗示させるとは即断出来やしないのぢゃないかい? それ以前に在りるとも無いとも言ひ切れない《他》=宇宙の《存在》をどうやって実証するか? 





――穴凹の《存在》が即《他》の《存在》を暗示するとはお前の言ふ通り即断できないが、しかし、少なくとも穴凹だらけの《吾》は《吾》で自閉していない証左にはなるだらう。だから、神若しくは神々のゐない《吾》と《他》による創世記をでっち上げろと言ってゐるんだよ。ちぇっ、神若しくは神々のゐない創世記をでっち上げるのに、詰まる所、《吾》と《他》の外に何が必須だと言ふんだね? 





――さて、《吾》と《他》以外何《もの》も不必要だとすると、現状では《他》=宇宙は如何様にも創作可能といふことか――。 否、《他》=宇宙の《存在》を暗示してゐないどんな宇宙論も如何様(いかさま)といふことか! なあ、さうだらう? 





(四十六の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 08/24 11:06:11 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、死んだ《もの》が《吾》の死後に《吾》が棲む《世界》を決めるのさ。それも《死》した《もの》は最早過ぎ去ってしまった《吾》の《生》のみを頼りにして其処を極楽浄土か地獄かを絶対的に主観的に判断しなければならぬといふ皮肉! 例へば死んだ《もの》が彼の世を地獄と判断すれは其処は地獄以外の何《もの》でもない。へっ、地獄も住めば都だがね。換言すれば極楽浄土と地獄は同位相にある、へっ、もしかすると同じ《世界》を、或る《もの》は極楽浄土と看做し、或る《もの》は其処を地獄と看做すに過ぎぬのかもしれないといふことさ。





――すると、極楽浄土と地獄が同じく絶対的に《主観》の世界像ならば、閻魔大王も最後の審判も全て一人芝居に過ぎぬぢゃないかね? 





――さうさ。《吾》を最終的に裁けるのは、結局、《吾》のみさ。さうして、《死》した《もの》は全て《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ。





――如何あっても《死》した《もの》はそれが何であれ《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ定めなのかね? 





――ああ、残念ながらね。





――それは何故かね? 





――《死》は徹頭徹尾独りの《もの》だからさ。此の世の様態たる実数若しくは複素数の実数部の世界から出立した死んだ《もの》は、或る意味量子論的に《零の穴》と《∞の穴》の二つの様態の両様にあり、死んだ《もの》が《零の穴》を覗き込んでゐるか、または《∞の穴》を覗き込んでゐるかは、《死》した《もの》の絶対的な《主観》に属する、つまり、《死》した《もの》の絶対的に主観的な様態次第といふことだ。つまり、虚数を嘗ては実数であった《吾》がその死後如何看做すかが《死》の位相であらゆる《もの》は試される。





――へっ、つまり、《死》とは零と∞の状態が《重なり合った》、へっ、零と∞が如何《重なり合ふ》のか甚だ疑問だがね、しかし、《死》とは無理矢理にでも零と∞が《重なり合ふ》状態のことだね? 





――さう看做して結構だ。しかし、その零と∞が《重なり合ふ》状態が《吾》の《生》次第で如何様にも変容することは理解できるね? 





――つまり、《生》次第で《死》の様態は如何にでもなるといふことだね。そして、《死》は絶対的に主観的な世界像としてとしか《死》した《吾》にはその像を結ばぬといふことだらう? 





――さう。そして、《死》の萌芽は既に《生》に潜んでゐる。





――それは当然だらう。複素数には零も∞も含まれるんだからな。





――それに加へて特異点も複素数は内包せねばならぬ定めなのさ。





――それも定めなのかね、此の世の様態たる複素数が特異点を内包せねばならぬといふことは? 





――ああ。先にも言ったやうに矛盾を孕んでゐない論理は論理の《死体》でしかないやうに、此の世の様態たる複素数は、零や∞は勿論の事、其処には何としても、ちぇっ、つまり、痩せ我慢してでも特異点を内包しなければ、そもそも《存在》は《存在》出来ない定めなのさ。





 その刹那、《そいつ》はぎろりと鋭き光を放つ眼光を蔽ひ隠すやうにゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。





――何を考へてゐる? 





――へっ、何ね、死ねない癌細胞、即ち全的に《生》に移行しちまった細胞の出現こそその数多の細胞群の統一体たる《吾》の《死》の始まりでしかないこの矛盾に満ちた《生》の有様の不思議を不意に思っただけの事さ。





――死ねない癌細胞の出現は、詰まる所、自死、即ちApoptosis(アポトーシス)によって辛うじてその複雑怪奇な構造を為す臓器等を統一体たらしめてゐたその絆をぶった切ることでしかないといふ何たる皮肉! 





――へっ、元来《他》の死肉を喰らふことで辛うじて《吾》の《生》を維持してゐることを考へれば、《生》は《死》無くしては成立しない事は火を見るよりも明らかだ。しかしだ、《死》すべき宿命から遁れられぬ《吾》の一部には未来永劫に亙ってこの《吾》が《吾》として《存在》することを望んで已まない《もの》が《存在》する。その夢想の具体化された《もの》の一例が癌細胞の出現だとすれば、ちぇっ、しかし、《吾》にとっては全く制御不能な癌細胞は、換言すれば、不老不死を望んで已まない《吾》が《吾》の意思とは全く無関係に《存在》してしまふ癌細胞の有様は、さて、何と説明すればいいのかね? 





 その刹那、《そいつ》は再び鋭き眼光を放つ目を開け、私をぎろりと睨み付けたのであった。





――ちえっ、《吾》の《存在》が未来永劫に亙って続くことを望んで已まない《吾》は、地獄にのみ棲みたいのさ。そんな《吾》なぞ好きにやらせて、放って置けばいいのさ。しかしだ。例へばだが、ちぇっ、唐突且縮めて言っちまへば、ふっ、これは飛躍的な物言ひだがね、《他》と交り合ふ性交と《死》は切っても切れない関係にある不思議が、特異点の不思議を解く鍵に違ひないとは思はないかい? 





――何を藪から棒に? まあよい。へっ、さうすると《死》もまた性交と同じく悦楽の部類に入るのかね? 





――ああ。多分ね。生物史を見ると生の出現が《死》の出現と重なってゐることからして性交が悦楽ならば《死》もまた悦楽に違ひない、へっ、それは《生》にとっては忌み嫌ふ外ない「禁じられし」悦楽だがね。つまり、性交の悦楽が《死》の疑似体験の更に疑似体験の触りに過ぎぬとしたならば、性交時に仮初にもそこに架空される《吾》=《吾》=《他》といふ等式は、正に自同律が悦楽となり得る事象を暗示してゐるのであり、またその等式は《他》の死肉を喰らひ《他》の死肉を消化しちまふといふ食事といふ行為にも当て嵌まり、更には夢を絶対的に主観的な世界と仮定しちまへば睡眠時もまたその等式が成り立つ筈さ。なあ、その性交の悦楽は此の世に底知れぬ特異点の《存在》を暗示させる《もの》だと思はないかい? 





――何故性交時の若しくは食事時の若しくは睡眠時の悦楽が一気に特異点の《存在》の暗示に飛躍してしまふのかね? 





――へっ、性交において若しくは食事において若しくは睡眠時の夢において自同律も因果律も破壊、即ち自同律と因果律が自死してゐる故に《吾》は悦楽に浸れる。さうは思はないかね? 





――つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ等式が成り立つには因果律が壊れてゐるに違ひない特異点の世界の《存在》を如何しても暗示して已まないと? 





――違ふかね? 





(七の篇終はり)







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2009 08/22 09:52:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。お前は先に全宇宙史を背負って俺に対して此の世に立つ覚悟はあるかと聞いたかと思へば、そんな《もの》は神に呉れちまへばいいと言ひ、そして、言ふに事欠いてか挙句の果てに「苦悩による苦悩の封建制」と言ひ出し、其処で《苦悩》は全て《主体》たる《吾》が背負ひ、ふっ、神若しくは神々を《存在》から解放せよと言ったが、ちぇっ、つまり、お前の言ふ事は支離滅裂ぢゃないかね? ふっふっふっ。





――さうさ、支離滅裂だ。ふっ、つまり、俺には未だ此の宇宙の全宇宙史を背負って此の世に立つ覚悟が出来ていないのさ。へっ、愚劣故にな。例へば存在論的に言へばだが、イエス・キリストの如くその《存在》を磔刑に処する覚悟が出来ていないのさ。





――それは当然だらう。神若しくは神々でさへ全宇宙史における《苦悩》を背負ひ切れずに四苦八苦した挙句に、神若しくは神々はその《苦悩》を時の移ろひに抛り投げてしまったのだから、況や、神若しくは神々に遠く及ばぬであらう《主体》たる《吾》に全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》など背負へる訳がない。





――しかし、《主体》たる《吾》は、ぷふぃ、この愚劣極まりない《主体》たる《吾》は、その己の愚劣さをくっと噛み締めて、此の宇宙の全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》を、へっ、痩せ我慢に痩せ我慢ををしてでもその全《苦悩》を背負ふしかないんだらう? 





――ぷふぃ、その通りさ。神若しくは神々のこれまでの行なひに報ひ、全《存在》から神若しくは神々を解放したければ、《主体》たる《吾》は進んで全《存在》の全《苦悩》を背負ひ、さうしてそのままじっと我慢の上にも我慢を重ねて「苦悩による苦悩の封建制」にその身を委ねるしかないのさ。





――しかし、それは《主体》たる《吾》の自己満足に過ぎぬのぢゃないのかね? 





――ぷふぃ。自己満足で結構ぢゃないか。神若しくは神々を全《存在》から解き放つ為にも、《主体》たる《吾》は新たな創世記をでっち上げればいいのさ。





――新たな創世記をでっち上げる? 





――さうさ。徹頭徹尾《主体》たる《吾》が、全《苦悩》を背負って立つ外ない、《主体》の、《主体》による、《主体》の為の創世記をでっち上げる以外に、神若しくは神々も強ひて言へば《主体》たる《吾》も《自在なる存在》に至る術はないのさ。





――《自在なる存在》? 





――さう、《自在なる存在》だ。





――しかし、《主体》たる《吾》は此の宇宙の全《苦悩》を痩せ我慢に痩せ我慢をしてでも背負ふ「不自由」な《存在》ぢゃないのかね? 





――だから如何したと言ふんだい? 此の宇宙の全《苦悩》を背負ふ事が即「不自由」だとは限らないぜ。





――其処で「苦悩による苦悩の封建制」かね? それの何処が《自在なる存在》に繋がるのかね? 





――へっ、実際のところ、無限を飛び越える如くに「苦悩による苦悩の封建制」は《自在なる存在》と結び付く可能性は限りなく零に近いが、しかし、最早《主体》たる《吾》はそれを成し遂げる外ないんだぜ。ふっ、曲芸師の如くにな。





――つまり、「苦悩による苦悩の封建制」では、へっ、《主体》たる《吾》は《自在なる存在》といふ名の《地獄》を見る……か――。





――しかし、それは神若しくは神々の《自由》と《主体》たる《吾》の、ぷふぃ、《自由》の当然の対価だらう? 





――《自由》の対価? 





――へっ、【神若しくは神々の《自由》】≠【《主体》たる《吾》の《自由》】のその悍ましさの底無しの深淵を《主体》たる《吾》は「苦悩による苦悩の封建制」において覗き込まねばならぬのだ。その覚悟は出来たかね? 





――ちぇっ、当たって砕けろだ。





――それ、その意気。





――ちぇっ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》は何故に逆Pyramid(ピラミッド)型の階級制、つまり、逆Pyramidの底にゐるであらう《主体》たる《吾》は、その逆Pyramid型の階級制をした故に《主体》たる《吾》のみが全《苦悩》を背負ふといふ、神若しくは神々以外では全宇宙史上初めてに違ひない「苦悩による苦悩の封建制」を受け入れるといふ、そんなとんでもない愚行に身を投じる必然性はあるのかね? 





――ぷふぃ。此の世に《存在》しちまった以上、《主体》たる《吾》はそれを黙って受け入れる外ないのさ。





――《存在》しちまったが故? たったそれだけの理由でか? 





――ああ、さうさ。此の世に《存在》しちまったのだから仕様がないのさ。





――仕様がない……か――。





――ぷふぃ。此の悪意に満ちた宇宙を震へ上がらせたいんだらう? 





――ああ……。





――ならば、腹を括るのだな。「苦悩による苦悩の封建制」は《存在》に「先験的」に与へられる《もの》に属すると。





――つまり、出口無しか。





――いや、出口はお前が「苦悩による苦悩の封建制」たる創世記を何としてもでっち上げれば開ける筈さ。





――へっ、それは如何あっても創世記でなければ駄目かね? 





――勿論。その創世記をでっち上げるといふ事には、神若しくは神々の《存在》からの解放と、《主体》たる《吾》の《自由》の獲得の二重の意味が隠されてゐるんだからな。





(四十五の篇終はり)







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2009 08/17 05:58:51 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 此の世に《存在》するあらゆる《もの》の《存在形式》は、此の宇宙の摂理に従属してゐると看做しなしてしまひ、そして、それをして此の宇宙たる《吾》が《存在》する《存在形式》を、例へば「《吾存在》の法則」と名付ければ、必ずそれに呼応した「《他存在》の法則」が《存在》すると考へた方が《自然》だと思ひながら、その《自然》といふ言葉に《自然》と自嘲の嗤ひをその顔に浮かべてしまふ彼は、此の《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》もまた《存在》するに違ひないと一人合点しては、





――ふっ、馬鹿めが! 





と、即座に彼を罵る彼の《異形の吾》の半畳にも





――ふっふっふっ。





と、皮肉たっぷりに己に対してか《異形の吾》に対してか解からぬが、その顔に薄笑ひを浮かべては、





――しかし、《自然》は《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》の出現を待ち望む故に、《吾存在》を呑み込む《吾存在》がその《吾》に拒絶反応を起こしてはこの耳障りな断末魔の如き《ざわめき》が《吾》の彼方此方にぽっかりと開いた《他》たる穴凹から発してゐるに違ひないのだ。





と、これまた一人合点することで、彼は彼の《存在》に辛うじて我慢出来るそんな切羽詰まったぎりぎりの《存在》の瀬戸際で弥次郎兵衛の如くあっちにゆらり、こっちにゆらりと揺れてゐる己の《存在形式》を悲哀を持って、しかし、心行くまで楽しんでゐるのであった。





…………





…………





――なあ、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙における《存在》もまた奇怪千万な《光》へと還元出来るのだらうか? 





――つまり、それって《光》の《存在》が此の宇宙たる《吾》=宇宙と《他》=宇宙を辛うじて繋ぐ接着剤と看做せるか、といふことかね? 仮にさうだとすればそれはまた重力だとも、さもなくば時間だとも考へられるね? 





――ああ、何でも構はぬが、《吾》が《存在》すれば、《他》が《存在》するのが必然ならばだ、此の宇宙が《存在》する以上、此の宇宙とは全く摂理が違ふ、つまり、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙は何としても《存在》してしまふのは、《もの》の道理だらう? 





――ああ。





――そして、《吾》と《他》は何かしらの関係を持つのもまた《もの》の道理だらう? 





――ああ、さうさ。此の世における《他》の《存在》がそもそも「《他存在》の法則」を暗示させるし、《他》が《存在》すれば《吾》と何かしらの関係を《他》も《吾》も持たざるを得ぬのが此の宇宙での道理だが、さて、しかし、仮令《他》=宇宙が《存在》してもだ、此の《吾》=宇宙と関係を持つかどうかは、とどのつまりは「《他存在》の法則」次第ぢゃないかね? 





――それは《吾》と《他》が関係を持つのは徹頭徹尾、此の《吾》=宇宙での「《吾存在》の法則」による此の世の出来事は《他》=宇宙での「《他存在》の法則」に変換出来なければならず、つまり、換言すれば、《吾》=宇宙と《他》=宇宙の関係は関数で表わされねばならず、更にそれは最終的には光といふ奇怪千万な《存在形式》に還元されてしまはなければならぬといふことだね? 





――ああ、さうさ。





――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふことだね? 





――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢゃないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙って見知らぬ《他》は厳然と数多《存在》するぢゃないか。 





――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふことなく、一見《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持ってしまふと考へられぬかね? 





――へっ、つまり、此の宇宙も数多《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと? 





――へっへっへっ、その「大宇宙」もまた数多《存在》するってか――。





――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると? 





――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。





――何故かね? 





――ふっ、唯、そんな気がするだけさ。





――そんな気がするだけ? 





――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとっては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。





(七 終はり)







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2009 08/15 06:00:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。再び堂々巡りだぜ。





と、彼は瞼を閉ぢたまま其処で深々と一息、それは恰も空気を胸の奥の奥の奥の隅々まで行き渡らせるかの如くであったが、息を吸ひ込んだかと思ふと、





――ふ〜〜〜う。





と、ゆっくり息を吐いたのであった。それは誠に誠に深々とした深呼吸なのであった。すると彼の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に棲み付いてゐたであらう《異形の吾》共が一斉に哄笑してゐるその嗤ひ声が聞こえる気がするのであった。





――ふっ、笑ふ門には福来る……か――。





と、彼は朧に、しかし、反射的に福なる《もの》を彼の頭蓋内の闇たる五蘊場に形象しようと試みるのであったが、唯、五蘊場に棲み付いてゐるであらう《異形の吾》共の哄笑してゐるその醜悪ながらも気持ち良ささうなその見知らぬ《他人》の顔の群像に満ちた内界たる五蘊場の様相を瞼裡に彼は見てしまふと、





――はて、《吾》とはそもそもこの見知らぬ《他人》の顔をした《異形の吾》共なのであらうか? 





