思索に耽る苦行の軌跡

――お前が生まれた故に何億人の《お前未然》のお前になれなかったお前を殺害したか、お前には解かるか? 





――正直に言へば解からぬ。しかし、何億匹の精子と卵子の屍の上に俺が生まれ落ちたことは確かだ。





――偶然にか必然にかお前は存在してしまった。その背後にはお前になり得なかった《お前未然》の数多の屍が累々と横たはってゐる。





――そして、これは不運なのか解からぬが、そいつ等に呪はれてゐる……。





――さうだ。お前はその屍達を救ふ義務を生まれながらに負って生まれて来た筈だ。





――何としても生き残ることによってな。





――さう。自殺に自由もへったくれもない。自殺は禁忌でその戒律を破れば、ちぇっ、勿論、地獄が待ってゐるだけだ。お前は生き残る外ない。お前の背後に横たはってゐる《お前未然》のまま此の世に生を享けなかった無数の屍達を救ふ迄はな。





――しかしだ。どうやって救へばよいのか今もって解からぬままといふのが本当のところさ。ちぇっ、俺には解からぬのだ。





――へっへっ、そんなこと、ちぇっ、誰にも解かりっこないぜ。そんなことは解かり切った自明の理さ。しかし、何としても《お前未然》に代表される無数の屍達を救はねばならぬのだ。それが唯一この悪意に満ち満ちた宇宙へのしっぺ返しに外ならぬからな。





――宇宙へのしっぺ返し? 神へのしっぺ返しではなく、宇宙へのしっぺ返し? 





――さうさ。神は勿論のこと、この宇宙が承服できぬ以上、宇宙にしっぺ返ししなくてどうする! 





 彼は此処でかっと目を見開き、眼前の闇を睨みつけるのであった。





――この悪意に満ちた宇宙へのしっぺ返しか……。





 彼は再びゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。彼は瞼裡の闇を見て





――この薄っぺらい闇め! 





と自身の内奥で独り自嘲するのであった。累々とした屍達が彷徨する闇。彼は何となくブレイクの幻視が解かるやうな気がするのであった。





――……存在の背後には……無数の存在ならざる非在の怨霊が……存在する。存在は存在するだけで既に呪はれてゐる。へっ、吾もまた呪はれた存在だ……。





――それにしてもだ、この宇宙もまた別の宇宙への変容を渇望してゐるのじゃないか? 





――へっへっ、それは当然だらう。この宇宙が懊悩しなくてどうする? 





――物質も星の内部での核融合で水素からHelium(ヘリウム)へと変容し、更に強大なるEnergie(エネルギー)で重い元素が生成され、遂には超新星爆発で更なる重い重金属の元素が生成される過程一つとってもこの宇宙は、更なる存在物を生成するべく己の変容を渇望してゐる。





――さうさ、物質の生成の背後には此の世に生まれ出られなかったもの達の呻きを伴った怨霊が累々と横たはってゐる……。





――嗚呼、何故吾は此の世に生を享けてしまったのであらうか……。





――へっ、それは禁句と言っただろ。





――それでも何故と問はずにはゐられないんだ! 





――ちぇっ、お前が此の世に存在したのはこの大宇宙に小さな小さな小さなしっぺ返しをする為さ。





――吾をして宇宙へのしっぺ返しか……。無意味なことだ。





――そもそも人の一生なんて元来無意味でなくてどうする? 





――ふっ、無意味ね……。





――さうさ。人生に意味付けすることがそもそも愚劣極まりない! 





――しかし、人間といふ生き物は何に対しても意味付けしないと気が済まない。





――それは……、つまり、不安だからさ。無意味といふ大海にぽつねんと独り抛り出されるることの不安にそもそも堪へられないのさ。





――しかし、そもそもその不安が人を生かす《原動力》じゃないのかね? 





――それはその通りだが……しかし……人間は何事にも意味を見出す習性に生れついてしまってゐる。これは如何ともし難い。





――意味付けすることは自慰行為に過ぎないのだらうか? 





――多分……。しかし、人間に意味付けされた《もの》にとってそれは人間以外には何の意味もなさないんだからな。《もの》は《もの》としてしか存在しない……。





――この議論は全く無意味極まりない! 斯様なことはもう已めだ! 





 またひとつ思考の小さな小さなカルマン渦が霧散したのであった。彼は余りに無意味なことを考へてしまったと自嘲する外なかったのである。





(六の篇終はり)

2008 11/10 03:17:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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