思索に耽る苦行の軌跡

 ……ゆっくりと瞼を閉ぢて……沈思黙考する段になると……異形の吾共が……彼の頭蓋内の闇で……呟き始めるのであった……。





…………





…………





――はっ、《杳体(えうたい)》? 





――さう。杳として知れぬ存在体故に《杳体》さ。





――確か、存在は特異点を隠し持ってゐると言った筈だが、特異点を内包するしか存在の仕方がなかったこの存在といふ得体の知れぬものを総じて《杳体》と呼んでゐるのかな? 





――大雑把に言へば此の世の森羅万象がそもそも《杳体》なのさ。





――うむ。……つまり、此の世自体がそもそも《杳体》といふことか? 





――へっ、極端に言へば此の世に偏在する何とも得体の知れぬ何かさ。





――すると、特異点も此の世に遍く存在するといふことかね? 





――さうだ……。底無しの此の世の深淵、それを地獄と名付ければ、地獄といふ名の特異点は此の世の何処にも存在可能なのだ。





――へっ、そもそも特異点とは何なのだ、何を意味してゐるのだ! 





――ふむ。……つまり、此の世の涯をも呑み込み無限へ開かれた、否、無限へ通じる呪文のやうなものかもしれぬ……。





――呪文? 





――さう。此の世に残された未踏の秘境のやうなものが特異点さ。





――それじゃ、思考にとっての単なる玩具に過ぎないじゃないか。





――ふっ。玩具といってゐる内は《杳体》は解かりっこないな。





――ふむ。どうやら《杳体》には、無と無限と物自体に繋がる秘密が隠されてゐるやうだな、へっ。





――ふっふっ。それに加へて死滅したもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟も《杳体》は内包してゐる。





――それで《杳体》は存在としての態をなしてゐるのか? 





――へっ、《杳体》が態をなすかなさぬかは《杳体》に対峙する《もの》次第といふことさ。





――へっへっへっ、すると《杳体》は蜃気楼と変はりがないじゃないか! 





――さうさ。或る意味では《杳体》は蜃気楼に違ひない。しかし、蜃気楼の出現の裏には厳として存在するもの、つまり《実体》があることを認めるね? 





――うむ。存在物といふ《実体》がなければ蜃気楼も見えぬといふことか……。うむ。つまりその存在を《杳体》と名付けた訳か――成程。しかし、相変はらず《杳体》は漠然としたままだ。ブレイク風に言へばopaqueのままだぜ。





――へっ、《杳体》は曖昧模糊としてそれ自体では光を放たずに闇の中に蹲ったままぴくりとも動かない。だが、この《杳体》がひと度牙を剥くと、へっ、主体は底無しの沼の中さ。つまりは《死に至る病》に罹るしかない! 





――うむ……。出口無しか……。それはさもありなむだな。何故って、《主体》は《杳体》に牙を剥かれたその刹那、無と無限と、更には死滅したもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟の類をその小さな小さな小さな肩で一身に背負って物自体といふ何とも不気味な《もの》へともんどりうって飛び込まなければならぬのだからな。しかしだ、主体はもんどりうって其処に飛び込めるのだらうか? 





――へっへっへっ、飛び込む外無しだ。否が応でも主体はその不気味な処へ飛び込む外無しさ、哀しい哉。それが主体の性さ……。





――それ故存在は特異点を隠し持ってゐると? 





――場の量子論でいふRenormalization、つまり、くり込み理論のやうな《誤魔化し》は、この場合ないんだぜ。主体は所謂剥き出しの《自然》に対峙しなければならない! 





――しかしだ、主体も存在する以上、何処かで折り合ひを付けなければ一時も生きてゐられないんじゃないか? 





――ぷふぃ。《死に至る病》と先程言った筈だぜ。そんな甘ちゃんはこの場合通用しないんだよ。主体もまた《杳体》に変化する……。





――つまり、特異点の陥穽に落ちると? 





――意識が自由落下する……。しかし、意識は飛翔してゐるとしか、無限へ向かって飛翔してゐるとしか認識出来ぬのだ。哀しい哉。





――それじゃ、その時の意識は未だ《私》を意識してゐるのだらうか? 





――へっ、《私》から遁れられる意識が何処に存在する? 





――それでも∞へと意識は《開かれる》のか? 





――ふむ。多分、《杳体》となった《主体》――この言い方は変だね――は、無と無限の間を振り子の如く揺れ動くのさ。





――無と無限の間? 





――さう、無と無限の間だ。





――ふっ、それに主体が堪へ得るとでも思ふのかい? 





――へっへっへっ、主体はそれに何としても堪へ忍ばねばならない宿命を背負ってゐる……。





(一 終はり)





2008 12/13 03:22:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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