といふ、自己同一性といふ《吾》の《存在》のその根本に関はる問ひにぶち当たるのであった。勿論、彼が一息深々と深呼吸をした時点で既にそれまで蜿蜒と続けられてゐた下らぬ自問自答の表象は一瞬にして霧散したのはいふまでもないことであった。





――はて、俺は何を自問自答してゐたのであらうか? 





 既に闇であることに堪へ切れずに淡い淡い淡い微小な光の群れが浮き出してしまってゐた瞼裡の闇には、その淡い微小の光の群れで象られ或る輪郭として浮き出した彼の見知らぬ《他人》の顔相が現はれては消え、再び前とは違ふ彼の見知らぬ《他人》の顔相が現はれることを繰り返してゐたのであった。





――こいつ等も俺の異形か……。





――ぷふぃ。お前は何面相の《吾》たることを宿命付けられし《主体》だと思ふ? 





――さあね。何面相かなんて問題ぢゃないだらう。





――ぷふぃ。さあね、と来たか。お前は一度も「俺はこれまでの全宇宙史に出現した《存在》全ての異形を持つ《無限相》の《吾》だ!」と考へたことはなかったのかね? 





――へっ、それはお前の方が良く知ってゐる筈だがね。





――ぷふぃ。お前はこれまでの全宇宙史において出現した《存在》のどれ一つを欠いてもお前は此の世に《存在》出来なかった。それは認めるね? 





――当然だらう。





――当然か……。すると、これは極端な話だがそれを承知で言ふと、お前は全宇宙史を背負って此の世に立つ覚悟はあるんだね? 





――其処さ、俺が腑に落ちぬのは。何故此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ皆全宇宙史を背負はなければならないのだ! 





――ぷふぃ。本当のところを言へば、背負ふ必要なんかこれっぽっちも無いぜ。そんな《もの》は神に呉れちまふがいいのさ。





――神に呉れちまふ? つまり、《存在》の役割分担をせよといふことかね? 





――さうさ。歯車の如く《存在》した方が気が《楽》だらう? 





――それは、つまり、神若しくは神々を頂点としたPyramid(ピラミッド)型の厳然とした階級制といふ名の封建制といふことかね? 





――何を持って封建と言ってゐるのかね? 無論その封建は領地ではないんだらう? 





――ぷふい。「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――ぷふぃ。「苦悩の封建制」と来たもんだ。当然その「苦悩による苦悩の封建制」では神若しくは神々が全宇宙史に亙る《苦悩》を背負ひ、その他大勢の《存在》は己の事にかまけてゐればいいといふ、ふん、《主体》天国の「苦悩による苦悩の封建制」なんだらう? 





――いや、神若しくは神々は一つも《苦悩》は背負はない「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――それぢゃあ、つまり、神若しくは神々と《主体》の立場が逆転した「苦悩による苦悩の封建制」か――。





――つまり、神若しくは神々が一つも《苦悩》を背負はぬといふ事は、《吾》たる《主体》なる《もの》が各々全宇宙史に亙った全《苦悩》を各々が背負ふ「苦悩による苦悩の封建制」さ。





――換言すれば、お前の言ふ「苦悩による苦悩の封建制」とは神若しくは神々を、例へば人間等の全《存在》の呪縛から解き放ってやり神若しくは神々に全きの自由を与へるといふ事だな。





――ああ、さうさ。例へば十字架に磔刑されたイエス・キリストを未来永劫に亙って《人類》に縛り付ける事はイエスにとっては最早《地獄》でしかなく、イエスをその《地獄》から解放してあげねばならぬのだ、この愚劣極まりない《主体》は! 





(四十四の篇終はり)







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2009 08/03 06:14:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 そもそも《吾》とは《吾》に侮蔑されるやうに定められし《存在》なのであらうか? 例へば自己超克と言へば聞こえはいいが、詰まる所、その自己超克は絶えざる自己否定が暗黙の前提として含意されてゐるのであるが、《吾》として此の世に《存在》した《もの》が仮令それが何であれ此の世に《存在》しちまった以上、絶えざる自己否定は《理想の吾》へと近づくべく、つまり、《理想の吾》に漸近的にしか近づく術がない《吾》は、《理想の吾》を追ひ求めずにはゐられぬどうしやうもない欲求が、遂には《吾》の内奥で蠢く底無しの欲望と結び付いて、自己超克といふ名の下に、結局は《理想の吾》が厳然と君臨する故に《吾》が《吾》を滅ぼさずにはゐられぬまでに《吾》は《吾》を追ひ詰めずにはゐられぬ《もの》なのである。さうして自己超克を見事に成し遂げた《もの》のみ生き延びられるこの残酷極まりない自己超克といふ宿命を負ってゐる《吾》は、《吾》をこのやうにしか此の世に《存在》させない摂理を呪ふ事に成るのである。





――自同律の不快! 





 《吾》の存続する術を手探りし己の内奥をまさぐってゐた《吾》をかう言挙げした先達に埴谷雄高がゐるが、彼もまた、此の宇宙を悪意に満ちた何かしらの《もの》としてこの宇宙の摂理を呪ってゐるのである。





――ぷふぃ。





 その嗤ひ声にもならぬ、それでゐて如何しても息が肺から吹き出て已まないその





――ぷふぃ。





といふ嗤ひ声を埴谷雄高の畢生の作品「死霊(しれい)」の登場人物達は不意に発するのであるが、その





――ぷふぃ。





といふ嗤ひ声は、既に《吾》といふ己の《存在》を呪ひ、また此の宇宙をも呪った末に嗤ふことを忘失してしまった《吾》が、やっと此の世に噴き出せた、つまり、辛うじて嗤ひ声となって声を発せた《吾》の無惨な姿が其処には現はれてしまってゐるのである。その埴谷雄高の





――ぷふぃ。





とは違って





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と、《闇の夢》を見て眠りながら嗤ってゐた私は、その《闇の夢》に《吾》の無様な姿を見たと先に言ったが、私にとって闇は多分に見る者の状態によって様々に表情を変へる能面の如く作用してゐるに違ひないのである。





 例へば能面のその表情の多彩さは、見者たる己の内奥と呼応してその状態を忠実に能面の面が映すからであるが、私にとってその内奥を忠実に映すのは先にも述べたやうにそれは闇なのである。私は独りそんな闇を





――影鏡存在。





等と名付けて、瞼を閉ぢれば何時如何なる時でも眼前に拡がる闇と対峙しながら、果てしない自問自答の渦の中に呑み込まれ、最早其処から抜け出せぬやうになって久しいが、瞑目しながらの自問自答はひと度それに従事してしまふと已めようにも止められぬ或る種の自意識の阿片であるに違ひないのである。その瞑目し、瞼裡に拡がる闇に己の内奥を映しながら自問自答の堂々巡りを繰り返し、挙句の果てには問ひの大渦を巻く、その底無しの深淵にひと度嵌り込むと、私は、にたりと、多分他人が見ればいやらしいにたり顔をその顔に浮かべてゐるに違ひないことに最近気付いたのである。つまり、私は瞑目し瞼裡の闇と対峙してゐる時は、必ず嗤ってゐるのに最近になってやっと気付いたのである。そんな時である。眠りながら嗤ってゐる私を見出したのは。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 しかし、それにしても《闇》とは摩訶不思議で面妖なる《もの》である。何《もの》にも変容するかと思へば、眼前にはやはり瞼裡の《闇》のまま《存在》してゐて、相変はらず《闇》は《闇》以外の何《もの》でもないのである。尤も《闇》は多分に頭蓋内の《闇》、即ち五蘊場に鎮座する脳といふ構造をした《》が作り出した或る種の幻影と思へなくもないのであり、それは光が干渉する《もの》なのでその結果どうしても発生してしまふ《闇》を認識するのに、つまり、光の濃淡を認識する仕方として五蘊場が《闇》を作り出したことは、これまた多分に《吾》たる《主体》の《存在》の有様に深く深く深く関はってゐるのは間違ひないのである。さうでなければ、私が夢で《闇の夢》なぞ見る事は不可能で、将又(はたまた)《闇の夢》に《吾》を見出してしまった無惨な《吾》を嗤へる《吾》が私の五蘊場に《存在》することなぞ、これまた不可能なのである。そして、《異形の吾》と私が呼ぶ哲学的には「対自存在」に相当するその《異形の吾》たる《吾》は当然の帰結として《吾》に無数に《存在》する筈で、さうでなければ《吾》は独りの《吾》の統一体としての有様は不可解極まりない事態に陥り、それは例へば、独りの人間が細胞六十兆個程で成り立ち、しかしながらその六十兆の細胞は全てが《生》ではなく、多くの細胞は自死、即ちApoptosis(アポトーシス)の位相に今現在もあることが不可解極まりないことになってしまふのである。《生》とは、詰まる所、《生》と《死》が等しく《存在》する摩訶不思議な現象の一つに違ひないなのである。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





(五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 08/01 05:09:25 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――うむ。はて、時は神の発動の一つではなかったのじゃないかね? 





――さう言へば俺かお前、ちぇっ、どっちにしろ私に過ぎぬが、その私は先に重力と時間が神だと言ってゐたな、へっへっへっ。





――ふっふっふっ。





――俺かお前かのどちらが言ったにせよ、例へばの話で神は重力と時間と言ったまでだらう。当然の事、先にも言った通り「神=(重力と時間)」ではない。





――では何故神は此の世を創造し、此の世の開闢と同時に時を進めて最早此の宇宙が死滅しても、時のみが未来永劫に亙って相変はらず移ろふかの如き《もの》として《世界》を創造したのかね? 





――それに加へてかう言いたいんだらう。へっ、そして神自らも何故に時の奴隷に成り下がったのかと――。





――さうさ。何故神は自ら進んで――俺にはさう思へるんだがね――その神は時の奴隷に成ることを甘んじて受け入れたのかね? 





――ふっ、答へは簡単明瞭さ。神自ら此の宇宙若しくは《世界》を神すらも制御不可能な《もの》に神はしたかったのさ。つまり、神は自ら進んで此の宇宙若しくは《世界》を神の御手では最早どうしやうもない制御不可能な《もの》にせずにはゐられなかったのさ。





――ふむ。それは何故にかね? 





――逆に尋ねるが、お前はお前の未来が全て千里眼の如くお見通しだとすると、お前はお前の《存在》に飽きないかね? 





――《存在》に飽きるとは? 





――つまり、変容する自由がない、換言すると《一》=《一》が見事に成立する《完成》した《もの》として、お前が《存在》することにお前は何の不満も抱かぬのかね? 





――つまり、時が自由を保障すると? 





――いいや。時は何も保障はしない。唯、時は移ろひ、その時の大河の表層で《個時空》のカルマン渦が渦巻くのみさ。だが、時が移ろひ、あらゆる《もの》が時に隷属することで自由が辛うじて生まれるとしたならば、お前は如何する? 





――如何するといふと? 





――つまり、お前は《未完成》で自由な、換言すれば変容可能な《存在》を選ぶか、《完成》して変容不可能で不自由な《存在》を選ぶか、どちらを望む? 





――へっへっへっへっ。自由を弐者択一の問ひに還元しちまっていいのかい? 





――しかし、《完成》した《もの》には、換言すれば《完璧》な《存在》には最早自由は不必要な筈さ。





――つまり、神すらも時に隷属することで自由なる《吾》たる《存在》を選んだといふことかね? 





――ふっ、神は此の世の開闢時に既に《完璧》な《完成品》たる《存在》を、つまり、神自身に匹敵する《もの》を創り上げてしまってゐて、この《完成品》を手持ち無沙汰の挙句に更に捏ね繰り回して更なる《完璧》な《存在》を創造したはいいが、それが余りにも下らない代物だったので、無責任にも神はそれを抛り投げてしまって、その《完璧》なる創造物をぶち壊す為に神は神の鉄槌の一撃をその《完璧》なる創造物に加へて、へっ、神の制御が効かぬBig bang(ビッグバン)をおっ始めて時が移ろひ始めたとしたならば、さて、お前は、その神の行為を許せるかね? 





――神を許す? これは異な事を言ふ。神を許すも何もそれは俺の権限が及ばぬこと、つまり、それは俺の埒外の事だ。まあよい。するとお前は、此の世の開闢以前に神は《完璧》な《完成品》たる創造物、ちぇっ、つまり、完全無比で《完璧》な《存在》を創り上げたと考へてゐるのかね? 





――ああ。此の世を現在統べてゐる神若しくは神々はその残滓若しくは残党だと思はないかい? 





――でも、先に時が移ろふのは此の宇宙若しくは《世界》若しくは神若しくは《主体》が《完成》した《もの》を創造する為だと言った筈だがね。





――さうさ。しかし、神若しくは神々は自らの御手の力の及ばぬ処で此の世の開闢以前の神若しくは神々が自ら創り上げた《完璧》な創造物以上の《もの》が創造されるのかをその目で見たくなったのさ。だから、神若しくは神々は此の時が移ろふ宇宙若しくは《世界》の様相には興味津々な筈だ。しかし、その為には神自らの手で創り上げた《完璧》な《もの》をぶち壊さずにはゐられなかった。へっ、その結果が現在の此の世の有様さ。





――つまり、現在此の世に鎮座坐しまする神若しくは神々は此の世の開闢以前に此の世に《存在》してゐた《もの》の眷族若しくは末裔だと? 





――ふっふっふっふっ、此の世の開闢以前の此の世とは一体全体何のことなのか解からぬが、神若しくは神々は此の世の開闢以前の世に《存在》してゐた《もの》の眷族若しくは末裔には違ひない。へっ、まあそんな事より、全きの自由は不自由と何ら変はらぬとは思はないかい? 





――へっへっへっへっ、ご名答。全きの自由は不自由と同義語か若しくは不自由の別称だよ。その好例が現在此の世を統べる神若しくは神々さ。





――しかし、神は此の世の開闢以前の《完璧》な《完成品》たる創造物といふ《存在》の末裔故に全きの自由、つまり、不自由に我慢しなければならぬ宿命を負ってゐる、違ふかね? 





――それを換言するとだ、此の世の《存在》の典型として先づは神若しくは神々在りきなのだとすると、さて、お前は神に成りたいかね? 





――いいや。神なんぞには成りたくないよ。ところが、《主体》は全きの自由を前にして立ち竦んで、二進も三進も行かない、つまり、どん詰まりの処に自らを追ひ詰めてしまった……。





――どん詰まりといふと? 





――これも何度となく言ってゐる筈だが、《存在》の縁さ。





(四十三の篇終はり)







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2009 07/27 05:25:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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そもそも《吾》とは厄介な生き物である。耳孔、鼻孔、眼窩、口腔、肛門、生殖器等に代表される《主体》の各々の細胞にすら無数に開いてゐる穴凹と同様、それが《吾》の内部の何処かは解かりかねるが、しかし、《吾》の内部には厳然とその内部の闇にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚(うろ)の穴》が《存在》してゐるとの確信がなければ





――俺は俺だ! 





と、《吾》に対しても《他》に対しても《世界》に対しても申し開きが出来ぬ情けない《存在》として《存在》するのである。一方で、蘗の生長によって主幹を喪失しても生き永らへた広葉樹は、けれども、その内部に《存在》してしまふ《虚の穴》は己の何《もの》によっても埋められずに《他》の生き物の生命の揺り籠として樹以外の《もの》をその《虚の穴》で育むといふ、或る意味《吾》の意思ではどうにもならぬ《存在》の在り方を、その樹が望むと望まずとに拘はらず強要されるのであり、また、《存在》の有様の本質がさうである故に、《吾》は《他》や《世界》と辛うじて連関するに違ひないのである。





 さうすると、彼の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に不意に現はれる《異形の吾》共は、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚の穴》をその棲み処としてゐる《他》たる《反=吾》の一つの有様に違ひない筈であるけれども、人間における主幹たる《吾》といふ自意識はといふと絶えざる連続性を求められつつも、絶えず《吾》の主幹たる《吾》の自意識は、それは「先験的」にかもしれぬが、何かによってぽきりと折られ非連続的な《吾》の《存在》を強ひられながら、しかし、人間における《吾》といふ主幹にも《吾》の蘗が生え出るかの如き《インチキ》をそのぽきりと折れた《吾》に接ぎ木するやうにして《吾》といふ《存在》は架空された《吾》として《存在》することを強ひられるのである。尤も、その《インチキ》を身に付けなくては、神ではなく人間の《他人》が作り上げた都市に代表される人工の《世界》では、一時も《存在》することが不可能なのである。それは或る意味当然の事で、慈悲深くも荒々しき神が創りし《世界》では《吾》もまた広葉樹のやうに《吾》の蘗が生え出る事は神に許されてゐて、しかもそれはむしろ《自然》な事なのであるが、しかし、既に人間が作り変へてしまってゐてその《吾》以外の《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り変へてしまった人工の《世界》で生き延びるには、《吾》はその主幹たる《吾》を自ら進んでぽきりと折る勢ひでなければ《存在》は出来ず、挙句の果ては恰も蘗の《吾》が《存在》するかの如く架空の《吾》をでっち上げる、つまり、《吾》といふ《存在》の有様は如何しても《インチキ》だといふ忸怩たる思ひを絶えず噛み締めつつ





――ふっふっふっ。





と、皮肉に満ちた薄笑ひをその蒼白の顔に浮かべなければ、この《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り上げた人工の《世界》では《存在》することが許されないのである。さうして、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《虚の穴》には数多の《異形の吾》共が棲み付き、そして、絶えずその《吾》を名指して





――馬〜鹿!





