思索に耽る苦行の軌跡

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――しかし、それは深い深い慈悲から生じたとは考へられないかね? 





――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも《死》からは遁れられぬと? 





――ああ。当然この宇宙が《存在》してゐるのが《事実》ならば、そしてそれをまた《神》と名付けるならば、《神》が此の世に《存在》してしまった以上、《神》にも当然《死》が待ってゐる。





――《死》すべく宿命付けて《神》は己も宇宙も誕生させた――。はっ。





――さうせずには何にも創生させることが出来なかったのじゃないかね? 





――何故? 





――《神》もまた己に怯えてゐるからさ。そして暗中模索の思考錯誤の末の自棄のやんばちで《神》はBig bang(ビッグバン)をおっ始めてしまった。





――その時、《神》もまた自同律の陥穽から遁れられなかったと? 





――ああ。《神》こそ自同律を最も不快に感じてゐるに違ひない。それ故、Big bangをやらかした。





――如何してさう言ひ切れるのかね? 





――へっ、《吾》と名付けられた《存在体》が此の世に《存在》するからさ。





――ぷふぃ。《吾》だと? それは苦し紛れの詭弁でしかないのじゃないかね? つまり、《吾》は誰が《吾》だと自覚するのかね? 





――当然《吾》自身さ。





――其処さ、《吾》が《吾》であると自覚する過程の中に、《吾》の外に《存在》する《他》を《他》と認識する素地はあるのかね? 





――《吾》が既に《他=吾》を抱へてゐるじゃないか――。





――つまり、《吾》は既に《吾》であることで其処に《他=吾》といふ矛盾を抱へ込んでゐるが、しかし、それでも此の世の摂理として自同律は何としても成立させなければ《存在》は一時も《存在》たり得ぬ宿命にある。そして、《他》が此の世に出現することで此の世の涯に朧にも思ひを馳せて、宇宙にも、また《神》にも、《他》の宇宙が、《他》の《神》が、《存在》することを如何あっても自覚せねばならぬ。つまり、此の世には必ず《他》といふ《吾》の涯が《存在》すると。それ故に自己が自己であることを自覚することで、ちぇっ、其処には大いなる矛盾が潜んでゐるのだが……、自同律といふ此の世の摂理の土台を為す不愉快極まりないその摂理といふ奴を無理矢理にでも抱へ込んで此の世に《存在》しなければ、最早この宇宙が創生しちまった以上収拾がつかぬとんでもない事態に《吾》は直面してゐるに違ひないのだ。





――はて、それは如何いふ意味かね? もっと解かり易く話してくれや。





――つまり、《吾》は《吾》である以前に《他=吾》を抱へ込んでゐる。それ故に《吾》は数多の《異形の吾》に分裂しつつも《吾》といふ統一体であらねばならぬ。つまり、自同律が成立する以上、《吾》は《吾》自身でその不愉快極まりない此の世の摂理を身を持って味はひ尽くさねばならぬ訳だ。《吾》は《吾》である、と。さうしなければ《吾》は《他》の《存在》を一時も認める事が出来ぬのさ、哀しい哉。何故って《吾》=《吾》が成立しなければ、つまり、《一》=《一》が「美しく」成立する論理的な秩序があって初めて《吾》は《他》を《他》と認められるのさ。其処には《吾》=《吾》といふ堅牢なる礎があればこそ《吾》が《他》の《存在》を漸くにして認められるといふ道理が潜んでゐると、お前は思はないかい? 





――さうして《他》の《存在》に此の世の涯を見る――か――。





――さうさ。《他》の《存在》を《吾》が認める、つまり、《他》の死肉を喰らふこともひっくるめて自同律を受け入れるには、《個》は《個》として閉ぢる、つまり、有限であることが必要十分条件なのさ。《吾》が有限であることを、自同律を受け入れることで認めざるを得ぬ《吾》は、《吾》が閉ぢた《存在》であることを《他》の出現で否応なく認めざるを得ない。そしてこの宇宙も《自意識》を持ってゐるならば、其処には厳然と自同律が成立してゐて、この宇宙は《吾》が有限で閉ぢてゐることを自覚せざるを得ず、へっ、それは詰まる所、《吾》とは別の《他》の宇宙が《存在》することを暗示しちまってゐるのさ。





――しかし、眼窩、鼻孔、耳孔、口、肛門、生殖器等々《存在》は《他》に開かれるべく穴凹だらけだぜ。





(三十の篇終はり)





2009 04/27 05:17:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 ところが、私が《闇の夢》を見るのは誠に誠に稀なことなのであるが、一方で、その稀な《闇の夢》を見ながら夢で私が闇を表象してゐることを睡眠中も朧ながら自己認識してゐる私は、秘かに心中では





――ぬぬ! 《闇の夢》だ! 





と、快哉の声を上げてゐるのもまた一つの厳然たる事実なのであった。これは大いなる自己矛盾を自ら進んで抱へ込むことに違ひなく、これは私自身本音のところでは困った事と思ひながらも、その大いなる自己矛盾に秘かにではあるが快哉の声を上げる私は、その大いなる自己矛盾を抱へてゐることに夢見の真っ只中では全く気付ず、ちらりとも秘かに快哉の声を上げてゐる自身が大いなる自己矛盾の真っ只中にゐることを何ら不思議に思はないのであった。ところで、その大いなる自己矛盾とは何かと言へばその答へは簡単明瞭である。それは無限を誘ふであらう闇に対して、私はその闇を《吾》と名指して無限へと通じてゐるに違ひない闇を、恰も《吾》といふ有限なる《もの》として無意識に扱ってゐるのである。ところがである。此処でf(x)=一/xx0のとき発散すると定義される《特異点》を持ち出すと、有限なる《一》が恰も無限大なる《∞》を抱へ込むことが可能な、或る種の倒錯した無限と言へば良いのか、その無限を如何しても誘ふ《発散》した状態の《一》たる《吾》といふ摩訶不思議としか形容の仕様がないそんな《吾》が此の世に《存在》可能であることを、私が《闇の夢》を見ることは示唆してもゐるのである。つまり、《一》なる《吾》が《特異点》をその内部に隠し持てば、私が無限を誘ふ闇に対して《一》なる《吾》と名指ししても《発散》可能な《吾》ならば、換言すれば《∞》を抱へ込むことすら可能な《吾》ならば、或る意味無限を誘ふ闇を有限なる《吾》と名指すことは至極《自然》な成り行きなのである。





 多分、無意識裡にはそのことを確実に感じ取ってゐたに違ひない私は、その日、《闇の夢》を見ながら





――《吾》だと、わっはっはっはっ。





と嗤へたに違ひないのである。また、さうでなくては闇がずっと闇のままであったその夢を見て





――《吾》だと、わっはっはっはっ。





などと嗤へる道理がないのである。





 しかし、闇を《吾》と名指すことには、大いなる思考の飛躍が必要なのもまた事実である。其処には恰も有限なる《吾》が無限を跨ぎ課(おほ)したかの如き《インチキ》が隠されてゐるのである。また、その《インチキ》が無ければ、私は闇を《吾》と名指すことは不可能で、更に言へば、闇を見てそれを《吾》と名指す覚悟すら持てる筈がないのである。





 この《インチキ》は、しかしながら、此の世が此の世である為には必須条件なのでもある。つまり、《特異点》といふ有限世界では矛盾である《もの》の《存在》無くして、此の世は一歩も立ち行かないのである。有限な世界に安住したい有限なる《存在》は、一見してそれが矛盾である《特異点》をでっち上げて、その《特異点》の《存在》を或る時は腫れ物に触るが如く《近似》若しくは《漸近》といふこれまた《インチキ》を用ゐてその《災難》を何となく回避し、また或る時は、《特異点》が此の世に《存在》しないが如く有限なる《もの》が振舞ふことを《自由》などと名付けてみるのであるが、それでも中にはこの《自由》が《特異点》の一位相に過ぎぬ事に気付く《もの》がゐて、運悪く此の世の《インチキ》に気付いてしまったその《もの》は《絶望》といふ《死に至る病》に罹っては、





――《自由》とは、《吾》とは何だ! 





と、世界に対して言挙げをし、己に対して毒づくのである。さうして《死に至る病》に罹った《もの》は更に此の世にぽっかりと大口を開けた陥穽を《特異点》と名付けて封印することを全的に拒否するが故に、更なる《絶望》の縁へと自ら追ひ込むしかないのである。しかしながら、さうすることが唯一此の世に《存在》した《もの》の折り目正しき姿勢に外かならないのもまた確かな筈である。つまり、《存在》する《もの》は、絶えず此の世の陥穽たる《特異点》と対峙して己自身を嘲笑するのが娑婆を生きる《もの》の唯一筋が通った《存在》の姿勢に違ひないのである。





 ところが、一方で、此の世に《存在》する《もの》は絶えず此の世にぽっかりと大口を開けた《特異点》を私事として《吾》の内部に抱へ込む離れ業を何ともあっけなくやり遂げてしまふ《もの》なのでもある。また、さうしなければ、《存在》は一時も《存在》たり得ぬのである。





 頭蓋内一つとっても其処は闇である。私の内部は《皮袋》といふ《存在》の在り方をするが故に全て闇である。そして、その闇に《特異点》が隠されてゐても何ら不思議ではなく、否、むしろ《皮袋》内部に《特異点》を隠し持ってゐると考へた方が《合理的》で至極《自然》なことなのである。さうして、更に更に更に更に《吾》が《吾》なる《もの》を突き詰めて行くと、内部は必然的に超えてはならぬ臨界をあっさりと超えてしまふものであるが、その臨界を超えると《外部》と相通じてしまふ底無しの穴凹を《吾》は見出し、《内界》=《外界》といふ摩訶不思議な境地に至る筈である。そして、それが娑婆の道理に違ひないのである。仮にさうでないとしたならば、私が外界たる世界を表象することは矛盾以外の何ものでもなく、また、夢を見ることで其処に外界たる世界を表象する不思議は全く説明できないのである。





(三の篇終はり)





2009 04/25 05:11:55 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、また堂々巡りだね。先にも言った通り《時間》を一次元的に押し込めることに元々無理があることに《存在》は薄々気付き始めてゐるが、しかし、その《時間》が無限の相を持つことを極度に嫌ってゐる。それは何故かね? 





――《時間》が無限の相を持つとは即ち渾沌に外ならないから……か……? 





――さう。無秩序が怖いのさ。《主体》内部の《意識》では《過去》と《未来》を自在に転倒させてゐるのに、その《意識》で起きてゐることが《存在》の外部で起こることを極度に嫌って、怯えてさへゐる。へっ、それは、つまり、己が怖いからだと思はないかい? 





――例へば、《主体》が思念するとそれが立ちどころに具現化してしまふ魔法をその《主体》たる《存在》が手にしたならば、其処に現はれるのは多分に収拾がつかぬ渾沌であり、またそれは、己を崩壊へと追ひ込む《実体》が《発散》するといふ《主体》が最早《存在》であり得ぬ死相のやうな相で満ちた不気味極まりない世界といふことか? 





――勿論。《主体》が魔法を手にすれば《主体》が何であれ必ず《主体》自体を滅ぼす外に《主体》には魔法の使ひ方が一向に解からぬ筈だ。





――それは……己が怖くて仕方がなく……その上怖い《もの》はそれが何であれ全て己の敵であって……「敵は殺せ!」といふ……或る種普遍化した論理の呪縛から《主体》たる《もの》……如何足掻いても……遁れられぬ《主体》の性(さが)故にか? 





――へっへっ、漸く《もの》の本質が解かって来たじゃないか。《存在》するとはそもそも《他》の《死》なくしてはあり得ぬのさ。つまり、「敵は殺せ!」の淵源に「食ひ物は殺せ!」といふ《存在》が存続するには如何あってもさうせずにはゐられぬ《殺生》が《存在》には必ず付いて回る。その上《生命》の誕生もまた何億匹の精虫の《死》と卵子の《死》の上でしか起こり得ない。これが悪意でなくて何とする! 





――付かぬ事を聞くが、《殺生》は悪意かね? ならば無機物を喰らって有機物を生成する《生き物》のことは如何考へる? 





――ちぇっ、《死》して元に還る、そして、此の世は《循環》してゐると言ひたいのかね? 





――一つ尋ねるが、《死》は悪意かね、それとも慈悲かね? 





――慈悲……か……。





――《死》して全ては無機物へと分解され、再び土に還る。





――だが、再び無機物は有機物へと変容する。





――ちぇっ、此処で、輪廻と言ひ切りたいところだがね……。 





――へっ、魂が永劫に彷徨するか――。





――ならば何故《もの》は何かへと変容することを運命付けられてゐるのか、お前には解かるかね? 





――つまり、それはこの宇宙の、換言すれば《神》の意思じゃないのかね。





――では何故この宇宙は新たな物質を創出するべく星を誕生させ、そして死滅させるのかね? 





――へっへっ、太陽系が誕生する遥か以前に星々が死滅しなかったならば吾等人間も生まれはしなかったか――へっ。





――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも暗中模索の中、手探り状態で新たな《もの》、即ち《新体》を誕生させてゐるとすると、未完成で生まれ落ちて死する吾等《存在》共が行ふ《殺生》において未完成品が未完成品を喰らふことで完璧なる《新体》が万に一つでも誕生する《可能性》があるとするならば、《殺生》もまた《神》が未完成品たる《存在》に与へた慈悲ではないのか? 





――つまり、《死》あればこそ《新体》が創出されると? 





――太古の昔から創造と破壊は双子の兄弟のやうに、例へばヒンドゥー教のシヴァ神の如く未完成の《存在》共には表象されて来た。





――だから如何したといふのか? それは《神》が此の世の開闢の時に此の世の仕組みをさうせざるを得なかったに過ぎぬのじゃないかね?





――では何故《神》は此の世をその様にしか創出出来なかったのだらうか? 





――《神》すらも此の世に何が生まれるか解からなかった――。





――つまり、《神》すらも此の世を手探り状態でしか創出出来なかった。さうすると、新たなる存在体、即ち《新体》を誕生させてみては、その誕生してしまった《新体》がどうなるのかは《神》すらも解からず、それでも此の世に誕生してしまった《新体》はその《存在》を味はひ尽すべく全身全霊で己が《存在》の如何なるものかを体験し確認する以外にその《存在価値》がないやうに出来てゐて、未完成品に過ぎなかった《新体》が最早古びた《存在》でしかないのでそんな《存在》にはさっさと此の世から退場して貰(もら)ふべく如何しても《死》が必要だったのかもしれぬ。何故なら未だに完璧な《存在》は此の世に誕生していないからね。へっ、詰まる所、未完成品は《死》をもってその《存在》を全うするしか道は残されてゐないならば、へっ、それは或る意味《神》の無責任さでもあるが、しかし、《存在》のその《存在根拠》を《神》に全的に帰するのは今度は《存在》にとっての無責任極まりない愚行ならばだ、未完成品たる《存在》は未完成品として凛と此の世に屹立する以外、吾等未完成品の《存在》はこの宇宙に対して申し訳が立たぬとは思はぬか? 





――申し訳が立たぬ? これは異なことを言ふ。それじゃまるでこの宇宙は慈悲深き《もの》といふことじゃないか! 馬鹿が――。





――しかし、《殺生》も《死》も此の世に厳然と《存在》する。





――しかしだ、《死滅》することが定められた結局は未完成品の《存在》しか創出出来ない《神》、即ちこの宇宙は、己自身にも思ひもよらぬ《新体》が出現するのを待ち望む故に死屍累々たる《死》を用意せざるを得なかったとしてもだ、《実体》も《反体》も《反=生》も《反=死》も結局は《存在》してしまふことでその《存在》は全く報はれないのじゃないかね? 而も、己の《存在》を維持するのに《他》の《死》が必須と来てりゃあ、全く何をか況やだ。





――それでも《存在》は《死》するまで《存在》を止められない。





――さう仕組んだのは《神》自身、即ちこの宇宙自体だらう? 





(廿九の篇終はり)





2009 04/20 04:24:46 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

 高気圧の縁を高気圧からの、若しくは自己以外の外部の風に流されるままにしか動く外ない颱風は、一方で颱風内部では猛烈な風雨が渦巻く颱風のその動きは、しかし、如何見ても颱風が自律的に動いてゐるとしか見られない私の心模様を映す形で《無言》の《神》に対峙する《吾》は、自己内部の猛烈な風雨に比べると羸弱(るいじゃく)でしかない外部のその風に流されてゐるに過ぎない颱風が恰も自律的に動いてゐるやうに見えてしまふ如く、《神》から《自由》を与へられてゐる錯覚の中に、換言すれば、《神》から吹く心地良き風には無知を装ひその風を風ではなく敢へて《自由》と名付けては嬉々として、その《自由》を満喫するべく更なる《自由》を求めることで返って颱風の如く外部から吹き寄せる微風に過ぎぬ《自由》に呪縛されてゐるにも拘はらず、さうとは全く気付かなかった《吾》自身が単なる外部の心地良き微風に過ぎぬ《自由》に流されてゐるだけといふ錯誤の中に憩ってゐる大馬鹿者に過ぎないことに不意に気付いてしまふと、《吾》といふ生き物は狼狽(うろた)へるのである。その狼狽へ方は数の力を借りると此の世で最強な《存在》にも拘はらず、しかし、蟻地獄に落ちると羸弱な《単独者》に為り果てて、正に一匹の羸弱な蟻に変化してしまふ如き《存在》なのであった。





 経験則に照らすと《自由》を謳歌するには蟻地獄に落ちた《単独者》たる一匹の羸弱な蟻になる覚悟が《何か》によって強要される。それは台風の進路を予測するのに隣り合ふ高気圧のことを全く考慮せずに台風の進路を予測するといふ、換言すれば暗中の中を灯り無しに突っ走る《愚行》と同じことなのかもしれないのである。つまり、颱風が自律的に自身の意思で動いてゐると看做す《暗愚》とそれは同じで、しかし、さうとはいへ、それでも尚颱風が自己たる《吾》の意思に従ってあくまで自律的に動いてゐると看做して只管(ひたすら)自己弁護する哀れな《吾》を主張するはいいが、しかし、その実、後に残るのは只管自身内部で空転し猛烈な風雨が逆巻く己の有様だけに対峙する世界=内に閉ぢてしまった阿呆な《存在》の姿である。そしてそんな颱風の《自意識》は絶えずこんな愚問を己に発してゐる筈である。





――はて? この渦に呑み込まれる《吾》とは、一体何なのであらうか? 





と。例へば仮に颱風にも自身を客観視して已まない《異形の吾》若しくは《対自》といふ自我が芽生えてゐるならば、その《異形の吾》は、自身が最早自身が渦巻くその渦から決して出られない、恰も蟻地獄に落ちた蟻の如き自身を苦笑する外ないのである。此処で止揚などといふインチキを用ひるのは禁物である。未だ嘗て《吾》から出られた《吾》は此の世に《存在》することを許されてゐない筈だからである。さうならば、颱風もまた己からは死んでも遁れられない《異形の吾》といふ何とも悩ましい自我を抱へ込まざるを得ないのである。





――出口無し――。





 これが《異形の吾》が自身に発せられる唯一の言葉に違ひない。それは当然至極なことである。《吾》といふ《存在》は、それが何であれ、《吾》といふ《存在》から決して出られない故に、《吾》が《吾》である保証、若しくは存在根拠を辛うじて維持してゐられるのである。仮令《吾》が《他》に変化出来る魔法を《吾》が手にしたところで、結局のところ、《他》に変化せし《吾》は《吾》でしかないのである。





《吾》とは、《吾》が《吾》であることを自覚させられ、また、その出自の如何に拘はらず、《吾》は蟻地獄に落ちた一匹の蟻の如く《吾》といふ《場》から最早永劫に出られぬことを決定させられた《存在》なのかもしれない。そんな《吾》はその《存在》の、若しくは意識活動の大半を《異形の吾》の憤懣を宥(なだ)めすかすことに費やされることになるのである。その因の一部は「他人の庭はよく見える」といふ喩へ通り《他》と己を比較することからも生じるが、しかし、さうとはいへ、己といふ《存在》が自身の《存在》に満足することはあり得ず、仮に自身に満足してゐる《吾》が《存在》するとすれば、それは《吾》の怠慢でしかない。《吾》と名指された《存在》は絶えず内外から自身の《存在》を喪失するかもしれぬ恐怖に苛まれながらも《吾》を此の世に屹立させて、だがその《存在》の仕方は《吾》といふ《存在》の自棄のやんばちでしかないが、しかし、何としても自身の《存在》を崩壊の危機から救ふべく《吾》は此の世に対して、若しくは《神》に対して





――《吾》、此処に在り! 





と叫ばずにはゐられないのである。だが、一方で





――その《吾》に何の意味がある? 





と、更にぼそっと胸奥で呟く《吾》がまた《存在》するのである。スピノザ風に言へば、そのぼそっと呟いた《吾》がまた《吾》の胸奥の奥の奥に《存在》する、そして、《吾》にぼそっと呟く胸奥の奥の奥の奥の別の《吾》といふ関係が《無限》に続く、云々。それ故その《吾》とはabsurb、つまり、不合理である、と、其処で《無限》といふ《もの》へと思考の飛躍に駆られたくなる衝動もなくはないが、しかし、幾ら





――その《吾》に何の意味がある? 





と、胸奥でぼそっと呟く《吾》が《存在》しようとも、《吾》は《吾》からは逃げ出せないのである。そしてまた、





――だからそれが如何したといふのか? 





と、自身を嘲笑ふ《吾》もまた己には《存在》し、絶えず己を嘲笑してゐるのである。そな《吾》を嘲笑する《吾》自身を敢へて規定するならば、一人称でもあり、二人称でもあり、三人称でもあり得るし、更に言へば、《四人称》と名付けたくなる《脱自》すらをも何なく飛び越えてしまふ《存在様式》を持つ《吾》が《単独者》として《存在》してしまふ宿命にあるのかもしれない……。





 そして、その《四人称》の《吾》とは颱風の如く自身の内部では猛烈な風雨が逆巻く自身の渦に呑み込まれた何とも摩訶不思議な《存在》の仕方をする《吾》であり、此の世で最強の《もの》のなれの果てたる蟻地獄に落ちた一匹の羸弱な《単独者》たる蟻の如き《もの》として私には表象若しくは形象されるのであった。





(四の篇終はり)





2009 04/18 06:29:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、仮令この《自然》が、若しくはこの宇宙が、その開闢(かいびゃく)の時に戻ってその最初の最初から己自身を創り直したところで、自同律の陥穽からは遁れられない! 





――何? すると自同律は《存在》以前に既に《存在》するといふのか? 馬鹿が――。





――だから《未存在》と言ってゐるのさ。





――例へば《生》は《反=生》を《夢想》し、《死》は《反=死》を《夢想》すると看做せば、《生》と《死》が《存在》する此の世のその《生》と《死》の間(あはひ)にぽっかりと大口を開けた《パスカルの深淵》があるやうに、《反=生》と《反=死》を《夢想》せずにはゐられぬ《未存在》の世界にも此の世の《パスカルの深淵》の如き《深淵》がばっくりと大口を開けてゐると確かお前は言った筈だが、その《深淵》を棲処とする《未存在》はさうすると、既に《未存在》として《存在》、否、《未存在》してゐると? 





――下手なTautology(トートロジー)、つまり、類語反復みたいな無意味な論理立ては止めた方がいいぜ。先にも言ったが、此の世に《死》が《存在》する限り《未存在》は既にあると看做した方が《自然》だぜ。





――《死》が《死》自ら何かへの《夢想》をする故にか? ふっ、《死》こそ闇の中にじっと蹲って《未存在》を《夢想》する……か……。《存在》の何と哀れなことよ! 





――否、《存在》はこれっぽっちも哀れな《もの》である筈がない! 自分可愛さに《存在》する《もの》を憐れむことは《存在》にとって最も愚劣極まりないことで、而もそれは《存在》にとって屈辱以外の何ものでもない。その憐れみは《存在》に対しても《死》に対しても《未存在》に対しても失礼千万この上なしだぜ。ちぇっ、《存在》が《存在》を憐れむこと程気色悪いことはない! 





――だが、その気色悪いのが此の世の在り来たりの様相ではないか? 





――さうさ。だから、《存在》は《存在》に我慢がならず、《自然》は《自然》であることに我慢がならぬのだ。その象徴が《神》ではないかね? 





――《神》はその出自からして呪はれてゐると? 





――違ふかね? 





――さうするとだ、《神》もまた《存在》の塵箱だといふことか――。





――へん。《存在》の塵箱の何処が悪いのかね? 塵箱で結構ではないかね? 《存在》の塵箱とは詰まる所、闇と同義語じゃないかね? 





――闇ね……。しかし、その闇こそ闇であることに最も我慢がならぬのじゃないかね? 





――ふっふっ、その通りだ。闇は闇であることに我慢がならない。だが、さうだからこそ《存在》はやっと《存在》たることに我慢してゐるのじゃないのかね? 「闇にはなりたくない!」とね。





――へっ、己が《皮袋》内部に闇を持ってゐるくせに、「闇にはなりたくない!」とほざくこの《存在》の傲慢さは、果たして、何処にその淵源があるといふのか――? 





