闇の中であればある程その鋭い眼光を光らせ、ぎろりと此方にその眼球を向けてゐる《そいつ》と初めて目が合ったのは、私が何気なしに鏡を見たその刹那のことであった。鏡面に映し出された私の顔貌の瞳の中に見知らぬ《そいつ》の顔が映ってゐるのに気付いてしまったのがそもそもの事の始まりであった。
《そいつ》と目が合った刹那、《そいつ》はにやりと笑ったやうな気がしたのである。それは私の思ひ過ごしかもしれぬが、《そいつ》は確かににやりと笑ったのである……。多分、《そいつ》は私が見つけるのを今の今までじっと黙したまま待ち続けてゐたに違ひないのだ。
――やっと気付いたな。
その時《そいつ》はそんな風に私に対して呟いたのかもしれない。一方、私はといふと、馬鹿なことに《物自体》ならぬ《私自体》なるものを《そいつ》に見出してしまったのであった。
――俺だ!
私の胸奥の奥の奥で大声で叫んでゐる私が其処にはゐたのであった。
と、その刹那の事であった。私は不覚にも卒倒したのであった。その時の薄れゆく意識の中で私は
――Eureka!
と快哉を上げてゐたのかもしれなかったが、本当のところは今もって不明である。
爾来、私は《そいつ》の鋭き眼光に絶えず曝され睨まれ続けることになったのであった。吾ながら
――自意識過剰!
と、思はなくもなかったが、私の意識が《そいつ》の存在を認識してしまった以上、私が《そいつ》から遁れることなど最早不可能なのであった。
とにかく《そいつ》は神出鬼没であった。不意に私が見やった私の影に《そいつ》のにたりと笑った相貌が現はれたかと思ふと直ぐにその面を消し、そして私の胸奥で叫ぶのであった。
――待ってたぜ。お前が俺を見つけるのを!
また或る時は不意に私の背後でその気配を現はし、にょいっと首を伸ばして私の視界にそのいやらしい相貌を現はすのであった。虚を衝かれた形の私はといふと吾ながら不思議なことにそれに全く動ずることもなく唯にたりと笑ふのみで、恰も《そいつ》が私の背後にゐることが当然と言った感じがするのみであった。これは今にして思ふと奇怪なことではあったが、そもそもは私自身が《そいつ》の出現を待ち焦がれてゐたと今になっては合点が行くのであった。
――ふっふっ、到頭俺も気が狂(ふ)れたか?
などと自嘲してみるのであったが、《そいつ》から遁れる術は事此処に至っては全くなかったのである。
それは唯私が私に対して無防備だったに過ぎぬのかもしれぬが、しかし、私は私で《そいつ》と対峙することを嫌っていたかと言へば、実のところその反対であったのである。今にして思へば私は《そいつ》と四六時中対面してゐたかったのが実際のところであったのだ。しかし、暫く《そいつ》は私の不意を衝かない限り現はれることはなかったのである。もしかすると《そいつ》は私を吃驚させて独り面白がりたかったのかもしれぬが、私は不意に《そいつ》が現はれても一向に驚かなかったのであった。つまり、それは私が《そいつ》に恋ひ焦がれてゐた証左でしかないのである。
私がてんで驚かないので《そいつ》が私の周りをうろちょろすることは或る時期を境にぴたりと已んだが、しかし、始末が悪いことに何と《そいつ》は私の瞼裡に棲みついてしまったのであった。つまり、裏を返せば私は瞼を閉ぢさへすれば《そいつ》のにたりと笑ったいやらしい顔と対面出来るやうになったのである。
――また笑ってゐやがる!
――へっ、お前が笑ってゐるからさ。このNarcist(ナルシスト)めが!
――ふっふっふっ。それはお前だろ、俺の瞼裡の闇に棲みつきやがってさ。
――だって「私」を映す鏡は闇以外あり得ないだらう。
――そもそも「私とは何ぞや?」
――それは「私」以外のものに片足を突っ込んだ「私」でない何かさ。
――「私」でない何かが「私」?
――さう。その事を一気に飛躍させて汎用化すれば《存在》は《存在》以外のものに片足を突っ込んだ《存在》でない何かだ。
――ぷふぃ。《存在》でない何かが《存在》? 矛盾してゐるぜ!
――へっへっへっ。論理は矛盾を内包出来ぬ限りその論理は不合理だといふ事は経験上自明のことだね?
――自明のこと?
――さう。矛盾は論理にとって宝の山さ。
――ふっ。矛盾がなければお前が俺の瞼裡に棲みつく必然性はないか……。ふっふっ。
(一の篇終はり)
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