と嘲笑してゐるのである。





 当然彼にとっても事情は同じで、絶えず彼の内部では《異形の吾》共が皮肉たっぷりに





――馬〜鹿! 





と彼を嘲弄するのであった。





――へっ、さうさ、俺は大馬鹿者さ。





と、彼は決まって《異形の吾》共の嘲弄に対してこれまた皮肉たっぷりに返答するのであった。





――土台この浮世、大馬鹿者以外生き残れやしないぜ。





――だからお前は馬〜鹿なのさ、へっ。





――馬鹿で結構。それでも俺は何としても此の世で生き残るぜ。





――ふっふっふっ。





 その醜悪極まりない《吾》の鏡像としてしか現はれぬ《異形の吾》の一人はにたりといやらしい薄笑ひをその相貌に浮かべたまま、再び





――馬〜鹿! 





と彼を罵るのであった。





――へっ、馬鹿に徹してしかこの異様な浮世では誠実であることは不可能なのさ。





――馬〜鹿! 





――どうも有難うごじぇえますだ、俺を馬鹿呼ばわりしてくれて、ふん。





――その大馬鹿者に一つ尋ねるが、お前は、此の異様な《他人》が徹頭徹尾作り上げ神から《世界》を掠奪した人の世に生きることが楽しいかね? 





――さあね。楽しくもあり、また、不愉快極まりなくもある。





――それぢゃあ、お前は人間が神の御手から掠奪した此の異様な《世界》を承認するかね? 





――いいや、絶対に受け入れられぬ。





――ならば何故に生き残るなどと嘯くのかね? 





――逃げられないからさ。





――逃げられない? 





――ああ、此の世に《存在》しちまった《もの》はその《世界》から遁れられぬし、また、此の世から遁れる出口なんぞは何処にもありゃしないのさ。それはつまりこの人工の《世界》では自死することすら全く無意味な行為でしかなく、《吾》が自死しようがこの人工の《世界》は「また《吾》が自死したぜ! 全く《吾》とは間抜けな《存在》だぜ」と腹を抱へて哄笑するのが落ちさ。つまり、この人工の《世界》では如何足掻かうが「出口無し!」と相場が決まってしまってゐるのさ。





――では《愛》は何なのか?





――《吾》が《吾》として架空されてゐることを確認する一行為に過ぎぬのさ、この人工の《世界》では! 





(二の篇終はり)







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2009 07/25 05:14:01 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、奇怪、且、異常極まりない《主体》の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に明滅する表象群で次々に埋め尽くされた張りぼてに過ぎぬ外界たる《世界》を、ふっ、それは正に狂気の沙汰に違ひないが、そんな奇怪、且、異常な《世界》を恰も正常な《世界》であるかの如く看做す為には感覚を麻痺させる《楽》が必要で、さうして《楽》を追ひ求める内に、《吾》は見事に《吾》の在処を見失ふことが出来たといふ何たる皮肉! 





――……。





――なあ、お前は《吾》を裏切らない張りぼての《現実》を《現実》と認めるかね? 





――つまり、《吾》の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に明滅する表象群で外界を埋め尽くすことで誕生した裏切らない《現実》を《吾》は漸く作り上げたとでも思へといふことかね? 





――いいや。《吾》の頭蓋内が外在化した張りぼてに過ぎぬ《世界》でも時が移ろふ以上、《世界》は《吾》を絶えず裏切り続けるさ。唯、《吾》を裏切らない《世界》といふ名の《現実》が実現可能な如く想定する《吾》の《存在》を認めるかと尋ねたまでさ。





――つまり、それは寝ても醒めても《吾》は夢の中にゐ続けるといふことかね? 





――さう。しかし、夢は夢でもそれが悪夢だとしたならば、お前はその悪夢の《現実》を《現実》と認めるかね? 





――ふっ、どの道それを《現実》と認めるしかないんだらう? 《主体》はそれが何であれ自律する《もの》であるならばだ、《世界》を如何にかして《主体》に都合のいい《世界》へと作り変へる《主体》の壮大な欲望を如何することも出来やしないぜ。





――つまり、《主体》はその誕生から既に《世界》を《主体》内部の、例へば頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象群で埋め尽くすべく《存在》させられてゐると? 





――さうさ。ちぇっ、創造の為にね――。





――創造? それは何の創造かね? 





――へっ、これまでに此の世に《存在》した事が無い《もの》の創造に決まってをらうが! 





――つまり、此の宇宙、それを例へば神と名付ければ、神は絶えず《主体》に創造を課してゐるのさ。





――絶えず頭蓋内の闇、即ち五蘊場に明滅することを已めない儚き表象群の如く、此の宇宙を神の五蘊場だと仮定すれば、その神の五蘊場にも絶えず《もの》の表象群が生滅し、これまで此の世に《存在》しなかった《もの》を創造するべく新たな《もの》が絶えず此の世に生成してゐるなら、ふっ、つまり、《主体》はそれが何であれ創造の為に神の五蘊場に《存在》させられ、その上、永劫に未完成な《もの》しか創れない神にとって、へっ、つまり、神は未完成品とはいへ新たな《もの》を次々と創り最後には完成品たる《もの》が創れる可能性が在ると信ずる以外に最早永劫に満たされぬのではないかね? 





――神が満たされる? ぶはっはっはっはっ。例へば時間一つをとってもそれは火を見るより明らかなのだが、神程貪婪な《存在》は無いんぢゃないかね? 





――その神の貪婪さ故に創られたのが此の宇宙の今の有様だと? 





――所詮、《存在》しちまった《主体》は、それが何であれ、神の五蘊場で思考実験されるべく此の世に《存在》させられた実験体の一つに過ぎぬのさ。





――そして、《主体》自体も絶えず何《もの》かへの変容を課されてゐる。それは何故かね? 





――へっ、それは多分、神のほんの些細な罪滅ぼしだらう。





――神の罪滅ぼし? 





――ああ。未完成品としてしか《存在》させることが出来なかった《主体》が、それでも尚、自ら《完成》するべく変容する余地を残して神が《主体》を《存在》させるに違ひない。





――それは、つまり、神が《主体》たる《もの》を《存在》させることに対しては常に後ろめたいと感じてゐる為かね? 





――或るひはさうかもしれぬが、《主体》は《主体》で神、つまり、此の宇宙若しくは《世界》から自立するべく、《主体》の五蘊場に明滅する表象群を外在化して《主体》の内外をその表象群で自閉し、完結させるといふ如何しようもない欲求を満たすべく、《世界》を作り変へ、そして《主体》もその《世界》に順応するべく変容する。





――へっ、さうしてこれまで此の世に《存在》した事がなかった《もの》を創造するってか――。ちぇっ、さうまでして此の宇宙若しくは《世界》若しくは神若しくは《主体》は、何か新しい《もの》を創造したいのか? 





――さうさ。それ故、最早時は移ろふことを已めない。





――何故に時は移ろふ? 





――此の宇宙若しくは《世界》若しくは神が死滅するまでに完成品を何としても誕生させたいが為さ。





――ちぇっ、時の前では全てが奴隷か――。





――さうさ。時の前では最早神さへも奴隷に過ぎない。





(四十二の篇終はり)







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2009 07/20 05:23:50 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――この野郎! 





と、さう頭蓋内で叫んでゐた私は、不意に全身に電気が走ったかの如くに肉体に力が漲り、その肉体を意識下に従へることに成功したその刹那、あっと思ふ間もなく反射的に私は私をせせら笑ってゐたその夢魔に対して殴り掛かってゐたのであった。が、果たせる哉、私の拳は虚しく空を切り蒲団が敷かれた畳を思ひ切り殴るへまをやらかしたのみであったのである。当然の事、私を嘲弄してゐた夢魔はびくりともせずに相変はらず私の眼前に、つまり、私の閉ぢられし瞼裡にゐたのであった。





 一方で私はといへば、私が夢魔ではなく畳を殴ってゐた事を明瞭に認識してはゐたが、しかし、そのまま覚醒することはなく、眼前の夢魔に目を据ゑては夢魔の嘲笑に怒り心頭なのであった。





 この夢魔は時折私の夢に現はれる――もしかするとそれとは反対に私が夢魔の世界へ夢を通して訪れてゐるのかもしれぬが――のであった。また、この夢魔は何時も能面の翁の面(おもて)をしてゐて、朱色の大きな大きな大きな落陽を背に引き連れて、それでゐて夢魔の面は逆光では決してなく、煌々とした輝きを放って、その面にいやらしい微笑を浮かべては決まって私を罵るのであった。





――そら、お前の素性を述べてみよ。





――くっ――。俺は俺だ! 





――へっ、俺は俺? それはお前だけが思ってゐるに過ぎぬのじゃないかね? ほら、お前の素姓を述べ給へ。





――くそっ。俺が俺であることを俺のみが思ってゐたとしても、それの何処がいけないのか! 





――馬鹿が――。お前は《他》がお前を承認しない限りは、お前はお前未然の下らない《存在》に過ぎぬのぢゃ。そら、お前の素姓を述べてみよ。





――くっ――。





――口惜しいか? ならば早くお前の素姓を述べてみよ。





――くそっ。





――ふほっほっほっほっ、所詮、お前にお前自身の素姓を語れる言の葉は無いのさ。それ、お前の素姓を「俺」の類の言葉無しにお前について述べてみろ。





――《他》以外の《もの》が己ぢゃないのか? 





――ふほっほっほっほっ。馬鹿が! 《他》もまた《吾》なり。お前の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に《他》たる世界は表象されないのかね? 





――《他》は《他》として自存した《もの》ではないのか! 





――否! 《他》は《吾》あっての《他》だ。





――否! 《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》する! 





――ほほう。しかし、《吾》は《他》たる世界をその内部に、つまり、五蘊場に取り込まなければ、即ち世界認識しなければ《存在》すら出来ない。これを如何とする? 





――ぬぬ。





――所詮、《吾》など世界に身の丈を弁へてきちんと《存在》する塵芥にも劣る《存在》に過ぎぬのぢゃないかね? ふほっほっほっほっ。





――ちぇっ、結局は《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》するか――。





――それはお前がさう言ったに過ぎないのぢゃないかね? 





――さうさ。《他》たる世界において《吾》は芥子粒にも劣る厄介者でしかない! 





――ふほっほっほっ。その自己卑下して自己陶酔する《吾》の悪癖は如何にかならないかね? 





――悪癖? 





――さうだ。《吾》の悪癖だ。自己卑下して万事巧く行くなどと考へること自体傲慢だよ。





――しかし、《吾》は《吾》の《存在》なんぞにお構ひなしに自存してしまふ世界=内に《存在》せざるを得ぬ以上、《吾》は自己卑下するやうに仕組まれ、若しくは「先験的」にさう創られてゐるのぢゃないかね? 





――ふほっほっほっほっ。では、《吾》は何故《存在》するのかね? 





――解からない……。





――解からない? それは余りに《存在》に対して無責任だらう? 





――ちぇっ、この野郎! 





と、私は再び夢魔に殴り掛かったのであったが、果たせる哉、これまた私の拳は空を切り畳を殴っただけに過ぎなかったのである。





――ふほっほっほっほっ。お前に虚空は殴れないよ。





――虚空だと? 





――さう、虚空だ。お前の内部にも《存在》する《他》たる虚空に私はゐるのぢゃ。そしてその虚空は全てお前が創り上げた《他》たる内界と言ふ若しくは外界といふ世界の一位相に過ぎぬのぢゃ。





――お前はその虚空の主か? 





――ふほっほっほっほっ。さうだとしたならお前は如何する? 





(一の篇終はり)







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2009 07/18 04:40:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると《吾》の過誤は《他》そのものを侮ったことになるが、如何かね? 





――ふっ、その通り。《吾》は《他》を甘く見過ぎてゐたのさ。《吾》無くして全て無しなんぞはその最たる《もの》だ。《吾》無くしても《他》は相変はらず何事もなかったかの如く《存在》する。





――例へば、それは《世界》かね? 





――さうさ。それに《他者》も《客体》も何もかも《吾》がゐようがゐまいがお構ひなしに《存在》する。何時頃から《吾》が《世界》に御邪魔してゐるといふ感覚が無くなってしまったのだらうか……。





――ふっ、無くなったのじゃなく、詰まる所、それは《吾》の《死》に直結するが故に《吾》は《吾》の《死》が怖くてさういふ感覚は全て麻痺させてゐるに過ぎぬのさ。





――さて、どうやって《吾》はその感覚を麻痺させてゐるのやら――。





――へっ、簡単明瞭さ。《吾》が《吾》と対峙しなければ、つまり、《他》の何かに興じてゐれば、この浮世は何となく過ぎてくれるのさ。





――それじゃあ、《吾》は《吾》を知らずして、否、何も知らずして、つまり、まるで夢の中にゐるかのやうにして、時を過ごしちまってゐるのか? 





――《主体》は《吾》と対峙せずに済む《もの》を発明するのに躍起になってゐるじゃないか。





――つまり、娯楽に象徴される《楽》か――。





――ふっ、皮肉なことに《吾》の内部に秘かに潜んでゐればよかった《他》を闇から引き摺り出して、《吾》の内部の《他》が外在化して《吾》を呑み込むといふ、つまり、《吾》が《吾》であることの理性を一瞬でも失はせる《他》といふ欲望を肥大化させた上に更に肥大化させて、時が移ろふ、ちぇっ、それは《吾》の《個時空》に違ひないのだが、そんな事などお構ひなしに欲望といふ《吾》の内部に潜む《他》を無理矢理にでも引き摺り出された《吾》は、《他》の《個時空》たる巨大な巨大な巨大なカルマン渦と一緒くたになった欲望の巨大な渦に呑み込まれ、そしてその《他》の巨大な《個時空》のカルマン渦に流されるまま一生を終へるのさ。ちぇっ、これは極楽じゃないかね? 





――欲望は《他》かね? 





――《世界》を《吾》の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に明滅する表象群で埋め尽くした現状においては最早欲望は《他》以外の何《もの》でもない! 





――つまり、《吾》は、ちぇっ、外在化した《吾》の頭蓋内に棲んでゐるといふことか――。





――つまり、夢の中さ。





――それじゃ、夢は《他》かね? 





――夢が《世界》である限りにおいてのみ《他》さ。





――自他無境……。現状を一言で言ってしまへばさうじゃないかね? 





――否、《自》滅さ。





――へっ、《自》滅か。ざまあ見ろだ。





――何に対してのざまあ見ろかね? 





――《自》滅した《吾》に対してに決まってをらうが! 





――さて、すると、現在《吾》は何処に棲息してゐるのだらうか? 





――世界=外だらう? 





――世界=外? 





――さう、世界=外だ。《世界》が外在化した《吾》の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に明滅する表象群で埋め尽くされた以上、《吾》は、へっ、皮肉なことに世界=外に追ひ出されちまったのさ。





――その世界=外を具体的に言ふと? 





――欲望といふ《他》が抜け落ちた抜け殻と化した《吾》は、その《吾》を《吾》の内部の無意識下の更にその奥底に封じ込めた一方で、《世界》の涯へと《吾》は自ら進んで《吾》の在処を投企したのさ。





――へっ、それは一体全体何のことかね? 





――ふっふっふっふっ。《吾》の内部の奥底の奥底の奥底は、へっ、《世界》の涯に通じてゐたといふことさ。





――つまり、自他逆転が今現在《吾》のゐる《世界》といふことかね? 





――さうさ。《吾》の内部が《世界》に表出しちまった自他逆転した奇天烈な《世界》、ちぇっ、つまり、異常な《世界》に《主体》は外界を作り変へてしまったのさ。





――しかし、その異常な《世界》とは張りぼての《世界》に過ぎないのじゃないかね? 





――さうさ。しかし、《主体》としての《吾》はその張りぼての異常な《世界》を正常な《世界》と看做す狂気の沙汰を一見平然と成し遂げてしまってゐるのさ。





(四十一の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 07/13 04:48:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり……《杳体》を《物自体》と名指せと? 





――さう言ひ切れるかい……お前に? 





――多分……《杳体》の位相の一つに《物自体》は含まれてゐる筈さ。





――するってえと、《杳体》は《物自体》も呑み込んでゐると? 