――その答えは簡単明瞭さ。《現在》が《存在》する故にさ。





――へっ、独り《存在》のみが周囲を《過去》若しくは《未来》に取り囲まれてぽつねんと《現在》に取り残されてゐると、《存在》は本能的に、或ひは無意識に感じてゐる、若しくはさう思ひ込まざるを得ないからか? 





――なあ、《過去》にも《未来》にもゐられず、絶えず《現在》にゐ続ける外ないこの《存在》の有様は、残酷極まりないと思はないかね? 





――それがこの宇宙の悪意の一つであると? 





――悪意でなくて何とする! 





――しかし、《現在》に取り残された《存在》は《現在》に取り残されてゐるが故に《過去》と《未来》を自在に交換してゐるぜ。《過去》に《未来》を見、《未来》に《過去》を見てゐる。





――ふっふっふっ。其処さ。因果律は《現在》に取り残された《皮袋》といふ《存在》の在り方をする《主体》においては、つまり、《主体》が必然的に隠し持たざるを得ぬ内なる闇の《特異点》では既に因果律が壊れてゐる此の世の有様に目を瞑って、《存在》はその因果律が壊れてゐるにも拘らず尚も時間を一次元的に閉ぢ込めて得意然としては、此の世の何かが少しでも解明出来たと思ひ込みたくて仕様がないくせに、はっ、しかし、《存在》は此の世を一向に直視しようとしない。それは何故だと思ふ? 





――《時間》に怯えてゐるからか……? 





(廿八の篇終はり)





2009 04/13 05:32:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ。「私」のゐない「私」もまた極楽と地獄の間を揺れ動くのさ。





――ちぇっ、《存在》はやはり確率零と一の間を揺れ動く。つまり、無と無限の間か……。詰まる所、あらゆる《存在》は無と無限の間を揺れ動かざるを得ない! 而して、それは何故か? 





――へっ、《存在》しちまってゐるからに決まってをらうが! 





――ちぇっ、この煮ても焼いても喰へない《存在》に先づ《吾》が《重なり合ひ》、そして《杳体》が《重なり合ふ》。またまた愚問だが、そもそも《杳体》とは何を淵源としてゐるのかね? 





――パスカルの深淵にもんどりうって飛び込んだ時の《自由落下》する《意識》の有様にその淵源を持つと言へば少しは解かるかな? 





――《自由落下》する《意識》の有様? 





――パスカルの深淵とは特異点の別称さ。





――さうお前は言ひ切れるのかね、特異点の別称だと? 





――ああ。ここでさう言ひ切る外あるまい。パスカルの深淵が特異点の別称だと。





――つまり、その《特異点》にもんどりうって飛び込んだ《存在》の《自意識》が《自由落下》する様が《杳体》の尻尾を捕まへる鍵といふ訳かね? 





――へっへっ。この《意識》の《自故落下》が曲者なんだ。





――ふむ。《意識》が《自由落下》するとは《自意識》が《吾》からずり落ちることを指してゐるのかね? 





――さう解釈しても別に構はぬが、《吾》が「私」より先に《自由落下》してゐるとしたならば、へっ、「私」は永劫に追ひ付けない《吾》をそれでも尚追ふ構図もあり得るぜ。





――ふむ。《吾》が「私」より先に既に《自由落下》してゐるか……。ふっふっふっ。哀しき哉、《存在》は! しかしだ、未だ解からぬぞ、そのお前が唱へる《杳体》が! 





――《杳体》は杳として知れぬ何かだと最初に言った筈だがね。





――それさ。杳として知れぬ《もの》が《存在》の態を為し得るのか? 





――へっ、面白くなってきたぜ。お前は今《杳体》を《もの》と形容したのに気付かなかったのかね? ふっふっ、堂々巡りの始まりか――。だから、《杳体》が《存在》の態を為すか為さぬかは《主体》次第だとこれまた最初に言った筈だがね。





――それではその《主体》とは何を指しての《主体》とお前は言ふのか? 





――ふっふっふっ。これも最初に言った筈だが、《主体》とは此の世の森羅万象が自身が《存在》する為には如何あっても持ち堪へなければならぬ《もの》さ。





――すると《存在》は全てそれが何であらうと《自意識》を持つと? 





――ああ、さうさ。《存在》する《もの》はそれが何であれ、哀しき哉、《自意識》を持ってしまふ。





――これも愚問だが、《杳体》にとって神とは何なのだ? 





――藪から棒に何だね? 神と来たか……。さて、何としたものかね、神は――。





――神は《杳体》ではないのか? 





――神は《杳体》でも構はないし《杳体》でなくても構はない、それが神さ。





――神もまた蜃気楼の亜種かね? 





――蜃気楼といふよりもVision(ヴィジョン)、つまり、《幻影》の類に相違ない。





――《幻影》? 





――《幻影》といっても幻の影だぜ。何の事だか察しがつく筈だが……。





――幻に影があるといふことはその幻は《実体》といふことか――? 





――さう。幻といふ《実体》、それが神さ。





――それでは幻といふけれど、それは実際のところ、何の幻のことかね? 





――ぷふぃ。《私自身》の幻に決まってをらうが。外に何が考へられるといふんだね? 





――ぶはっ。《私自身》の幻が神? 馬鹿らしい。神とはそもそも自然の別称ではないのかね? 





――自然もまたそれが《存在》する以上、《自意識》を持つのは自明の理と考へられる……。つまり、何もかもが《私自身》に帰すのさ。更に言へば神とは彼の世にゐる《私自身》といふ《実体》の幻さ。





――彼の世にゐる《私自身》の《実体》? 彼の世への《私自身》の《表象》の投影ではなく、《私自身》の《実体》の幻と? 





――彼の世に《私自身》の《表象》を投影したところで、ちぇっ、それは虚しいだけさ。





(四 終はり)





2009 04/11 04:33:29 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――お前は《他=吾》も《反=生》も《反=死》も《実体》も《反体》も何もかも全てが《存在》といふ泡沫の夢に過ぎぬと、まるで達観でもしたかの如く考へて鳧(けり)をつけたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が泡沫の夢の如き《もの》と辛うじて呟けるのは今正に死に行く寸前の《存在》共のみだぜ。未だ生き永らへる《存在》は《存在》といふ《特異点》をその内部に隠し持ってゐる故の《深淵》をまるで極楽の如き棲処にしちゃ、この悪意に満ちた宇宙、俺はそれを《神》と名付けるが、その宇宙たる《神》の思ふ壺だぜ。





――へっ、所詮このちっぽけな《存在》がこの宇宙といふ《神》に反旗を翻したところで高が知れてるぜ。





――だから《神》の摂理に従へと? 





――《存在》もまた《自然》ではないのかね? 





――《自然》は《特異点》と同様、《存在》の塵箱じゃないぜ。





――それじゃあ、あくまでも《存在》は未だ生き永らへる限り《反=自然》であり続けろと? 





――《存在》はこの宇宙からも《自然》からも将又《神》からも自存することを自棄のやんばちに、そして遮二無二願ひ、またさうであることで漸く「《吾》は《吾》なり」とぼそっと呟ける宿命を背負ってゐるのさ。





――何に背負はされてゐるといふのか? 





――へっへっへっ、決まってをらうが、《自然》さ。





――《自然》もまた《自然》であることに我慢がならぬと、つまり、《自然》もまた自同律から遁れられないと? 





――当然だらう。《自然》が此の世で最も自身を憎悪してゐる筈だぜ。





――ぶはっはっはっ。





――うふっふっふっ。





――《自然》自らして無秩序を望んでゐるというか――。





――渾沌の中からしか《新体》は現はれやしないぜ。





――《特異点》といふ《深淵》で《実体》と《反体》は対消滅を遂げてSoliton(ソリトン)の如き未知の孤立波を敢へて《新体》と呼ぶならば、自同律と因果律が壊れた《特異点》を内部に隠し持たざるを得ぬ《存在》のその矛盾した有様に端的に表はれるこの宇宙たる《神》の悪意を弾劾せずにはゐられぬ《主体》が、そんな風に《存在》するのは至極当然のことで、また、《実体》と《反体》が絶えず対消滅する渾沌とした《特異点》を先験的に授けられてしまった《存在》が、己の《存在様式》を憎悪するのは尚更《自然》なことであって、而も《存在》は必ず自身を憎悪せずにはゐられぬやうに仕組まれてしまってゐるのさ。そして、あらゆる《存在》は捩ぢれに捩ぢれ、最早捩ぢ切れるまでの矛盾した自同律に懊悩するのは《存在》の宿命だ。





――《自然》もまた《他=吾》を渇仰してゐるといふのか? 





――《自然》こそ《未存在》であり而も《他=吾》であることを切望してゐる。





――つまり、それは渾沌といふことだね? 





――へっ、《自然》が自らに我慢がならずそれ故この《自然》を最初から創り直したいと望んでゐるとしたならば、へっ、《存在》は自ら置かれたそんな状況を最早嗤ふしかないだらう? 





――《自然》はやはり己に我慢がならず最初からこの《自然》を創り直したいと? さうすると、やれ《主体》だ、やれ《客体》だ、やれ《対自》だ、やれ《脱自》だ、やれ《差異》だ、やれ《地下茎》だとほざくこと自体が元来馬鹿馬鹿しいことに違ひない! だが、その馬鹿馬鹿しいことに懊悩せざるを得ぬのが此の世に《存在》する《もの》全ての宿命なのか――。





――《存在》とは元来馬鹿馬鹿しい《もの》と相場が決まってゐるのさ。





――つまり、《存在》は何か別の《もの》へと変容することを先験的に課されてゐると? 





――先験的にかどうかは解からぬが、少なくとも現実においては《存在》する《もの》全て別の何かへと変容する《夢想》を等しく抱いてゐるのは間違ひない。





――それは《死》ではないのかね? 





――いや、決して《死》なんかじゃない! 





――それは《自然》自らがこの《自然》を最初から創り直したいと切望してゐることにその淵源があると? 





(廿七の篇終はり)





2009 04/06 04:53:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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…………寄せては返す波打ち際の如く、《過去》若しくは《未来》たる此の世の中にぶち込まれ、己自身は伸縮を繰り返しながら、それが真だとはこれっぽっちも信じてゐないにも拘らず、しかし、さうだから尚更それが己の自在感かもしれぬと敢へて錯覚しつつも、此の世の中で唯一《現在》たる《皮袋》に蔽はれし《吾》は、さうして独り《孤独》を失念する為に《過去》若しくは《未来》としてしか現前に現はれない《現実》たる此の世から遁走することを余儀なくされ、そして、そんな宿命と対峙するのを絶えず回避し続けては、挙句の果てに此の世の《宇宙》の涯たる《他》の存在に怯える醜態を未来永劫に亙って噛み締めなければならぬ《個時空》たる《吾》は、その《個時空》といふ存在の水際に蹲る屈辱を結局は味はひ尽くさねばならぬ宿命を背負はざるを得ぬのかもしれぬ…………。





…………





…………





――さてね? これは異なことを言ふ。《個時空》たる《主体》が《パスカルの深淵》に飛び込み、その《深淵》の中を自由落下し続ければ、やがては質量零でなければ決して至れない光速度をひょんなことに手にしてしまったその瞬間、《個時空》たる《主体》は「吾、然り」と快哉を上げて《吾》ならざる《吾》といふ《無私》の《主体》へ相転移を成し遂げるのではないかね? 





――へっ、何を寝ぼけたことをぬかしをるか! 或る臨界を超えてしまった《主体》は最早後戻りの出来ない地獄へ踏み込む外ないんだぜ。





――地獄ね。光速を獲得した《個時空》たる《主体》は、さて、如何なる地獄へ迷ひ込むか……。





――《吾》が絶えず《吾》から逃げる摩訶不思議な現象に懊悩する無間地獄さ。





――はて、《吾》が絶えず《吾》から逃げることは、《無私》が成し遂げられた正に極楽ではないかね? 





――お前は、《吾》であることを断念できるかね? 





――ふむ。断念か……。それは難問だぜ。





――さう、難問だ。しかし、今現在かうして質量がある《吾》が質量零の光へ《発散》する刹那、《吾》は未来永劫《吾》を見失ふ悲哀を味はひ尽くさねばならぬのだ。





――それは《吾》が此の世全体に偏在することではないのかね? 





――偏在? 





――さう、《個時空》たる《主体》が此の世に偏在する。





――へっ、それは幻想に過ぎないぜ。《主体》は《吾》がこの《皮袋》に過ぎぬ故に《吾》を《吾》と辛うじて認識してゐるに過ぎぬのさ。その《皮袋》に過ぎぬ《吾》が質量零の光となって此の世に偏在するといふ、其処には質量の有無の壁を超えなければならぬ矛盾が《存在》するがその矛盾を、さて、この《吾》は超越出来ると思ふかい? 





――矛盾の上に徹底的に論理的な縄梯子を、へっ、立てろと? 





――さうさ。非連続が日常茶飯事といふのが此の世の常としてもだ、その非連続を徹底した論理でもって踏み越えなければならぬ矛盾を先験的に内包しながらも、見掛け上で構はぬが、そんな一見矛盾でない論理でもって此の世を捩じ伏せぬ限り、《パスカルの深淵》に自由落下し続ける《個時空》たる《主体》に、光となりて此の世に偏在する《無私》の境地など訪れる筈がない! 





――つまり、質量のある《皮袋》に過ぎぬ《個時空》たる《主体》が、何時までもその《吾》にしがみ付いてゐると、それは《他》を呑み込み何食はぬ顔で破滅へと導く巨大Black hole(ブラックホール)となって醜悪極まりない《吾》のみが拡大に拡大を続け、そして何処までも重い質量を持ってしまふ《「孤」時空》たる《主体》が独りぽつねんと存在する何とも気色悪い孤独な世界が出現すると? 





――それが詰まる所、《吾》のみが肥大化するといふ諸悪の根源の一つだ。《個時空》たる《主体》が《吾》を断念するといふ不可能事に或る可能性を見つけずして《パスカルの深淵》に飛び込む愚劣をし続ける《吾》が、へっ、光となりて此の世を偏在するだと? 馬鹿も休み休み言へ! 





――それでも《パスカルの深淵》を自由落下する《個時空》たる《主体》は、つまり、或る臨界を超えてしまった刹那、無理矢理にでも光へと相転移してしまふのではないのかね? 





――それが愚劣だと言ふのだ。《吾》はそれを解脱だと称してゐやがる。無理矢理非連続なる存在を《吾》のまま飛び越えてしまふ、つまり、此の世といふ宇宙の涯を軽々しく飛び越えてしまってせせら笑ふのだ、ちぇっ、虫唾が走るぜ。





――《吾》が《吾》を断念出来ぬ事がそれ程醜悪かね? 





(四の篇終はり)





2009 04/04 07:26:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それは詰まる所《生者》の論理でしかないしじゃないか……これは……自同律とも深く関はってゐる筈だが……《死》は《死》において自ら《剿滅》を《生》と同様に約束されてゐるのかい? 何故って《死》も厳然として此の世に《存在》する《もの》の一つの様相だからさ。《死》が自らの《剿滅》を渇望、若しくは葛藤してゐるとお前は考へてゐるのかい? 





――ふっ、当然《死》は自らの《死》についてあれやこれやと自ら思ひ巡らしてゐる筈さ。さっき言った通り、《死》もまた《夢》を見る……。





――ふっふっふっ、それは……どんな《夢》だい? 





――《死》自ら《死滅》するといふ《夢》の筈だ。





――ぶはっはっはっはっ。《死》が《死滅》するとは何といふ言い種だね? はて、《死》の《死滅》とは何を意味するのかい? 





――それは《生》と言ひたいところだが、それを敢へて言葉で言へば《反=死》といふことさ。





――《反=死》? 《反体》、《新体》、《他=吾》と来て今度は《反=死》だと? 《死》が《夢想》するその《反=死》とは一体何かね? 





――《生》と《死》の間(あはひ)に大口を開けた《深淵》を棲処とした《未存在》のことさ。





――《未存在》? それは《実体》若しくは《反体》が《存在》することと如何違ふのかね? 





――字義通り、未だ《存在》に至らぬ《もの》のことさ。





――へっ、《もの》と言ふのだから《未存在》も結局は《存在》の亜種に過ぎないのじゃないかね? 





――《死》の《夢想》だぜ! 《死》が《もの》を《夢想》してもちっとも不思議じゃない。むしろ《死》が《存在》を《夢想》すると考へるのが《自然》だが、しかし、《死》は最早再び《死》に至るしかない《存在》を《夢想》することはない。





――それで《未存在》だと? 





――ふっ、《未存在》は《生》と《死》を自在に行き交ふ永劫の相をした何かさ。





――《未存在》が永劫? それは《未存在》なる《もの》が未来永劫に亙って《存在》するといふことかね? 





――《存在》はしない。唯、《未存在》であり続けるのみさ。つまり、それが《反=死》だ。





――《反=死》は《生》ではないのか? 





――否! 《生》と《死》を自在に行き交ふ何かさ。





――それが未来永劫に亙ってあり続ける? あり続けるといふからにはそれは結局のところ《存在》の派生物ではないのか? 





――ふっ、また堂々巡りだ、へっ。先にも言った通り内部に《特異点》を隠し持ってゐる《存在》は《死》を必ず内包してゐる。ふっふっ。再び死すべき運命にある《存在》を《死》が《夢想》すると思ふかい? そんな筈はなからう。





――つまり、《存在》は必ず《死滅》若しくは《剿滅》する《もの》だから、未来永劫に亙ってあり続ける《反=死》たる《未存在》なるこれまた摩訶不思議な《もの》をでっち上げた訳か――。ちぇっ、《反=死》は《反=生》ではないのかい? 





――正確を期すると《未存在》は《生》と《死》と《反=死》と《反=生》の間(あはひ)にぽっかりと空いた《深淵》を棲処とする何かさ。





――何を戯(たは)けたことを言ってをるか! 《反=生》も《反=死》も《実体》も《反体》も《生》も《死》も全て《存在》を形象する《もの》でないか? 





――それで? 





――それでだと――。ちぇっ、忌々しい! 





――へっへっ。





――つまり、何事も《深淵》に帰すことで自分が可愛くと仕様がないといふのがお前の考へ方だぜ。それじゃあ、この悪意に満ちた宇宙にしょん便も引っ掛けられやしないぜ。





――天に唾を吐いてゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、それでも《反=死》も《反=生》も《生》も《死》も《実体》も《反体》も全ては此の世に《特異点》を隠し持ちながらあり続ける《深淵》に違ひない筈だ。





――それじゃあ、《他=吾》たる《吾》の出現なんぞ望めっこないぜ。





――別に《他=吾》なぞ出現せずとも構はないじゃないか。





(廿六の篇終はり)





2009 03/30 06:28:40 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逃げ道など探さずに敢然と《存在》が《存在》する《現実》に対峙してみたら如何かね? 





――ちぇっ、それが至難の業だと知ってゐるくせに! 





――はて、何故《現実》に対峙することが至難の業なのかね? 





――絶えず《現実》といふ《自然》に《吾》が試されるからさ。





――ふっふっふっ。《吾》とはそんなにも繊細な《存在》なのかね? 





 その時《そいつ》は眼球をゆっくりと此方に向け、私の内界全てを一瞥の下に暴き出したかの如く《そいつ》はしたり顔で私を嗤ったのであった。





――それが不可能だと十二分に解かってゐるくせに《吾》は《吾》ならざる《吾》を絶えず渇望してゐなければ最早一時も《吾》たることに我慢がならぬ、それでゐて《吾》ならざる《吾》に対しては疑念に満ち満ちた、それは何とも厄介な代物なのさ、《吾》とは。





――《吾》は《吾》に対してそんなに厄介な《もの》かね? 





――ああ、《吾》は一筋縄ではゐかぬ厄介この上ない代物だ。就中(なかんづく)《吾》が《吾》に対して抱く猜疑心、こいつは何とも度し難い――。





 《そいつ》はその刹那、にたりと嗤ひ、かう呟いたのであった。





――《吾》とはその《存在》の因子として先験的に猜疑心を授けられてゐる《存在》なのかね? 





――《吾》が滅する定めである限りさうに違ひない。





――つまり、その何とも厄介な代物を《吾》と名付けたはいいが、その実《吾》であることに我慢がならず、しかし、さうでありながらも実のところは《吾》は絶えず《吾》の壊滅に怯えてゐるのじゃないかね? 





――だからといって《吾》は《吾》であることを止められない。





――くっくっくっくっ。《吾》とは随分身勝手な《存在》なのだね。くっくっくっくっ。《吾》が《吾》であることが我慢ならず、それでゐて《吾》の壊滅には絶えず怯えてゐる。ちぇっ、何とも《愚劣》極まりない! 





 《そいつ》は吐き捨てるやうに、しかしながらそれでゐて《そいつ》自身に向かって「《愚劣》極まりない!」と言ったかのやうであった。





――《存在》は詰まる所《愚劣》な《もの》じゃないかね? 





――くっくっくっくっ。その通りだ。《存在》はそもそも《愚劣》極まりない! 《愚劣》極まりないから論理は尚更矛盾を孕んでゐなければならぬのさ。





――つまり、《存在》そのものが矛盾であると? 





――へっ、何処も彼処も矛盾だらけじゃないか! 





――だからと言って《吾》であることを一時も止められやしないんだぜ。嗚呼、何たる不合理! 





――そもそもお前の言ふ合理とは何なのかね? つまり、一=一が成り立てば、それが合理なのかね? 





 私は其処で、私の頭蓋内の闇にぽつねんと呪文の如く『吾=吾』といふ等式を思ひ浮かべたが、それは束の間のことで、直ぐ様『吾=吾』といふ《愚劣》極まりない等式としてのその表象を唾棄したのであった。





――自同律が諸悪の根元だといふことはお前にも自明のことだね? 





 《そいつ》は私を嘲笑ふやうにさう呟いたのであった。





――しかし、此の世に《存在》する限りにおいては自同律は持ち切らないといけない。それがどんなに不快であってもだ。





――くっくっくっくっ。別に持ち切らなくても構はないのじゃないかね? 





――如何して? 





――如何足掻いたところで《吾》は《吾》でしかないからさ。





――《吾》が《吾》であることを全肯定せよと? 





――ああ。





――へっ。それは《吾》が《吾》であることを全否定せよと言ってゐるのと同じことじゃないかね? 





――くっくっくっくっ。その通りさ。土台《吾》が《吾》であることを全肯定するには先づ《吾》が《吾》を全否定し尽くさねばその糸口すら見つからない。くっくっくっくっ。《吾》そのものがこれ程矛盾に満ちてゐるにも拘はらず、《吾》に対して合理を求めるのは最も不合理この上ないことじゃないかね? 





――「不合理故に吾信ず」――。





――さう、《吾》は先づ《吾》を信じてみたら如何かね? 





――ふっ、《吾》を信ずる? これは異なことを言ふ。「不合理故に吾信ず」といふ箴言は、《存在》のどん詰まりに追い込まれたその《存在》の断末魔の如き呻き声でしかないのさ。つまり、《吾》とは《吾》に対して信が置けない《愚劣》極まりない、つまり、《吾》対しては猜疑心の塊でしかないのさ。





(四の篇終はり)





2009 03/28 06:51:48 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ところで、《吾》以外全て《吾》といふ状況でも、さて、《吾》は己を《吾》と言ひ切る覚悟はあると思ふかい? 





――つまり、《吾》は無限を持ち切れると思ふといふことか? ……ふむ……解からないな……《吾》が《特異点》において《吾》であると言ひ切れるかどうかは……そもそも……《特異点》では《吾》といふ概念を忘失してゐるんじゃないかね? 





――するとだ、《特異点》では《吾》なることのみを渇望する、所謂、主客転倒した《桃源郷》が実現してゐるといふことか? 





――我執の呪縛からは少なくとも遁れられる……か? 





――…………。





――《吾》なれざる《吾》、つまり、《他=吾》が《吾》を渇望することは我執ではないのか? 





――へっ、我執もへったくれもない! 《吾》が《吾》でないと解かった途端、その《吾》、即ち《他=吾》は狼狽(うろた)へる。所詮、《吾》、即ち《他=吾》とはそんな《もの》さ。





――確かに《特異点》では《他=吾》の《吾》は『何が「私」だ!』と右往左往するに違ひない。しかし、それも《吾》が《他=吾》へと壊滅するまでのほんの一瞬に過ぎぬ。《吾》が《他=吾》へと壊滅すると『全てが「吾」なり!』といふ境地へ《吾》は一気に相転移を遂げ、そして《他=吾》は《特異点》の森羅万象に溶解する。





――ふっ、つまり、「《吾》は無限なり」と呟く《もの》だらけの《全体》――この言ひ方は気色悪い――が《特異点》には辛うじて《存在》する。へっ、《特異点》で「吾」と呟く《もの》は既に恥辱でしかないのさ! 





――それはあらゆる《もの》が《全体》で《重なり合ふ》といふことかね? 





――ちぇっ、逆に尋ねるが、その《全体》とはそもそも何だと思ふかね? 





――《特異点》のことではないのか? 





