思索に耽る苦行の軌跡

 それは勿論晴れてゐることが前提であったが、彼は決まって満月の夜更けには室内の全ての灯りを消して、暫く障子越しに満月の月影をぼんやりと眺めてゐるのを常としてゐたのであった。彼にはその月影と闇とが織り成す仄かに明るい絶妙の闇に包まれる夜更けの時間が何とも言ひ難い時空間を演出し、それ故彼はその時空間が堪らなく好きなのであった。





――月影に溺れる……。





 その日も彼は何時ものやうに障子越しに満月の月影を眺めてゐた。そしてそれは、彼が深々と腹の底から深呼吸をした刹那のことであった。何かが障子の向かうで揺らめいたのである。それは風などの所為ではなく、何か自律的に動くものの気配が頻りに感じられるのであったのだ。しかし、それはたまゆらのことで何かの奇妙な気配は直ぐに月影の闇に消えたのであった。





――確かに何かが《ゐた》! 





 そこで彼は徐に立ち上がり障子をさっと開けてみると、果たせる哉、闇の奇妙な球体がゆらりと室内に入り込んで来たのであった。





――闇の球体? 何なのだ? 





 彼には驚愕するのにも今現在起こってゐる事態が呑み込めなかったので、唯眼前にゆらりと浮かぶ半径五十センチメートル程の闇の球体を眺める外に取る術がなかったのである。





――何だ、これは? 





と思った刹那、その闇の球体は彼目掛けて飛び掛かって来たのであった。





――ううっ。





と一瞬呼吸困難に陥ったとはいひ条、しかし、彼は闇に抱かれてゐるといふ何とも名状し難き悦楽の境地にあったのであった。その闇の球体は先づ彼の顔目掛けて襲ひ掛かったのであったが、その闇の球体が凶暴性を見せたのはそれっきりで、その後は闇の球体はゆっくりと拡がり彼の全身を包み込んだのであった。





――ちぇっ、また《無限》へ誘(いざな)ひやがる……。





とは思ひつつも彼はその時嬉しくて堪らなかったのであった。彼は闇に包まれてゐた所為で何も見えなかったが、しかし、彼はそこでゆっくりと障子を閉め、その場に胡坐をかいて座ったのであった。





――母胎の中の胎児はきっとこんな感じの闇を味はひ尽くさねばならぬに違ひない……。それは闇を媒介として存在が存在することを弾劾しなければならぬ、それでゐてこの上なく心地よい《楽園》にありながら、しかし、存在が弾劾された末に何時《落下》するのか解からぬ危険を孕んだ、例へば《浄土》と《地獄》が行き来出来てしまふのを障子のみで仕切っただけの危ふい月影の中の和室の如き《場》こそ、《無》と《無限》の往復が成し遂げられ、存在が存在に不意に疑念を抱く一瞬の《存在の揺らめき》が現出する《場》に違ひないのだ! 





 また、何時ものやうにたまゆらの悦楽の時間が過ぎてしまった……。彼が闇の球体に包まれてゐると感じたのは彼が自ら演出した《幻影》に過ぎず、それは彼が一度ゆっくりと瞬きしただけに過ぎなかったのである。





 障子の向かうは相変はらず満月の月影の静寂に包まれた《世界》を障子に映してゐたのであった……。













俳句一句









満月の 光が誘ふ 天橋立



2008 11/15 04:04:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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