――さう……多分ね。





――其処だよ。まどろっこしいのは。お前はかう言ひてえんだらう! 「《杳体》をもってして此の宇宙を震へ上がらせてえ」と。





――ああ、さうさ。その通りだ。此の悪意に満ちた宇宙をこのちっぽけなちっぽけなちっぽけな《吾》をして震へ上がらせたいのさ。





――あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。





――飛び込んだぜ。





――うむ。飛び込んだか……。









(これ以降《杳体》の底無しの深淵に飛び込みし一人の「異形の吾」と、それを待ってゐたかの如くその「異形の吾」と同時に飛び込んだもう一人の「異形の吾」との対話に移る)









――ぬぬ。俺の外に《杳体》の底無しの深淵に飛び込んだ《もの》がゐるとは――。





――へっ、飛び込むのが遅いんだよ。如何だい、《杳体》へ飛び込んでみた感想は? 





――未だよく解からぬ。しかし、如何足掻いても《飛翔》してゐるとしか感じられぬな、この《自由落下》といふ代物は。





――《自由落下》? 《自由飛翔》かもしれないぜ。





――まあ、どちらでも構はぬが、しかし、頭蓋内の闇、即ち五蘊場に《杳体》が潜んでゐたとは驚きだな。





――《主体》に《杳体》が潜んでゐないとしたなら一体全体何処に《杳体》があるといふんだね? 





――へっ、それもさうか。確かに《主体》に《杳体》がなければ、《主体》がこれ程《存在》に執心する筈もないか。





――さて、ところで、その《主体》だが、君はこの《主体》を何と考へる? 





――何と考へるとは? 





――つまり、君にとって《主体》は何なのかね? 





――《私》ではないのかね? 





――《主体》が端から《私》であったならば、君もそれ程までに思ひ詰めなかったのじゃないかね? 





――ふっ、さうさ。その通りだ。





――《主体》はその誕生の時から既に《私》とは「ずれ」てゐる。





――その「ずれ」は時が移ろふからではないのかね? 





――それもあるが、仮令、時が止まってゐたとしても《主体》と《私》は永劫に「ずれ」たままさ。





――それは《主体》が《存在》するが故にといふことかね? 





――さう、《存在》だ。現在では《存在》そのものが主要な問題となってしまったのだ。





――そして、《存在》は竜巻の如く《主体》を破壊し始めた? 





――ああ……。《存在》が何時の頃からか《存在》のみで空転し大旋風を巻き始めて《主体》も《客体》も破壊し始めた……。





――それ故《主体》も《客体》も《世界》も全て自己防衛の為に自閉を始めざるを得ず、その結果、それらはてんでんばらばらに《存在》し始め、しかし、それらを繋ぐ為には《杳体》なる化け物が必要で、《存在》が《存在》たる為には《杳体》なる化け物を生み出さざるを得なかった。なあ、さう思ふだらう? 





――しかし、元来《存在》とはさういふ《もの》じゃないのかね? 





――元来? 





――さう、元来だ。





――それは《存在》とはそもそも有限なる《もの》に閉ぢてゐる故にか? 





――ふっふっ、《存在》はそもそも有限なる《もの》か? 





――無限であると? 





――無限であってもおかしくない。また無であってもおかしくない。





――それは君の願望に過ぎないのじゃないかね? 





(六 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 07/11 04:42:34 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。《吾》に無や無限が飼ひ馴らせられると思ふかい? 





――う〜ん、それは……至難の業には違ひない。





――それでも《吾》が《吾》を存続させる為には無と無限、換言すれば《死》を一時でもその手で握り潰して、そして、それを捏ね繰り回しては何かを創造する外ないとすると、へっ、高々無と無限にすらてこずる《吾》に、さて、特異点と対峙する暇はあるのかい? 





――それは当然《他》と対峙するといふ意味も兼ねてゐるね? 





――ああ、勿論。特異点たる《他》と対峙する《吾》……くっくっくっくっ、その《吾》は内部にも特異点たる《他》を抱へる《吾》であるといふ皮肉! 





――ふはっはっはっはっ。ざまあ見ろかね? 





――馬鹿な! 俺もやはり特異点たる《他》といふ矛盾に振り回され、嘲弄される側の《存在》だぜ。





――《存在》とは元来嘲弄される《もの》ではないのかね? 





――ふっ、何に? 





――へっ、《他》だらう? 





――《他》かね? 《吾》ではないのかね? 





――どちらでも構はないんじゃないか。所詮、《吾》といふ《存在》は「先験的」に嘲弄されるやうに創造されてしまってゐる。





――そして、《吾》は《他》を愚弄する。違ふかね? 





――其処で愚弄するといふのは《吾》ではなく《他》かね? 





――ああ。《吾》は《吾》として《存在》することで既に「先験的」に《吾》に嘲弄されてゐる上に、《他》にも嘲弄される故に、《吾》は仕方なく若しくは近親憎悪にも似て《他》を呪ひ、愚弄するのさ。さもなくば《吾》は《吾》自体を呪ひ、愚弄するといふ留まるところを知らぬ深淵に嵌り込むしかない。





――しかし、大概の《吾》は《吾》ばかりを呪ってゐるぜ。特異点たる《他》が《吾》の内部にも外部にも潜んでゐるにも拘はらず、《吾》は《他》の《存在》に目を閉ざして恰も《他》が此の世に無いかの如く《吾》にばかり執着してゐる。





――ちぇっ、その方が一見して《吾》には楽だからさ。





――楽? 





――ああ。楽だからさ。《吾》が《吾》にばかり目を向けて《吾》を呪ひ、嘲弄してゐる内に、何時しかそれが昂じてMasochism(マゾヒズム)的な自己陶酔に耽溺することになり、へっ、《吾》は《吾》の虜になって《吾》以外の《もの》を忘却出来るかの如き錯誤の蟻地獄ならぬ「吾地獄」から永劫に抜け出せなくなる哀れな末路を取ることになる。それはそれは楽に決まってゐるぜ、何せ《吾》以外に何も《存在》しないんだからな。





――しかし、大概の《存在》は、《吾》は《吾》に自閉してゐると端から看做してゐるぜ。





――さういふ輩は《吾》に耽溺しながら自滅すればいいのさ。





――へっ、《吾》に溺れ死ぬか――。





――Masochism的な自己陶酔の中で溺死出来るんだから、それは極楽だらうな。





――否、それは地獄でしかない! 





――《吾》が《他》に目もくれずに、自閉した《吾》に耽溺する不幸は、それが地獄の有様そっくりだからな。ふっ、何せ地獄では《吾》は未来永劫《吾》であり続け《吾》といふ自意識が滅ぶことは永劫に許されずに、その上で地獄の責苦を味はひ尽くす以外に《存在》し得ぬのだからな。





――しかし、《主体》は、耳孔、鼻孔、眼窩、口腔、肛門、そして生殖器等、穴凹だらけなのは厳然とした事実だ。





――つまり、《吾》もまた穴凹だらけであり、《吾》は《他》をその内部に《吾》の穴凹として抱へ込まざるを得ない。





――付かぬことを聞くが、《吾》に開いた《他》といふ穴凹は《対自》のことかね? 





――いいや、決して。《他》は《他》であって《即自》や《対自》や《脱自》等の如何なる《自》でもない。また、《他》が《自》であるかのやうに看做すやうでは、《主体》は精々穴凹が全て塞がれた幻影を《吾》と錯覚し、それは取りも直さずMasochism的な自己陶酔の中に溺れてゐるに過ぎない。





――だが、《吾》はその内部に《他》が潜んでゐる等とは夢にもこれまで考へた事はなかった。





――それは《吾》が《吾》で自己完結してゐると勘違ひしたかったからに過ぎない。





――つまり、《他》の《存在》には目を瞑って世界を独り《主体》のみが背負ふ世界=内=存在といふ自己陶酔の極致に《存在》は自らを追ひ詰めてしまったのだ。





――しかし、世界は《吾》などちっとも《存在》しなくても若しくは《吾》が死しても相変はらず存続する。





――つまり、世界もまた《他》といふことだらう? 





――さうさ。





(四重の篇終はり)







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2009 07/06 05:19:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも《吾》とは《吾》に怯えるやうに創られてゐる《もの》じゃないかね? 





――それは「先験的」にかね? 





――ああ。《吾》たる《もの》、《吾》が怖くて仕様がないくせに、否、《吾》が《吾》たることの暴走、へっ、それは《存在》を散々苦しめて来たのだが、例へば、それはユダヤの民におけるヒトラーの如き悪魔的《存在》へと不意に《吾》が暴走しないかと《吾》は絶えず《吾》に怯えてゐるくせに、それでゐて《吾》は《吾》に縋り付く外ない己を「へっへっへっ」と力無く薄笑ひをその蒼白の顔に浮かべて《吾》の《他》への変容を夢見る矛盾を抱へながら、此の世に《存在》することを強ひられてゐる。





――何に強ひられてゐるのか? 





――さあ、何かな……。





――何かな? 





――それが何かは解からぬが、《主体》はそれを或る時は《客体》と呼び、或る時は《対自》と呼び、また或る時は此の世の《摂理》と呼び、また或る時は《神》と呼んでゐるがね。なあ、ひと度此の世に《存在》した《もの》が、それ自身滅亡するまで《存在》することを強ひられる矛盾を、何としたものかね? 





――へっ、《存在》がそもそも矛盾だと思ふかい? 





――当然だらう。《存在》とは元来矛盾してゐなければ《存在》といふ、へっ、曲芸なぞ出来っこないぜ。





――《存在》は曲芸かね? 





――ああ。Circus(サーカス)の曲芸みたいに、時に空中ブランコの乗り手として、時に綱渡りの渡り手として、時に玉乗りの乗り手としてしか《存在》の有様なぞありっこないぜ。





――へっ、ひと度此の世に《存在》した《もの》は腹を括れと? 





――何をもってして腹を括れと? 





――《吾》をもってしてではないのかね? 





――へっ、「《吾》然り!」ってか? 





――ああ、「《吾》然り!」だ。





――しかし、その《吾》が元来矛盾してゐるんだぜ。





――だからこそ尚更「《吾》然り!」と呪文を唱へるのさ。





――呪文? 





――さう、呪文だ。





――「《吾》然り!」と呪文を唱へて何を呪ふのか? 





――当然、この宇宙自体さ。





――それは《神》ではないのかね? 





――別に《神》と呼んでも構はない。





――「《吾》然り!」は「《他》然り!」と同義語じゃないかね? 





――勿論。《吾》があれば必然的に《他》のあるのが道理だ。





――ちぇっ、《吾》は《吾》を是認する以外に《他》を是認出来ない馬鹿者か? 





――へっ、当然だらう。《吾》程馬鹿げた《存在》はありゃしないぜ。





――その大うつけの《吾》が「《吾》然り!」と呪文を唱へて《他》の《存在》を是認するとしてもだ、《吾》はそれでも《吾》たる《存在》をちっとも信用してゐないんじゃないかね? 





――当然だらう。《吾》が《吾》を公然と肯定してゐる有様程醜悪極まりなく反吐を吐きさうになる《存在》はありゃしないさ。





――それでも《吾》は「《吾》然り!」と呪文を唱へろと? 





――ふっふっふっ。何の為に《吾》は「《吾》然り!」と呪文を唱へるか解かるかい? 





――いや。





――創造の為には幾ら《存在》を滅ぼさうが何ともないこの悪意に満ち満ちた宇宙をびくつかせる為に決まってをらうが――。





――へっ、やっと本音を吐いたね。今こそこの宇宙に《吾》は反旗を翻せといふお前の本音を。





――この宇宙に反旗を翻すこと以外に《吾》の《存在》の意味があるのかい? ひと度此の世に《存在》してしまった《もの》は、次世代の創造の為にもこの宇宙に反旗を翻して痩せ我慢する以外に何かを創造することなんぞ不可能じゃないかね? 





――へっ、その創造の為に《吾》は人身御供になれと? 





――ああ。残念ながら《吾》たる《存在》は絶えずさうやって連綿と《存在》して来てしまったのじゃないかね? 





(六の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 07/04 05:47:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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とある読者から



「難解なので私の想像です。
数式の単語を使用して「生と死」の問題を論議しているのですか?



このような文学のジャンルを「哲学」?
本も出版されいる様子ですが、素人に簡単に解説して頂ければ幸甚です。 」



という問いがありましたので、この場を借りてお答えいたします。



私が常に自問自答している事は「存在」についてです。時に数式なども持ち出すのはそれが哲学であれ、科学であれ、数学であれ、宗教であれ、「存在」を語れるのであれば私は何でも利用します。
そして、私がずっとこだわり続けている事は「1=1」が成立するのに1と記号化された「存在」は果たしてそれをどのようにそれを受容するのか。つまり、「1=1」における「存在」の情動について、唯、問うているに過ぎません。
それ故に私がこのブログで書き綴っているのは「哲学」や「小説」ではなく「思索」それも「夢幻空花な思索」としか言えないものです。因みに夢幻空花とは病んだ目にのみ見えてしまう夢や幻の類の事です。



簡単ですが以上をもって私の答えとさせていただきます。
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――いや、それは解からない。唯、懊悩する《吾》が此の世に《存在》する以上、神もまた「《吾》とは何か?」と懊悩してゐると考へた方が自然だ。





――考へた方が自然だと? 何故かう言ひ切れぬのだ! 「神もまた《吾》たる己自身に懊悩し、己自身を呪ってゐる」と――。





――さう看做したい奴がさう看做せばいいのさ。へっ、神は神出鬼没 且、変幻自在だぜ。





――つまり、唯識がさうであるやうに《吾》次第で如何様にもなり得ると? 





――勿論。さうでなけりゃ、神といふ名若しくはそんな言葉は捨てるんだな。詰まる所、神自身が己に対して懊悩し、呪ってゐると神自ら自己告白して懺悔したとしても、それは神を神たらしめるだけの単なる神の更なる権威付けに過ぎぬのさ。何故って、さう神が告白すれば、ちぇっ、神が全《存在》の懊悩を背負ってゐると看做す事に逢着するだけに過ぎぬのさ。





――え? 神が全《存在》の懊悩を背負はずして、一体全体何が全《存在》の懊悩を背負ふのだ? 





――《吾》さ。





――《吾》? 





――さう、神は神自身の事だけ背負へばいいのさ。当然、《吾》は《吾》の事だけ背負へばいいのさ。





――神自身の事や《吾》の事とは一体何の事かね? 





――約(つづ)めて言へば、《存在》する事の悲哀さ。





――そんな事は疾うに解かり切った事じゃなかったっけ? 





――さうさ。疾うに解かり切った事だ。しかし、その疾うに解かり切った事を未だ嘗て如何なる《存在》も背負ひ切り、また、語り課(おほ)せた《もの》は全宇宙史を通して《存在》した例(ため)しがない! 





――へっ、それは何故かね? 





――神自体が《吾》を《吾》と語り得ぬからさ。





――やはり、自同律の問題に帰すか……。神もまた、この宇宙を創ったはいいが、「私は私である!」と未だ嘗て言い切った例しがないといふ事か――。





――だとすると、《吾》のその底無し具合が《吾》にとって致命的だといふ事が解かるだらう? 





――つまり、《吾》は如何あっても特異点をその内部にも外部にも隠し持ってゐる事に帰すのだらう? 





――さう、《吾》を敷衍化して《存在》と換言すれば、《存在》はそれが何であれ全ての《存在》が底無しの穴凹若しくは深淵たる特異点を隠し持ってゐるのさ。





――ちぇっ、詰まる所、《存在》は無と無限を無理矢理にでも飼い馴らさなければ、結局、自滅するだけといふ事か――。





――へっへっへっ。大いに結構じゃないか、《吾》が自滅することは。





――それは皮肉かね? 





――いいや、本心さ。心の底から《吾》たる《存在》が自滅する事を冀(こひねが)ってゐるのさ。じゃなきゃ、《吾》が《存在》する道理が無いじゃないか? 





――《吾》が《存在》する道理? そんな《もの》が元々《存在》するのかね? 





――ふっ、いいや、無い。しかし、《吾》はそれが何であれ己の《存在》に意味付けしたくて仕様がないのも厳然とした事実だ。





――それは何故だと思ふ? 





――何かの創造の為にさ、ちぇっ。





――何の創造だと思ふ? 





――《吾》でない何かさ。





――ふっふっふっ。《吾》は《吾》でない何かを創造するべく此の世に誕生したか……。





――その為に《吾》は十字架の如く底無しの深淵たる特異点といふ大いなる矛盾を背負ひ切らねばならぬのさ。





――やはり、特異点は大いなる矛盾かね? 





――現状を是とするならば、特異点は此の世にその大口をばっくりと開けた矛盾に違ひない筈だが、しかし、それを《他》と言ひ換へると面白い事になるぜ。





――特異点が《他》? 





――さう。《吾》とは違ふ《もの》故に、つまり、《吾》が矛盾として懊悩せざるを得ぬその淵源に、そして、それを何としても弥縫しなければならぬ《もの》として特異点が在るとするならば、それは《吾》とは違ふ《存在形式》をした《他》だらう? 





――つまり、その大いなる矛盾した形式を取らざるを得ぬ特異点といふ《もの》は、それを例へば、《反体》と呼ばうが、《反=吾》と呼ばうが、《新体》と呼ばうが、《未出現》と呼ばうが、とにかく、《吾》は猛獣遣ひの如く《吾》の内部にも外部にも《存在》するその《他》たる特異点を、飼い馴らすか、自滅するか、のどちらかしかないといふことか――。





(三十九の篇終はり)





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2009 06/29 05:10:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――といふと? 