――《特異点》はその字義の通り《点》でしかないのだぜ。





――しかし、無限を呑み込んでゐる《点》だ。





――だから如何したといふのかね? 所詮、《特異点》は単なる《点》に過ぎぬ。しかし、それでも《特異点》は《全体》なのだ。ちぇっ。





――…………。





――その《点》を求めて有限なる《もの》全ては《夢想》する。「さて、《吾》とは何ぞや?」とね。





――《存在》の塵箱とどちらが言ひ出したかは忘れてしまったが、しかし、どちらが言ったにせよそんなことは構ひやしない。つまり、だから《特異点》は《存在》の塵箱なのさ。





――ふむ。有限界では《特異点》はパンドラの箱の如く《点》に封じ込めておかなければ《存在》が一時も《存在》足り得ぬ禁忌な《もの》か……。





――ふっ、しかし、無限の相においては《特異点》は《点》ではなく《全体》へと変化する……か……ちぇっ、それは俺の単なる願望でしかない! 





――ふっ、確かにさうに違ひないが、しかし、この悪意に満ちた宇宙をちらっとでも震へ上がらせるには《存在》は無と無限を掌中にする《夢想》を抱かずして如何する?  





――ふっ、それが《他=吾》の正体かね? 





――ふん、嗤ひたければ嗤ふがいいさ。それでも《他=吾》の相が必ず此の世に出現する筈だ。否、出現させねばならぬのだ! 





――ふむ。それ程この宇宙は悪意に満ちてゐるかね? 





――へっ、また堂々巡りだぜ。先にも言った通りこの宇宙の悪意はそれはそれは酷いものだぜ。





――つまり、それは《他》の《死》なくして《吾》の《存在》はあり得ぬといふことを指してのことだらうが、しかし、その死の大海にぽつねんと浮かぶ小島の如き《存在》共は、裏を返せばその《死》をも代表した何かに違ひない。さうは思はぬか? 





――つまり、《生》と《死》の相は地続きだと? 





――《存在》してしまった《もの》は如何足掻いても《剿滅》を先験的に内包してゐる、有限故にな。つまり、《存在》とは《死》といふものをその《存在》が誕生する以前に既に約束されてしまってゐる哀れな何かといふことだ、ちぇっ。





(廿五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp





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2009 03/23 04:42:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶがは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじっと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》することを余儀なくせざるを得ない彼にとって、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであったが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となって彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであった。





…………





…………





――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか? 





――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする? 





――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。





――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい? 





――ああ。ひと度《存在》してしまったならば仕方がないんじゃないか。





――仕方がないだと? お前はさうやって《存在》に服従するつもりなのかい? 





――《存在》が自ら《存在》することを受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であってもな。





――それは、つまり、《死》が怖いからかね? 





――へっ、《死》を《存在》自らが決めちゃならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》することの宿業を味はひ尽くさなければならない義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。





――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと? 





――ふっ、違ふかね? 





――くぃぃぃぃぃぃんんんんんんん〜。





 また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げっぷ》か《溜息》か、将又(はたまた)《嗚咽》かがhowling(ハウリング)を起こして彼の耳を劈くのであった。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかった。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howling(ハウリング)を起こすことで、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかったのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまった《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかったのであった。





 実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やっとのことで捕まへた《吾》をごくりとひと呑みすることで《吾》は《吾》であることを辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送ってゐたのであった。





…………





…………





――《存在》は全て《吾》であることに懊悩してゐるのであらうか? 





――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》であることに懊悩する《存在》は《存在》する。





――ふっ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうって次々と飛び込んでゐるのだらう……。さうすることで辛うじて《吾》は《吾》であることを堪へられる。ちぇっ、「不合理故に吾信ず」か――。





――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か? 





――何を藪から棒に。





――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい? 





――それは天地左右からの解放といふことかね? 





――へっ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。





――重力からの仮初の解放? へっ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない! 





――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね? 





――…………。





――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのじゃないかね? 





――へっ、その通りだ。





――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう? 





――ちぇっ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れたことによる《至福》といふことかね? 





――へっ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふことの皮肉以外の何ものでもないさ。





(四 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp





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2009 03/21 06:14:48 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――一つ尋ねるが、夢を見てゐるのが己自身だといふ証左は何処にあるかね? 





――ふむ……無いか……。





――さうさ。夢において夢を見てゐるのが自分自身だといふ根拠は何処にも無い。





――しかし、それは裏を返せば私自身が何処にも偏在出来るといふことと同じじゃないかね? 





――ぶはっはっはっはっ。成程、夢においては《吾》は何処にも出現可能、否、夢自体が《吾》になって仕舞ってゐるか――。ぶはっはっはっはっ。つまり、お前は夢において自同律の不快を克服出来る鍵があると考へてゐるのか。しかし、もうそれは現代では通用しないぜ。確かに夢は自同律の縺れを解く鍵かもしれぬが、所詮、夢は夢だ。《吾》が《特異点》に飛び込むのを止められやしない。現に俺もお前もかうして《特異点》に飛び込んでゐるじゃないかね? 





――はて、俺が何時《特異点》に飛び込んだかとんと合点がいかぬが、それでも、ちぇっ、まあ、構ひやしない! 其処でだ、夢見と《特異点》への投身の違ひは何かね? 





――夢見は悦楽に成り得るが《特異点》への投身は地獄の責苦以外の何ものでもない。





――どうして地獄の責苦と言ひ切れるのかね? 





――自同律と因果律が壊れてゐるからさ。





――さうすると、其処では、つまり、《特異点》では《吾》は《吾》足り得るのか? 





――多分、《特異点》ではそもそも《吾》が《存在》しない筈さ。





――《吾》が《存在》しない? へっ、《特異点》では何ものも《存在》出来ないのじゃないかね? 





――ふむ。多分、《存在》は無と無限と同等の何かに変質してゐるのかもしれぬが、しかし、《特異点》にも、例へば分数を持ち出して語ればだ、零分の一を考へれば解かるやうに数式で零分の一と書ける以上、《一》を初めとして数多の数字が形式的には《存在》し得る。つまり、《特異点》にあっても《存在》は《存在》し得るのさ。





――其処でだ、零の零乗は果たして《一》に《収束》するかね? 





――或ひは《一》に《収束》するかもしれぬが、実際の処は、正直言って不明さ。へっ、零乗を持ち出して《死》を問ひたいのだらうが、それは《特異点》の場合無意味だぜ。





――∞の零乗は《一》に《収束》するのだらうか? 





――それも不明だ。





――さうすると《特異点》で《存在》するその《もの》とは一体何を暗示するのかね? 





――多分、其処では《吾》が《吾》と念じた途端、《吾》なる《もの》は無際限の《面》を見せる無限の《異形の吾》が《吾》に連座するといふ、摩訶不思議な無限相をした《吾》が出現してゐる筈さ。





――つまり、それは《一》即ち無、若しくは無限といふことなのか? 





――ふっふっふっ。如何あっても《特異点》に《吾》を《存在》させたいやうだが、自同律と因果律が壊れてゐる《特異点》で《吾》を問ふのは余り意味がないのじゃないかな。つまり、《特異点》では「吾思ふ、故に吾と他が無限にありき」さ。





――へっへっへっ、つまり、《特異点》では《吾》といふ穴凹が無数に開いてゐて、《吾》は即ち《吾》を解脱せし《吾》は、《外側》からその《吾》の穴凹をまじまじと眺めてゐるが、へっへっ、《吾》はそれが《吾》だとは一向に気付けない《他=吾》に変質してゐる。





――《他=吾》? 





――つまり、《吾》以外全てが《吾》といふ意味さ。





――《吾》以外の全てが《吾》? ふむ。《吾》=《吾》が成り立たない、つまり、《吾》≠《吾》であることを強ひられる処といふことか……。





(廿四終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 03/16 02:46:11 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 さて、闇の《吾》とは一体何であるのか改めて考へてみると、それは誠に奇妙な《吾》としか形容できない全くの無様な《吾》なのである。例へば私が私の事を《吾》と名指してゐる以上、それは何かしらの表象上の《面(おもて)》を持った何かに違ひないのであるが、しかし、私の意識の深層のところ、つまり、無意識のところでは《吾》は《面》のない闇でしかないといふことなのかもしれなかったのである。問題はそのことをこの私が持ち堪へられるかといふことなのかもしれなかったが、《闇の吾》の夢を見て嗤ってゐる処を見ると、《吾》が闇でしかないことを私は一応納得し、而も《闇の吾》を楽しんでゐるのは間違ひのないことであった。





 其処で一つの疑念が湧いて来るのである。





――夢の中での《吾》とは一体何であるのか? 





 更に言へばそもそも夢は私の頭蓋内の闇で自己完結してゐるものなのであらうか、それとも夢見の私は外界にも開かれた、つまり、この宇宙の一部として《他》と繋がった《吾》として夢といふ世界を表象してゐるのであらうか。仮に夢が私を容れる世界といふ器として表象されてゐるのであるならば夢もまた世界である以上、《他》たる外部と繋がった何かに違ひないと考へるのが妥当である。換言すると、夢見中の私は無意識裡に《他者》、若しくは《他》と感応し、若しくは共鳴し、更に言へば《他者》の見てゐる夢の世界を共有し、若しくは《他者》の見てゐる夢に私が出現し、もしかすると《他者》の夢を私も見てゐるのではないかといふ疑念が湧いて来るのである。つまり、夢を見てゐるのが私である保証は何処にも無いのである。





――これは異なことを言ふ! 





といふ反論が私の胸奥に即座に湧き出るのであるが、しかし、よくよく考へてみると、夢が私のものである保証は何処にも無い、つまり、夢といふ《他》との共有の場に私が夢見自訪ねると考へられなくもないのである。





 ここで知ったかぶりをしてユングの集合的無意識や元型など持ち出さないが、しかし、それにしても私が夢の事を思ふ時必ず私は「夢を《他》から間借りしてゐる」といふ感覚に捉はれるのは如何したことであらうか。この感覚は既に幼少時に感じてゐたものであるが、私が夢を見るときに何時も朧に感じてゐるのは《他》の夢に御邪魔してゐるといふ感覚なのである。この感覚は如何ともし難く、私に夢への全的な没入を何時も躊躇はせる原因なのだが、私は夢を見てゐる私を必ず朧に認識してゐて、「あ、これは夢だな」と知りつつ或る意味第三者的に私は夢を見てゐるのであった。





――ちぇっ、また夢だぜ。





 かう呟く私が夢見時に必ず存在するのである。これは夢を見るものにとっては興醒め以外の何ものでもなく、現実では因果律に縛られて一次元の紐の如く束縛され捩じり巻かれてゐた時間がその紐の捩じりを解かれ、あらゆる事象が同位相に置かれたかのやうに同時多発的に出来事が発生する、或る種時間が一次元から解放された奇妙奇天烈な世界が展開する夢において、所謂《対自》の《吾》が私の頭蓋内に存在することは、最早夢が夢であることを自ら断念することを意味し、其処では深々と呼吸をしながら深々と夢に耽溺する深い眠りの中で無意識なる《吾》が出現する筈の夢世界は、夢ならではの変幻自在さを喪失してをり、その当然の帰結として、私の眠りは総じて浅いのが常であった。つまり、私の夢は因果律からちっとも解放されずに、それは多分に覚醒時の表象作用に似たものに違ひないのである。





 さて、其処で《闇の夢》である。私は《闇の夢》を見てゐる時、稀ではあるが深い深い眠りに陥る時がある。それはこんな風なのである。何時もの様に私は夢を見てゐる私を朧に認識しながら、私は一息深々と息を吸い込むと徐に闇の中へと投身するのである。それ以降は《対自》の《吾》は抹消され、私は意識を失ったかの如く《闇の夢》の中に埋没するのであった。最早さうなると何かを表象してゐる夢ならではの正に夢を見てゐるかどうかは不明瞭となり、《闇の夢》の中では無意識なる《吾》が夢世界に巻き込まれながら、因果律の束縛から解かれた、所謂《特異点》の世界の《亜種》を疑似体験してゐる筈なのである。





 夢は因果律の成立しない世界が存在する、つまり、《特異点》の世界が存在することを何となく示唆するもので、私の場合それは《闇の夢》なのであった。例へば、《存在》は絶えず変容することを世界に強要され、世界もまた変容することを《物自体》に強要されてゐると仮定すると、《存在》は夢を見るように《物自体》に仕組まれてゐると看做せなくもないのである。つまり、《存在》する《もの》全ては夢を見、換言すれば《存在》はその内部に因果律が成立しない《特異点》を隠し持ってゐると仮定できなくもない、更に言へば、《存在》は《特異点》を必ず持ってゐると看做すことが自然なことに思へなくもないのである。





(二の篇終はり)







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2009 03/14 05:35:09 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっ、《主体内部》では相変はらず《実体》と《反体》が対消滅を繰り返し、絶えず《魂》たるSolitonの如き未知の孤立波を発し続けるか――。





――つまり、《特異点》は湮滅出来ぬのさ。





――しかし、剥き出しの《特異点》に果たして《主体》が対峙出来るかね? 





――別に対峙する必要なんかこれっぽっちもない。《特異点》の《深淵》にもんどりうって飛び込んじまふがいいのさ。





――ちぇっ、また堂々巡りだ! 





 彼の闇の視界に浮き上がった内発する淡き淡き淡き光の帳は、その刹那、二つに分裂し、淡き淡き淡き光の塊となって彼の視界の中をゆっくりと反時計回りに旋回し始めたのであった。





――一つ尋ねるが、《吾》を断罪する《吾》とは何なのかね? 





――へっ、さう来たか――。《吾》を断罪する《吾》とは《私未然》の《吾》になれざる死屍累々の《吾》共だ。





――つまり、《吾》が《存在》してしまったが為にその《存在》することを許されぬ未出現の《もの》達か――。





――《存在》することがそもそも殺生の上にしか成り立たない。《生》と《死》が表裏一体の如く《存在》もまた《殺戮》と表裏一体なのさ。ならば《存在》は自ら己を断罪せずしてぬくぬくと《存在》することが可能だと思ふかい? 俺には如何してもさうは思へぬのだ。《存在》は自らを自らの手を汚して断罪してこそその生きる活路がやっと見出せる筈だ。また《存在》はそれが何であれさうするやうに元来仕組まれて《存在》たることを許されてゐるのさ。





――辛うじてだらう? 辛うじて《存在》は《存在》たることを許されてゐる……。





――へっ、何に許されてゐると思ふ? 





――神か? 





――神でなければ? 





――無と無限を呑み込んだ虚無か? 





――端的に言っちまへよ。





――《死》さ。つまり、《存在》は《存在》たることを断罪することで辛うじて《死》から許される――。





――ふっ、《死》もまた《夢》を見ると思ふかい? 





――何の為に? 





――《死》が《死》ならざる何かへ変容する為にさ。





――《死》もまた《存在》の一位相に過ぎぬと? 





――《死》は厳然と此の世に《存在》する! 《生》は《他》の《死》を喰らって《生》たることを維持してゐる故に《生》は必ず《死》を内包してゐる。





――へっ、《死》もまた《特異点》だと? 





――違ふかね? 





――ふっふっふっ。多分《死》もまた《特異点》なのだらう。ところで《特異点》は《存在》の塵箱(ごみばこ)なのかい? 





――或ひはさうかもしれぬが、ひと度自同律と因果律に疑念を抱いてしまった《吾》なる《存在》は、その《存在》の塵箱たる《特異点》に飛び込まざるを得ない。





――其処で《死》をも喰らふ? 





――喰らはずにゐられると思ふかい? その証左が自分の《死》を《夢》ではみたことがあるだらう? 





――ああ。それが《夢》だと夢見でありながらも確実に認識してゐるのだが、自分の《死》を《夢》で見るのは余り気持のいいものじゃない。





――へっへっ、それさ。《存在》が《夢》を見るといふことが《存在内部》に《特異点》が隠されてゐる一つの歴然とした証左だ。





――成程、《夢》では大概因果律が壊れてゐるな。しかし、《夢》を見てゐるのは何があらうとも自分である、つまり、《夢》においてこそ自同律は快楽の境地に達してゐる、違ふかね? 





(廿三の篇終はり)







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2009 03/09 06:41:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 その日から私の闇に包まれた漆黒の頭蓋内にも、今もその陥穽たる罠に引っ掛かり落っこちる、さながら蟻と化した《異形の吾》をじっと待つ蟻地獄が巣食ってゐるのである。その蟻地獄はその姿を決して私の頭蓋内に現はすことはないのであったが、隙あらば《吾》自体を喰らふべく、その畏怖すべき気配ばかりを強烈に漂はせながら闇黒の私の頭蓋内に身を潜ませてゐたのであった。





 ところで、その日、すっかり蟻地獄の虜になってしまった幼少の私は、興奮が収まらぬまま布団に潜り込み、電燈が消された闇の子供部屋の中、じっと闇を見据ゑてその日の出来事の一部始終を反芻してゐた筈である。而して幼少の私の頭蓋内の闇には唯一つの疑問が蝋燭の炎の如く灯ってゐたに違ひないのである。





――何故蟻地獄は餓死を覚悟した上であんな小さな小さな小さな擂鉢状の罠に自身の生存の全てを委ねてしまったのであらうか? 





 幼少の私にとってその疑問は疑問として無理からぬのであったが、しかし、その答えは意外と簡単なのである。蟻地獄が蟻を追って蟻を捕獲する道を選んだとすると、それは蟻地獄にとっては最も確実至極な自殺行為に外ならないといふことなのである。蟻程恐ろしい昆虫は此の世に存在しないのである。蟻にかかれば此の世の森羅万象が蟻の餌になってしまふ程に蟻の団体としての力は凄まじいのである。





 蟻の巣の出入り口を一日眺めてみれば、蟻が生きとし生けるもの何でも餌にして、自身一匹では到底歯が立たぬ相手も数の力で圧倒し餌にしてしまふその凶暴振りに感嘆する筈である。その蟻を主食として選んだ業として蟻地獄はその身を地中に潜ませ、単体としての蟻を捕まへる外に蟻を餌とするのは不可能なのである。その餌を追ふことを《断念》し、此の世の《最強》の生き物たる蟻を餌にしてしまふその図太さの上に餓死をも厭はぬ餓鬼道をその存在の場にした蟻地獄のその徹底した《他力本願》ぶりは、私に一つの《正覚者》の具現した例証を齎すのであったが、しかし、その此の世の《最強》の《正覚者》が此の世に隠微にしか存在しないその有様は、何か《存在》そのものの在り方、若しくは《物自体》の有様を暗示してゐるやうに思へなくもなかったのである。爾来、私の頭蓋内の闇には前述したやうに私自体を喰らはうとその身を闇に潜めてゐる蟻地獄が巣食ふことになったのであった。





 それにしても蟻地獄が餓鬼道に生きるのは蟻を餌にしたことに対する因業にしか思へぬのは何故なのであらうか? そして、蟻の存在が蟻地獄を此の世に出現させた因に外ならないやうな気がしてならないのは何故なのであらうか? つまり、此の世の摂理とは、それを因果応報と呼ぶとすると、《存在》には必ず《存在》を餌にする蟻地獄の如き《地獄》がその陥穽の大口をばっくりと開けて秘かに《存在》が堕ちるのを待ち構へてゐるに違ひないのである。





 《存在》が一寸でもよろめいた瞬間、《存在》は蟻地獄の如き底無しのその奈落へ堕ちて、《神》に喰はれるか、或ひは《鬼》に喰はれるか、或ひは《魔王》に喰はれるか、将又(はたまた)永劫にその奈落に堕ち続けるかするに違ひないのである。それをパスカルは《深淵》と呼んだが、此の世に《存在》してしまったものは何であれ《吾》を強烈な自己愛の裏返しで憎悪し、《吾》以外の《何か》へ変容することを絶えず強要されながら、しかも、《存在》の周辺には底無しの《深淵》が犇めいてゐる《娑婆》を生きる外ないのである。其処で





――それでは何故《存在》が《存在》するのか? 





といふ愚問を発してみるのであるが、返って来るのは無言ばかりである。そしてこの無言なる《もの》が曲者なのである。ドストエフスキイは、この無言なる《もの》が全てを許してゐると仮定して《主体》なる《存在》のその悍(おぞ)ましさを巨大作群に結実させてゐるが、さて、その無言なる《もの》を例へば《神》と名指してみると、《存在》はその因果応報の円環から遁れる術をドストエフスキイ以上に人類に提示した人間がゐるかと問ふてみるのであるが、答へは未だに「否」としか答へられない憾みばかりが残るのである。それ故に先の愚問に対する答へは自身で発するしかないのであるが、私の場合、今もって何も答へられず、唯、私の頭蓋内の闇の中に《吾》を、つまり、《異形の吾》を喰らふ蟻地獄を潜ませるのがやっとなのである。





(三の篇終はり)







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2009 03/07 07:24:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――その為に《主体》は出来得る限りの手練手管を駆使して無と無限が《主体》内部で暴れ出すのを何としても防がなければならないといふ訳かね? 





――いや、無と無限が暴れ出しても別に構はないさ、無と無限に《存在》が呑み込まれなければね。





――ふっふっふっ、この皮肉屋めが――。それは《主体》が《主体》であり続けることが前提の話であって、その実、《主体》が《新体》に相転移するには如何あっても《主体》が無と無限に呑み込まれなければならぬのじゃないかね? 





――無と無限に呑み込まれて《主体》が《新体》に相転移するだと? ぶはっはっはっはっ。如何足掻いても《主体》が《新体》に相転移などせぬよ。無と無限に呑み込まれたぐらゐで《主体》が《新体》に変容出来るのであればとっくの昔に《主体》はさうしてゐる筈さ。しかし、実際はさうなってはゐない。それが何を意味してゐるかは解かるよね? 





――つまり、《主体》は《主体》であることを《断念》することしか《新体》への道は拓かれないと? 





――《主体》自らその極悪非道ぶりを自らの手で断罪した《主体》がこれまで存在したかね? 





――自殺したものは違ふかね? 





――へっ、自殺は《主体》が《私》として未来永劫地獄の中で存続する為の自己愛の一表現に、換言すれば、自殺は端から《主体》を断罪することを已めてしまった《主体》の哀れな自己愛の一表現に過ぎぬ。違ふかね? 





――《死》は裁きにはならぬと? 





――自殺は卑怯者が取る最も安易な、そして愚劣極まりない行為さ。へっ、これまで誰か自殺して《主体》が《新体》に変容した例があるかね? 





――それじゃあ、イエスや釈迦牟尼やその他の宗教の開祖達は違ふかね? 





――ふっふっふっ、或ひはさうかもしれぬが、しかし、彼等に《主体》全ての極悪非道を背負はせるのかね? 





――…………。





――それは無責任だらう。





――しかし、《主体》自ら《主体》を断罪したところでそれは茶番劇にしかならないのじゃないかね? 





――しかし、しないよりもした方が未だましだらう。何せ《存在》は《他》の殺生の上にしかあり得ぬのだからな。





――へっへっ、《主体》自ら《主体》を血祭りに上げたとして、それは《主体》にとって痛くも痒くもない筈さ。





――当然だらう。





――当然? 





――一《主体》を《主体》が断罪し葬り去ったとしても次なる《異形の吾》がそれに取って代はるだけさ。





――ならば何故《主体》は《主体》自らの手で《主体》自体を断罪せよと? 





――《主体》が《主体》自らの手で宇宙にとっては思いもかけぬ《自己弾劾》をこの宇宙の内部で《主体》が自ら進んですることで《存在》を《存在》させるこの悪意に満ちた宇宙をちらっとでも震撼させたいが為さ。





――それじゃ、《主体》の意趣返しでしかないではないか? 





――へっへっへっ、意趣返しで結構じゃないか、この宇宙が一瞬でも震へ上がるのであれば――。





――ちぇっ、詰まる所、お前は《主体》が宇宙に意趣返しをすることで、その実、この宇宙とは別の更に相転移した《新宇宙》の出現を促し、その結果として図らずも《主体》が《新体》に変態するといふ馬鹿げたことを目論んでゐるのかね? 





――《主体》が《新体》へと変態するかどうかは解からぬが、唯、《主体》が《主体》を弾劾し始めることでこの宇宙をちょっとは震へ上がらせ、その上《存在》をも揺すってみることは出来る筈さ。





――それで《主体》は満足か? 





――いや。《主体》は《存在》が《存在》する限り満足することはあり得ぬ。





(廿二の篇終はり)







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2009 03/02 05:26:14 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、地獄の一丁目へ直行か! 吾は地獄と浄土の間を揺れ動く。さうじゃないかい? 





――ご名答! 





――それで死の世界にも特異点はあるのか? 





――穴凹だらけさ、多分ね。つまり、《存在》の数だけ死の世界には特異点の穴が開いてゐるに違ひない。さうじゃなかったならば《死滅》の存在理由がなくなってしまふじゃないか! 





――つまりは《存在》が《存在》するから死の世界も穴凹だらけなのだらう? 





――否、《杳体》さ。





――《存在》も《杳体》の一位相に過ぎないってことか……。





――森羅万象、諸行無常、有為転変、万物流転、生々滅々、輪廻転生など、それを何と表現しても構はないが、それらは全て《杳体》の一位相に過ぎない。ひと度《杳体》と《重なり合ふ》と、此岸と彼岸の全位相と対峙しなければならぬのだ。





――ふむ。しかし、《杳体》とはそもそも《闇》のことではないのかね? 





