思索に耽る苦行の軌跡

――さて、ところで、人間が矛盾と言ってゐるものが矛盾であることを人間はどうやって証明するのだらう? 





――矛盾であることを証明するだと? 





――さう……。矛盾はそれが矛盾であることが証明できない限りその矛盾は矛盾ではない。





――つまり、それは人間が無知であると言ひたいのか? 





――いや、無知とまでは言はないが、矛盾が矛盾であることが証明できない以上、それはもしかすると真実かもしれない不確実性を含み持ったものだといふことさ。





――へっ、にたりと笑ひやがって! 





 《そいつ》は私の瞼裡でいやらしくにたりと笑ひ、しかし、その眼光は尚更鋭き輝きを放ちながら私を睥睨するのであった。





 それにしても《そいつ》の相貌は何と醜いのであらうか。つまり、「私」は何と醜いのであらうか――。





――つまり推定無罪と言ふ事だ――。





――推定無罪? 





――さう。矛盾が矛盾であることが証明出来ぬ以上、それは推定《真実》と言ふ事さ。





――ふむ。それで「矛盾が論理にとって宝の山」と言った訳か……。――そして論理は其処に矛盾を内包してゐなければ、その論理は不合理であると? 





――さうさ。矛盾を内包してゐない論理は論理にはなり得ぬ論理的がらくたに等しい代物さ。





――論理的《がらくた》か……。しかし、論理は矛盾を内包出来る程寛容なのであらうか? 





――へっへっへっ、寛容でなければその論理は下らない代物だと即断しちまった方がいい! 





――つまり、論理的に正しいことが即ち不合理であると言ふ事か? 





――論理が矛盾を孕んでゐると、つまり、それは今のところは論理的には破綻を来した《論理的底無し沼》にしか見えないが、しかしだ、論理に《論理的底無し沼》といふ《深淵》がなければ、人間の知は《平面的》な知に終始する外ないぜ。





――《平面的》知? 





――簡単に言へば、矛盾無き論理は《平面》の紙上に書かれた言の葉に過ぎず、その言の葉に《昇華》はない。論理は論理を言霊に《昇華》出来なければそんな論理は論理の端くれにも置けぬ! 





――しかしだ、それだと原理主義の台頭を認めることにならないか? 





――原理主義が唱へる論理に《矛盾》は内包されてゐるのかい? 





――傍から見れば原理主義は矛盾だらけなのに、原理主義者の頭蓋内にはこれっぽっちも《矛盾》は存在しないか――。つまり、《矛盾》は狂信の安全弁になり得ると言ふ事か。……しかし、《矛盾》は《渾沌》を呼ばないのかい?





――《渾沌》! 大いに結構じゃないか! 





――ちぇっ、またいやらしい顔でにたりと笑ひやがって! 





 《そいつ》がにたりと笑ふ顔は何時見てもおぞましいものであった。即ち、「私」自体がおぞましい存在でしかなかったのである。





――「不合理故に吾信ず」といふ箴言は知ってゐるな? 





――ああ、勿論。





――論理とは元来不合理な、或るひは理不尽なものさ。否、論理は不合理でなければ、若しくは理不尽でなければ、それは論理として認められはしない。





――その言ひ種はさっきと《矛盾》してゐるぜ。ふっふっふっ。





――ふっ、だから論理は《矛盾》を内包してゐなければそれは論理として認められぬと言ってゐるではないか、へっへっへっ。





――その論理の正否を判断する基準は何なのだらうか? 





――ちぇっ、《自然》に決まっておらうが! 





――《自然》? 





 《そいつ》の鋭き眼光は更に更に更にその鋭さを益して私を睨みつけるのであった。





――《自然》以外に人間、否、《主体》の判断基準が何処にある? 





――信仰は? 





――ちぇっ、神の問題か……。





(二の篇終はり)





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2009 01/03 03:12:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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