――つまり、《死》は全《存在》に平等に賦与されてゐるからね。だから、xの零乗が全て《一》に帰すことに、平等なる《死》といふ《もの》の匂ひが如何してもしてしまふのさ。





――さうか……。これは愚問だが、《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 





――《死》の様態? 





――さう。《生》が完全に《死》へ移行した時、その《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 





――それは俗に言ふ「死に様」ではないよな。Xの零乗が全て平等に《一》に帰す如き故の《死》の様態だよな。





――ああ。単なる「死に様」ではない。「死に様」には未だ《生》が潜り込んでゐるが、完全に《死》した《もの》の様態は、不図、平等なのかなと思っただけのことさ。





――くっくっくっ。それは《生者》が、若しくは此の世に《存在》した《もの》全てが死の床に就いた時に自づと解かることだらう。それまで《死》するのを楽しく待ってゐるんだな。





――それでは極楽浄土と地獄があるのは如何してだらう? 





――くっくっくっ。それはミルトンの四元数(しげんすう)とか八元数とか一見晦渋に見える《もの》を無視すると、数に実数と虚数が《存在》するからじゃないのかね? 





――実数と虚数? それじゃ、複素数は何かね? 





 その刹那、《そいつ》は更に眼光鋭く私を睨み付けたのであった。





――複素数こそ《生》と《死》が入り混じった此の世の様態そのものさ、ちぇっ。





――複素数が此の世の正体だとすると、それは実数部が《生》で虚数部が《死》を意味してゐるに過ぎぬのじゃないかね。さうすると極楽浄土と地獄は複素数の何処にあるのかね? 





――ちぇっ、下らない。複素数の実数部が《生》で《死》は零若しくは∞さ。虚数部は死後の《存在》の有様に過ぎぬ。





――さうすると、《死》の様態は±∞個、即ち∞の二乗個あることになるが、それを何と説明する? 





――此処で特異点を持ち出してくると如何なるかね? 





――特異点? つまり1/0=±∞と定義しちまへといふ乱暴な論理を展開せよと? 





――先にも言った筈だが、矛盾を孕んでゐない論理は論理たり得ぬと言ったらう。





――しかし、それは独り善()がりの独断でしかないのじゃないかね? 





――独断で構はぬではないか。





――さうすると、∞の零乗も《一》かね? 





――さう看做したければさう看做せばいいのさ。所詮、此の世に幸か不幸か《存在》しちまった《もの》は、その内部に特異点といふ矛盾を抱へ込んでのた打ち回るしかないのさ。さうして《生》を真っ当に生き切った《もの》のみが零若しくは∞といふ《死》へと移行し、さうしてその時、ぱっと口を開けるだらう《零の穴》若しくは《∞の穴》を《死者》は覗き込むのさ。其処で目にする虚数の世界が《死霊(しれい)》の世界に違ひないのさ。





――埴谷雄高かね? 





――さう。するとお前も霊の《存在》は認める訳だね。





――ああ、勿論だとも。





 その時の《そいつ》のにたり顔ったら、いやらしくて仕様がないのであった。すると《そいつ》は





――しかし、虚数i若しくはj若しくはkは自身を二乗すると−1へと変化する。これをお前は何とする? 





と、私に謎かけをしたのであった。





――ふむ。−1、つまり、負の数ね。それは、影の世界のことではないのかね。





――ご名答! 闇の中にじっと息を潜めて蹲ってゐる影の如き《もの》こそ負の数の指し示す《存在》の様態だ。





――それは透明な《存在》と言ひ直してもいいのかい? 





――へっ、別にどっちだって構ひやしない。土台、全ては闇の中に蹲って《存在》する負の数といふ《陰体》なのだからな。





――《陰体》? 





――つまり、光が当たらなければ見出さぬままに未来永劫に亙って闇の中に蹲って息を潜めて《存在》し続ける《もの》を《陰体》と名指しただけのことさ。





――さうすると、極楽浄土と地獄とは一体何なのかね? 





――くっくっくっ。《死》した《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像のことに決まってをらうが。





――《死》んだ《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像? 





(六の篇終はり)







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2009 06/28 04:36:14 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――きちんと破滅しちまへばいいのさ。秩序と渾沌の間で唯々諾々と黙して己が破滅する様を噛み締めてゐればいいのさ。





――破滅をきちんと噛み締める? 





――滅することは《存在》の宿命だぜ。如何(どう)足掻いたところで、己の破滅から《吾》は遁れやしないのさ。《存在》することの悲哀を感じずして《吾》に《存在》する資格は、さて、在るや否や、さ。





――つまり、秩序に渾沌が、渾沌に秩序が内在する若しくは紙一重の違ひでしかないやうに、《吾》は《生》に「先験的」に内在する《死》を己の全的剿滅までしかと目に焼き付けるのが《存在》しちまった悲哀を「へっへっへっ」と力無く嗤ふしかない《もの》の、即ち《吾》の折り目正しき《存在》の姿勢ならばだ、何故《吾》なる《もの》は《存在》しなければならなかったのだ? 





――へっ、また堂々巡りだぜ。まあよい。《吾》なる《もの》が《存在》しちまったその理由を単刀直入に言へば、創造の為に決まってをらうが! 





――へっへっへっ、創造と破壊は太古の昔から、否、此の世の開闢の時から既に表裏一体を為すと相場が決まってゐるとしてもだ、また、換言すれば、盛者必衰、且、諸行無常が此の世の常としてもだ、創造の、ちぇっ、何の創造かは知らぬが、その創造の途中の中途半端なところで《存在》するしかなかった殆どの《もの》達は、さうなると、この宇宙を悪意に満ちた邪鬼の如く呪ふしかないぜ。





――へっ、呪ふがいいのさ。





――簡単にお前は呪へばいいと言ふが、中途半端に《存在》する外ない《もの》達は、己の中途半端なことに嘆き、此の世を呪ふだけ呪ったところで、へっ、それは虚しいだけだぜ。





――だから如何した? 





――ちぇっ、暖簾に腕押しか――。





――《存在》しちまって中途半端に《存在》するしかない《もの》達は、この宇宙といふ名の神を呪へばいいのさ。それが無駄なことだと知ってゐてもだ。呪ふだけ呪って、この悪意に満ちた宇宙をほんの一寸だけでも震撼出来さへすれば、中途半端に《存在》しちまった《もの》達は、満足だらう? さうして、また、《吾》は如何してもこの悪意に満ちたとしか名状出来ない宇宙を震撼させねばならぬ宿命を負ってゐるのさ。





――それは宿命かね? 





――ああ、宿命だ。何かをこの宇宙に創造させる為には、《吾》なる此の世に《存在》しちまった《もの》達は、この悪意に満ち満ちた宇宙を震撼させねばならぬのだ。





――しかしだ、全宇宙史を通してこの悪意に満ちた宇宙を一寸でも震撼さぜた《もの》は《存在》したのかね? 





――いや。





――いや? へっ、それじゃ、《存在》しちまった《吾》は、その屍を死屍累々と堆く積み上げてゐるだけで、ちぇっ、つまり、《吾》たる《もの》は、詰まる所、犬死する外ないといふことかね? 





――さうさ。





――さうさ? これまた異なことを言ふ。お前は《存在》が犬死して行くのを是認してゐるのかね? 





――いいや。





――いいや? 





――先づ、俺が《存在》が唯犬死するのを是認する訳が、そして、己の《存在》に満足してゐる訳がなからうが! 俺とてこの悪意に満ちてゐるとしか認識しやうがないこの宇宙を何とかして震撼させるべく、ちぇっ、詰まる所、思案してゐるのさ。





――へっへっへっ、思案だと? 何を甘っちょろいことを言ってゐるのか! 思案したところで何にも変はりはしない筈だぜ。





――さうかな? 俺は、この《考へる水》たる《皮袋》として《存在》する《吾》は、思案することで、へっ、この悪意に満ちた宇宙は、もうびくびく《もの》だと思ふのだがね。





――《吾》が思案することで、この宇宙がびくびくしてゐる? 思案が《吾》の武器? それは、さて、何故かね? 





――この宇宙も《吾》として存続することを切に冀(こひねが)ってゐるからさ。





――すると、この宇宙もまた、それは換言すれば神に違ひないが、「何故に《吾》は《吾》として《存在》しちまったのか」と、へっ、神自らが神を呪ってゐると? 





(三十八の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 06/22 05:36:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着いた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 





――ふっふっ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬことを聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 





――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 





――へっ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかったならば? 





――宇宙の《餌》? それは一体全体何のことだね? 





――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。





――生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふことは、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばっくりと開けてゐるといふことじゃないかね? 





――ふっふっ、それはまた如何して? 





――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》することを許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。





――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 





――当然だらう。





――当然? 





――《他》の宇宙、ちぇっ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふことを認識する屈辱を味はひはしないじゃないか! 





――やはり、《吾》が《吾》を認識することは屈辱かね? 





――ああ。屈辱でなくして如何する? 





――ふっふっ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 





――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。





――それはまた如何してさう言ひ切れるのかね? 





――それは、この宇宙に《吾》であるといふことを屈辱を持って噛み締めながらも如何しても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。





――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 





――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。





――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 





――へっ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開いた穴凹じゃないかね? 





――それは《特異点》の問題だらう? 





――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。





――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちっともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふことだね? 





――例へば、巨大Black hole(ブラックホール)は何なのかね? 





――ふっ、Black holeが《他》と繋がった此の世に開いた、若しくはこの宇宙に開いた穴凹であると? 





――でなくて如何する? 





――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 





――ああ、さう考へた方が自然だらう? 





――自然? 





――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》することで颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 





――ふっ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 





――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。





――さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹することが可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げっぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げっぷ》じゃないのかね? 





――ふっふっふっ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げっぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 





――無難? へっ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。





――嘘? 如何して嘘だと? 





――へっ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。





――へっへっへっ、図星だね。





(六 終はり)





2009 06/20 05:49:55 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――やはり秩序無くして《主体》は此の世を受け入れられぬか? 





――人体を見ればそれは火を見るよりも明らかさ。





――ふっふっふっ。人体ね。





――さう含み笑ひをするところを見ると人体は無秩序だと? 





――いや、何、人体の秩序とは、所詮、細胞が如何に《死》するかの問題に行き着いてしまふのじゃないかと思ってね。





――受精卵といふたった一つの細胞が細胞分裂を繰り返し、様々な機能の臓器へと分化する《発生》の問題でなく、細胞の《死》が問題だと? 





――ああ。臓器がその機能を保持出来るのは細胞が、つまり、癌化する《傷付いた》細胞が自死、即ちApoptosis(アポトーシス)する故に人体といふ秩序は何とか保たれてゐるに過ぎず、更に言へばこの人体の姿形は、細胞がApoptosisと細胞分裂との鬩(せめ)ぎ合ひの結果球体とは全く異なる姿形になったのじゃないかね? さうすると如何しても秩序には《死》がくっ付いて離れないのじゃないかと思ってね? 





――つまり、《死》無くして秩序はあり得ぬと? 





――ああ、さうさ。《死》あればこそ秩序は保たれる……。付かぬことを尋ねるが、《死》は秩序かね、それとも渾沌かね? 





――ふっふっふっ。《死》は秩序でも渾沌でもないのじゃないかね? 





――すると《死》は何かね? 





――《生》を《生》たらしめるその礎さ。





――《死》が《生》の礎だとすると《死》は間違ひなく秩序の領分だぜ。





――へっ、どっちでも構はないじゃないかね? 所詮、秩序と渾沌は紙一重の違ひしかないのさ。





――つまり、秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、換言すれば、《生》は《死》を、《死》は《生》を内包してゐなければ、そもそも《存在》は《存在》し得ぬといふことかね? 





――へっ、《存在》は詰まる所、《虚しいもの》ではないのかね? 





――それは、ちぇっ、約(つづ)めて言へば二元論的な考へはそもそもあり得ず、もしも二元論的なる《もの》があれば、それは捨て去れと? 





――ああ。秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、《生》は《死》を、《死》は《生》を、そして、《存在》は《虚無》若しくは《無》を、《虚無》若しくは《無》は《存在》を「先験的」に内包してゐる。つまり、《吾》は《他》を、《他》は《吾》を元来内包せずには此の世に出現すらしてゐない筈さ。





――それは、詰まる所、陰陽五行説の太極に至るといふことかね? 





――ああ、さうさ。陰陽魚太極図こそ、此の世といふ《もの》の正体を象徴的に表はした《もの》の一つだ。





――へっ、弁証法ではやはり駄目かね? 





――弁証法では此の世を論理的には絶対に語れない。つまり、正の中に反が、反の中に正が内在してゐる前提で物事を語らなければ、何事も始まらないのさ。





――へっ、つまり、正反合は嘘っ八だと? 





――ああ。正反合こそ物事の正体を捕まへ損ねる諸悪の根源さ。





――つまり、此の世の事は二律背反からでしか語り始められぬと? 





――さうさ。カントはそれに薄々気付いてゐた筈さ。此の世を語るには二律背反から始めるしかないとね。





――しかし、人類に二律背反を語り果せる語彙若しくはその言語を基にした思考があるかね? 二律背反は何処まで行っても二律背反のままだぜ。





――無いならば新しく創出すればいいのさ。





――創出すればいいとお前は簡単に言ふが、新たな言語若しくはその言語を基にした思考法を創出するのは困難極まりない難事だぜ。





――しかし、《吾》は、へっ、《存在》の縁に既に追ひ詰められてしまってゐる《吾》は、最早、その難事を成し遂げなければ生き残れないのさ。人類は元々言語が音声といふ《波》と文字の字画といふ《量子》から成り立つやうになったことからも思考は必然的にさうなるに決まってゐた一つの例証として、科学の分野での量子「色」力学若しくは場の量子論へと漸く行き着いたじゃないか。更に更に人類は超弦理論や過剰次元といふ理論へと飛躍を遂げて、へっ、さうなれば《吾》が生き残るための新たな言語若しくはその言語を基にした論理的なる思考法を創出するのは簡単至極なことさ。





――えっ、生き残る為の言語若しくはその言語を基にした思考法? ……別に《主体》が生き残る必然性は……何処にも無いのじゃないかね……? 





――ちぇっ、俺は《主体》とは一言も言ってないぜ。へっ、むしろ《主体》なんぞはさっさと死んでしまへばいいのさ。しかし、此の世の森羅万象に《存在》する《吾》といふ代物は、此の世の衰滅を見届ける義務がある。





――これは愚問だが、《主体》は《吾》ではないのかね? 





――《主体》は《客体》を排他するから《吾》ではないよ。





――つまり、《吾》とは「先験的」に《他》を内包してゐる《もの》だと? 





――ああ。《吾》こそ《他》を内包してゐる、例へば陰陽魚太極図のあの目玉模様そのものさ。





――そして、秩序の中には渾沌を、渾沌の中には秩序をだらう? しかし……それは《破滅》を意味するのではないのかい? 





(三十七の篇終はり)





2009 06/15 05:13:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 そもそも《吾》を嗤ふ《吾》は、さうとは知らずにそれは無意識のことだとは思ひたいのであるが、結局のところ、《吾》に対しての根深き侮蔑がその根底には厳然と《存在》してゐるのは確かなやうである。つまり、《吾》は倦むことを知らずに只管(ひたすら)《吾》を嗤ひ侮蔑するやうに生まれながらに創られてしまった《存在》に過ぎぬのかもしれぬのである。更に言へば、多分に《吾》たる《もの》は絶えず《吾》を侮蔑してゐないと不安な《存在》に違ひないのである。では何故《吾》は絶えず《吾》を侮蔑してゐなければ不安な《存在》として此の世に在るのであらうか。多分、それは《主体》に対して慈悲深き神にも、将又(はたまた)邪悪な邪鬼にも変幻するこの宇宙若しくは世界若しくは《自然》と呼ばれるその変幻自在なる百面相を相手に《存在》することを余儀なくされてゐる故にであらうと思はれる。しかし、頭蓋内の闇は宇宙全体をも更には無限をも容れる器と化すことも可能な《五蘊場》なのである。するとこんな問ひが自身の胸奥で発せられるのである。





――宇宙における想像だに出来ぬ諸現象は果たして《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に浮かぶ形象を遥かに超えた《もの》なのか? つまり、この宇宙は本当に《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する形象若しくは表象を超え出ることが可能なのであらうか? 