――へっ、さう来たか。《闇》もまた《杳体》の一位相に過ぎぬ。





――暗中模索だね……。《杳体》に《重なり合った》主体は光と闇の間をも振り子の如く揺れ動く、違ふかね? 





――簡単に言へば確率零と一の間を主体は《杳体》と《重なり合ふ》ことで揺れ動く。





――ぶはっ。確率零と一の間を揺れ動くだと? それじゃ、此の世に存在したものの分しか勘案してゐないじゃないか? 死んだもの達と未だ此の世に出現ならざるもの達は何処へ行った? 





――ちぇっ、簡単に言へばと断ったではないか! 続けて言へば《杳体》と《重なり合った》主体は確率零のときに死んだもの達や未だ出現ならざるもの達の呻きの中に没し、そして確率一のとき自同律の不気味さを心底味はひ尽くさねばならないのだぜ。もしかすると確率一のときこそ死んだもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟が満ち満ちてゐるかもしれないがな。





――確率一の不気味さか……。





――確率零も不気味だぜ。





――零と一との間(あはひ)にたゆたふ吾か……。それはきっと主体にとって残酷極まりないものに違ひない。





――へっへっへっ、主体は《杳体》と《重なり合って》無間地獄を潜り抜けねばならぬのさ。





――その時初めて《吾》は「吾」と呟けるのであらうか? 





――それは如何かな。《吾》は無と無限の残酷さを味はひ尽くすまで「吾」とは多分呟かないだらう。





――無と無限の残酷さか……。





――違ふとでも? 





――いやな、パスカルの言葉を思ひ出しただけさ。





――日本語訳では「中間者」と訳されてゐるが、「虚無」と「無限」の間、英訳ではbetweenといふ《存在》の在り方か……。





――さう……《存在》の在り方さ。確率零と一との間(あはひ)を揺れ動くのは地獄よりも尚更酷いものだぜ。だって「私」を幾ら揺すったところで《異形の吾》以外の何が出て来るといふんだい? 





――《異形の吾》ね……。





――それでは物足りないんだらう? 





――ふっふっふっふっ、その通りさ。《異形の吾》では物足りぬ。其処でお前の言ふ《杳体》さ。《杳体》に《重なり合ふ》主体とは、さて、どんなものなのだらうか? 





――無と無限を跨ぎ果(おほ)す過酷な《存在》の在り方さ。





――無と無限を跨ぎ果すか……。「中間者」にとっては過酷だな。





――へっ、過酷で済めば未だ良い方だぜ。大抵は途中で逃げ帰るのが落ちさ。





――逃げ帰る? 何処へ? その時「私」は既に「私」でない何かになって仕舞ってゐるんじゃないのか? 





――へっ、廃人さ。それとも狂人か。しかし、それはそれで極楽に違ひない。





――「私」のゐない「私」が極楽か……。否、それは地獄に違ひない! 





(三 終はり)







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2009 02/28 04:51:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――其処に滅び行く《もの》の悲哀はあるかね? 





――へっ、ありっこないさ。仮にその《悲哀》があったとしてもだ、《主体》はとことん《主体》であり続けたいが為にその《悲哀》に冷笑を浴びせ掛けるに違ひない。それ程まで《主体》は醜い生き物なのさ。つまり、《新体》は夢のまた夢だ――。





――……、ところが仮に《世界》が先に相転移をしたならば、《主体》は尚も《主体》であることは不可能なのだから《主体》も変容せざるを得ないのじゃないかね? 





――もしさうだとしてもだ、《存在》は《自意識》から遁れられはしない! 《世界》もまた己の《自意識》から遁れられやしないのさ。《自意識》に例外はあり得ぬのだ。





――つまり、《主体》の解脱、つまり《新体》は泡沫の夢だと? 





――違ふかね? 先づは《主体》をとことん生き抜いてみるんだな。それで己の醜さをその目に焼き付けるんだ。さうしなければ何にも始まりはしない! 





――後世出現する《主体》の為に? 





――ああ、さうだ。死んだもの達と未だ出現ならざる未来の《主体》の為に、己を生きる《主体》はその醜悪極まりない生き方を味はひ尽さねばならない。それはこの《世界》も《宇宙》も例外ではない。全ての森羅万象は愚劣極まりない《自意識》の傍若無人ぶりを味はひ尽くさねばならぬ定めなのだ。





――それが現在存在する《もの》の存在せざる《もの》達への礼儀だとして、例へば《自意識》を徹底的に虐待するとすれば、その時《主体》は尚も《主体》であり続けるのかい? 





――ふっ、既に《自意識》は虐待の極みを受けてゐるじゃないか? 





――それは《存在》すること自体がそもそも《自意識》への虐待だといふことかね? 





――違ふとでもいふのかい? 





――へっへっへっ、また堂々巡りだね。





 彼の闇の視界は既に闇である事に堪へ切れず、多分、脳といふ五蘊場が勝手に網膜に刺激を与へてゐるに違ひないのだが、薄ぼんやりと淡く更に淡い極小の光の粒子群の帳を彼の視界に浮かび上がらせてゐたのであった。彼は再び瞼をゆっくりと閉ぢて彼の闇の視界に自発した淡い淡い淡いその光の帳をぼんやりと眺めるのであった。





――へっ、どうも《世界》の方が《主体》よりも先に相転移しさうだね。





――その時、《世界》は物理的変化を劇的に遂げるが、そんな環境に順応すべく《主体》も変はらざるを得ないのじゃないかね? 





――……、多分、《主体》は《存在》が《存在》する限り《世界》が相転移しようがしまひが存続するに違ひない。但し、《実体》は最早相転移以前の《実体》と同じではあり得ない《何か》に《世界》と同じく相転移を遂げる。そして《反体》も然りだ。





――すると《魂》も相転移する? 





――《魂》は、つまり、相転移し見事《変容》を成し遂げた《実体》と《反体》による対消滅から派生するSolitonの如き未知の孤立波は、未知の《何か》に変化はするかもしれぬが、多分、その実質は何の変化もないに違ひない筈だ。





――何故変化はないと? 





――相転移したとはいへ、《世界》は相変はらず《世界》として、そして《宇宙》は相変はらず《宇宙》としてしか《存在》しないからさ。それに《魂》は未来永劫消えぬ未知の孤立波だと言った筈だがね。





――それは相転移によって滅亡した《前世界》についても、滅亡した《前宇宙》についても同じだと? 





――ああ、同じだ。相転移によって滅亡した《前世界》の、そして《前宇宙》の《魂》は不滅の孤立波として此の世を彷徨ふ……。





――Solitonの如き孤立波は如何あっても未来永劫此の世を彷徨すると? 





――特異点とて同じ事だ。





――つまり……《存在》は無と無限の間を尚も揺れ続けると? 





――さうでなくて《存在》が《存在》を味はひ尽くせるかい? 





――それは詰まる所、《存在》がその内部に特異点を隠し持ってゐる故に必然の事といふことだね? 





――ああ、《存在》にとって無と無限は何としても捩じ伏せておかねばならぬ鬼門に外ならない――。





(廿一の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp





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2009 02/23 03:32:46 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――自他無境の位相に戯れ夢中遊行する《個時空》たる《主体》は、此の世の縺れを解く《解》として別の《個時空》たる《他》を見出しつつも、《パスカルの深淵》に《自由落下》せざるを得ぬ宿命を負ってゐるとすると、さて、《個時空》たる《主体》は《異形の吾》共と共振を起こすとはいへ、その時底無しの孤独を味はひ尽くしてゐるに違ひない筈だが……。





――当然だらう。この宇宙の涯たる《他者》を見出してしまったのだからな。それも彼方此方に宇宙の涯が存在する。さて、この時《主体》は尚更己の孤独を噛み締めなければならないのだが、大概の《主体》はその孤独から絶えず遁走し続け、自らを自らの手で《個時空》の涯、つまり《水際》へと己を追ひ込み、それでゐて己から逃げ果せたとしたり顔で嗤ってゐるが、その実、《個時空》たる《主体》は《「個」時空》が《「孤」時空》へと相転移してゐることに気付きやしない。だからキルケゴール曰く「死に至る病」といふものに罹り絶望するのさ、己自身に対してな。





――其処で己が《自由落下》してゐることに思ひ至る? 





――否、大概は《自由落下》してゐることすら気付かない。





――それじゃ、《主体》は何にも知らずに犬死してゐるといふことか? 





――ああ、さうさ。何をもって犬死と言ふかにもそれはよるがね。しかし、《主体》は己が《パスカルの深淵》に《自由落下》して地獄を彷徨ひ歩き、さうして詰まる所、己に関しては何にも知らずに犬死してその一生を終へる。だが、さうするとだ、犬死する事は幸せな事だぜ。





――幸せ? 





――さうさ。《自由落下》してゐる事を知らずにゐられるのだから、これ以上の幸せが何処にある? 





――それじゃあ、自他無境の境地は絵に描いた餅に過ぎないじゃないか! 





――へっ、それで構はないじゃないか。《主体》は《「孤」時空》の中で自存するのだもの、これ以上の幸せはない! 





――へっ、この皮肉屋めが――。





――矛盾を孕んでゐない論理は嘘っぱちだといったらう。つまり、自他無境と《「孤」時空》は紙一重の違ひに過ぎないのさ。





――どちらにせよ、底無しの《パスカルの深淵》に《自由落下》してゐることに変はりはしない。それじゃあ、《自由落下》を己の《落下》と認識出来てしまった《もの》は如何なる? 





――生き地獄に堕ちるだけさ。





――へっへっ、生き地獄ね――。





――認識してしまった《もの》は、《個時空》たる《主体》では背負ひ切れぬ懊悩を背負はなければならない。





――《主体》がそれに堪へ得ると? 





――いや、別に堪へる必要はこれっぽっちもない。





――それじゃあ、地獄に堕ちるのみと? 





――へっへっへっ、地獄も住めば都さ。地獄で足掻くから苦しいのさ。地獄に身を任せてしまへばこんな楽しい処はないぜ、へっ。





――楽しいと? 





――ああ、地獄程楽しい処はないぜ。





――何故楽しいと? 





――断念できるからさ。何事に対しても地獄では断念する外ない! 





――断念? それは《主体》であることを断念することかね? 





――さうさ。吾は《個時空》たる《主体》であることを自ら断念する。さうしなければ地獄でなんぞ一時も生き残れる訳がない! 何故って、地獄では絶えず己は己であることを強要されるのだからな。





――それじゃ蟻地獄ならぬ《吾地獄》から一歩も抜け出せない、つまり、吾に自閉した存在に過ぎないじゃないか! 





――否、《パスカルの深淵》に《自由落下》すると、さて、《個時空》たる《主体》は加速度的にその落下速度を増すが、それが何を意味するか解かるね? 





――光速か……。





――へっ、つまり、《個時空》たる《主体》は或る臨界を超えると相転移を成し遂げるのさ。





――その時、《無私》の境地が拓かれる? 





――さてね。





(三の篇終はり)





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2009 02/21 03:54:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――Soliton(ソリトン)? 





――Solitonの如き孤立波さ。





――それが永劫に消えぬと? 





――ああ。





――それを《魂》と呼んでも構はぬか? 





――呼びたいやうに呼んだらいいさ。





――Solitonね……ふはっはっはっはっ。





――ちぇっ。





――まあよい。よれよりもだ、するとSolitonの如き孤立波となりし《魂》は、永劫に、ある種の波動体として存在することを、それは意味してゐるのか? 





――さうさ。永劫、それを《無限》と言ひ換へても構はぬが、Solitonの如き孤立波として存在する《魂》は「吾、然り」と《吾》たる存在を全肯定するのさ。





――それは全否定ではないのかね? 





――ふっふっふっふっ。詰まる所、同じ事さ。





――えっ、全肯定も全否定も同じだと――。





――ああ。《主体》を解脱せし《吾》は相転移を見事成し遂げて新=存在体、略して《新体》へと変化する。





――へっへっ、今度は《新体》の登場か。それは詰まる所娑婆で生きる衆生には《新体》は永劫に訪れないといふ事と全く同じ事ではないではないのか?  





――否、あの《存在》の深き深き深き《深淵》を《自由落下》する《意識》においては必ず《実体》と《反体》の対消滅の果てに相転移を成し遂げ、《新体》へと解脱するその臨界点が存在する筈さ。





――それは……彼の世の事ではないのかね? 





――ああ、《主体》にへばり付いてゐる《生者》にとっては彼の世の事に違ひない。しかし、《主体》であることを《断念》した《生者》にとっては娑婆が即ち《新体》が存在する世界に成り得る可能性がある。





――可能性があるだと? 蓋然性で済む問題か?  





――……一つ尋ねるが、お前は狂人として生きる覚悟はあるかい? 





――何を藪から棒に。それと《新体》と何の関係があるのかね? 





――つまり、《新体》は衆生にとっては狂人としか思へぬ存在形態だからさ。





――やはり狂気の沙汰か……。





――《主体》が《主体》であることを《断念》するのだから、それは衆生にとっては狂気の沙汰にしか見えぬが、しかし、衆生たる《主体》はその深き深き深き《深淵》の底の底の底にある《彼岸》へともんどりうって飛び込む外に、へっ、哀しい哉、《主体》が《生者》たる存在体として生き残る術は最早残されてゐないのさ。





――端的に言ふが、それは《主体》の自慰行為に過ぎないのじゃないかね? 





――ふっふっふっふっ、その通り《新体》への変化は《主体》の自慰行為に過ぎぬ。そして、《主体》はその自慰行為に耽溺するのさ。





――そして自滅すると? 





――ふっ、さう、《新体》に解脱せぬ限り何処までもその深き深き深き《深淵》を《自由落下》して、最後は自滅だ……。





――《主体》は如何あっても《新体》に解脱するか《主体》が《主体》たるといふその自慰行為に耽るかのどちらかしかないと? 





――ああ、《主体》が《世界》の王たる《主体天国》は疾うに終はりを告げたのさ。





――ところが、哀しい哉、それでも《主体》は生き恥を曝して生き続ける筈だ。





――やはり何処までも醜いかね、《主体》といふ生き物は? 





――ああ、愚劣極まりないのさ、《主体》といふ生き物は。





――すると《新体》の到来はあり得ぬと? 





――《新体》に成りたい奴が成ればいいのさ。





――へっ、これからが《主体》のその愚劣極まりない醜態を否が応でも目にする外ない地獄変の世界が訪れるのだ! 





(廿の篇終はり)





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2009 02/16 04:02:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ、神は神であることに懊悩してゐると思ふかい? 





――勿論、神だって神であることに懊悩してゐる。神すらも《存在》からは遁れやしない! 





――すると、神もまた底無しの《存在》の《深淵》を覗き込んでゐると? 





――へっ、神は神なる故にその《深淵》の底の底の底に棲んでゐるのさ。





――はっはっはっはっ。





 それにしても《そいつ》の笑顔は悍(おぞ)ましい限りである。つまり、私といふ《存在》がそもそも悍ましいものであったのだ。





 《そいつ》は更にその鋭き眼光を光らせ私の瞼裡で私をぎろりと睨み付けるのであった。





――ならば、神は神なるが故に《永劫の懊悩》を背負ってゐるといふのか? 





――勿論さ。神たるもの《永劫の懊悩》を背負へなくて如何する? 





――つまり、神ならば《永劫の懊悩》を背負へ切れると? 





――へっ、背負ひ切れなくて如何する? 《永劫の懊悩》で滅ぶやうな神ならば《存在》しない方がまだましさ。





――つまり、神はその《存在自体》がそもそも《存在》に呪はれてゐると? 





――ああ、神は《存在》しちまったその時点で既に呪はれてゐるのさ、その《存在自体》にな。くっくっくっくっ。





 いやらしい嘲笑であった。《そいつ》は何といやらしい嗤ひ方をするのであらうか。





――つまりだ。神は自ら《存在》することで生じる《矛盾》を全て引き受けた上でも泰然として、そして《存在》の《象徴》として《自然》に君臨するのさ。





――自然に君臨するだと? 逆じゃないのか? 《自然》が神共に君臨するんじゃないのかね? 





――《自然》もまた神だとすると? 





――へっ、八百万の神か――。





――哀しい哉、人間は生(なま)の《自然》を憎悪してゐる。更に言へば、人間は《自然》を一時も目にしたくないのさ、本音のところでは。しかし、《現実》に絶えずその身を曝さざるを得ぬ。くっくっくっくっ。ざまあ見ろだ、ちぇっ。





 《そいつ》が舌打ちした時の顔といったら、それ以上に悍ましいものはないのである。虫唾が走ると言ったらよいのか、私は思はずぶるっと身震ひをせずにはゐられなかったのである。





――すると、《存在》とは常に《現実逃避》を望む《もの》だと、つまり、《存在》とは常に《現実》にその《存在》を脅かされ、へっ、そしてそれが《存在》を《変容》させる根本原因だといふのか? 





――さうさ。だから《存在》は全て《夢》を見る。





――神もまた《夢》を見ると? 





――ああ、勿論。





――《夢》を見ることが生理的な現象なのは勿論だが、それ以上に物理的な現象の一様相なのか? 





――当然だらう。





――つまり、《夢》を見ることでその前後の《夢見るもの》の、例へば質量は変化すると? 





――ああ、多分な。しかし、その変化はほんのほんのほんの僅かしか変化しない為に測定は不可能さ。人間が《光》を《物質》に還元する術を手にした時、初めて人間は《夢》の質量を測定出来る筈だ。





――《夢見る神》の《夢》の質量もかね? 





――その時点で《無限》を手懐けてゐれば、当然測定可能だ。





――やはり神の問題には《無限》は付いて回ざるを得ないのか――。





――ふん、《無限》に恋焦がれてゐるのに、これまた如何した? 





――本当のところ、《無限》を渇仰してゐるのに、いざ《無限》を前にすると、へっ、哀しい哉、《無限》に対して何やら不気味な何かを、多分、それは《不安》と名指されるべきものに違ひないが、その《不安》を感じて足が竦み慄いてしまふのさ。





――それは当然至極のことさ。《無限》を恐れ慄くのは《存在》にとっては《自然》なことだ。





――《自然》なこと? 





――ああ、《存在》は《自然》に《無限》の面影を見出してしまふ習性があるからな。





――つまり、《存在》は《自然》に絶えず追ひ詰められてゐると? 





――ああ、《存在》は《変容》することを《現実》といふ《自然》に強要されてゐる。





――《存在》の逃げ道は? 





――無い。





――へっ、これっぽっちも無いのかね? 





(三の篇終はり)







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2009 02/14 03:55:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそも《反体》は生に対する死と同類のものではないのか? 





――違ふ……そんな気がする……。





――違ふか……。





――…………。





――…………。





――多分……《反体》は《実体》の死を誘発する何かさ。





――死を誘発する何かだとすると《反体》は死とは別の何かだな……それが《主体》内部に潜んでゐるとなると……これは《主体》にとって大事じゃないかね? 





――さうさ。《主体》は既に狂乱状態じゃないか? それにも拘らず今まで誰も《反体》を《反体》と名指さずにやり過ごさうと躍起になってゐたが、最早それが限界に達した……。つまり、《実体》たる《主体》はちょっとした事が切っ掛けで爆発してしまふ臨界状態にある。





――それを鎮めるのが、つまり《反体》か? 





――いや、《反体》は寧ろ《主体》の臨界状態を破り《主体》を爆発させる誘発剤になってしまふ筈さ。





――へっ、つまり《主体》の相転移か? 





――さう――。《主体》は一度滅んで相転移をする外に最早《主体》が存続する余地はこれっぽっちも残されてゐない。





――《主体》が相転移するには《反体》が必須といふことか――。





――つまり、《主体》は《主体》を後生大事にしてきたそのつけが今の《主体》に回って来たのさ。





――所詮、《主体》は《主体》に過ぎぬといふ事か……。





――そして《主体》は《主体》でしかない為に自壊してしまった……。その時になってやっと《主体》は《反体》と共存してゐることに気付いたのだ。全く、時既に遅しだ。





――すると《主体》内部は《反体》の天下か? 





――さういふ事さ、へっ。





――ふっふっふっ、さうすると《主体》はその身を矛盾に捩じりに捩じられ息も絶え絶えにやっとその存在を維持してゐるに過ぎぬといふことか……。





――へっへっへっ、《主体》の滅び方程みっともないものはないぜ。





――そんなに醜態かね、《主体》の滅び方は? 





――ああ、見るに堪へないね。滅ぶならもっと潔く滅んだ方が《主体》剿滅後に出現する新たな《何か》の為だよ。





――さて、《主体》は剿滅すると思ふかい? 





――ああ、如何あっても滅んでもらはないといけない。





――ちぇっ、結局《主体》は《主体》であることを持ち切れずに邯鄲の夢を見てゐるに過ぎぬのか――。





――さうさ。そんな奴等はさっさと此の世から退場するのが筋だ。





――《主体》が此の世から退場したとして、その後存在は自身を何と名指すのだらうか? 





――へっ、《実体》と《反体》の対消滅によって新生する《何か》が存在自体に君臨する筈さ。





――新しき《何か》が対消滅によって新生すると思ふかい? 俺は如何もさうは思へぬのだが……。





――つまり、相変はらず《主体》は生き恥を曝し続けると? 





――ああ、《主体》はとことんその生き恥を曝し続けるに違ひない。





――それでも《実体》と《反体》の対消滅は起こり、《主体》は此の世ならぬ《光》となって此の世から消え去る……。





――それでもその対消滅の残滓は残るさ。





――残ると思ふかい? つまり、《実体》と《反体》は等価ではないと? 





――等価であっても《実体》と《反体》による対消滅の衝撃はSoliton(ソリトン)の如く、つまり永劫に消えぬ孤立波となって此の世に残るのさ。





(十九の篇終はり)







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2009 02/09 04:08:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?  





――じゃあ、お前は《己》を何だと思ってゐたのだ? へっ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ? 





――そもそもだ、《己》が《己》であってはいけないないのか? 





――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》じゃないかね? 





――ちぇっ。





――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。





――えっ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げっぷ》と言った筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい? 





――その《げっぷ》が四方八方至る所で起こってゐるとしたならば、お前は何とする? 





――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさておき、これは愚門に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね? 





――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。





――それは詭弁ではないのか? 





――詭弁? 





――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね? 





――つまり、お前は《存在》すれば即《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふことか……。





――さうだ。





――ふっ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前であることが《悦楽》なのかい? 





――《悦楽》? ははあ、成程、自同律のことだな。





――さう、自同律のことさ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもって自認出来るかね? 





――ふっ、自同律が不快とばかりは決められないんじゃないかね? 自同律が《悦楽》であってもいい筈だ。





――じゃあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 





――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。





――ふはっはっはっ。冗談も大概にしろよ。





――冗談? 《己》が《己》であることがそんなにおかしなことなのかい? 





――《己》が《己》であることの哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》であることの底無しの哀しさを。





――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へっ。





――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 





――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れることは未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行ってもこのざわめきから遁れられないのさ。





――へっ、だからこのざわめきを何とする? 





――ちぇっ、お手上げと言ってゐるだらう。率直に言って、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふことさ。





――それじゃ、このざわめきを受け入れろと? 





――ふん、現にお前はお前であることを受け入れてゐるじゃないか! 仮令《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。





――くぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんん〜〜。





――ふっ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げっぷ》をしたぜ、ちぇっ。





――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げっぷ》じゃなくて《存在》の《溜息》じゃないのかね? 《存在》が《存在》してしまふことの哀しき《溜息》……。





――へっへっ、その両方さ。





――ちぇっ、随分、都合がいいんだな。それじゃ何でもありじゃないか? 





――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。





――当たり前? 





――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい? 





――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じゃなくて《自存》か? 





――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれたことがあるかね? 





――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現することを秘かに渇望してゐるんじゃないのかな……。





――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも? 





――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。





――何故さうむ思ふ? 





――何となくそんな気がするだけさ。





(三 終はり)





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2009 02/07 04:13:15 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これも夢想に過ぎぬかもしれぬが、《反体》が此の世に仮初にも出現したならば、《実体》は震へ慄く筈だと思うが……如何かね? 





――ああ、《実体》にとって《反体》の出現は恐慌以外の何ものでもない。





――にも拘らず、存在する《もの》全てはその内部に特異点を隠し持ち、其処で《実体》と《反体》を共存させてゐるといふ不思議を、《魂》を持ち出すことで取り繕ってはみたが、しかし、そもそも何故《反体》なんぞでっち上げなければこの存在が語れなくなってしまったのだ? 





――へっ、簡単なことだよ。《主体》そのものが行き詰まって、どん詰まりの処に追ひ込まれてしまったからさ。





――つまり、《主体》自らが《主体》の首を絞めてゐるといふことか? 





――さうさ。





――では何故《主体》は自ら《主体》の首を絞めざるを得なくなってしまったのだ? 





――へっ、《主体》に《自由》は持ち切れないからさ。





――《自由》が持ち切れない? その《自由》とは《無限》と同義語かね? 





――ああ、もっと端的に言へば、時間もまた《無限》の《自由度》を持つといふことさ。





――時間の《無限》の《自由度》とは、つまり、《渾沌》のことかね? 





