思索に耽る苦行の軌跡

2009年 04月 06日 の記事 (1件)


――お前は《他=吾》も《反=生》も《反=死》も《実体》も《反体》も何もかも全てが《存在》といふ泡沫の夢に過ぎぬと、まるで達観でもしたかの如く考へて鳧(けり)をつけたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が泡沫の夢の如き《もの》と辛うじて呟けるのは今正に死に行く寸前の《存在》共のみだぜ。未だ生き永らへる《存在》は《存在》といふ《特異点》をその内部に隠し持ってゐる故の《深淵》をまるで極楽の如き棲処にしちゃ、この悪意に満ちた宇宙、俺はそれを《神》と名付けるが、その宇宙たる《神》の思ふ壺だぜ。





――へっ、所詮このちっぽけな《存在》がこの宇宙といふ《神》に反旗を翻したところで高が知れてるぜ。





――だから《神》の摂理に従へと? 





――《存在》もまた《自然》ではないのかね? 





――《自然》は《特異点》と同様、《存在》の塵箱じゃないぜ。





――それじゃあ、あくまでも《存在》は未だ生き永らへる限り《反=自然》であり続けろと? 





――《存在》はこの宇宙からも《自然》からも将又《神》からも自存することを自棄のやんばちに、そして遮二無二願ひ、またさうであることで漸く「《吾》は《吾》なり」とぼそっと呟ける宿命を背負ってゐるのさ。





――何に背負はされてゐるといふのか? 





――へっへっへっ、決まってをらうが、《自然》さ。





――《自然》もまた《自然》であることに我慢がならぬと、つまり、《自然》もまた自同律から遁れられないと? 





――当然だらう。《自然》が此の世で最も自身を憎悪してゐる筈だぜ。





――ぶはっはっはっ。





――うふっふっふっ。





――《自然》自らして無秩序を望んでゐるというか――。





――渾沌の中からしか《新体》は現はれやしないぜ。





――《特異点》といふ《深淵》で《実体》と《反体》は対消滅を遂げてSoliton(ソリトン)の如き未知の孤立波を敢へて《新体》と呼ぶならば、自同律と因果律が壊れた《特異点》を内部に隠し持たざるを得ぬ《存在》のその矛盾した有様に端的に表はれるこの宇宙たる《神》の悪意を弾劾せずにはゐられぬ《主体》が、そんな風に《存在》するのは至極当然のことで、また、《実体》と《反体》が絶えず対消滅する渾沌とした《特異点》を先験的に授けられてしまった《存在》が、己の《存在様式》を憎悪するのは尚更《自然》なことであって、而も《存在》は必ず自身を憎悪せずにはゐられぬやうに仕組まれてしまってゐるのさ。そして、あらゆる《存在》は捩ぢれに捩ぢれ、最早捩ぢ切れるまでの矛盾した自同律に懊悩するのは《存在》の宿命だ。





――《自然》もまた《他=吾》を渇仰してゐるといふのか? 





――《自然》こそ《未存在》であり而も《他=吾》であることを切望してゐる。





――つまり、それは渾沌といふことだね? 





――へっ、《自然》が自らに我慢がならずそれ故この《自然》を最初から創り直したいと望んでゐるとしたならば、へっ、《存在》は自ら置かれたそんな状況を最早嗤ふしかないだらう? 





――《自然》はやはり己に我慢がならず最初からこの《自然》を創り直したいと? さうすると、やれ《主体》だ、やれ《客体》だ、やれ《対自》だ、やれ《脱自》だ、やれ《差異》だ、やれ《地下茎》だとほざくこと自体が元来馬鹿馬鹿しいことに違ひない! だが、その馬鹿馬鹿しいことに懊悩せざるを得ぬのが此の世に《存在》する《もの》全ての宿命なのか――。





――《存在》とは元来馬鹿馬鹿しい《もの》と相場が決まってゐるのさ。





――つまり、《存在》は何か別の《もの》へと変容することを先験的に課されてゐると? 





――先験的にかどうかは解からぬが、少なくとも現実においては《存在》する《もの》全て別の何かへと変容する《夢想》を等しく抱いてゐるのは間違ひない。





――それは《死》ではないのかね? 





――いや、決して《死》なんかじゃない! 





――それは《自然》自らがこの《自然》を最初から創り直したいと切望してゐることにその淵源があると? 





(廿七の篇終はり)





2009 04/06 04:53:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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