 すると、





――へっ、宇宙の諸現象と《皮袋》たる《一》者として《存在》する《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する《もの》を比べること自体無意味だぜ。





といふ自嘲が私の胸奥で発せられるのであるが、しかし、どちらも《吾》を超えるべく足掻くやうに創られてしまったことは紛れもない事実であって、更に言へば、遁れやうもないその事実は、此の世に《存在》するあらゆる《もの》たる《主体》に刃の切っ先が首に突き付けられてゐるやうに突き付けられてゐるのは間違ひないのである。そして、それは私の場合は《闇の夢》として象徴的に表はれてゐるのかもしれないのである。





 そもそも「闇」を夢で見て、それを《吾》と名指して嗤ってゐる《吾》とは一体全体何なのであらうか。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 此の時、《吾》は《吾》をすっかり忘失してしまってゐるのかもしれない。否、《吾》は、あり得べき《吾》と余りに違ふ《闇の吾》を見出してしまったが故に――一方で其処には多分に《吾》が予期してゐた筈の《闇の吾》がゐるのであるが――己の内から湧いて来て仕様がない寂漠とした感情の尽きたところでは最早嗤ふしかないどん詰まりの《吾》を見出してしまったが故に、《吾》は《闇の吾》を嗤ってゐる筈である。





 さて、其処でだが、《闇の吾》以上に的確に《吾》といふ《もの》を表象する《もの》が他にあるのであらうか。





――分け入っても 分け入っても 深い闇





 種田山頭火の有名な「分け入っても 分け入っても 青い山」といふ一句を捩(もぢ)るまでもなく、《吾》とは何処まで行っても深い闇であるに違ひない。その《吾》の当然の姿である《闇の吾》が《吾》として《吾》の前に現はれたのである。当然ながら《吾》は腹を抱へて嗤った筈である。否、最早どん詰まりの《吾》は其処では嗤ふしかったのである。





 尤も其処には《吾》に絶望してゐる《吾》といふ《存在》を見出すことも可能であるが、既に夢で《闇の吾》を夢見てしまふ《吾》は、《吾》にたいして何《もの》でもないと断念してゐる一方で、また、何《もの》でもあり得るといふ自在なる《吾》を、《吾》は、《闇の吾》を《吾》と名指すことで保留して置きたい欲望を其処で剥き出しにしてゐるのである。闇程《吾》を明瞭に映す鏡はないのである。つまり、私が《闇の夢》を見ながら





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と嗤ってゐるのは、何《もの》にも変化出来る《吾》を其処に見出して悦に入ってゐるのかもしれぬ、いやらしい《吾》を嘲笑してゐるに違ひないのである。そもそも《吾》とは何処まで行っても《吾》であるいやらしい《存在》なのである。





――しかし、《吾》は《吾》以外の何《もの》になり得るといふのか? 





といふ反論じみた嘲笑が再び私の胸奥で発せられるのであるが、《吾》のことを自発的にそれは《吾》であると嘯くしかない《吾》は、尤も一度も自発的に《吾》=《吾》を受け入れたことはなく、何時も受動的に《吾》なる《もの》を《吾》として受け入れるのである。それは諸行無常の世界=内に《存在》する《もの》の当然の有様で、世界=内に《存在》する以上、つまり、絶えず《吾》を裏切り続ける形で《吾》の現前に現はれる《現実》を前にして、《吾》はあり得た筈の《吾》を絶えず断念しながら《吾》を尚も保持しつつ、此の《吾》を容赦なく裏切り続けて已まない諸行無常の世界の中で世界に順応する外ないのである。そして、その《現実》での憤懣が《闇の吾》となって私の夢に現はれるに違ひないのである。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





(四の篇終はり)





2009 06/13 05:39:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、神は計測できるといふのかね? 





――例として解かり易く重力と時間を出しただけで、《神=重力と時間》ではないぜ。だが、神もまた計測可能で論理的に理解可能な何かなのは間違ひない。





――それはお前が一人合点してゐるだけじゃないのかね? 





――へっ、そもそも神を語るといふことは一人合点することじゃないのかね? 





――つまり、神もまた悪魔の如く万物に変幻可能な、そして「ファウスト」のメフィストーフェレスの言葉を持ち出せば《常に悪を欲して、しかも善をなす、あの力の一部です》といふことから神を類推すれば《常に善を欲して、しかも悪を為す、あの力の一部です》といふ言説が出てくる訳だ。違ふかね?  





――ふっ、勿論だとも。そして神は《存在》に坐し、《非在》に坐し、《未存在》に坐すのさ。





――神もまた《主体》次第といふことか――。





――へっ、神が《存在》すると思へば神は《存在》し、神が《存在》せずと思へば神は一切《存在》せずさ。





――しかし、全てを《主体》に帰すのは危険極まりないことじゃないのかい? 





――ちぇっ、既に《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に全てを担はなければならぬ運命にあったのさ。だから、《主体》は神をも担ふそれこそ《神業》若しくは《インチキ》を何としても成し遂げねばならぬのさ、へっ。





――へっへっ、つまり、《主体》自体が《インチキ》だと? 





――ああ、勿論。《主体》こそ此の世の中での《インチキ》の中の最たる《もの》さ。





――しかし、《主体》自体は、その《インチキ》な《主体》に振り回され、神に振り回される。それを全て《インチキ》に帰して済ますのは問題があるのじゃないかね? 





――へっ、済む訳がなからうが! しかし、《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に、それが《インチキ》の汚名を受ける覚悟をし、腹を括った筈さ。さうせずには此の不合理極まりない世界に《存在》など出来やしなかった筈だからね。





――へっ、つまり、此の世そのものが《インチキ》だと? 





――それは解からない……。





――解からない? 此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切ってしまへばいいだらうが――。





――へっ、さう言ひ切ったところで何も変はらないし、ましてや《主体》は此の世から遁れられやしないぜ。此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切って全てを神の気紛れに過ぎぬと看做したところで、この宇宙も《存在》も痛くも痒くもないぜ。





――しかし、《インチキ》ならば手品の種の如くその《インチキ》のからくりは解かるだらう? 





――つまり、此の世の森羅万象が論理的に理解可能だと? 





――ああ。





――しかし、さうやって此の世の《インチキ》のからくりが論理的に理解出来たところで、《主体》は生きた《主体》としてこの世界のからくりに組み込まれやしないぜ。つまり、《主体》は論理的かつ存在論的な《死》を宣告されて初めて《インチキ》な此の世に登場可能な《存在》に変化出来るに過ぎぬ。そもそも《主体》が、ちぇっ、《インチキ》な《主体》が、「此の世の森羅万象は《インチキ》だ」と言いひ切ることは存在論的に無責任だらう? 





――存在論的な無責任? 





――つまり、全てを邯鄲の夢の類に看做したい《主体》は、それでも厳然と此の世に《存在》しちまってゐるのさ。





――つまり、「然り」から始めよと? 





――へっへっ、土台、此の世が《インチキ》で済む訳がない! 





――詰まる所、《主体》は事実がそもそも嫌ひなのか――。





――例へば、科学的に論理的にどんなに精密に此の世のからくりを説明されても、《主体》は内心では「へっへっへっへっ」と嗤って、その科学的な論理をせせら笑って端からそんな《もの》で《存在》に肉薄など出来っこないと高を括ってゐる。





――それは何故かね? 





――つまり、《一》=《一》がそもそも《インチキ》だからさ。その《インチキ》の上に築かれた《もの》が《インチキ》でなくて如何する? 





――へっ、《吾》=《吾》の自同律も《インチキ》だらう? しかし、《主体》はその《インチキ》に縋り付くしかない――。





――それは何故かね? 





――つまり、此の世は渾沌に違ひないが、それでもその渾沌を宥めすかして小さな小さな小さな糸口かもしれぬが、秩序を此の世に与へたいのさ。それは、何処まで行っても虚無でしかないことを知りつつも如何あってもその《インチキ》のからくりは解明して、而も何処まで行っても深い闇に包まれたままの《吾》を白日の下に曝したいのさ。しかしながら現時点では、自身には秩序あると考へてゐる《主体》には此の世を渾沌のままでは担へぬ矛盾に《主体》は直面してゐるといふのっぴきならぬ処へと追ひ詰められてゐる。





(三十六の篇終はり)





2009 06/08 03:46:52 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 既に薪を使ふ日常を已めてしまった現代において雑木林は、その落ち葉を田畑の肥料に使ふ以外にその存在意義を失った感があるが、それを映すやうに大概の雑木林は荒れてゐるのが当たり前の風景となって仕舞った時代に生まれ落ちてしまった彼にとって、しかし、雑木林の中を逍遥するのは、日々新たな発見に出くはすので、彼にとっては荒れてゐるとはいへ、雑木林を逍遥するのは止められないものの一つであった。





 さうした或る日、彼は大きな虚(うろ)が根元近くにある一本の櫟(くぬぎ)に出くはしたのであった。





――あっ、零だ! 





と、彼は思はず胸奥で叫んだのであった。彼は樹の虚を見ると何時も





――零だ! 





と感嘆の声を秘かに胸奥で上げては、





――樹もまた《吾》同様《零の穴》をその内部に持ってゐる……。





と、何とも名状し難い感慨を持ってじっと樹の虚を眺めることになるのであったが、つまり、彼にとって樹の虚は或る種の親近感を彼に覚えさせるものの一つであったのである。





 虚の出自は零の出自に或るひは似てゐるのかもしれない。その初め一本の細い幹でしかなかった櫟等の広葉樹は、十年から二十年かけてしっかりとした幹に生長を遂げると、薪か炭の材料としてその一本の幹は切り倒される運命にあるのが、雑木林に存在する広葉樹の常であった。





 そして、眼前のその虚を持つ櫟の樹もまたしっかりとした樹に生長を遂げると《一》たる幹は薪か炭の材料になるべく切り倒された筈である。しかし、櫟等の広葉樹は主幹を失ったとはいへ死することはなく、かつて存在した《一》たる主幹の切り株から蘗(ひこばえ)の小さな小さな小さな未来の幹たる芽を出すのであった。さうして再び立派な幹に生長を遂げた蘗の幹もまた薪か炭の材料として切り倒された筈である。しかし、当然櫟の樹は再びその切り株から小さな小さな小さな蘗の芽を出した筈である。けれども、時代はBiomass(バイオマス)の時代から石油の時代に移り行き、その櫟の樹は長くそのまま放置されてしまった筈である。さうして《一》たる幹の切り株の跡は虚となって、つまり、「零の穴」となってその櫟は生き続けることになったのであらうといふことは想像に難くない。虚とは、大概、《一》たる幹を人工的に切り倒され、その切り株がその失った《一》たる幹の存在を埋めるべくその切り株から蘗が芽を出したその証左でもある。





 また、《零の穴》とはいへ、虚は様々な生命の揺り籠でもある。虚は、或る時は鳥の巣となり、或る時は動物の寝床となり、そして昆虫の棲処となり、と、虚はその様態を変へ生命の揺り籠になるのである。





 さて、其処で此の世に存在する森羅万象は、それが何であれ、《吾》や《他》や《主体》や《客体》等の在り方を暗示して已まない《もの》であると看做してしまふと、蘗もまた《存在》の在り方を、つまり、《吾》や《他》等の在り方を暗示する《もの》に違ひないのである。





 《吾》は《吾》の内部に《零の穴》たる《虚》、それを《反=吾》と名指せば、《吾》の内部には《零の穴》若しくは《虚》たる《反=吾》がぽっかりと大口を開けて厳然と《存在》する《存在》の在り方も在り得る筈である。それは喩へると、主幹が折れてしまふと必ず枯死する或る種過酷極まりない《世界》に《存在》し、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》として、一本の主幹のみを頼りにして此の世に屹立し生きる《存在》の在り方がある一方で、一度や二度の《吾》といふ主幹が折れようが、再びその折れた主幹の跡から蘗なる《吾》が芽を出すのを許容する何とも慈悲深い《世界》に屹立し生きる《存在》の在り方もある筈である。そして、《吾》とは、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》しか存続出来ない過酷な《世界》にありながら、最早、不意に《吾》たる主幹を何かに折られた《存在》でしかなく、それでも《存在》することを必死に而も喜んで欣求する蘗たる《吾》を芽生えさせるといふ、或る種の《インチキ》を成し遂げてしまった《存在》しか此の世は最早受け入れなくなってしまったやうに彼には思へて仕方がなかったのであった。しかし、さうなると、《吾》には《零の穴》若しくは《虚》がぽっかりとその大口を開けて《存在》してゐる筈で、彼には如何してもその《吾》の内部の《零の穴》若しくは《虚》ではまた《吾》ならざる《反=吾》の《存在》を棲息させ育む《存在》の揺り籠として《吾》には厳然と《存在》してゐるとしか思へないもまた事実なのであった。





――《存在》の《零の穴》若しくは《虚》には何が棲むか……。





と、彼は己に問ひを発するのであったが





――へっ、《吾》ならざる《異形の吾》に決まってらあ――。





と、せせら笑ふ《異形の吾》が不意にその顔を出すのであった。





(一の篇終はり)





2009 06/06 05:52:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、多神教の神々は或る時には地上に舞ひ降り《主体》たる《もの》達と戯れ遊ぶが、一神教の神は天上に坐(おは)したまま決して地上になんぞ舞ひ降りぬ、換言すると《主体》たる《もの》達とは超越した《存在》として此の世に坐すといふことか? 





――一言で言へば、多神教の世界像には数多の宇宙が《存在》してゐることを何となく前提にしてゐると思はれるが、つまり、この宇宙には涯があって《他》の神々が坐す《他》の宇宙の《存在》を暗示するが、一神教の世界像においてこの宇宙は涯無き《もの》として何処までもこの宇宙のみが茫洋と拡がるばかりの《吾》しかゐない、へっ、《主体》の化け物が出現してしまふおっかない世界像なのさ。





――一神教の世界像がおっかない? 《主体》の化け物? 





――多神教の世界像は《他》の《存在》無くしてはあり得ぬが、一神教の世界像には《他》の《存在》が究極のところでは否定される運命にあるおっかない世界像なのさ。





――否、一神教の世界像にも《他》は《存在》可能だぜ。





――しかし、その《他》は詰まる所、《吾》の鏡像でしかない。《主体》における《他》は即ち神へと一気に飛躍しちまふ怖さが一神教にはそもそも《存在》するといふことが、お前にも解かるだらう? 





――つまり、一神教においてのみ狂信者は出現すると? 





――多神教でも神々が序列化されて、その位が固定化すれば狂信者は出現するぜ。





――さう言へば多神教においての階級社会は酷いものだな。





――それは《主体》が何時でも化け物と化す怖さを知ってゐた所為さ。





――すると、《主体》は如何あっても神によって馴致されなければ化け物に化すとんでもない代物といふことか? 





――ああ。人類を例に出せば、人類は《主体》の悍(おぞ)ましさを既に嫌といふ程に知ってゐる筈さ。





――それはドストエフスキイか? 





――それにヒトラーさ。スターリンさ。この国の天皇を一神で絶対の現人神(あらひとがみ)と崇めて絶対化する天皇絶対主義者さ。へっ、《主体》の化け物の類例には枚挙に暇がないぜ。





――しかし、ちぇっ、神に圧制される方が良いのか、化け物と化した《主体》に圧制されるのが良いのか――。





――それもこれも全て一神教での話さ。





――それは何故かね。





――多神教の世界では、神々のみで既に世界は完結してゐると先に言ったが、つまり、多神教の世界には《主体》の《存在》は元々無いのさ。其処に此の世に如何した訳か生まれ落ちてしまった《主体》は神々が創り維持する世界にお邪魔する。





――はっはっはっ。世界にお邪魔するだと? 





――別に可笑しかないぜ。元来《主体》とは世界にお邪魔するといふ作法において此の世に《存在》することを許される《もの》さ。





――へっ、神に許される――か――。





――否、神々が坐す世界自体にさ。





――つまり、《主体》が世界に《存在》するには、それなりの《存在》の作法があると? 





――諸行無常たることを已められぬ、つまり、絶えず己に不満を抱いて《他》若しくは《異》へと変容するこの世界=内に《存在》する以上、《主体》たる《もの》は、絶えず自同律を突き付けられる以外に此の世界に《存在》することは許されぬのさ。





――既にドストエフスキイが、その煩悶とする《吾》を描いてゐるか――。





――否、世界はその開闢の時に既に自同律の問題に直面し呻吟した筈さ。さうでなければ、時が移らふ諸行無常なる世界なんぞ創生などされる筈はない! 





――へっへっへっ、世界じゃなく神自体が自同律の問題に今も懊悩してゐるんじゃないかね? 





――ふっ、さうさ。これは愚問だが、お前にとって神とはそもそも何かね? 





――重力と時間さ。





――重力と時間? 