――さうさ。つまり、時間はそもそも《渾沌》としたものに違ひないのだ。





――しかし、時間に《秩序》を与へた科学的なる思考法、或ひは世界認識の仕方は大成功だったのじゃないかね? 





――ふっ、さう思へるのかい、本当のところは?





――むむ……。 





――詰まる所、お前は既に現状の世界認識の仕方では《世界自体》が逃げ果せてしまふ思考の《裂け目》を見てしまったのじゃないのかね? 





――それは特異点のことかね? 





――へっ、何と呼んでも構はないが、お前は《パスカルの深淵》を覗き込んでゐる内に、その《深淵》にもんどりうって飛び込んでしまった――違ふかね? 





――つまり、それが《反体》の素顔だと? 





――ふっ、《パスカルの深淵》を《自由落下》する《意識》において、《実体》と《反体》は対消滅を繰り返しては「吾は此処なり!」といふ断末魔の閃光を煌めかてゐる……さう思はないかね? 





――《主体》たる《客体》に圧し潰され……追ひ詰められた《主体》は最早《パスカルの深淵》に飛び込まざるを得なかった……さうには違ひないが……《主体》はそもそも《実体》と《反体》の対消滅に堪へ得ると思ふかい? 





――へっ、堪へるしかないのさ、生き残るには。





――本当に《主体》は其処まで追ひ詰められてしまったのであらうか? 





――ああ、時既に遅しさ。ハイデガーは優しく《投企》若しくは《企投》と言ったが、《主体》は《世界》に《投身自殺》しなければ最早生き残ることが不可能なまでにその存在根拠を剥ぎ取られてしまったのさ。





――何に存在根拠を剥ぎ取られたといふのか? 





――《主体》自らに決まっておらうが! 





――それで《反体》の登場かね? ふっ、可笑しくて仕様がない! 





――可笑しいかね? ならば嗤ふがいいさ。ふっ、顔色が真っ青だぜ。





と、不意に彼の闇の視界にぼんやりと輝く人玉の如きものが飛び込んで、くるくると反時計回りに旋回をし始めたのであった。





 彼にはそれが死んだもの達の魂の残滓に思へ、死者達もまたこの彼の頭蓋内の闇で繰り広げられてゐる自問自答の行く末に聞き耳を立ててゐると感じずにはゐられなかったのであった……。





(十八の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp







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2009 02/02 03:15:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 何がそんなに可笑しかったのかてんで合点のいかぬことであったが、私は眠りながら《吾》を嗤ってゐた自身を覚醒する意識と共に確信した刹那、ぎょっとしたのであった。





――嗤ってゐる! 





 その時私は夢を見てをらず、唯、《吾》といふ言葉を嗤ってゐたのであった。





――《吾》だと、わっはっはっはっ。





 頭蓋内の闇を、唯、《吾》といふ言葉が文字と音節とに離合集散を繰り返しながら旋回してゐたのであった。





――《吾》といふ言葉に嗤ってゐやがる。





 眠りながら嗤ふ吾を見出したのはその時が多分初めてではないかと思ふのであったが、しかし、《吾》といふ言葉が闇しか形象してゐないこの状態をどう受け止めて良いのか皆目解からず、私は暫く呆然としてゐる外なかったのであった。それでも暫く経ってから





――俺は夢を見てゐなかったのじゃなくて、《吾》が表象する《闇の夢》を見て嗤ってゐたのだ! 





との思ひに至ると、何故か私は、私が眠りながら嗤ってゐたその状況を不思議と納得する私自身を其処に発見し、そして、これまた不思議ではあるが自分に何の疑問も呈さず納得するばかりのその私自身を自然に受け入れてゐたのであった。





――《闇》の《吾》……否、《吾》が《闇》なのだ! 





 私はたまにではあるが《闇の夢》を見ることがある。それを夢と呼んで良いのかは解からぬが、《闇の夢》を見てゐる私は夢を見てゐることをぼんやりと自覚してをり、その《闇の夢》を見てゐる私は只管(ひたすら)闇が何かに化けるのを、若しくは何かが闇から出現するのをじっと待つ、そんな奇妙な夢なのであった。





 多分、その日の嗤ってゐた《吾》を見出した《闇の夢》は、《闇》から一向に《吾》が出現しない様が可笑しくて仕様がなかったのであらうとは推測できることではあった。





 それは何とも無様な《吾》の姿に違ひなかったのである。夢とはいへ、闇の中から出現した《吾》が《闇》でしかないといふことは嗤ひ話でしかなかったのである。しかし、《闇》から出現する《吾》がまた《闇》でしかないといふことは言ひ得て妙で、而も、私にとってはある種の恐慌状態でもあったのだ――。





――《闇》=《吾》! 





 私にとって《吾》は未だ私ならざる《闇》のまま、未出現の形象すら出来ない曖昧模糊とした、否、私は《闇》そのものでしかなかったのである。





 しかし、これは一方で容易ならざる緊急事態に外ならず、《吾》が《闇》でしかないこの無様な《吾》を私は嗤へない、否、嗤ふどころか、わなわなと震へるばかりであった筈である。それにも拘らず《吾》は《闇の吾》を見て嗤ってゐたのである。そもそも《闇の吾》を嗤へる私とは何ものであらうか? 不図そんな疑念が湧くこともなくはなかったが、それ以上に予測はしてゐたとは言ひ条、《吾》が《闇》であることに唯々驚く外なかったのであった。





――《闇》から何も出現しない! 何故だ! 





 夢見中の私はさう《闇の夢》に向かって叫ぶべきであった筈である。しかし、実際はさうはせずに只管《闇の夢》を見てゐる《吾》を嗤ってゐたのであった。





――何故嗤へたのであらうか? 





 もしかすると私は《闇の吾》に《無限》を見出したのかもしれなかったのだ。否、多分、私は《闇の吾》を嗤ひながら、《無限》なる《もの》と戯れ遊んでゐたのであらう。いやそれも否、私は唯《闇》なる《吾》に翻弄される《吾》を嗤ってゐたのであらう。それは《闇》といふ《無限》を前にあたふたと何も出来ずに唯呆然とする外術のないこの矮小な《吾》の無様さを嗤はずにはゐられなかった筈である……。





――ぶはっはっはっ、《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 《闇》以外何も表象しない《吾》を見て、その《闇の吾》を《吾》と名指ししてしまふことの可笑しさが其処にはあった筈である。そもそも《吾》を《吾》と名指し出来てしまふ私なる存在こその可笑しさが其処には潜んでゐたが、しかし、《吾》を《吾》としか名指し出来ないこともまた一つの厳然たる事実であって、その厳然とした事実を私は未だに受け入れることが出来ずにゐる証左として、私は《闇の吾》の夢を何度となく見てゐるのかもしれなかったのである。





 それにしても《闇》しか表象しない《吾》を夢で見ながら嗤ってゐることは、私にとってはむしろある種の痛快至極なことでもあったのである。





――《闇》=《吾》! 





(一の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 01/31 04:06:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――一つ尋ねるが、その此の世ならざる《光》となりし《吾》はひと度「吾此処にあり!」と念ずれば《吾》は《吾》となって此の世に出現するのかね? 





――ふっふっふっ、これは異なことを言ふ……。まあ良い、それはそれとして、多分《吾》といふ幻影を見て「吾此処にあり!」と感嘆するだらうよ。





――つまり、全ては泡沫の夢といふことかね? 





――違ふかね? 





――「違ふかね?」といふことは、お前は少なくともさう考えてゐるといふことだね? 





――いいや。俺は端から《夢》なるものに全く興味を感じない! 唯、象徴的に言へば時間が最早一次元のやうな振る舞ひをするものと看做すことは禁忌だ。するとだ、時間が無限の相を持った此の世とは、仕方がないが今のところ夢見と同類の何かとしか記述若しくは表象出来ないのさ。





――つまり、一次元の枠から解放された時間の相に存在する《存在》は夢の如く現はれるといふことだね? 





――しかし、その《夢の如く》の《夢》が問題なんだ。





――つまり、それは夢現の境がなくなるといふことだね? 





――いいや、《吾》といふ意識が存在する以上、《夢》を見ることは最早叶はぬ《夢》となり果て、その上《吾》といふ、此の世ならざる《光》となりし《主体》は、絶えず覚醒し続け現のみを凝視するしか生き残る道はないのだが、しかし、《主体》たる《吾》にはそれが《現》であるといふ証左がこれっぽっちも無い。唯、摩訶不思議な《もの》を《見る》外ないのさ。つまり、其処には絶えず《存在の不安》が横たはってゐる……。





――はて、その摩訶不思議な《もの》とは何かね? 





――つまり……《物自体》の位相のことさ。





――《物自体》の位相だと? 





――《実体》と《反体》の対消滅によって生じし此の世ならざる《光》となりし《吾》は、その時、《物自体》の前へ抛り出される。





――それは世界が《物自体》といふことかね。





――ああ、《物自体》の筈さ。全てが《物自体》の位相の下に置かれるのさ。勿論、此の世ならざる《光》となりし《吾》もまた《物自体》の位相に相転移する。





――へっへっ、それはお前の単なる夢想に過ぎないのじゃないかね? 





――ああ、勿論、俺の夢想に過ぎない。





――あっさりと認めるんだね、夢想に過ぎないと。





――夢想としか表象出来ないからさ。





――すると《実体》と《反体》の対消滅がそもそも夢想に過ぎないといふことかね? 





――ふっ、夢想で結構じゃないか。





――つまり、夢想においてのみ世界が《新世界》へと相転移し、《存在》がこれまで体験したことのない未知の様相を呈すとお前は考へてゐるといふことだね? 





――へっ、さうさ。存在するもの全てが《夢》見ずして何処に《変容》する余地が残ってゐるといふのか? 





――つまり、《物自体》が一つの夢想に過ぎないと? 





――ちぇっ。……一つ尋ねるが、お前が現に今見てゐる世界が夢でないといふ証左は何処にあるのかね? 





――だが、夢であるといふ証左もない。





――ふっ、また堂々巡りの始まりだな。





――はっはっはっ。





と、その刹那、彼の視界の闇に流れ星の如き閃光が一瞬煌めいて消えたのであった。彼は不意に眼球をゆっくりと上向きに据ゑ、その闇に潜むであらう存在の秘密を凝視するかの如く、或ひは闇といふものの《影》を見据ゑるが如く、眼前の闇を睨み付けたのであった。





(十七の篇終はり)





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2009 01/26 03:56:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 家に帰っても未だ興奮冷めやらぬ筈であったであらう私は、家に帰り着くや否や直ぐに昆虫図鑑を取り出して今さっき出遭ったばかりの未知なる生き物が何であるのかを調べ始め、さうして、遂にあの未知なる生き物が何と蟻地獄と名付けられてゐるのを昆虫図鑑の中に見つけた刹那、「あっ」と胸奥の何処かで叫び声を上げたに違ひないのである。





――蟻地獄――。





 私の大好きな昆虫の一つであった蟻の而も地獄! 何といふ名前であらうか。多分、幼少の私は何度も何度も蟻地獄といふ名を胸奥で反芻してゐた筈である。





――蟻地獄――。





 その名は様々な想念を掻き立てるに十分な名のであった。蟻地獄といふ名は今考えても何やら此の世ならぬ妖怪の名のやうな奇怪な名なのであった。名は体を表わすと言へばそれまでなのであるが、それにしても蟻の地獄とは何としたことであらうか。幼児の私はその名すらも知らなかった《虚無》若しくは《虚空》といふ言葉が持つ《魔力》と同じやうなものを、それとは名状し難いとはいへ、直感的に、または感覚的に蟻地獄と名付けられたその生き物に感じ取ってしまった筈である。幼少とはいへ、私は茫洋とだが直感的には掴み得る蟻地獄といふ名に秘められた此の世にぽっかりと空いたあの《深淵》の形象をそれとは微塵も知らずに蟻地獄という言葉に見出してしまった筈であった……。





――蟻地獄――。





 それは此の世と彼の世を繋ぐ呪文の如く突如として私の眼前に現われたのであった。





――蟻地獄――。





 幼児の私は既に地獄とは何か知ってゐた筈である。さうでなければこれ程までに蟻地獄に執着する筈はなかったに違ひないのである。それは例へば親が深夜の寝室で性交してゐる情景を目にしたかの如く、何やら見てはいけないものを見てしまった含羞をも併せ持った言葉として幼児の私に刻印されたのであった。





――蟻地獄――。





 それは此の世では秘められたままでなければならぬ宿命を持った存在として幼児の私には感じ取られたのかもしれなかった。それ程までに《蟻地獄》といふ言葉は何とも不思議な《魔力》を持った言葉なのである。その後何年も経なければ知りやうもなかった《深淵》といふ言葉が、蟻地獄のそれと気付いたのはパスカルの「パンセ」を読んだ時であったが、幼児の私は、《深淵》といふ言葉を知る遥か以前に《深淵》に対するある種くっきりとした《形象》を、蟻地獄を知ったことで既知のものとして言葉以前に直感的なる《概念》――それを《概念》と呼んでよいのかどうかは解からぬが――、しかし、《概念》若しくは《表象》若しくは《形象》等としか表現できないものとして私の脳裡の奥底にその居場所を与へられることになったのであった。





――蟻地獄――。





 蟻やダンゴ虫等、地を這ふ生き物を餌としてゐた蟻地獄の生態を知るにつけ、成程、蟻地獄を捕まへるべく蟻地獄の巣ごと手で掴み取った時に、蟻やダンゴ虫の死骸も一緒に掌の上にあったのも合点のいくことであった。それにしても蟻地獄の生態は奇妙なものであった。何故蜘蛛の如く罠を仕掛けてじっと餌があの小さな小さな小さな擂鉢状の罠に落ちるのを待ち続ける生き方を選んだのか、幼児の私は知る由もなかったが、しかし、その生き方にある種の《断念》の姿を、もっと態よく言へば《他力本願》の姿を見たのかもしれなかった。





 《自力》で餌を追ふことを《断念》し、只管(ひたすら)あんなちっぽけな擂鉢状の穴凹に蟻等が落ちて来るのを待つ《他力》に自らの生死を全的に任せてしまったその蟻地獄の生き方に、餓死することも覚悟した上での《他力本願》の一つの成就した姿を、幼児の私は親鸞を知る遥か以前に知ってしまったのかもしれず、その蟻地獄の、一方である種潔い生き方は、尚更、蟻地獄を興味深き《正覚》した生き物として、しかし、当の私本人はそれとは露知らずに脳裡に焼き付けることになったのかもしれなかった。





――蟻地獄――。





 蟻地獄にとって餓死は普通にある当たり前のことであることが解かると、私にとって蟻地獄はそれだけで既に餓鬼道を生きる愛おしい生き物に成り果せたのであった。





――蟻地獄――。





 この愛しき生き物の生き方は幼少の私にとって特別な衝撃を与へ、その衝撃の影響の大きさはずっと私の脳裡に留まり続けたまま、後年はっきりと言葉で知ることになった《他力本願》を此の世で実践して見せる《正覚者》として、また、蟻地獄は他の生き物と比べて別格の生き物として、私に記憶されることになったのであった……。





(二の篇終はり)





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2009 01/24 04:00:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――実際基督教の《神》は滅んだかい? 





――いや……、厳然として今も存在してゐる。





――ふっ、それじゃあ、宗教から派生した筈の科学は《霊魂》や《神》の存在を全否定出来たかい? 





――いや……。





――そりゃ当然さ。元々科学は宗教から派生したものだからな。つまり《神》が創り給ふたこの世界を証明することが科学の究極の目標なんだから、科学に《霊魂》や《神》を否定出来る筈がない! 





――それでも《主体》の《気分》で物事を決定するのは余りにも危険過ぎやしないかね? 





――当然危険極まりない! しかし、先程も言ったやうに残念ながら《主体》は一度《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を最早背負ってしまってゐる……。さうしなければ《主体》は《主体》ならざる《存在者》として《開眼》出来やしない! その為にも《主体》は己の《気分》に忠実に従はなければ《世界》に《溺死》するにも《主体》は浮かばれやしない。それに《気分》に重きを置いた先人にハイデガーがゐるじゃないか! 





――成程……。ハイデガーも《死》に対する《不安》といふ《気分》に重きを置いた何処かしら東洋的な匂ひの漂ふ先人には違ひない。しかし、《世界》に《溺死》するとまではハイデガーは言ってやしないぜ! 





――事此処に至っては《主体》は《世界》に《溺死》する外ない処まで既に追ひ込まれてしまってゐる……。それ故に《世界》に《溺死》する様を次世代にまざまざと見せつけて《主体》の存在の在り方の一つとして後世にその成否の判断を仰ぐしかない。吾々の世代は先づ《世界》に《溺死》して見せることがその存在理由になっちまったのさ、ちぇっ。さうして生き恥を曝すのさ。





――進退此処に谷(きは)まれり――か。





――ふっ、武田泰淳か……。





――何時の時代も《死》が付いて回る。ブレイクじゃないけれども《不死》は必然的に滅びる運命にある。《生》が泡沫の夢ならば《不死》も泡沫の夢さ。ならば《主体》は見事に《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を元来負ってゐる……。何故と言って《主体》の死滅後も《世界》は相変はらず依然として存在するからな。





――《主体》第一主義、即ち実存主義等はもう幕引きの時か――。





――その為にも《主体》は《世界》に《入水(じゅすい)》して、見事に《溺死》しなければならぬ存在体としてしか、皮肉なことだが、もう此の世で生き残る術はないのさ。





――生き残る? 





――ああ、さうさ。生き残るだ。





――《溺死》するのじゃないのかい? 





――勿論《世界》に《入水》して《溺死》するのさ、《主体》は。しかし、《主体》は《溺死》するが《主体》以外の《もの》として《主体》は新生するのさ。





――新生と言へば聞こえはいいが、しかしそれは結局のところ、《主体》の《存在》といふ《厄》を払ふ禊(みそぎ)に過ぎないのじゃないかい? 





――ふっ、その通り、《主体》の単なる禊に過ぎぬが、しかし、この《存在》に呪はれた《主体》は《世界》に《入水》して禊を行はなければ、最早一時も《存在》出来やしないのさ、哀しいことにな。





――その《入水》時、へっ、《実体》と《反体》は《溺死》する中で遂に対消滅が起こる。つまり、此の世ならぬ《光》を見る、否、なるといふことだね? 





――ふっふっふっ。対消滅しても《吾》といふ意識は残るぜ。此の世ならぬ《光》となってもね。





――へっへっ、その時、時間は一次元の殻を破ってゆっくりと渦を巻く無限の相の時空間となって《吾》を包み込み《吾》の現前に拡がる……ちぇっ、下らない夢想だ! 





――下らないかね? 俺には面白さうに思へて仕方ないぜ。此の世ならぬ《光》となりし《吾》を想像し給へ。へっへっへっ、これ以上面白さうな事があるかい? 





(十六の篇終はり)





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2009 01/19 03:31:41 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――無と無限の間だぜ。





――《杳体》が牙を剥いてゐると言った筈だぜ。つまり、《杳体》は奈落の底へと自由落下する中で《重ね合はせ》が起きてゐるのさ。





――《重ね合はせ》? それは《杳体》と《主体》が渾然一体となってゐるといふ意味かね? 





――一言で言へば《渾沌》さ。





――へっ、《渾沌》ね。それは逃げ口上ではないのかい? つまり、何でも《渾沌》に《収斂》させればいいってもんじゃないだらう。





――ぷふぃ。《渾沌》に《収斂》するだと? そんな言ひ種はないだらう! それを言ふんだったら《渾沌》に《発散》させてゐるだらう? 





――其処さ。《発散》する外ない《渾沌》に主体は堪へ得るのだらうか? 





――ふっ、だから《重ね合はせ》といってゐるのさ。





――ちぇっ、それじゃ無へと収斂し、無限へと引き伸ばされる《杳体》なる《もの》とは、それでも《存在》の類なのか? 





――それは《有限》なる《もの》の先入見でしかない! 《無》へ《収斂》するといふ、また《無限》へ《引き伸ばされる》といふ保証は何処にもありはしないぜ。





――ちぇっ、結局は特異点の問題か――。





――先づ、特異点が此の世の至る所に存在することを認めるんだな。つまり、《地獄》は此の世の何処にも存在する。





――へっ、特異点は《地獄》の別称なのかい? 特異点は《浄土》かもしれないぜ。





――その通りだ。特異点は《地獄》かもしれず、さもなくば《浄土》かもしれない。へっ、それは《杳体》に《重ね合ふ》《主体》次第といふことだな。





――ふっ、無と無限の間を揺れ動く……か……。





――其処には、物質に反物質があるやうに、存在体にも反存在体、略して《反体》と呼ぶが、その《反体》の位相も含まれてゐるのか? 





――勿論、含まれてゐなければならない。





――ならば対消滅はしないのか? 物質と反物質が出遭ふと《光》といふEnergie(エネルギー)へと変容して此の世から消滅するやうに、《杳体》と《重なり合ふ》《主体》は《反体》と出遭ふその刹那、対消滅はしないのかい? 





――ふっ、勿論、対消滅は起こるだらう。しかし、それでも尚《主体》は《杳体》と《重なり合った》まま無と無限の間を揺れ動くのだ。そもそも無と無限の間を揺れ動くのに《光》が怖くてどうする? 《光》もまた《杳体》の位相の一つに過ぎない。





――《光》ね。さて、《光》なる吾とは一体どんな感じなのだらうか? 





――《杳体》に《重なり合へ》ば、全ては明らかになるさ。





――無と無限の間を揺れ動くんだからそれは当然といへば当然だな。それにしても《光》となったら、それは、多分、壮観だらうな。





――何故さう思ふ? 





――唯何となくそんな気がするだけさ。だってさうだらう。質量のないEnergie体へ変化するんだぜ。





――でも重力からは解放されない! 





――それでも吾は《光》となって《発散》し、そして此の世から消えられるんだぜ。その上、吾は《私》であり続ける不思議。その時吾は宇宙全体に偏在してゐるのか、はたまた特異点の《地獄》の中を彷徨してゐるのか? 





――自己の消滅がそんなに待ち遠しいのか? ふっ、しかし、それでもお前は《私》であり続けるか、へっ。さうに違ひないが、さて、お前はその時何処に行くのだらうか?  





――多分、此岸と彼岸の間(あはひ)を彷徨してゐるのかもしれぬ。





――否! お前は一気に死の領域へ踏み込んでゐる筈さ。さうでなければ、お前が《私》として存在する意味がない! 





(二 終はり)





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2009 01/17 03:47:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――時間を無限の相へと還元し解放すると、これまでの世界の認識の仕方と全く違ふ世界認識の仕方を身に着けないと《主体》は《世界》の中で息継ぎも出来ずに《世界》に《溺れる》、つまり《溺死》しないかい? 





――ああ、さうさ。《主体》は今のままでは《世界》の中で《溺死》する……。しかし、一度《世界》の中で《溺死》しなければ《主体》は《世界》がこれまでに認識してきたものと全く違った様相を呈することに気が付きゃしない! 





――だが、これまでの《主体》の世界認識の仕方は《世界》がさう強ひた結果の産物じゃないのかね? 





――さうさ。《世界》が《主体》に強ひたものだ。それ故に《主体》は強ひられしその世界認識から解放されなければならない。





――お前はそれが可能だと? 





――さうしなければ、既に暴走を始めた《主体》は鎮められぬ。諸悪の根源は時間が一次元に押し込められてゐることさ。それを打破する為にも《反体》といふ概念は必要なのさ。





――《反体》が時間を一次元から解放すると? 





――お前は既に其処に因果律が成立しない《特異点》を見出してゐるじゃないか? 





――其処に《反体》は存在すると? 





――ふっ。少なくともお前はさう考へてゐる! 何故なら《反体》をでっち上げなければ存在について一言も語れぬやうにお前の思考は追ひ詰められてしまってゐる……。確か存在は《特異点》を隠し持ってゐると言った筈だが、つまり、何が言ひたいかといふと、《実体》は存在する以上《反体》を隠し持ってゐるといふことさ。





――へっへっ、遂に本音が出たね。《単独者》としての《実存主義》はそろそろ幕を下ろさないといけない。《実存主義》が言ふやうな《実体》は《単独者》なんかではちっともなく《反体》を既に隠し持ってゐる《対存在》であるに違ひない。





――それでその証左が、つまり、《影》だらう? 





――さう……幻影にも似た影鏡存在……。





――頭蓋内が闇であることが既に《反体》を棲まはせるに十分な、更に言へば、瞼が存在する生き物は既に《反体》を認識してゐる筈さ。





――ふっ、闇といふ《内部》を持つ以上、《反体》はでっち上げられるべくしてでっち上げられたといふことか! 





――闇ありてまた《反体》もあり! 





――そして《実体》も存在せり――か。しかしだ、さうすると、存在の《内部》では絶えず《実体》と《反体》の対消滅が起こってゐる筈だぜ? これを何とする? 





――ふっ、それがつまり《意識》とか《想念》とか《思考》とか呼ばれてゐる《脳》の、或ひは《五蘊場》の現象だとは思はないかい? 





――ふっふっ、お前は本当のところ《内部》で起きてゐる《実体》と《反体》の対消滅を《魂》と名指ししたいのと違ふかい? 





――ふっふっふっ、さうさ。その通り《魂》さ。だがかうも言へるぜ、それは《神》、それも八百万の《神》と。





――すると《魂》と《神》との位相は類似的だと? 





――さあ、それはどうだか解からぬが、しかし、少なくとも《魂》の類は《実体》が存在する以上、存在すると看做した方が自然な気がする。





――自然な気がするだと? 





――ああ、自然さ。反対に《魂》も《神》も《意識》も《思考》も《想念》も何もかも存在しない、つまり、《霊魂》の存在を否定する方が不自然な気がする。





――不自然な気がするだと? 何もかも《気》がするに帰してしまって、つまり、《気分》の問題にしちまっていいのかい? 





――へっへっへっ、《気分》は侮り難しだ。逆にこれまで《霊魂》や《神》の存在を理詰めで徹底的に否定出来た試しがあるかね? 





――しかし、少なくともニーチェは「神は死んだ」と声を上げたぜ。





――ふっ、それは暴走を始めた《主体》に押し潰されまいとして苦し紛れにやっと発せられた譫言(うはごと)に過ぎない。





――ニーチェの言葉が譫言だと? 





(十五の篇終はり)







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2009 01/12 03:35:34 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《個時空》たる《主体》が絶えず夢想する《他》への憧れは、《他》たる《個時空》、即ち《他者》を此の世に見出す故に、この宇宙の涯を見てゐると?





――さうさ。《個時空》たる《主体》は此の世で《他》を見出すことでばっくりと口を開けた《パスカルの深淵》を閉ぢることが可能なのさ。





――《パスカルの深淵》が閉ぢる? 





――つまり、《他》といふ宇宙の涯を見出したことで《個時空》たる《主体》は《パスカルの深淵》を跨ぎ果せることが可能なのさ。





――えっ、さっきは飛び込まざるを得ぬと言ひながらその口が乾かぬうちに《パスカルの深淵》を跨ぎ果せるだと? 矛盾してないかね? 





――へっへっへっ。矛盾は大いに結構だね。といふよりも矛盾してゐない論理的な言説は嘘っぱちに違ひないぜ。





――つまり、矛盾は《パスカルの深淵》と同類だと? 





――へっへっへっ。《他》の存在がそもそも《個時空》たる《主体》にとって大いなる矛盾の出現じゃないかね? 





――ふむ。すると、《パスカルの深淵》を覗き込み、そして其処へもんどりうって飛び込むと、その深淵の底に《他》の相貌が出現すると? 





――さう思ひたければさう思ふがいいさ。しかし、《パスカルの深淵》の底には《他》の相貌は現はれないぜ。





――何故現はれないと? 





――《パスカルの深淵》は底無しだからさ。





――へっ、つまり、虚無主義といふことかね? 





――虚無主義ね――。へっ、虚無主義は「此の世で一番大好きなのは何を隠さう《自分自身》に外ならない!」と宣言してゐるやうなものだからな。へっ、虚無主義を気取ったところで結局のところそれはNarcist(ナルシスト)でしかない! 





――ふっふっ、成程、さういふことか! つまり《パスカルの深淵》は鏡面界といふことか! 鏡の間にぽつねんと置かれた《個時空》たる《主体》は只管(ひたすら)吾を凝視する悦楽の中で溺死するといふことか? 





――へっ、何時まで経っても見えるのは吾のみなり! それじゃ吾が吾を不快に思ひ吾を嫌悪するのも無理からぬ話じゃないか。





――つまり、自同律の不快とは自同律の悦楽に飽き飽きして倦み疲れた吾が鏡に映る吾を嫌悪するに至る自己愛の成れの果てといふことか。そしてそれが《パスカルの深淵》の正体といふことか――。





――否! 《パスカルの深淵》はそんな甘っちょろいものじゃないぜ。今《パスカルの深淵》は底無しと言ったばかりだらうが! 





――自己嫌悪の先がまだあると? 





――勿論! 次には自他無境の様相に吾は至る。





――自他無境? それは正覚乃至は大悟の別称か? 





――否! 自他無境とは自他共振といふ様相を呈するものさ。パスカルの底無しの深淵に自由落下し続ける吾といふ或る意識体は、底無しの《パスカルの深淵》に無数に浮かび上がる《他》の相貌、へっ、それは異形の吾でしかないんだがな、その《他》の相貌の面を被るが如くに自家薬籠中のものとしてその無数の《他》の相貌と共振を起こす――。





――それは、つまり、自同律の悦楽ではないのかね? 





――いや、悦楽の相とは違ふものだ。その時吾は戸惑ってゐる筈さ。《他》といふ異形の吾共と共振してゐる吾の不思議に吾ながら驚くに違ひない。しかし、それは寸時の事で、その後吾は己がパスカルの底無しの深淵に自由落下してゐることを失念してゐて、只管吾と向き合ひながら吾とは《他》なりと合点して、自他無境の位相にゐる吾が独り「ひっひっひっ」と笑っている姿を見出す筈さ。





――それは正覚ではないのか? 





――否。自他無境の位相では未だ吾の全肯定には至らない。否、至るわけがない! 唯、自他無境の位相を夢中遊行するのみさ。





――夢中遊行? 





(二の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp





2009 01/10 04:22:48 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、此の世の諸相が全て主体次第だとすると、主体は暴走するんじゃないかね? 





――へっ、既に暴走してゐるじゃないか! 





――やはりお前も既にと思ふか……。





――でなければ主体は物体を奴隷として扱ひはしないんじゃなにいかね、ん? 





――物を単なる消費財として扱ってゐる一方で、主体は物体を愛でるぜ。





――ふっふっ、消費財だと? だから主体は客体に押し潰されるのさ。





――客体に押し潰される? 





――へっ、既に主体は客体たる製品を使ひこなせずに製品に使はれてゐるじゃないか! 





――その主体とは《人間》のことか? 





――否、此の世の《存在》全てだ! 





――此の世の《全存在物》が「吾は!」と自己主張し我を張り始めてゐるとでも考へてゐるのかい? 





――さうさ。既に《主体》は《客体》などお構ひなしに暴走を始めてゐる。その一例として《人間》があるに過ぎない。





――何時の頃から《主体》は「吾は! 吾は! 吾は!」と我を張り始めたと思ふ? 





――さてね。しかし、お前が《反体》をでっち上げなければならない程、《主体》は《主体》によって、つまり《主体》たる《客体》に押し潰されてゐるのは間違ひない。





――《主体》たる《客体》? 





――さう。《主体》たる《客体》だ。





――つまり、《主体》は何時でも《客体》にその様相を変へるといふことか? 





――ふっ。《自分》以外は全て《客体》だからな。しかし。それだけじゃないぜ。吾が《自己》と考へてゐるもの自体がそもそも客観的に吾の思考に浮かび上がって来る不思議をお前は何と説明する? 





――頭蓋内の闇には既に《反体》の兆しがあると? 





――さうさ! 兆しどころか《反体》か棲んでゐるじゃないか。





――お前は既に頭蓋内の闇には《実体》と《反体》の共存が成立してゐると? 





――へっ、弁証法とはそもそも何だね? もっと簡単に言ふと《心の葛藤》とはそもそも何だね? 《主体》がそもそも綻んでゐる証左じゃないかね? 





――ふっ、お前は《主体》はそもそもからして綻んでゐると? 





――さうさ。《完璧》な《主体》は、さて、宇宙史上此の世に現はれたことはあるのかい? 





――《完璧》な《主体》とは、つまり、《神》のことかい? 





――別に神でなくとも結構さ。何でも構はないから宇宙史上《完璧》な《主体》が存在した可能性は、さて、確立にすると幾つかね? 





――……零さ――。《主体》が《完璧》であってはならない! 





――へっへっへっ、それは何故だい? 





――時間が移ろふからさ。





――それじゃあ、時間が止まれば《完璧》な《主体》は此の世に出現するのかね? 





――時が止まった世界で《完璧》を問ふことに何か意味があると思ふのかい? 





――へっへっへっ。無意味だね。時間が止まれば《完璧》もへったくれもありゃしない! それ程までに《存在》にとって決定的な存在たる時間が一次元である筈がないと思はないか? 





――ああ、実際Analog(アナログ)時計では長針と短針は回転、つまり、渦を巻いてゐるね。





――今になって時間を一次元に押し込めた弊害が目立って、綻んで来た《時代》はないね――。





――やはり綻んでゐるかね? 





――ああ。《実体》と《反体》が共存するには時間の位相も諸相あっていい筈さ。





――つまり時間もまた無限の相を持つと? 





――つまり三輪與志ならぬ皆善しといふことさ。





――何を地口で遊んでゐる! 





――それそれ、その生真面目さが時間を一次元へと押し込めた張本人だぜ、へっ。





(十四の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。 http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 01/05 05:21:31 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、ところで、人間が矛盾と言ってゐるものが矛盾であることを人間はどうやって証明するのだらう? 





――矛盾であることを証明するだと? 





――さう……。矛盾はそれが矛盾であることが証明できない限りその矛盾は矛盾ではない。





――つまり、それは人間が無知であると言ひたいのか? 





――いや、無知とまでは言はないが、矛盾が矛盾であることが証明できない以上、それはもしかすると真実かもしれない不確実性を含み持ったものだといふことさ。





――へっ、にたりと笑ひやがって! 





 《そいつ》は私の瞼裡でいやらしくにたりと笑ひ、しかし、その眼光は尚更鋭き輝きを放ちながら私を睥睨するのであった。





 それにしても《そいつ》の相貌は何と醜いのであらうか。つまり、「私」は何と醜いのであらうか――。





――つまり推定無罪と言ふ事だ――。





――推定無罪? 





――さう。矛盾が矛盾であることが証明出来ぬ以上、それは推定《真実》と言ふ事さ。





――ふむ。それで「矛盾が論理にとって宝の山」と言った訳か……。――そして論理は其処に矛盾を内包してゐなければ、その論理は不合理であると? 





――さうさ。矛盾を内包してゐない論理は論理にはなり得ぬ論理的がらくたに等しい代物さ。





――論理的《がらくた》か……。しかし、論理は矛盾を内包出来る程寛容なのであらうか? 





――へっへっへっ、寛容でなければその論理は下らない代物だと即断しちまった方がいい! 





――つまり、論理的に正しいことが即ち不合理であると言ふ事か? 





――論理が矛盾を孕んでゐると、つまり、それは今のところは論理的には破綻を来した《論理的底無し沼》にしか見えないが、しかしだ、論理に《論理的底無し沼》といふ《深淵》がなければ、人間の知は《平面的》な知に終始する外ないぜ。





――《平面的》知? 





――簡単に言へば、矛盾無き論理は《平面》の紙上に書かれた言の葉に過ぎず、その言の葉に《昇華》はない。論理は論理を言霊に《昇華》出来なければそんな論理は論理の端くれにも置けぬ! 





――しかしだ、それだと原理主義の台頭を認めることにならないか? 





――原理主義が唱へる論理に《矛盾》は内包されてゐるのかい? 





――傍から見れば原理主義は矛盾だらけなのに、原理主義者の頭蓋内にはこれっぽっちも《矛盾》は存在しないか――。つまり、《矛盾》は狂信の安全弁になり得ると言ふ事か。……しかし、《矛盾》は《渾沌》を呼ばないのかい?





――《渾沌》! 大いに結構じゃないか! 





――ちぇっ、またいやらしい顔でにたりと笑ひやがって! 





 《そいつ》がにたりと笑ふ顔は何時見てもおぞましいものであった。即ち、「私」自体がおぞましい存在でしかなかったのである。





――「不合理故に吾信ず」といふ箴言は知ってゐるな? 





――ああ、勿論。





――論理とは元来不合理な、或るひは理不尽なものさ。否、論理は不合理でなければ、若しくは理不尽でなければ、それは論理として認められはしない。





――その言ひ種はさっきと《矛盾》してゐるぜ。ふっふっふっ。





――ふっ、だから論理は《矛盾》を内包してゐなければそれは論理として認められぬと言ってゐるではないか、へっへっへっ。





――その論理の正否を判断する基準は何なのだらうか? 





――ちぇっ、《自然》に決まっておらうが! 





――《自然》? 





 《そいつ》の鋭き眼光は更に更に更にその鋭さを益して私を睨みつけるのであった。





――《自然》以外に人間、否、《主体》の判断基準が何処にある? 





――信仰は? 





――ちぇっ、神の問題か……。





(二の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 01/03 03:12:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふむ。それは《反体》を認識するかしないかの違ひに過ぎないのだらうよ。しかし、それは存在に対する存在の姿勢が試される、何とも唯識に近しい世界認識の仕方の一つに過ぎない筈だ。ところが、存在は《存在》に我慢がならぬときてるから始末が悪い。ふっ、影鏡存在もまた影鏡存在に我慢がならぬ……か――。





――ふっ、それを言ふなら《反体》もまた《反体》に我慢がならぬだらう……。





――さて、そこで《反体》は《実体》を渇望してゐるのだらうか? 





――さてね。へっへっ。《反体》に聞いてみるんだな。





――ぶは、《反体》に聞けだと? 《反体》に聞く前に《実体》は《反体》と対消滅するのにかね? 





――答へは《光》のみぞ知る……だ。





――《光》か……。《光》は謎だ! 





――へっ、光陰矢の如しならぬ光陰渦の如しがこの時空間を表はすのにぴったりの言葉さ。





――光と影は渦の如しか……。





と、その時彼の脳裡にはゴッホの「星月夜」がひょいと思ひ浮かんだのであった。そして彼はゆっくりと瞼を開けて前方に無限へと誘ひながら拡がる闇を凝視するのであった。





――渦巻く時空……。





――全ての、つまり森羅万象はカルマン渦の如く此の世に存在する。





――カルマン渦? 





――さう。移ろふ時空の流れの上にぽつねんと出現する時空のカルマン渦……。陰陽が渦巻く処、其処に存在足り得る何かが出現する。





――光といふEnergie(エネルギー)に還元出来る質量を持った物体が影を作るのは陰陽が渦巻いて出現した為か……。





――影ね……。時空のカルマン渦たる《主体》が影を作ることからも《実体》が影鏡存在たることは自明のことさ。





――自己といふ《もの》を闇にしか映せない影鏡存在か……。





――ふっふっふっ。……闇は何もかも映し……そして何にも映さない……此の世の傑作の一つさ。





――闇なくしては光もまた輝かぬからな。





――へっへっ、お前は闇の中で一つの灯りを見つけたならば、その灯り目指して光の下へ馳せ参じるか? 





――ふっふっ。多分、俺は光に背を向け、闇に向かって進む筈さ。





――はっはっはっ。それはいい! じゃなきゃ《反体》なんぞ自棄のやんばちででっち上げる筈もないか、ちぇっ。





――なあ、本当のところ、此の世の《特異点》には《実体》も《反体》も共に存在してゐるのだらうか? 





――ん? 今更如何した? ふっふっふっ。お前は端から《存在》すると看做してゐるじゃないか? 





――ああ、さうさ。俺は此の世の《特異点》には《実体》と《反体》が共存し、そして対消滅しては、再びその対消滅の閃光の中から《実体》と《反体》が出現し、再び対消滅を繰り返す、光眩い世界として《特異点》を思ひ描いてゐることは確かだが、しかし、それは地獄の閃光だ。





――何故地獄の閃光だと? 





――何故って、《実体》と《反体》とは対消滅時に一度《存在》を変質させるんだぜ。





――《存在》を変質させる? 





――つまり、《光》といふ《謎》の何かに《存在》は変質する。





――つまりは《光》は《存在》の未知なる様相だと? 





――だって、《実体》と《反体》とは対消滅するんだぜ。つまり、《光》となって《消滅》するんだぜ。それが《謎》でなくて如何する? 





――へっへっへっ、《謎》ね――。《光》を此岸と彼岸の間を行き交ふ《存在》と看做してゐるお前が、《謎》だと? ぶはっはっはっ。可笑しくて仕様がない! 《光》は此岸と彼岸を繋ぐ架け橋だと、否、接着剤だとはっきり言明すればいいではないか、ちぇっ。





――……なあ……それ以前に《意識》や《思念》や《想念》や《思考》とか呼ばれてゐるものは電磁波の一種、つまり、《光》の一種なのであらうか? お前は如何考へる? 





――……ふむ。……それは《主体》が如何思ふかによって決定するんじゃないか? つまり、《意識》や《思念》等は《主体》次第で何とでもその様相を変へる変幻自在な何かさ。





と、そこで彼は再びゆっくりと瞑目しては物思ひに耽るのであった。





(十三の篇終はり)







2008 12/29 03:04:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 それは近所の神社の境内で罐蹴りか、或ひはかくれんぼをしてゐた最中に不意に高床の社の床下に隠れやうとした刹那に見つけてしまった筈である。それが薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の幼虫である蟻地獄と名付けられたものの在処であったことは、家に帰って昆虫図鑑で調べるまでは解からなかった筈なのに、幼少の私はその擂鉢(すりばち)状をしたその形状を一瞥しただけで一辺に惚れ込んだ、つまり首ったけになったのは間違ひないことであった筈である。其処には、丁度雨が降りかかるか降りかからぬかの際どい境界の辺りに密集して、擂鉢状の小さな小さな小さな穴凹が天に向かって口を開けて並んでゐたのであった。さて、さうなったなら罐蹴りかかくれんぼかは判然としないが、どちらにせよ、そんなものはそっちのけで未知なる蟻地獄を調べることに夢中になったのは当然の成り行きであった筈である。それは、多分、こんな風に事が運んだ筈である。先づ、擂鉢状の蟻地獄をちょこっと壊してみるのである。さうして、そのままちょこっと壊れた蟻地獄をじっと凝視したままでゐながら己でははっきりとは解からぬが何かが現はれるのを仄かに期待してゐる自分に酔ふ如くにそのまま凝視してゐると、案の定、其処は未知なる生き物の棲み処で小さな小さな小さな擂鉢状の穴凹の底の乾いた土がもそっと動いたかと思ふと、直ぐ様餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてか、蟻地獄の主たる薄羽蜉蝣の幼虫が頭部で土を跳ね上げる姿を幽かに見せて、暫くするとそのちょこっと壊れた蟻地獄を巧みにまた擂鉢状に修復する有様を目の当たりにした筈である。幼少の私は、思ひもよらずか、或ひは大いなる期待を抱いてかは如何でもよいことではあるが、しかし、その擂鉢状の乾いた土の中から未知なる生き物が出現したのであったから歓喜したのは言ふまでもない。さうなったからには修復されたばかりの擂鉢状をした蟻地獄をまたちょこっと壊さずにはゐられなかった筈である。今度はその小さな小さな小さな擂鉢状をした乾いた土の穴凹に棲む未知なる生き物たる蟻地獄を捕まへる為である。幼少の私は、特に昆虫に関しては毛虫やダニや蚤やゴキブリに至るまで素手で捕まへなくては気が済まない性質であったから、未知なる生き物を捕まへようとしたのは間違ひのないことであった。期待に反せず蟻地獄のその小さな小さな小さな乾いた土の穴凹の底がもそっと動いた刹那、私はがばっと土を掴み取り、その擂鉢状の穴凹に棲んでゐる主を乾いた土の中から掬ひ上げたのであった……。





 それは朽木に巣食ふ白蟻をちょっとばかり膨らませたやうな、或ひは鋏虫(はさみむし)の一種のやうな、或ひはダニの一種のやうな、或ひは蜻蛉(とんぼ)の幼虫であるやごに姿形が似てゐることから蜻蛉の一種の幼虫のやうな、将又(はたまた)私が知らない鍬形虫(くはがたむし)の新種のやうな、兎に角奇妙でゐて底知れぬ魅力に富んだ姿形をしたその生き物が乾いた土の中から蟻やダンゴ虫等の虫の死骸と共に現はれたのである。





――何だこれは? 





 未知の生き物との遭遇は何時も胸躍る瞬間である。唯、幼少の私はその毛虫の如き、或ひは、天道虫(てんとうむし)の幼虫のやうな、将又蜻蛉の幼虫たるやごにも似たその姿形を見た刹那、蛾の仲間か、或ひは蜻蛉か、或ひは天道虫や甲虫(かぶとむし)や鍬形虫と同じやうに、何かの昆虫の幼虫であることは直感的に見抜いた筈である。





――何だこれは? 





 掌中に残った土に姿を隠さうと本能的にもそもそと後じさりするその未知の虫の未知の幼虫をまじまじと凝視しながら何度も私は心の中で驚嘆の声を上げた筈である。





――何だこれは? 





と。次に私は、多分、恐る恐るその小さな未知の生物を触ったに違ひない。そしてそれは思ひの外ちょこっとばかり柔らかいので再び





――何だこれは? 





と驚嘆の声を心中で上げた筈である。さうして私はその未知の生き物を眺めに眺めた末に元の乾いた土の上にその未知なる生物を置き、将又まじまじとその未知なる生き物の所作を観察した筈である。その未知なる生き物はあれよと言ふ間に土の中に潜り、小一時間程そのまま眺め続けてゐるとその生き物が平面の平らな乾いた土を擂鉢状に鋏状になった頭部で跳ね上げながら巧みに作り上げる様を飽くことなく眺め続けた筈である。それにしても幼児とは残酷極まりない生き物である。知らぬといへ、蟻地獄の餌である蟻等の地を這ふ昆虫がその小さな小さな小さな擂鉢状の乾いた土の穴凹に落ちることは蟻地獄にとって正に僥倖に違ひなく、蟻地獄とは何時も餓死と隣り合はせに生きる生き物であったので、蟻地獄の巣が少しでも壊れると温存しておかなければならぬ体力を消耗してまで蟻地獄は土を跳ね上げて餌を穴凹の底に落としにかかる労役に違ひない体力を消耗することを敢へてするにも拘はらず、幼少の私は、やっと出来上がったばかりの擂鉢状のその小さな小さな小さな蟻地獄の巣を再びちょこっと壊しては、再度餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてその乾いた土の穴凹の底で土を跳ね上げては虚しき労役をした挙句に再び擂鉢状に乾いた土を巧みに作り上げるといふ、幼少の私にはこれ程蠱惑的なものはないと言ったその蟻地獄の一挙手一投足の有様をみては、再びその蟻地獄をちょこっと壊すことを何度となく繰り返しながら、何とも名状し難い喜びを噛み締めてゐた筈である。





 最初に土を掬ひ上げた時の蟻等の昆虫の死骸が蟻地獄の餌であることはその日満足の態で家に帰って昆虫図鑑で調べるまでは解からなかったに違ひない幼少の私は、その時、その周辺に密集してゐた蟻地獄の巣を次から次へと壊しては蟻地獄にその擂鉢状の乾いた土で出来た巣を修復させるといふ《地獄の責め苦》を、知らぬといへ蟻地獄に使役させることに夢中になってゐたのであった……。幼少の私にとっては蟻地獄が土を跳ね上げる様が力強く恰好よかったに相違なく、私はその後も何度も何度も擂鉢状の蟻地獄の巣を壊しては蟻地獄が頭部で乾いた土を跳ね上げる様を見てはきゃっきゃっと心中で歓喜しながら蟻地獄に対して地獄の労役をさせ続けたのであった……。





(一の篇終はり)







2008 12/27 07:51:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――其処には死んだもの達と未出現のもの達の位相は現はれないのかね? 





――勿論、それらは無限の位相となって《実体》と《反体》の前に現はれる筈さ。





――其処には勿論、全宇宙史の諸相も含まれてゐるね? 





――さうさ。自己弾劾する為にね。なにせ影鏡存在なんだから。





――ふっふっふっ。私は曼荼羅の荘厳な景観と対峙したいものだ。





――それも一瞬の出来事さ。





――しかしその一瞬が永劫じゃないのかね、《実体》と《反体》が対峙する影鏡存在が存在する《特異点》の世界は。





――しかし、∞=∞は成立するのかな? へっへっ。





――ちぇっ、自同律の問題か――。多分、《特異点》の世界では自同律からも解放されるんじゃないか? 





――つまり、∞=∞は成立すると。





――いや、成立するんじゃなくて解放される。





――つまり、∞=∞であって∞≠∞といふことか――。





――それ以前の問題として影鏡存在では主客混淆の或る意味滅茶苦茶な世界で「吾、無限なり」と思念すれば「吾なるものは」即「無限」になってゐるのさ。なにせ無秩序な、つまり、渾沌の世界だからね、影鏡存在は。





――それでも《実体》と《反体》は存在しなければならないのか? 





――共に存在しなければならない。《実体》と《反体》による対消滅において全ては光となって消えるその対消滅の一瞬の時間が《極楽浄土》そのものだ。





――意識もまた《実体》の《意識》と《反体》の《反=意識》とで対消滅するのだらうか? 





――ん? それはどういふ意味かね? 





――例へば《実体》と《反体》の各々が《意識》と《反=意識》の各々を持つそれぞれの存在体同士の目が合ったその時にそれぞれの頭蓋内に湧出する筈の《自意識》は対消滅するのだらうか? 