――どちらも計測は出来るが、ちぇっ、その計測の仕方が人間の、否、《主体》の思考法を鋳型に嵌め込んだだけに過ぎぬが、へっ、つまり、どちらも計測は出来るがその因は未だに不明だからさ。





(三十五の篇終はり)





2009 06/01 06:42:53 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラックホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすっぽりと嵌まって其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとって《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとってその《吾》は如何あっても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽっかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引っ掛かってしまふのである。





 《主体》は宇宙史の全史を通して穴凹が塞がりこの宇宙から自存した《存在》として出現した例は今のところ無い筈である。眼窩にある目ん玉の瞳孔を通して外界を見、鼻孔を通して呼吸をし、口を通して食物を喰らひ、肛門を通して排便をし、生殖器を通して性行為をする等々、《主体》は必ず外界に開かれた《もの》として此の世に現はれるのである。つまり、《主体》はこれまで一度も穴凹が塞がれた《単独者》であったことはなく、《主体》自らが穴凹だらけといふばかりでなく、外界たる世界もまた《客体》即ち《他》といふ特異点の穴凹だらけの《もの》として《主体》には現はれてゐる筈なのである。そして《主体》にとっては内外を問はず深淵たるその穴凹に自由落下する方が《楽(らく)》なのもまた確かなのであるが……。





…………





…………





 さて、翌日、小学校から帰った私は一目散に例の神社へと向かったのであった。其処で幼少の私は先づ何故蟻地獄が高床の神社のその床下の乾いた土の、それも丁度雨が降り掛かるか掛からぬかの境界に密集してゐるのかを確かめた筈である。そして、私は、蟻地獄が密集してゐるその方向の数メートル先に桜の古木が立ってゐるのを認めたのであった。幼少の私は多分、何の迷ひもなくその桜の古木に歩み寄り、そして蟻の巣を探した筈である。案の定、その桜の古木の根元には黒蟻の巣の出入り口があり、絶えず何匹もの黒蟻がその出入り口を出たり入ったりしてゐるのを見つけたのであった。





――やはり、さうか。





 蟻地獄が雨が降り掛かるか掛からぬかの境界辺りに密集してゐたのは自然の摂理――これは一面では残酷極まりない――としての生存競争故の結果に過ぎなかったのであった。そして、幼少の私は其処で黒蟻を一匹捕まへて蟻地獄が密集してゐる処に戻ったのである。次にざっと蟻地獄の群集を見渡し、その中で一番穴凹が小さな蟻地獄に捕まへて来た黒蟻を抛り込んだのである。





――そら、お食べ。





 擂鉢状の穴凹の底からちらりと姿を現はした蟻地獄は、果たせる哉、昨日目にした蟻地獄とは比べものにならぬ程、小さな小さな小さな姿を現はしたのである。その小さな蟻地獄は高床下の最奥に位置してゐたに違ひなく、私は、その小さな蟻地獄が黒蟻を挟み捕まへて地中に引き摺り込む様をじっと凝視してゐた筈である。





――そら、お食べ。





 後年、梶井基次郎の「桜の樹の下には」に薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の死骸が水溜りの上に石油を流したやうに何万匹もその屍体を浮かべてゐるといふやうな記述に出会ってからといふもの、桜を思へば蟻地獄も必ず思ふといふ思考の癖が私に付いてしまったのは言ふ迄もないことであった……。





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2009 05/30 05:44:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――仮令、論理的飛躍に錯覚や幻視が必要だとしても、其処ではきちんとした手順を踏んでゐないと滅茶苦茶な論理ばかりが跋扈するとんでもない事態が到来するぜ。





――其処さ。《主体》は傍から見ればそれが滅茶苦茶な論理であってもそれを滅茶苦茶な論理とは決して看做せないから、結局のところ滅茶苦茶な論理ばかりが世に蔓延るのではないかね? 





――ふっ、例えば狂信者の類か? 





――さう。狂信者は傍から見れば矛盾だらけの滅茶苦茶な論理を全き真理として盲信する。それは何故かね? 





――その問ひに答へる前に一つ尋ねるが、お前は傍から見ればと言って済ませてゐるが、狂信者の信ずる《もの》が滅茶苦茶な論理であるとさう判断するそのお前の判断根拠は、つまり、一体全体お前は何処に依拠して滅茶苦茶な論理であると判断を下せるのか? それは言ふなれば、或る種の《主体》が《主体》といふ《存在》を伝家の宝刀の如く振り翳(かざ)す傲慢といふ行為ではないのか? 





――つまり、お前は、その判断根拠は、《主体》たる《もの》は大概相対的な処にゐる故に《主体》の判断根拠は相対的な《もの》に過ぎぬと言ひたいのだらう? 





――へっ、罠を張ったな。





――罠? 





――相対的といふ名の罠だ。





――《主体》の《存在根拠》を相対化することが罠か? 





――ああ。軽々に相対的といふ言葉は遣はない方がいいぜ。





――それはまた何故に? 





――《主体》の《存在根拠》を相対化することは、即ち《主体》をどん詰まりの《単独者》へと追ひ込む罠に過ぎぬからさ。相対的といふ言葉は《主体》の耳には心地良く響くが、その実、相対的とは、《主体》の尻は《主体》自身で拭へといふ自閉した《自己責任》といふ呪縛に閉ぢ込めたただけのどん詰まりの《単独者》といふ《主体》を大量生産する《存在》の《鋳型》に過ぎぬのさ。





――しかし、《他》が《存在》する以上、《主体》は相対化せざるを得ぬ運命にあるのではないかね? 





――それじゃあ、また一つ尋ねるが、人間は人間以外の生き方を相対的に選択できるのかね? 





――うむ……。ちぇっ、人間はそれが喩へどんな生き方にせよそれが人間ならば人間以外の生き方を相対的に選択する余地など全くない! しかし……。





――しかし、何かね? へっ、相対化することの馬鹿らしさの一端が解かるだらう? 





――それじゃあ、その裏返しとして、絶対の真理があるといふのか? 





――いいや、絶対の真理なんぞありゃしない! 此処でまた一つ尋ねるが、お前は《他》が《存在》して初めてお前自身の《存在》を認めるのかね? 





――いいや、決して。《他》の出現以前に、それは多分母親の母胎の中の自在なる羊水の中にゆらゆらとたゆたふ時に既に《吾》は《吾》の《存在》を言葉未然に感覚的に知って仕舞ってゐる筈さ。つまり、《吾》は「先験的」に《存在》しちまってゐるのさ――。





――だからといって《吾》を《他》に対して絶対化する根拠は尚薄弱だぜ。否、相対化かな? 





――しかし、《吾》とは《吾》の《存在》をそもそも絶対化若しくは相対化したくて仕様がない生き物ではないのか? 





――へっ、絶対化にせよ相対化にせよどちらにせよ、それは、詰まる所、《吾》が《吾》である責任を免れたいだけに過ぎぬことだらう? 





――お前は単刀直入に、自同律から逃げることで《吾》といふ《存在》が自身の《存在》の責任を神に委ねて回避してゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、如何足掻いたところで《一》は《一》を、つまり、《吾》は《吾》であることを強要される。また、《吾》が《吾》であることを強要されることで辛うじて世界は秩序を保ってゐるのさ。





――へっ、《吾》がどん詰まりの《単独者》として《他》に対して絶対化若しくは相対化されたところで、それは一神教の世界像の中でのことでしかないぜ。





――ん? それは如何いふ意味かね? 





――一神教の世界像では《一》は何処まで行っても一神たる偉大な神と一対一で対峙する《一》でしかない。でなければ一神の下では《平等》はあり得ぬからさ。





――多神教の世界像でも《一》は何処まで行っても《一》でしかないのではないのかね? 





――へっ、多神教の世界像では《一》は変幻自在だ。





――変幻自在? その根拠は? 





――多神教の世界像では究極のところでは、《主体》が《存在》してゐようがゐまいが、神々さへ《存在》してゐれば世界は既に自存してゐるからさ。





――つまり、多神教の世界像において《一》たる《主体》は無にも無限にもなり得ると? 





――へっ、違ふかね? 





――だから零といふ概念は印度で発見されたと? 





――へっ、違ふかね? 





――しかし、それでも尚、多神教の世界像において《一》たる《主体》が変幻自在たる根拠は薄弱だぜ。





――端的に言へば多神教の世界像において《一》たる《主体》は神々と伍することが可能なのさ。そして、一神教では《一》たる《主体》は神と対峙はするが伍することはあり得ぬのだ。





(三十四の篇終はり)





2009 05/25 06:27:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、死後の《私自身》の幻が神の幻影といふことか? 





――否! 死後の《私自身》ではない! 朧に頭蓋内の闇に浮かぶ彼の世にゐる《私自身》といふ幻影さ。





――へっ、彼の世の《私自身》といふ幻影と死後の《私自身》の幻影と如何違ふ? 





――へっへっへっ、正直に言ふと何となくそんな気がするだけさ。しかし、彼の世は彼岸を超えた或る表象以上には具体化出来ぬが、死後は《私自身》がゐないだけの世界が相変はらず日常として続く《他》のみが《存在》する具体的な世界像さ。





――それでも詰まる所は唯何となくそんな気がするだけか? 金輪際までその直感を詰めると何となくで済む問題か? 





――へっへっへっ、済むんじゃなくて済ませちまうのさ。





――随分、強引だね。





――論理的飛躍をするには強引に済ませちゃうところは強引に済ませちまへばいいのさ。





――しかし、論理的飛躍なんぞそもそも誰も望んでゐないのじゃないかね? 





――だからこそ、その論理的飛躍の最初の一歩をお前が踏み出すのさ。それ! 《杳体》と《重なり合って》みろ! 





――これまた愚問だが、そもそも《杳体》と《重なり合ふ》とは如何いふことかね? 





――へっへっへっ、何度も言ふやうだが、《杳体》と《主体》が《重なり合ふ》とは無と無限の間を揺れ動くことさ。





――それも振り子の如くね……。しかし、《主体》が《杳体》と《重なり合ふ》必然性があるとは如何しても思へぬのだが……。





――何を馬鹿なことをぬかしをるか! 必然性もへったくれもない処まで《主体》は追ひ詰められてゐるんだぜ。





――何に追ひ詰められてゐるといふんだね? 





――《主体》自体にさ。





――《主体》が《主体》を何処に追ひ詰めるといふんだね? 





――《存在》の縁さ。





――《存在》の縁? 





――さう。既に《主体》は《主体》自らによって《存在》の縁に見事に追ひ詰められた。後は《存在》の行き止まり、つまり、《存在》の断崖へと飛び込む外ない。





――《存在》の断崖だと? 





――ふっふっふっ、例へば、今現在《主体》はその居場所にちゃんとゐると思ふかい? 





――いいや、ゐるとは思へぬ。





――するとだ、《主体》は《主体》の居場所から追ひ出されてしまったといふことだ。つまり、《存在》の断崖の縁ぎりぎりの処へと追ひ詰められてしまったのさ。





――《主体》自らかが? 





――さうさ。《主体》自らが《主体》を《存在》の断崖へと追ひ詰めたのさ。後は《主体》の眼下に雲海の如く《杳体》が杳として知れずに拡がってゐるだけさ。そら、その眼下に拡がる《杳体》へ飛び込め! 





――馬鹿も休み休み言へ。飛び込める筈がないじゃないか! 





――哀しき哉、我執の《吾》の醜さよ。





――ちぇっ、《吾》が我執を捨てちまったならば《吾》は《吾》である訳がない! 





――何故さう思ふ? 我執無き《吾》もまた《吾》なり。有無を言はずにさっさと飛び込んじまふがいいのさ。





――簡単に飛び込めとお前は言ふが、杳として知れぬ中へともんどりうって飛び込む程《主体》は頑丈には出来てゐないんだぜ。









(此処で別の異形の《吾》が登場)









――ぶはっはっはっ。下らない! 実に下らない! 





――お前は誰だ! 





――お前に決まってをらうが!





――ちぇっ、また「異形の《吾》」か……。さて、そのお前が《吾》等に何用だね? 





――お前らの対話はまどろっこしくていけない。其処のお前はお前で《杳体》の何ぞやを頭で考へる前に、己を一体の実験体として《存在》の前に差し出して、《存在》の断崖に拡がってゐる雲海の如き《杳体》に飛び込んじまへばいいんだよ。そして、もっ一方のお前は、もっとはっきりと《杳体》を名指し出来ないのか? 





――ふっ、馬鹿が――。《杳体》は杳として知れぬから《杳体》なのであって、それを明確に名指し出来れば此方も《杳体》なんぞと命名してゐなかったに違ひないんだ。





――何一人合点してゐるんだい? かう言へねえのかい? 「《存在》は既に杳として知れぬ不気味な《もの》へと変容しちまった」と。





(五 終はり



2009 05/23 04:58:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――一つ尋ねるが、《死体》はお前の言ふ処の《一》かね? 





――ふむ、《死体》か……。ふっふっふっ、多分、《一》の成れの果てだらう。





――《一》の成れの果て? 





――つまり、《一》の成れの果てとは《一》の零乗のことに外ならないに違ひない筈さ。





――《死体》が《一》の零乗とは初耳だが、それではその根拠は如何? 例へば《死体》が《一》の二乗ではいけないのかね? 





――正直に言ふと、数字の上では《一》の零乗と二乗の差なんかありはしない。しかし、何となく零乗に《死》の匂ひが漂ってゐるとしか俺には解釈できなかっただけの事に過ぎぬ。つまり、それは単なる直感に過ぎぬのだ。しかし、この直感といふものは侮り難い代物だ。





――それでお前は《一》の零乗に何となく《死》の匂ひを感じたと? それはまた何故に? 





――零乗だぜ。単純化して言ふと、正数の零乗は全て《一》に帰すんだぜ。これが《死》でなくて何とする? 





――つまり、《死》は《存在》に平等に与へられてゐる、ふっふっふっ、裏を返せばそれは《慈悲》といふことかね? 





――《慈悲》ね……。多分、さうに違ひない……。此の世に《存在》しちまった《もの》には全て平等に《死》といふ《慈悲》が与へられてゐる――か! へっ、如何あってもこの《死》といふ平等が、全ての《存在》を指し示す正数といふ《存在》の零乗が《一》に帰すことと同義語だと看做せるだらう? そして、《一》といふ《単独者》といふ幻影に苛まれながら、自同律といふ不愉快極まりない《存在》の在り方を強要された《もの》達は、己が《一》=《一》といふ呪縛から最早遁れなくされて仕舞ふ。そして、一生といふ生を一回転した時に己は《死》を迎へる。俺にはこの生の一回転が即ち零乗に見えてしまったのさ。





――しかし、それは非論理的だぜ。





――へっ、《死》がそもそも非論理的ではないのかね? 





――うむ。





――更に言へば、《存在》そのものが非論理的で不合理極まりない《もの》ではないのかね? ふっふっふっ、論理的といふのは、その論理の対象となった《もの》が既に《死体》といふ非論理的な《もの》と成り果ててゐて、つまり、論理的なるといふことは、先験的に非論理的な《死》を包含した《死に体》としてしか論理として扱へぬといふ、論理的なるものの限界を論理的に露呈してゐるに過ぎぬとは思はないかい? 





――はっはっはっ。論理的なことが既に論理的なることの限界を露呈してゐるとは――。しかし、《存在》は何としても世界を論理的に認識したくて仕様がない。





――《存在》はそもそもからして矛盾してゐる《もの》さ。さうでなければ《存在》は一時も《存在》たり得ない。





――つまり、それを単純化すると矛盾を孕んでいない論理は、論理としては既に失格してゐて、それを唾棄したところで何ら《存在》に影響を及ぼさないといふことかね? 





――ああ、さうさ。端的に而も独断的に言へば此の世に数多ある論理的なる《もの》の殆どは役立たずさ。





――それでは、例へば、量子論に出くはしたことで人間は論理的なることが《死に体》しか扱ってゐないことに漸くだが、ちらりと気付き始めた……かもしれぬと考へられはしないかい?  





――否! 今もって人間は論理的な世界の構築に躍起になってゐる。





――しかし、それは《死に体》の世界に過ぎぬと? 





――ああ。論理的な世界の認識法の中に《主体》はこれまで一度も生きた《主体》として登場したことはなかった……。つまり、《主体》は解剖された《死体》としてしか論理の中には登場出来なかったのだ……。





――ふっ、それは当然だな。だって《主体》は絶えず生きてゐる《もの》だもの。生きてゐるとは即ち非論理的なことだぜ、へっ。





――其処で愚問をまた繰り返さざるを得ぬが、その《主体》とは一体全体何のことかね? 





――ふっ、己のことを《吾》と名指してしまふしかない哀しい《存在》全てのことさ。





――へっへっへっ、かうなるとまた、堂々巡りの始まりだな。





――へっ、論理的とはそもそも堂々巡りを何度も何度も繰り返さないことには、論理的飛躍が出来ぬやうに出来てゐるのさ。





――また、やれ《反体》だ、やれ《反=吾》だ、やれ《新体》だ、等々の繰り返しかね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、それでは出口無しだぜ。





――否! お前には今この堂々巡りの自問自答の《回転》する論議の中にその《回転》の方向に垂直に屹立する、つまり、この回転する自問自答の回転軸方向に論理的なる《縄梯子》が仮初にも屹立してゐるのが見えぬのか? 





――《論理的縄梯子》? それは蜃気楼若しくは幻影と似た《もの》かね? 





――蜃気楼若しくは幻影と言へばそれはさうに違ひないが、へっ、論理的な飛躍といふのは、元来錯覚若しくは幻視無くしてはあり得ぬと思はぬか? 





(三十三の篇終はり)





2009 05/18 05:27:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ああ、醜悪極まりない! 《吾》が質量零でしか決して成し遂げなれぬ光速度までに加速し続けながら《パスカルの深淵》を自由落下した挙句の果てに、《吾》が《吾》に尚もしがみ付くことに、はて、何の意味がある? 





――しかし、《吾》とはそれでも《吾》であり続けたい《存在》ではないのかね? 





――《吾》が地獄の別称でしかないとしてもかね? 





――ああ。《吾》たる《もの》は飽くまで《吾》にしがみ付く筈さ。





――さて、その根拠は? 