――うむ。《意識》と《反=意識》の対消滅が起こればそれは面白いだらうな……。





――つまり、《実体》の《意識》と《反体》の《反=意識》の対消滅は起こらないと――。





――何せ、《実体》と《反体》が生滅する世界は影鏡存在に過ぎないからね。





――つまり、其処に意識や心は映らないと? 





――さて、《特異点》の世界で果たして内界と外界の区別は意味があるのかな……。





――すると、其処では彼方此方で《実体》の《意識》と《反体》の《反=意識》が対消滅してゐると? 





――多分、彼方此方で対消滅の閃光が輝いてゐる筈さ。





――それも内部と外部の両方でか――。





――そもそも特異点の世界では内と外といふ考へ自体が成り立たない。内が外であり外が内である奇妙奇天烈な世界さ。へっ、狂人じゃなきゃそんな世界に一時たりともゐられやしない。しかし、影鏡存在を前にして《実体》も《反体》も正気を強ひられる。へっ、正気じゃなきゃ自己弾劾は出来ぬからね。





――正気が狂気、狂気が正気の世界じゃないのかね、其処は? 





――さう思ひたければさう思ふがいい。影の鏡に映ればそれは既に影鏡存在となって存在してゐるのだから……。





――へっへっ、影の鏡に映らないものが果たしてあるのかね? 





――ふむ。何も映らないか全てが映るかのどちらかだらうね。





(十二の篇終はり)







2008 12/22 04:14:01 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――くくくぁぁぁきききぃぃぃんんん――。





 それは彼の脳が勝手にでっち上げた代物かもしれぬが、その時、時空間の《ざわめき》は例へばそんな風に彼には音ならざる《ざわめき》として聞こえてしまふのであった。そんな時彼は





――ふっふっ……。





と何時も自嘲しながら自身に対して薄ら笑ひを浮かべてはその彼特有であらう時空間の音ならざる《ざわめき》をやり過ごすのであったが、しかし、さうは言っても彼には彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられないのもまた事実であった。それは彼にとっては時空間が《場》としてすら《己》を強ひられることへの《悲鳴》としてしか感じられなかったのである。それ故か彼にとっては《己》は全肯定するか全否定するかのどちらかでしかなく、しかし、彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられない彼にとっては当然、全肯定するには未だ達観する域には達する筈もなく、只管(ひたすら)《己》を全否定する事ばかりへと邁進せざるを得ないのであった。





…………





…………





――へっ、己が嫌ひか? 





――ふっふっ、直截的にそれを俺に聞くか……。まあ良い。多分、俺は俺を好いてゐるが故にこの己が大嫌ひに相違ない……。





――へっ、その言ひ種さ、お前の煮え切らないのは。





――ふっふっ、どうぞご勝手に。しかし、さう言ふお前はお前が嫌ひか? 





――はっはっはっはっはっ、嫌ひに決まってらうが、この馬鹿者が! 





――……しかし……この《己》にすら嫌はれる《己》とは一体何なのだらうか? 





――《己》を《己》としてしか思念出来ぬ哀しい存在物さ。





――それにはこの音ならざる《悲鳴》を上げてゐる時空間も当然含まれるね? 





――勿論だぜ。





――きぃきぃきぃぃぃぃぃんんんんん――。





と、その時、突然時空間の音ならざる《悲鳴》がHowling(ハウリング)を起こしたかのやうに彼の鼓膜を劈(つんざ)き、彼の聴覚機能が一瞬麻痺した如くに時空間の《断末魔》にも似た音ならざる大轟音が彼の周囲を蔽ったのであった……。





――今の聞いただらう? 





――ああ。





――何処かで因果律が成立してゐた時空間が《特異点》の未知なる世界へと壊滅し変化(へんげ)した音ならざる時空間の《断末魔》に俺には思へたが、お前はどう聞こえた?





――へっ、《断末魔》だと? はっはっはっ。俺には《己》が《己》を呑み込んで平然としてゐるその《己》が《げっぷ》をしたやうに聞こえたがね――。





――時空間の《げっぷ》? 





――否、《己》のだ! 





――へっ、だって時空間もまた時空間の事を《己》と《意識》してゐる筈だらう? つまりそれは《時空間》が《時空間》を呑み込んで平然として出た《時空間》の《げっぷ》の事じゃないのか? 





――さう受け取りたかったならばさう受け取ればいいさ。どうぞご勝手に、へっ。





――……ところで《己》が《己》を呑み込むとはどう言ふ事だね? 





――その言葉そのままの通りだよ。此の世で《己》を《己》と自覚した《もの》は何としても《己》を呑み込まなければならぬ宿命にある――。





――仮令《己》が《己》を呑み込むとしてもだ、その《己》を呑み込んだ《己》は、それでも《己》としての統一体を保てるのかね? 





――へっ、無理さ! 





――無理? それじゃあ《己》を呑み込んだ《己》はどうなるのだ? 





――……《己》は……《己》に呪はれ……絶えずその苦痛に呻吟する外ない《己》であり続ける責苦を味はひ尽くすのさ。





――へっ、《己》とは地獄の綽名なのか? 





――さうだ――。





(二 終はり)





2008 12/20 04:16:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると、お前が言ふ《反体》とはそもそも何なのだ? 





――敢へて言へば《反=世界》若しくは《反=宇宙》に《存在》する《意識体》の総称かな。





――何の事かさっぱり解からぬが、しかし、それは《物自体》ならぬ《反=物自体》の別称かね? 





――何でも《反》にすれば成立するやうな単純なものでもないぜ。へっへっへっ。きっと《反物質》の世界でも、つまり、《反物質》若しくは《反体》の世界においても此の世の世界若しくは宇宙と同様に《物自体》は《物自体》に違ひない……。問題は其処が《特異点の世界》に違ひないといふことさ。





――何故《特異点》と? 





――へっへっへっ、こじ付けにこじ付けた上にもこじ付けただけの自棄のやんばちの論理にすらならない、ちぇっ、唯の逃げ口上さ。





――うむ。まあそれは良いとして、お前の考へでは《特異点》たる其処では無と無限まで一瞥出来てしまふ、つまり、《特異点》たる其処では《存在》と《反=存在》の全事象が事象として現はれてゐるのかね? 





――多分、《実体》が《反体》に出会ふその刹那において《存在》の全事象が出現する筈さ。但し、それは《特異点》だったならばといふ仮定の話だがね。





――《特異点》……。へっ、此の世に《特異点》が存在する限り、此の世は未完成といふ事だな。





――何故未完成だと? 





――其処は因果律の成立しない渾沌の世界だからさ。





――ふっ、渾沌は此の世の起動力だと? 





――いや、此の世に開いた唯の穴凹に過ぎない……。





――ふっふっ、五次元世界に生きる生き物がそれを見たならば、大口を開けた無数の大蛇がとぐろを巻いて蝟集してゐる様に見えるんじゃないかな。





――ふっ、どうも私には仮初にも《反体》が存在出来るといふ《特異点》の世界が此の世にあるとするならば、其処は神話的な世界に思へて仕方がないんだ。





――ふっ、私には其処は曼荼羅の世界に思へるんだが。





――曼荼羅程の秩序はないんじゃないかな、《反体》が存在する《特異点》の世界は。





――否、何でもありさ。一瞬曼荼羅の位相が現はれては一瞬にしてそれが消える。《反体》が存在する《特異点》の世界は泡沫の夢が犇めいてゐる。





――つまり、物自体も存在も未在も不在も未存在も無在も非在もそれぞれは、所謂存在が非在であり而も物自体であるといふその《場》に《反体》は数多の諸相を纏って出現し、而もその上《実体》と《反体》とは各々が存在して初めて創り上げることが可能なその《場》に一瞬出現する何かだ。





――えっ? ……先づ……お前の言ふ《反体》とは何なのだ? 





――此の世に存在せざることを強ひられし《もの》達の総称……。





――えっ? 





――《物自体》といふ黒蜜の周りに黒山を作るほどに群がる《存在》といふ名の黒蟻のその小さな小さな小さな脳裡に明滅し、此の世に現はれざることを強ひられた《もの》達の必死の形相とでも言ったらよいのか……。





――ふっふっふっ、泡沫の夢じゃないのかね? つまり、《反体》を目の前にした《実体》は対消滅する前に、銀河と銀河が衝突すると爆発的に誕生するといふStar burst(スターバースト)におけるきら星の如き《もの》達の煌めきじゃないのかな。





――さて、《反体》は《実体》の何なのかね? 





――影の鏡、つまり、影鏡存在といったらいいのかな。





――影鏡存在? やはり、《反体》も存在なのか? 





――さうさ。しかし、《反体》は此の世には一瞬たりとも存在出来ない――。





――それでは何をもって影鏡存在なのかね? 





――《実体》が《反体》に対峙すれば其処には存在と非在と無の全位相が現はれるに違ひない。それが所謂影鏡存在の正体さ。





(十一の篇終はり)





2008 12/15 04:02:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 ……ゆっくりと瞼を閉ぢて……沈思黙考する段になると……異形の吾共が……彼の頭蓋内の闇で……呟き始めるのであった……。





…………





…………





――はっ、《杳体(えうたい)》? 





――さう。杳として知れぬ存在体故に《杳体》さ。





――確か、存在は特異点を隠し持ってゐると言った筈だが、特異点を内包するしか存在の仕方がなかったこの存在といふ得体の知れぬものを総じて《杳体》と呼んでゐるのかな? 





――大雑把に言へば此の世の森羅万象がそもそも《杳体》なのさ。





――うむ。……つまり、此の世自体がそもそも《杳体》といふことか? 





――へっ、極端に言へば此の世に偏在する何とも得体の知れぬ何かさ。





――すると、特異点も此の世に遍く存在するといふことかね? 





――さうだ……。底無しの此の世の深淵、それを地獄と名付ければ、地獄といふ名の特異点は此の世の何処にも存在可能なのだ。





――へっ、そもそも特異点とは何なのだ、何を意味してゐるのだ! 





――ふむ。……つまり、此の世の涯をも呑み込み無限へ開かれた、否、無限へ通じる呪文のやうなものかもしれぬ……。





――呪文? 





――さう。此の世に残された未踏の秘境のやうなものが特異点さ。





――それじゃ、思考にとっての単なる玩具に過ぎないじゃないか。





――ふっ。玩具といってゐる内は《杳体》は解かりっこないな。





――ふむ。どうやら《杳体》には、無と無限と物自体に繋がる秘密が隠されてゐるやうだな、へっ。





――ふっふっ。それに加へて死滅したもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟も《杳体》は内包してゐる。





――それで《杳体》は存在としての態をなしてゐるのか? 





――へっ、《杳体》が態をなすかなさぬかは《杳体》に対峙する《もの》次第といふことさ。





――へっへっへっ、すると《杳体》は蜃気楼と変はりがないじゃないか! 





――さうさ。或る意味では《杳体》は蜃気楼に違ひない。しかし、蜃気楼の出現の裏には厳として存在するもの、つまり《実体》があることを認めるね? 





――うむ。存在物といふ《実体》がなければ蜃気楼も見えぬといふことか……。うむ。つまりその存在を《杳体》と名付けた訳か――成程。しかし、相変はらず《杳体》は漠然としたままだ。ブレイク風に言へばopaqueのままだぜ。





――へっ、《杳体》は曖昧模糊としてそれ自体では光を放たずに闇の中に蹲ったままぴくりとも動かない。だが、この《杳体》がひと度牙を剥くと、へっ、主体は底無しの沼の中さ。つまりは《死に至る病》に罹るしかない! 





――うむ……。出口無しか……。それはさもありなむだな。何故って、《主体》は《杳体》に牙を剥かれたその刹那、無と無限と、更には死滅したもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟の類をその小さな小さな小さな肩で一身に背負って物自体といふ何とも不気味な《もの》へともんどりうって飛び込まなければならぬのだからな。しかしだ、主体はもんどりうって其処に飛び込めるのだらうか? 





――へっへっへっ、飛び込む外無しだ。否が応でも主体はその不気味な処へ飛び込む外無しさ、哀しい哉。それが主体の性さ……。





――それ故存在は特異点を隠し持ってゐると? 





――場の量子論でいふRenormalization、つまり、くり込み理論のやうな《誤魔化し》は、この場合ないんだぜ。主体は所謂剥き出しの《自然》に対峙しなければならない! 





――しかしだ、主体も存在する以上、何処かで折り合ひを付けなければ一時も生きてゐられないんじゃないか? 





――ぷふぃ。《死に至る病》と先程言った筈だぜ。そんな甘ちゃんはこの場合通用しないんだよ。主体もまた《杳体》に変化する……。





――つまり、特異点の陥穽に落ちると? 





――意識が自由落下する……。しかし、意識は飛翔してゐるとしか、無限へ向かって飛翔してゐるとしか認識出来ぬのだ。哀しい哉。





――それじゃ、その時の意識は未だ《私》を意識してゐるのだらうか? 





――へっ、《私》から遁れられる意識が何処に存在する? 





――それでも∞へと意識は《開かれる》のか? 





――ふむ。多分、《杳体》となった《主体》――この言い方は変だね――は、無と無限の間を振り子の如く揺れ動くのさ。





――無と無限の間? 





――さう、無と無限の間だ。





――ふっ、それに主体が堪へ得るとでも思ふのかい? 





――へっへっへっ、主体はそれに何としても堪へ忍ばねばならない宿命を背負ってゐる……。





(一 終はり)





2008 12/13 03:22:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――うむ。《反体》か……。反物質はこの宇宙の何処かに必ず存在してゐるに違ひないが、しかしながら物理学の世界ではCP対称性の破れによって僅少しか存在しないと言はれてゐるけれども、しかし、《反体》は《実体》と何にも変はらないんじゃないか? 





――だから何度も言ふやうだけれども俺は唯存在若しくはこの宇宙を一寸でもあっと言はせて転覆させたいだけなのさ。先づは物質と反物質との反転! 此処から始めないと話にならん。





――そんなことじゃ、宇宙は、お前の言ふ悪意に満ちた宇宙はせせら笑ってゐるんじゃないか? とてもそんなことじゃ宇宙を震へ上がらせることなど土台無理さ。





――それはどうかな? 





――だって反物質も此の世に《存在》する存在物の一つに過ぎないじゃないか! 





――存在じゃないさ。《反=存在》だよ。





――ん? 《反=存在》? 





――非在じゃないぜ。《反=存在》だぜ。





――しかしだ、《実体》と《反体》が出会ふと……。





――さうさ、対消滅さ。だが……吾は巨大な巨大な巨大なγ(ガンマ)線を放出し、大量の、それこそ無限と言ってもよいかもしれないが、大量の大量の大量のEnergie(エネルギー)体たる光となってこの宇宙を嘲笑ふことがもしかすると可能かもしれないぜ。まあ、それはそれとして、先づは《反=存在》だ。お前は《反=存在》をどう思ふ? 





――意識、ちぇっ、つまり、《反=意識》によるんじゃないかな、《反=存在》は。





――愚門なのだが、《反体》においても「吾思ふ、故に吾あり」は成立するんだらうか? 





――ぷふぃ。何を言ってゐるんだい? 《反体》を持ち出したのは其方じゃなかったっけ? 





――それはさうなのだが、本当のところ、俺にもまだ《反体》なるものが良く把握できていないんだ。まあ、それはそれとして、なあ、《反体》においても「吾思ふ、故に吾あり」は思念出来るとお前は直感的に思へるかい? 





――ふむ……。当然、考へられるんじゃないか、《反体》においても。





――その前に、なあ、先づは《反体》においても《吾》なる思惟は生成されるのであらうか? 





――当然、存在、ちぇっ、《反=存在》するだらう。





――すると自意識による蟻地獄ならぬ《吾地獄》といふ我執の陥穽に《反体》もまた落ちてゐるのであらうか? 





――逆だぜ。落ちてゐるんじゃなくて、多分、吾は《吾地獄》へ昇天してゐるに違ひない。





――ん? 昇天? それはまたどうして? 





――《反体》故にさ。





――つまりそれは則天無私といふことかね? 





――正解でもあるが不正解でもある! 





――どういふことだ? 





――先づは《反体》をでっち上げでもいいから想像してみるんだな。お前はそもそも《反体》をどう思ひ描いてゐるんだ? 





――多分だが、《反体》は此の世の特異点に《反=存在》するに違ひない。否、《反体》は特異点にのみ《反=存在》する……。





――それって、つまりはBlack hole(ブラックホール)の内部といふことかね? 





――へっ、Black holeの内部も一つの候補だが、少し飛躍的な物言ひだがもう一つこの宇宙そのものも《反体》が《反=存在》する特異点に違ひない。





――へっ、《反体》が《反=存在》する《反=世界》にも神はゐるのかな。





――《反=神》が《反=存在》するかもね。





――へっ、其処では《天国》と《地獄》は《婚姻》してゐるのかな? 





――ブレイクか……。





――へっ、《反=世界》は吾等が浄土と呼んでゐるところかもしれないぜ。





――うむ。浄土は《物質》と《反物質》、或ひは《実体》と《反体》が出会った時に現はれ、巨大な巨大な巨大なEnergie(エネルギー)を放って対消滅するその事象のことなのかもしれぬ……。





(十の篇終はり)





2008 12/08 06:16:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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……寄せては返す波の如く吾が《個時空》の際もまた吾が心の臓と同等に伸縮を繰り返してゐるに違ひない……。





…………





…………





――《個時空》とはそもそも何だね? 





――《主体》といふ存在が独楽の如く渦巻くその時空のカルマン渦のことさ。





――カルマン渦? 





――さう。《主体》は此の世に出現した時空の回転儀に違ひない。





――回転儀とは?  





――Gyroscope(ジャイロスコープ)のことさ。つまりは地球独楽さ。





――Gyroscopeと《主体》とにそれでは何の関係があるのかね? 





――此の世にGyroscopeの如く渦巻き存在する《個時空》たる《主体》は、独り《現在》に《取り残された》存在形式しか持ち得ない。つまり、《距離》が存在する限り《其処》は既に《過去》でしかない此の《世界》の在り方に対して独り《主体》のみが《主体》から《距離》零故に《現在》、正確を期すと《主体》のそれも《皮袋》の《表面》のみが《現在》の在り処なのさ。そして《主体》内部は《主体》の《皮袋》の《表面》、つまり《皮膚の表面》から距離が負故に《未来》、しかも《主体》は有限の物体故に《主体》内部には《死》が先験的に内包されてゐる。





――つまり《主体》は《個時空》の《現在》に幽閉されてゐるといふことかな? 





――さう。





――しかしそれは《主体》といふ存在にとって不愉快極まりない! 





――へっ、自同律の不快か――。だが、物体として存在する《主体》には内界での自由は保証されてゐる。





――内的自由か。しかし、それだからこそ尚更《主体》にとって自同律は不愉快極まりないのじゃないかね? 





――《他》を夢想してしまふからか? 





――《主体》は吾ならざる吾を夢想する……。





――時に《個時空》たる《主体》にとって別の《個時空》として出現する《他》は何なのかね? 





――自同律を解く《解》の一つに違ひない。





――《解》? 





――《個時空》において《過去》とは《未来》でもある。





――それは《過去》の世界に一度《目的地》が定まるとその《目的地》は《過去》にありながら瞬時に《未来》へと変化するといふことだよね? 





――内的自由の中で自在に思考が行き交ふ《個時空》たる《主体》の頭蓋内の闇にとって、其処で夢想する吾ならざる吾といふ存在形式における数多の《解》の中の、《客体》は《主体》が夢想するものの一つの《解》として有無を言はさずに厳然と眼前に実在する。





――しかし、無限に誘惑されてゐる《主体》にとってその《解》は仮初の暫定的な一つの《解》に過ぎない。





――それでも《個時空》たる《主体》はこの《過去》の世界に《客体》といふ自同律の錯綜を解く《解》を見出す。





――それは《主体》の自己を映す鏡としてかね? 





――へっへっへっ。《個時空》たる《主体》は《客体》に宇宙の涯を見出すのさ。





――えっ? 宇宙の涯? 





――へっへっへっ。《主体》と《客体》の間にはパスカルの深淵がその大口を開けて存在する。そして吾ならざる吾を夢想する《主体》は《個時空》の水際たる《他》とのその間合ひを互ひにやり取りしつつも《主体》はパスカルの深淵へ飛び込む衝動に絶えず駆られてゐる。





――つまり無限にだらう? 





――無限の先にある《他》にさ。つまり、パスカルの深淵に飛び込んだ先に控へてゐる別の宇宙たる《他》といふ《個時空》――。





――ちょっと、パスカルの深淵に飛び込んじゃ駄目だらう? 





――へっへっ。《主体》はどうあっても結局はパスカルの深淵に飛び込まざるを得ないのさ。何せ《他》たる《客体》は自同律の錯綜を紐解く一つの実在する《解》だからね。





――そして宇宙の涯? 





――さう。





(一の篇終はり)





2008 12/06 04:41:36 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――……断罪せよ……吾を……汝を……存在を……断罪せよ……。





――へっへっへっ。ぐうの音も出ないかね? 





――ふっふっふっ。可笑しくて仕様がない。





――……断罪せよ……吾を……汝を……存在を……断罪せよ……。





――ぶはっはっはっ。狸の化かし合ひは已めようぜ。





――狸の化かし合ひ? 





――さう。断罪せよとは存在者側の言ひ分だろうが。本当はかう言はなければならぬ。「……吾を……汝を……存在を……殺せ!」と。さあ、正体を現はせ! 





――何だ? 吾とは、汝とは、存在とは、何なのだ? 何だったのだ? 





――泡沫の夢と言へば恰好はいいが、多分、生老病死……諸行無常……生々流転……等、何とでも言へる筈さ。





――何とでも言へる筈だと? 





――さうさ。むしろ何とでも言へなければならぬのだ! 





――へっへっへっ、すると吾とは、汝とは、存在とは、迷妄の一種なのか? 





――迷妄の一種か……ふっ。さうかもしれぬ……が、しかし、吾とは、汝とは、存在とは、自同律といふ不愉快極まりない難問を抱へ込まざるを得ない何かさ。





――不愉快極まりない? 





――それはお前がよく知ってゐる筈さ。





――へっへっへっ。確かにな。でもこの不愉快は何処からやって来るのだらうか? 





――多分、存在自体からさ。





――存在自体? 





――ぷふぃ。





――へっへっへっ。存在自体だと! 





――何を今更うろたへる? お前も薄々気付いてゐた筈だらう。存在する以上、自同律から遁れられないと。





――存在自体からか……。へっ、自同律なんぞ糞喰らへだ。





――この不愉快が存在自体から発してゐるとすると、存在とは何と厄介な代物だらう。





――何を今更。





――でもこの不愉快極まりない自同律は存在の宿命なのか? 





――宿命といふよりも呪縛だぜ、自同律は。





――うむ。呪縛か……。やはり呪はれてゐるんだな、存在せざるもの達に……。へっ、この宇宙は存在せざるもの達の怨嗟や悪意に満ちてゐるのだらうか。





――ふっふっ。それはお前の心の反映に過ぎないのじゃないかね。





――だとしてもだ、存在するものは存在せざるもの達に呪はれてゐることは間違ひない。





――何故? 





――何故……。何故って、ちぇっ、さうとしか思へないからさ。





――それって存在するもの達の思ひ上がりでしかないのじゃないかね? つまりは存在するもの達の下らない自己満足でしかない! お前の考への根底には存在することの《優越感》があるに過ぎない。へっ、それはそれは下らない《優越感》さ。





――《優越感》か……。成程さうに違ひない。しかし、存在すること自体呪はれる対象ならば、一寸でも《優越感》がなくてどうする? 





――それは唯の迷妄に過ぎない。





――ぷふい。迷妄? へつ。お前は存在自体が迷妄と言ひたいのかね? 





――ふっ、さうさ。存在自体迷妄に過ぎない。迷妄に過ぎないから自同律が気味悪いのさ。





――つまり、存在するものはその存在を持ち切れないといふことか……。ちぇっ、不気味に嘲笑ふ自同律の罠よ! 





――へっ、お前にも自同律の奈落が解かるらしいな。





――気が付くとその奈落が吾の棲処だった……。どう足掻いても吾は吾から一歩たりとも逸脱出来ぬ、へっ、存在するものだったのさ。ちぇっ、吾は吾に呪縛され幽閉されてゐる……。





――だからどうした? お前が言ふ吾そのものが迷妄じゃないのかな? 





――しかし、吾は吾であることを強ひられる! 





――当然だろ。お前は存在してしまってゐるんだから! 





――ちぇっ、存在することはそんなに後生大事なことなのかね、ふっふっふっ。





――へっ、何ね、吾は唯存在をあっと驚かして存在を顛覆させてこの宇宙を、この悪意に満ちた宇宙を震へ上がらせたいだけさ。





――それで何か目算でもあるのかい? 例へば埴谷雄高の《虚体》のやうなものが? 





――ふっ、今のところは何もないさ。唯、旗幟(きし)の如きものとして反物質による二重螺旋で出来た例へば《反存在体》略して《反体》と呼ぶべきものをでっち上げてみては空論を何度か試みてはゐるけれどどうも納得がゆかないんだ、今のところは。





(九の篇終はり)





2008 12/01 03:23:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 闇の中であればある程その鋭い眼光を光らせ、ぎろりと此方にその眼球を向けてゐる《そいつ》と初めて目が合ったのは、私が何気なしに鏡を見たその刹那のことであった。鏡面に映し出された私の顔貌の瞳の中に見知らぬ《そいつ》の顔が映ってゐるのに気付いてしまったのがそもそもの事の始まりであった。





 《そいつ》と目が合った刹那、《そいつ》はにやりと笑ったやうな気がしたのである。それは私の思ひ過ごしかもしれぬが、《そいつ》は確かににやりと笑ったのである……。多分、《そいつ》は私が見つけるのを今の今までじっと黙したまま待ち続けてゐたに違ひないのだ。





――やっと気付いたな。





 その時《そいつ》はそんな風に私に対して呟いたのかもしれない。一方、私はといふと、馬鹿なことに《物自体》ならぬ《私自体》なるものを《そいつ》に見出してしまったのであった。





――俺だ! 





 私の胸奥の奥の奥で大声で叫んでゐる私が其処にはゐたのであった。





 と、その刹那の事であった。私は不覚にも卒倒したのであった。その時の薄れゆく意識の中で私は





――Eureka! 





と快哉を上げてゐたのかもしれなかったが、本当のところは今もって不明である。





 爾来、私は《そいつ》の鋭き眼光に絶えず曝され睨まれ続けることになったのであった。吾ながら





――自意識過剰! 





と、思はなくもなかったが、私の意識が《そいつ》の存在を認識してしまった以上、私が《そいつ》から遁れることなど最早不可能なのであった。





 とにかく《そいつ》は神出鬼没であった。不意に私が見やった私の影に《そいつ》のにたりと笑った相貌が現はれたかと思ふと直ぐにその面を消し、そして私の胸奥で叫ぶのであった。





――待ってたぜ。お前が俺を見つけるのを! 





 また或る時は不意に私の背後でその気配を現はし、にょいっと首を伸ばして私の視界にそのいやらしい相貌を現はすのであった。虚を衝かれた形の私はといふと吾ながら不思議なことにそれに全く動ずることもなく唯にたりと笑ふのみで、恰も《そいつ》が私の背後にゐることが当然と言った感じがするのみであった。これは今にして思ふと奇怪なことではあったが、そもそもは私自身が《そいつ》の出現を待ち焦がれてゐたと今になっては合点が行くのであった。





――ふっふっ、到頭俺も気が狂()れたか? 





などと自嘲してみるのであったが、《そいつ》から遁れる術は事此処に至っては全くなかったのである。





 それは唯私が私に対して無防備だったに過ぎぬのかもしれぬが、しかし、私は私で《そいつ》と対峙することを嫌っていたかと言へば、実のところその反対であったのである。今にして思へば私は《そいつ》と四六時中対面してゐたかったのが実際のところであったのだ。しかし、暫く《そいつ》は私の不意を衝かない限り現はれることはなかったのである。もしかすると《そいつ》は私を吃驚させて独り面白がりたかったのかもしれぬが、私は不意に《そいつ》が現はれても一向に驚かなかったのであった。つまり、それは私が《そいつ》に恋ひ焦がれてゐた証左でしかないのである。





 私がてんで驚かないので《そいつ》が私の周りをうろちょろすることは或る時期を境にぴたりと已んだが、しかし、始末が悪いことに何と《そいつ》は私の瞼裡に棲みついてしまったのであった。つまり、裏を返せば私は瞼を閉ぢさへすれば《そいつ》のにたりと笑ったいやらしい顔と対面出来るやうになったのである。





――また笑ってゐやがる! 





――へっ、お前が笑ってゐるからさ。このNarcist(ナルシスト)めが! 





――ふっふっふっ。それはお前だろ、俺の瞼裡の闇に棲みつきやがってさ。





――だって「私」を映す鏡は闇以外あり得ないだらう。





――そもそも「私とは何ぞや?」





――それは「私」以外のものに片足を突っ込んだ「私」でない何かさ。





――「私」でない何かが「私」? 





――さう。その事を一気に飛躍させて汎用化すれば《存在》は《存在》以外のものに片足を突っ込んだ《存在》でない何かだ。





――ぷふぃ。《存在》でない何かが《存在》? 矛盾してゐるぜ! 





――へっへっへっ。論理は矛盾を内包出来ぬ限りその論理は不合理だといふ事は経験上自明のことだね? 





――自明のこと? 





――さう。矛盾は論理にとって宝の山さ。





――ふっ。矛盾がなければお前が俺の瞼裡に棲みつく必然性はないか……。ふっふっ。





(一の篇終はり)



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2008 11/29 03:39:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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今になってmixiに興味が湧いてきました。誰か奇特な方で私をミクシィに招待してくださる方はhiroyuki.225@gmail.comまでお手数ですがメールしてください。お願いいたします。
2008 11/27 11:16:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――渾沌……。





――陰陽が渦巻き始めるある種の秩序が胎動する瞬間……。





――渾沌が存在を胎動させる契機となる瞬間、無数の未出現の存在ならざるものが蠢く母胎となる。其処で無数の生滅が繰り返され、有為転変の末、存在が存在たらしめられる。そしてその存在には聖霊の如き此の世に出現ならざる宿命を負はされた未出現のものたちの怨念なるものを無数に負はされる。存在の背後には背後霊の如き未出現のものたちの「何故吾は此の世に出現ならざるのか?」といふ呻吟の渦巻く怨念が匂ひ立つのだ。その証拠に存在といふ名の異形の吾は吾の中で無数に生息してゐる。それが出現ならざるものたちの一瞬の明滅だ。





――異形の吾か……。ふっ、内部に潜むGrotesque(グロテスク)な異形の吾どもめが、ふっ。ほら、あっちにもこっちにも異形の吾どもがその面を現はしてゐるぜ、けっ。奴等もまた「吾とは何ぞや」とのたうち回ってゐるに違ひない。のたうち回ってものたうち回っても誰もその答へは黙して語らず。だから異形の吾は手を変へ品を変へ異形の異形の異形の吾を現はす。ちぇっ、奴、つまり、異形の吾が笑ってやがる。





――へっへっへっ、どれがお前かな? 





――けっ、全てだ! 





――さう。全てのGrotesqueな異形のものがお前だ。





――だからそれがどうしたといふのか? 





――お前には渾沌の中で生滅する異形の吾どもが発する呻き声が聞こえないのか? 





――「早く吾になりたい」……か? 





――否! 





――「吾ならざる吾へ」……か? 





――さうさ。この呻きこそ一時も吾であることをやめられぬ吾といふ存在物が存続出来る起動力さ。





――うむ。起動力……か。





――さう、起動力だ。吾ならざる吾へ。無数のGrotesqueな異形の吾どもが明滅し、奴等の呻き声が渦巻くことで吾はやっと吾たることに我慢出来る。





――この吾が吾であることの大憤怒は、嗚呼、異形の吾がGrotesqueで無数に明滅し、呻き声を発することで辛ふじて抑へ付けられてゐられるのか! 無数だ! 異形の吾が無数に明滅することこそ吾が吾たることを存続させる鍵だ! どうあっても異形の吾は無数に明滅しなければならぬ。無数であらねばならぬのだ!





――それは何故かね? 





――未出現のもの達の泡沫の夢故にだ。





――未出現のもの達の泡沫の夢? 





――さう。この頭蓋内の闇に明滅する無数の異形の吾は未出現のもの達の泡沫の夢でなくてどうする? 





――すると、お前はこの頭蓋内の闇こそ未出現もの達の泡沫の夢が一瞬でも花開く《場》だと考へてゐるのか? 





――日々死滅して行く脳細胞が発するであらう断末魔の中にこそ未出現のもの達の泡沫の夢が一瞬花開く瞬間が必ずある。頭蓋内の闇はさういふ《場》だ。





――死滅して行く脳細胞が発する断末魔? 





――さう。日々死滅して行く脳細胞は必ず断末魔を発してゐる筈だ。脳細胞といへども死滅するまでは未出現のもの達の怨念を負ってゐるのだからな。此の世に存在するといふことはさういふことだ。頭蓋内の闇といふ《場》では時々刻々死といふ現象が起こってゐて、その死にこそ断末魔と未出現のもの達の怨念が一つの思念のやうなものになって《重ね合はせ》の状態となり、頭蓋内の闇の中で一瞬明滅する。その死の波紋が異形の吾となって無数に現はれてゐる筈だ。 





――変幻自在の異形の吾……。死の断末魔と未出現のもの達の泡沫の夢を乗せ、頭蓋内の闇に花開くその一瞬の閃きは変幻自在の異形の吾となって吾を断罪するのだ。それが無数だから尚更いけない。吾の敗北は最初から解かり切ってゐるのにそれでも吾は異形の吾と対峙しなければならぬ。吾を存続させるにはさうせずにはゐられぬのだ。無数の相貌を持った変幻自在の異形の吾。あっはっはっ。相手は死の断末魔と未出現のもの達の泡沫の夢だぜ。吾に勝ち目がある筈がない。





――それでも吾は生き延びる。





――さう。吾は何としても存続せねばならぬ宿命を負ってゐる。相手が死の断末魔だらうが、未出現のもの達の泡沫の夢だらうが、吾はそれにしっかと対峙し、存続せねばならぬ。





――しかし融通無碍にな。





――さう。七転八倒しながらも融通無碍に吾は存続せねばならぬのだ。ちぇっ、異形の吾が笑ってやがるぜ。





――へっへっへっ。耳を澄ませでご覧。死に行くもの達の断末魔と未出現のもの達の呻き声が聞こえてくるから。





(八の篇終はり)
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2008 11/24 03:55:13 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――君にはあのざわめきが聞こえないのかい? 





――えっ、何のことだい? 





――時空間が絶えず呻吟しながら《他》の《何か》への変容を渇仰してゐるあのざわめきが、君には聞こえないのかい? 





――ふむ。聞こえなくはないが……その前に時空間が渇仰する《他》とはそもそも何の事だい? 





――へっ、《永劫》に決まってらあ! 





――えっ、《永劫》が時空間にとっての《他》? 





――さうさ。《永劫》の位相の下で時空間はやっと自らを弾劾し果(おほ)せられるのさ。さうすることで時空間はのっぴきならぬところ、つまり、《金輪際》に追ひやられて最終的には《他》に変化(へんげ)出来る。





――へっ、それって《特異点》のことじゃないのかね? 





――……すると……君は《永劫》は《特異点》の中の一つの位相に過ぎぬと看做してゐるのか……。しかしだ……。





――しかし、《特異点》は《存在》が隠し持ってゐる。つまり、時空間と雖も《存在》に左右される宿命を負ってゐる。即ち、時空間は《物体》への変化を求めてゐるに過ぎぬ! 違ふかね? 





――否! 《存在》は《物体》の専売特許じゃないぜ。時空間もまた「吾とは何ぞや」と自らが自らに重なる不愉快極まりない苦痛をじっと噛み締めながら自身に我慢してゐるに違ひない。





――では君にとって《特異点》はどんなものとして形象されてゐるんだい? 





――奈落さ。





――ふむ。それで? 





――此の世にある《物体》として《存在》してしまったものはそれが何であらうとも《地獄》の苦痛を味はひ尽くさねばならぬ。





――ふっ、それは時空間とて同じではないのかね? 





――さうさ……。時空間も《存在》する以上、《地獄の奈落》を味はひ尽くさねばならぬ。





――その奈落の底、つまり《金輪際》が君の描く《特異点》の形象か? 





――《底》、つまり《金輪際》とは限らないぜ。もしかすると、へっへっへっ、《天上界》が《特異点》の在処かもしれないぜ。





――ちぇっ、だからどうしたと言ふんだ? それはある種の詭弁に過ぎぬのじゃないかね? 





――……自由落下……。俺が《特異点》に対して思ひ描いてゐる形象の一つに、《落下》してゐながら《飛翔》してゐるとしか《認識》出来ない《自由落下》の、天地左右の無意味な状態を《特異点》の一つの形象と看做してゐる……。





――しかし……、《自由落下》では《主体》はあくまで《主体》のままで、《永劫》たる《他》などに変化することはないんじゃないかな? 





――ふっ、《意識》自体が《自由落下》してゐると考へるとどうかね? 





――へっ、それも《永劫》の《自由落下》かな? 





――ふっふっふっ、さうさ……。……《意識》自体の《永劫》の《自由落下》……。……どの道……《特異点》の位相の下では《意識》……若しくは《思念》以外……その存在根拠が全て怪しいからな。





と、こんな無意味で虚しい事をうつらうつらと瞑目しながら《異形の吾》と自問自答してしまふ彼は、辺りの灯りが消えて深夜の闇に全的に没し、何やら不気味な奇声にも似た音ならざる時空間の《呻く》感じを無闇矢鱈に感じてしまふ、それでゐてじっと黙したまま何も語らぬ時空間に結果として完全に包囲された状態でしかあり得ぬ己自身に対して、唯々自嘲するのみしか術がなかったのであった。この時空間のぴんと張り詰めたかの如き緊迫した感じは、彼の幼少時から続く不思議な感覚――それは彼にとってはどうしても言葉では言ひ表せないある名状し難い感覚――で、彼にとって時空間は絶えず音ならざる音を発する奇怪な《ざわめき》に満ちたある《存在》する《もの》若しくは《実体》かの如き《もの》として認識されるのであった。





(一の篇終はり)



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2008 11/22 03:56:46 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それにしても宇宙もまた思案してゐる。





――それは神が思案してゐることと同義語か? 





――さうかもしれないが、さうじゃないかもしれない……。





――この宇宙が存在してしまったが為に生れ出ることが叶わなかった所謂《亡霊宇宙》が、この宇宙の背後に死屍累々としてゐる……か……。





――誕生したのがこの宇宙でなければならなかった理由は何一つないぜ、ふっ。





――しかし、この宇宙は現に此の世に存在してしまってゐる。そして今も多分膨脹を続けてゐる筈さ。





――へっ、此の世の神の摂理、否、物理法則に則ってこの宇宙は膨張してゐるのか? 何故この宇宙は膨張する? 





――それは解からぬが、この宇宙もまた己が己であることに一時も我慢がならないのは確かみたいだな。





――現状に満足出来ぬか……、へっ。





――時間が流れる以上、宇宙はその膨脹を止められぬ。





――この宇宙の何処かにBig Bang(ビッグバン)の震源地が残ってゐる筈なのだが……人間の科学技術では今のところ見つけられない。





――ほら、天を見上げれば全て過去なりしか、はっ。





――いや、過去とばかりは言ってられないぜ。天の様相の中にはこの天の川銀河の未来の姿を見せてゐる天体が必ず潜んでゐる筈さ。





――過去は未来でもあったな、《個時空》といふ考へ方では。





――つまり、外界といふ過去の世界に将来到達すべき《目的地》が見出された途端、過去は未来へと反転する。不思議なもんだぜ。





――だから、天上の天体の中に天の川銀河の、ましてやこの地球の未来の姿が潜んでゐる。





――その中には、例へばこの宇宙が生まれ出てしまったが為に存在できなかった未出現の宇宙も隠されてゐると思ふかい? 





――へっ、当然だろ。それに多分、これまでに死滅した数多の宇宙も隠されてゐる筈さ。





――つまり、亡霊宇宙か……。





――やはりこの宇宙もまた未出現の宇宙に呪はれてゐるのだらうか? 





――ふっ、当然呪はれてゐるさ。





――それでは亡霊宇宙の怨念もまたこの宇宙に満ち満ちてゐる? 





――はっはっ、当然だろが! この現在存在してゐる宇宙もまた死滅すれば怨念を残し、次に生れ出て来ざるを得ないであらう次世代の宇宙にその怨念は受け継がれて行く。





――つまり、その怨念は「吾はそもそも何ぞや」だろ? 





――さう。この宇宙もまた死滅する直前まで、否、死滅した後も「吾とは何ぞや」と呻き続けるのさ。





――永劫に「吾とは何ぞや」と呻き続ける? 





――多分な。





――正覚はしない? 





――それは解からない。しかし、多分、この宇宙が正覚した暁には、この宇宙内の全存在が正覚する時だらう。





――それは壮観だらうね。





――それはどうかな。へっ、全ては自身に充足して自足してしまってゐる何とも薄気味悪い世界が到来してゐるんじゃないかな。





――薄気味悪い世界? 全てが正覚し太悟した世界がかい? 





――さうさ。そんな世界は気色が悪いに決まってゐる。





――どうしてさう思ふ? 





――考へてみろよ。流れるは唯時間ばかりでその外は何も移ろはない。つまり、其処には最早変容といふ言葉が、変容といふ概念が無いんだぜ。何ものも変容せず流れるは時間ばかりの謂はば《死》の世界がそんなに凄い世界だと思ふかい? 





――宇宙の正覚が《死》んだ世界? ふっ、確かに……さうかもしれないな……。それって欲望すらも渦巻かない喩へて言ってみれば年老ひた球状星団みたいな世界なのかもしれないな……。





――さうさ。正覚した宇宙に最早渦巻銀河は存在しない。渦巻そのものがそもそも存在しないのさ。何も胎動しなければ何の変化もない世界。存在してしまったもの全てが自足の中に閉ぢ籠りある種の私的な熱狂の中の愉悦に包まれ、それを平安と呼ぶならば平安なのだらうが、ひたすら死を待ち焦がれる存在があるだけだ。正覚なんぞは多分そんなものさ。





――何事も真丸の円といふ事か……。





――そんな世界は気色悪いだろ? 





 闇は何もかも飲み込む貪欲なものなのかもしれぬ。彼が見る闇にはしかしながら、幽かに淡く輝くAurora(オーロラ)の如きものが現はれそれがゆっくりと反時計回りに渦を巻き始めたのであった。彼はそんな瞼裡の闇を凝視しながら陰陽太極図を思ひ浮かべるのであった。





(七の篇終はり)



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2008 11/17 04:10:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 それは勿論晴れてゐることが前提であったが、彼は決まって満月の夜更けには室内の全ての灯りを消して、暫く障子越しに満月の月影をぼんやりと眺めてゐるのを常としてゐたのであった。彼にはその月影と闇とが織り成す仄かに明るい絶妙の闇に包まれる夜更けの時間が何とも言ひ難い時空間を演出し、それ故彼はその時空間が堪らなく好きなのであった。





――月影に溺れる……。





 その日も彼は何時ものやうに障子越しに満月の月影を眺めてゐた。そしてそれは、彼が深々と腹の底から深呼吸をした刹那のことであった。何かが障子の向かうで揺らめいたのである。それは風などの所為ではなく、何か自律的に動くものの気配が頻りに感じられるのであったのだ。しかし、それはたまゆらのことで何かの奇妙な気配は直ぐに月影の闇に消えたのであった。





――確かに何かが《ゐた》! 





 そこで彼は徐に立ち上がり障子をさっと開けてみると、果たせる哉、闇の奇妙な球体がゆらりと室内に入り込んで来たのであった。





――闇の球体? 何なのだ? 





 彼には驚愕するのにも今現在起こってゐる事態が呑み込めなかったので、唯眼前にゆらりと浮かぶ半径五十センチメートル程の闇の球体を眺める外に取る術がなかったのである。





――何だ、これは? 





と思った刹那、その闇の球体は彼目掛けて飛び掛かって来たのであった。





――ううっ。





と一瞬呼吸困難に陥ったとはいひ条、しかし、彼は闇に抱かれてゐるといふ何とも名状し難き悦楽の境地にあったのであった。その闇の球体は先づ彼の顔目掛けて襲ひ掛かったのであったが、その闇の球体が凶暴性を見せたのはそれっきりで、その後は闇の球体はゆっくりと拡がり彼の全身を包み込んだのであった。





――ちぇっ、また《無限》へ誘(いざな)ひやがる……。





とは思ひつつも彼はその時嬉しくて堪らなかったのであった。彼は闇に包まれてゐた所為で何も見えなかったが、しかし、彼はそこでゆっくりと障子を閉め、その場に胡坐をかいて座ったのであった。





――母胎の中の胎児はきっとこんな感じの闇を味はひ尽くさねばならぬに違ひない……。それは闇を媒介として存在が存在することを弾劾しなければならぬ、それでゐてこの上なく心地よい《楽園》にありながら、しかし、存在が弾劾された末に何時《落下》するのか解からぬ危険を孕んだ、例へば《浄土》と《地獄》が行き来出来てしまふのを障子のみで仕切っただけの危ふい月影の中の和室の如き《場》こそ、《無》と《無限》の往復が成し遂げられ、存在が存在に不意に疑念を抱く一瞬の《存在の揺らめき》が現出する《場》に違ひないのだ! 





 また、何時ものやうにたまゆらの悦楽の時間が過ぎてしまった……。彼が闇の球体に包まれてゐると感じたのは彼が自ら演出した《幻影》に過ぎず、それは彼が一度ゆっくりと瞬きしただけに過ぎなかったのである。





 障子の向かうは相変はらず満月の月影の静寂に包まれた《世界》を障子に映してゐたのであった……。













俳句一句









満月の 光が誘ふ 天橋立



2008 11/15 04:04:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――お前が生まれた故に何億人の《お前未然》のお前になれなかったお前を殺害したか、お前には解かるか? 





――正直に言へば解からぬ。しかし、何億匹の精子と卵子の屍の上に俺が生まれ落ちたことは確かだ。





――偶然にか必然にかお前は存在してしまった。その背後にはお前になり得なかった《お前未然》の数多の屍が累々と横たはってゐる。





――そして、これは不運なのか解からぬが、そいつ等に呪はれてゐる……。





――さうだ。お前はその屍達を救ふ義務を生まれながらに負って生まれて来た筈だ。





――何としても生き残ることによってな。





――さう。自殺に自由もへったくれもない。自殺は禁忌でその戒律を破れば、ちぇっ、勿論、地獄が待ってゐるだけだ。お前は生き残る外ない。お前の背後に横たはってゐる《お前未然》のまま此の世に生を享けなかった無数の屍達を救ふ迄はな。





――しかしだ。どうやって救へばよいのか今もって解からぬままといふのが本当のところさ。ちぇっ、俺には解からぬのだ。





――へっへっ、そんなこと、ちぇっ、誰にも解かりっこないぜ。そんなことは解かり切った自明の理さ。しかし、何としても《お前未然》に代表される無数の屍達を救はねばならぬのだ。それが唯一この悪意に満ち満ちた宇宙へのしっぺ返しに外ならぬからな。





――宇宙へのしっぺ返し? 神へのしっぺ返しではなく、宇宙へのしっぺ返し? 





――さうさ。神は勿論のこと、この宇宙が承服できぬ以上、宇宙にしっぺ返ししなくてどうする! 





 彼は此処でかっと目を見開き、眼前の闇を睨みつけるのであった。





――この悪意に満ちた宇宙へのしっぺ返しか……。





 彼は再びゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。彼は瞼裡の闇を見て





――この薄っぺらい闇め! 





と自身の内奥で独り自嘲するのであった。累々とした屍達が彷徨する闇。彼は何となくブレイクの幻視が解かるやうな気がするのであった。





――……存在の背後には……無数の存在ならざる非在の怨霊が……存在する。存在は存在するだけで既に呪はれてゐる。へっ、吾もまた呪はれた存在だ……。





――それにしてもだ、この宇宙もまた別の宇宙への変容を渇望してゐるのじゃないか? 





――へっへっ、それは当然だらう。この宇宙が懊悩しなくてどうする? 





――物質も星の内部での核融合で水素からHelium(ヘリウム)へと変容し、更に強大なるEnergie(エネルギー)で重い元素が生成され、遂には超新星爆発で更なる重い重金属の元素が生成される過程一つとってもこの宇宙は、更なる存在物を生成するべく己の変容を渇望してゐる。





――さうさ、物質の生成の背後には此の世に生まれ出られなかったもの達の呻きを伴った怨霊が累々と横たはってゐる……。





――嗚呼、何故吾は此の世に生を享けてしまったのであらうか……。





――へっ、それは禁句と言っただろ。





――それでも何故と問はずにはゐられないんだ! 





――ちぇっ、お前が此の世に存在したのはこの大宇宙に小さな小さな小さなしっぺ返しをする為さ。





――吾をして宇宙へのしっぺ返しか……。無意味なことだ。





――そもそも人の一生なんて元来無意味でなくてどうする? 





――ふっ、無意味ね……。





――さうさ。人生に意味付けすることがそもそも愚劣極まりない! 





――しかし、人間といふ生き物は何に対しても意味付けしないと気が済まない。





――それは……、つまり、不安だからさ。無意味といふ大海にぽつねんと独り抛り出されるることの不安にそもそも堪へられないのさ。





――しかし、そもそもその不安が人を生かす《原動力》じゃないのかね? 





――それはその通りだが……しかし……人間は何事にも意味を見出す習性に生れついてしまってゐる。これは如何ともし難い。





――意味付けすることは自慰行為に過ぎないのだらうか? 





――多分……。しかし、人間に意味付けされた《もの》にとってそれは人間以外には何の意味もなさないんだからな。《もの》は《もの》としてしか存在しない……。





――この議論は全く無意味極まりない! 斯様なことはもう已めだ! 





 またひとつ思考の小さな小さなカルマン渦が霧散したのであった。彼は余りに無意味なことを考へてしまったと自嘲する外なかったのである。





(六の篇終はり)

2008 11/10 03:17:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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