――《吾》の外に《他》が《存在》するからさ。





――宇宙の涯を其処に見出さずにはゐられぬ《他》が《存在》するが故に、《吾》が《吾》にしがみ付くといふ愚行において、さて、《パスカルの深淵》を自由落下し続けた果てに光となりて此の世に遍在可能な《存在》へと変化してゐるに違ひない《吾》をその《吾》が解脱せずして、何が《存在》から解脱するといふのか? 





――へっへっへっ、《吾》さ。





――はて、《吾》は尚も《吾》にしがみ付くのじゃないかね? ふっふっふっ。





――《パスカルの深淵》を自由落下し続けて光速度を得た《吾》はその刹那、此の世から蒸発するが如く《発散》し、それでも尚《吾》は《吾》にしがみ付くのだが、しかし、《吾》は否が応でも《吾》から引き離される。





――つまり、《吾》といふ《状態》と《反=吾》といふ《状態》が《重ね合は》されると? 





――さうさ。《吾》は、二重、三重、四重、五重等々、多様な、ちぇっ、それを無限と呼べば、その無限相を自在に《重ね合は》せては、その一方でまた自在に《吾》を《吾》から《分離》させる魔術を手にした《吾》は、《吾》にしがみ付きつつも此の世に遍在するといふ矛盾を可能にするその無限なる《もの》を、自家薬籠中の《もの》にする。





――へっ、無限ね? それを無限と呼ぶのはまだ早過ぎやしないかね? 





――では何と? 





――虚無さ。





――虚無? 





――端的に言ふと、《吾》が《吾》であって而も《吾》でない《吾》といふ《もの》を形象出来るかね? 





――ふむ。《吾》であって《吾》でない《吾》か……。ふっ、しかし、《吾》とは本来さういふ《もの》じゃないかね? 





――ふっふっふっ。その通りさ。《吾》とは本来さういふやうに《存在》することを強要される。まあ、それはそれとして、さて、その虚無の《状態》である《吾》の《個時空》が如何なる《もの》か想像出来るかい? 





――《個時空》は普遍的なる《時空》へと昇華してゐる筈さ。





――つまり、此の世全てが《吾》になると? その時《他》の居場所はあるのかね? 





――……《吾》と……《他》は……つまり……《重なり合ふ》のさ。





――それは逃げ口上ではないのかね? 





――へっ、つまり、《吾》と《他》は水と油の関係の如く《重なり合ふ》ことなんぞ夢のまた夢だと? 





――ああ、仮令、《吾》と《他》が《重なり合っ》たとしても、結局、《吾》は飽くまで《吾》のままであって《他》にはなり得ぬ。





――それで構はぬではないか? 





――構わぬ? 





――断念すればいいのさ。「《吾》は何処まで行っても《吾》でしかない」とね。





――それは断念かね? それは我執ではないのかね? 





――我執で構はぬではないか? お前は《吾》に何を求めてゐるのかね? 





――正覚さ。





――正覚者が《吾》であってはいけないのか? 





――いいや、別に《吾》であっても構はぬが、しかし、……。





――しかし、何だね? 





――《吾》が虚妄に過ぎぬと《吾》が《吾》に対して言挙げして欲しいのさ。





――別にそれは正覚者でなくとも可能ではないかね? 





――ああ、その通り、正覚者でなくとも簡単至極なことだ。しかし、《吾》なる《もの》を解脱した正覚者が、「《吾》は虚妄の産物に過ぎぬ」と《吾》に対しては勿論のこと、《吾》を生んだこの悪意に満ちた宇宙に対して言挙げして欲しいのさ。





――それは何故にか? 





――《吾》自体が虚妄であって欲しいからさ。





――《吾》自体の虚妄? 





――最早《吾》が虚妄でなければ、《吾》は一時も《吾》であることを受け入れられぬからさ。





――それは《吾》が《吾》に対して怯えてゐるといふことかね? 





(五の篇終はり)





2009 05/16 06:10:37 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《吾》が《現在》に置いて行かれる事は哀しい事なのかな? 





――ふむ。といふと? 





――唯単に、世界の《個時空》、例へばこの地球の《個時空》と《吾》の《個時空》の帳尻が合はないだけに過ぎぬのじゃないかね、この《吾》が絶えず《現在》に置いて行かれるといふのは? 





――それも一理あるが、しかし、《吾》の《個時空》と《他》の《個時空》の反りが合はないのはむしろ当然至極の事であって何も今更言ふ事でもないだらう。





――其処さ。《存在》が罠に落ちる陥穽が潜んでゐる処は。





――《存在》が罠に落ちる? 





――つまり、《単独者》といふ名の罠さ。





――へっ、キルケゴールかね――。すると《実存》といふ《存在》の在り方といふのはまんまと《存在》の罠に嵌められたその《存在》自体の無惨な成れの果てといふことかね? 





――さうさ。





――さう? 





――《存在》が《単独者》と自らを規定した刹那、《吾》の《個時空》は空転を始める。そして空転する《個時空》といふ《存在》の在り方を始めた《吾》は、絶えず《現実》といふ仮初に過ぎぬ幻影に惑はされる。





――ふっ、《現実》は幻影かね? 





――《単独者》にとっては《現実》は幻影に過ぎぬ。





――何故さう言ひ切れる? 





――《単独者》自体が《吾》の描く幻影に過ぎぬからさ。





――ふっふっふっ、陰中の陽、陽中の陰が《単独者》といふ概念には見出せぬからかね? 





――《単独者》は自ら自閉することを、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々の《外》へ開いた《存在》の穴凹を幻で塞ぐことを《現実》に強要される。





――はて、《現実》もまた《吾》の幻影でなかったのではないかね? 





――さうさ。《単独者》は世界を己の幻影で埋め尽くす。





――へっ、《吾》とは元来さうせずにはゐられぬ《存在》ではないのか! 





――何故さう言ひ切れる? 





――何故って、《現実》が絶えず《吾》の在り方を裏切り続けるからさ。





――はて、《現実》が《吾》を裏切り続けるとは、一体全体何の事かね? 





――つまり、《現実》が《吾》を裏切り続けることで生じるそのずれが《個時空》を回転させ続ける起動力になるのさ。





――《個時空》を回転させる起動力? 





――さう。《現実》が絶えず《吾》を裏切り続けないとすると、《個時空》たる《吾》も回転を停めて倒れてしまふ。





――さうすると、《現実》とは絶えず《吾》を裏切る在り方でしか《吾》には現はれないと? 





――ああ。《吾》には裏切り続ける《現実》無くしては一時も回転が維持出来ぬ《個時空》に過ぎぬと、腹を括るしかない――。





――しかし、ちぇっ、《吾》は元来「裏切らない世界」を知ってしまってゐる。





――母胎か……。つまり、ゆらゆらと自在にたゆたふ羊水の中。





――さうさ。《吾》は、元来、それを敢へて「先験的」と呼べば、世界の裏切りを全く知らずに此の世に出現させられるやうに仕組まれてゐる。





――《存在》は出現以前、つまり、未出現の間は裏切らない世界にたゆたふ。それは例へば、一箇所に数多の《未存在》が《未存在》し続ける事が可能といふ、つまり、《未存在》を《存在》に換言すると、一箇所に数多の《存在》が《存在》可能といふこと、つまり、《個時空》は未だ出現しない世界、それを《無時空》と名付けるが、その《無時空》の世界に自在にたゆたふ。





――へっ、《無時空》と来たか――。《無時空》を暗示させる《もの》が、母といふ《個時空》の《存在》の子宮内の羊水の中でたゆたふ胎児といふことかね? 





――身重の女性こそ《一》=《一》が成り立たないことを身を持って体現してゐる《存在》だ。





――しかし、世界を認識するには《一》=《一》の方が単純で「美しい」。





――だが、詰まる所、人間は量子論的にしか《存在》が語れぬ事に漸く気付いた。





――しかし、量子論には観察者はゐても《主体》は蚊帳の外で《存在》しない。





――つまり、今現在の人間の世界認識の仕方は、世界を解剖可能な《死んだ》世界としか認識出来てゐないといふ不幸にある――といふことか? 





(三十二の篇終はり)





2009 05/11 04:51:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――その自己否定こそ己の《存在》に対する免罪符になるかもしれぬといふ《愚劣》極まりない打算が働いてゐるのじゃないかね? くっくっくっくっ。





――何に対する免罪符といふのかね! 





――《死》に決まってるじゃないか、くっくっくっくっ。





――《死》に対する免罪符? これまた異なことを言ふ。《死》も此の世に《存在》する以上、自己否定からは遁れられやしないぜ。





――《死》が《死》を自己否定したところで、それは結局《死》でしかないんじゃないのかね? 





――否! 《死》が自己否定すれば《生》に行き着かなければならぬのさ。





――それはまた如何して? 





――さうでなければ《生》たる《存在》が浮かばれないからさ。





――別に《生》が浮かばれる必要なんぞ全くないんじゃないかね、くっくっくっくっ。





《そいつ》の言ふ通り、《生》が此の世で浮かばれる必要など、これっぽっちも無いことなど端から解かり切ってゐることなのに、私は《そいつ》のいやらしい嗤ひ顔を見てると如何しても反論せずにはゐられやしなかったのであった。





――否! 《生》は何としても此の世で浮かばれなければならぬ。それは《死》がさう望んでゐるに違ひないからさ。





――それは《生者》だけの論理だらう? 





――《生者》が《生者》の論理を語らなければ何が《生者》の論理を語るといふのか? 





――《死》がちゃんと語ってくれるさ、くっくっくっくっ。





――《死》は《生》あっての《死》だらう? 





――だから如何したといふのか? 





――ああ、成程! そうか! 《生》が《死》を、《死》が《生》を語る矛盾を抱へ込まなければ、《存在》の罠の思ふ壺といふことか――。





――はて、《存在》の罠とは何のことかね? 





――自同律さ。





――自同律? 





――例へば《吾》=《吾》が即ち《存在》の罠さ。





――くっくっくっくっ。漸く矛盾を孕んでゐない論理は論理の端くれにも置けぬといふことが解かって来たやうだな。





――しかし、《吾》は《吾》=《吾》でありたい。これは如何ともし難いのさ。





――それは当然さ。《存在》しちまった以上、《吾》は《吾》でありたいのは当然のことさ。しかし、それが大きな罠であるのもまた事実だ。





――事実? 





――ああ、事実だ。





――論より証拠だ。何処が如何事実なのか答へ給へ。





――数学が《存在》する以上、《吾》が《吾》たり得たい衝動は如何ともし難い。





――数学ね。





――数学では条件次第で自同律なんぞは如何解決しようが自由だ。





――しかし、大概の《もの》は《一》=《一》の世界が現実だと看做してゐるぜ。





――其処さ。《存在》の罠が潜んでゐるのは。





――一つ確かめておくが、お前は数学を承認するかね? 





――ふむ。数学の承認か……。実のところは迷はず「承認する」と言ひ切りたいのだが、さて、如何したものだらうか――。ふむ。一先づかう言っておかう。「世界の一位相として数学を承認する」と。





――世界の一位相? 





――ああ。世界認識の方法として数学もあり得るといふことさ。





――しかし、数学が全てではないと? 





――当然だらう。数学が支配する世界なんぞ悍(おぞ)ましくて一時もゐられやしないぜ、ふっ。





――しかし、自同律を語るには数学は便利だぜ。





――といふと? 





――例へば《一》=【《一》のx(x0123……)】が成り立つ。





――だから? 





――《一》の零乗は《一》に帰するといふ、一見すると奇妙に見える自同律が成り立つのさ。





――さて、それが如何したといふのか? 





――《一》の零乗だぜ。《死》の匂ひがすると思はないかい? 





(五の篇終はり)





2009 05/09 05:01:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それは詰まる所、此の世に未だ《自存》した《存在》が出現してゐない《存在》の未熟さ、若しくは未完成さを指し示すのみの一つの徴表に過ぎぬ。





――つまり、世界から完全に独立した《存在》は未だ出現してゐないと? 





――その言葉を何回聞くのやら……。まあ、良い。多分、《存在》に開いた穴凹は此の世の位相を直に反映してゐる筈さ。





――つまり、《存在》は此の世を映す鏡だと? 





――違ふかね? 





――それは、断言すると、世界と《存在》は持ちつ持たれつの関係でしか此の世に出現出来ぬといふことかね? 





――ああ、さうさ。





――それじゃ、《新体》は泡沫の夢に過ぎぬといふ訳かね? 





――否、《他》が此の世に出現した以上、《新体》が出現する、つまり、この宇宙から完全に《自存》した《他》の宇宙が《新体》として必ず《外》に《存在》する筈さ。





――《外》? 





――《存在》に穴凹が開いてゐることから類推すると、《内》の中に《外》がある、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様の、陰中の陽、陽中の陰、といふ《存在》の在り方が、《存在》の姿勢として折り目正しき在り方なのかもしれぬ。しかし、仮初にも《存在》は《内》と《外》といふやうに《存在》の在り方を単純化して物事を考へる癖が付いて仕舞ってゐるので、《外》と言ったまでさ。





――はっはっ。つまり、結局は自同律の問題じゃないか――。はっきり言ひ切ってしまへばいいじゃないか、「自同律は嘘っぱちだ」と! 





――……《吾》=《吾》は《吾》が《吾》と名指した《もの》の幻想に過ぎぬのは、この人間の身体一つとっても口から肛門まで《外》が《内》にあることからも自明極まりない筈だが、しかし、《吾》は如何しても《吾》=《吾》でありたい。それは何故か? 





――《吾》=《吾》でありたいだと? むしろ逆じゃないかね。《吾》は《吾》≠《吾》でありたいと? 





――さう看做したいならば、さう看做せばいいのさ。《吾》が《異形の吾》を抱へ込んだ《他=吾》である以上、《吾》が《吾》=《吾》だらうが、《吾》≠《吾》だらうが、結局は同じ事に過ぎないのだから。





――《吾》=《吾》と《吾》≠《吾》が同じだと? 





――ああ。《存在》は論理的に《吾》=《吾》であって而も《吾》≠《吾》であるといふ、ちぇっ、単純化するとその両面を持った《存在》の二重性を合理であるとしなければならぬ宿命にあるのさ。





――それは《一》=《一》であって《一》≠《一》である、論理的に「美しい」公理を打ち立てられない内は、如何あっても《吾》は自同律の底無しの穴に落下し続けるといふことかね? 





――さう、さういふことだ。漸くにして人類は量子論にまで至れたのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である世界認識の仕方への飛躍は後一寸の処じゃないかね? 





――へっ、人類は既に大昔に陰陽魚太極図の考へに至っているのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である思考法はお手の物の筈なのだが……。





――へっ、それ以前に人間は音声といふ波と画数を持った量子的なる文字で出来た言の葉を使ってゐるのだから、人間が言葉で物事を考へるのであれば《自然》に《一》=《一》且《一》≠《一》の思考法で世界を認識してゐるに違ひないのだ。





――しかし、実際はさうなってゐない。それは何故かね? 





――《一》=《一》に見蕩れてしまって其処から抜け出せなくなってしまった……。





――だから、それは何故かね? 





――ぷふぃ。詰まる所、時間を止めたいからさ。





――はて、それは如何いふ意味かね? 





――つまり、《一》=《一》、換言すれば《吾》=《吾》が永劫に成り立つ時が止まった架空の世界に戯れたかったからさ。





――だから、それは何故かね? 





――《存在》は本質的に《現実》を嫌悪する《もの》だからさ。





――《現実》を嫌悪する? それはまた如何して? 





――ちぇっ、《吾》が《吾》でなくなってしまふからに決まってをらうが! 





――《吾》が《吾》でなくなる? つまり、《吾》≠《吾》が《現実》の実相といふことだらう? 





――さうさ。時が移らふ《現実》において、《吾》は絶えず《吾》でない《吾》へと移らふことを強要される。





――それは《吾》=《他=吾》故にだらう? 





――さうさ。《現実》において《吾》は絶えず《現実》に置いて行かれる、つまり、《現在》に乗り遅れる。それでゐて《吾》は絶えず《現在》であることを強要される。哀しき事だがね……。





(三十一の篇終はり)





2009 05/04 04:58:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》じゃないのかね? 





――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木っ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。





――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へっ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持ってゐるからなのか? 





――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。





――へっ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 





――だって《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふことに熱中出来るんだぜ。





――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げっぷ》をするか――。へっ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。





――それは如何してか? 





――元々《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちぇっ。





――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。





――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 





――ちぇっ、何でもお見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であった試しがない。





――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。





――くきぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんんんん〜〜。





 一時も休むことなくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであった。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸することを余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとっては未知に違ひない世界で、膨脹することを宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであった。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違いない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであった。





――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 





――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なってゐるからだらう? 





――己が己に重なり損なふといふことは、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられないといふことに外ならないといふことだらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 





――自己増殖したい為だらう? 





――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 





――ふっ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。





――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 





――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。





――あるらむ? 





――へっ、さうさ、あるらむだ。





――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 





――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふことだ。





――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 





――時空間が自己増殖するその切羽詰まった理由は何だと思ふ? 





――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。





――妄想の自己増殖と来たか――。





(五 終はり)





2009 05/02 05:09:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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