思索に耽る苦行の軌跡

――逃げ道など探さずに敢然と《存在》が《存在》する《現実》に対峙してみたら如何かね? 





――ちぇっ、それが至難の業だと知ってゐるくせに! 





――はて、何故《現実》に対峙することが至難の業なのかね? 





――絶えず《現実》といふ《自然》に《吾》が試されるからさ。





――ふっふっふっ。《吾》とはそんなにも繊細な《存在》なのかね? 





 その時《そいつ》は眼球をゆっくりと此方に向け、私の内界全てを一瞥の下に暴き出したかの如く《そいつ》はしたり顔で私を嗤ったのであった。





――それが不可能だと十二分に解かってゐるくせに《吾》は《吾》ならざる《吾》を絶えず渇望してゐなければ最早一時も《吾》たることに我慢がならぬ、それでゐて《吾》ならざる《吾》に対しては疑念に満ち満ちた、それは何とも厄介な代物なのさ、《吾》とは。





――《吾》は《吾》に対してそんなに厄介な《もの》かね? 





――ああ、《吾》は一筋縄ではゐかぬ厄介この上ない代物だ。就中(なかんづく)《吾》が《吾》に対して抱く猜疑心、こいつは何とも度し難い――。





 《そいつ》はその刹那、にたりと嗤ひ、かう呟いたのであった。





――《吾》とはその《存在》の因子として先験的に猜疑心を授けられてゐる《存在》なのかね? 





――《吾》が滅する定めである限りさうに違ひない。





――つまり、その何とも厄介な代物を《吾》と名付けたはいいが、その実《吾》であることに我慢がならず、しかし、さうでありながらも実のところは《吾》は絶えず《吾》の壊滅に怯えてゐるのじゃないかね? 





――だからといって《吾》は《吾》であることを止められない。





――くっくっくっくっ。《吾》とは随分身勝手な《存在》なのだね。くっくっくっくっ。《吾》が《吾》であることが我慢ならず、それでゐて《吾》の壊滅には絶えず怯えてゐる。ちぇっ、何とも《愚劣》極まりない! 





 《そいつ》は吐き捨てるやうに、しかしながらそれでゐて《そいつ》自身に向かって「《愚劣》極まりない!」と言ったかのやうであった。





――《存在》は詰まる所《愚劣》な《もの》じゃないかね? 





――くっくっくっくっ。その通りだ。《存在》はそもそも《愚劣》極まりない! 《愚劣》極まりないから論理は尚更矛盾を孕んでゐなければならぬのさ。





――つまり、《存在》そのものが矛盾であると? 





――へっ、何処も彼処も矛盾だらけじゃないか! 





――だからと言って《吾》であることを一時も止められやしないんだぜ。嗚呼、何たる不合理! 





――そもそもお前の言ふ合理とは何なのかね? つまり、一=一が成り立てば、それが合理なのかね? 





 私は其処で、私の頭蓋内の闇にぽつねんと呪文の如く『吾=吾』といふ等式を思ひ浮かべたが、それは束の間のことで、直ぐ様『吾=吾』といふ《愚劣》極まりない等式としてのその表象を唾棄したのであった。





――自同律が諸悪の根元だといふことはお前にも自明のことだね? 





 《そいつ》は私を嘲笑ふやうにさう呟いたのであった。





――しかし、此の世に《存在》する限りにおいては自同律は持ち切らないといけない。それがどんなに不快であってもだ。





――くっくっくっくっ。別に持ち切らなくても構はないのじゃないかね? 





――如何して? 





――如何足掻いたところで《吾》は《吾》でしかないからさ。





――《吾》が《吾》であることを全肯定せよと? 





――ああ。





――へっ。それは《吾》が《吾》であることを全否定せよと言ってゐるのと同じことじゃないかね? 





――くっくっくっくっ。その通りさ。土台《吾》が《吾》であることを全肯定するには先づ《吾》が《吾》を全否定し尽くさねばその糸口すら見つからない。くっくっくっくっ。《吾》そのものがこれ程矛盾に満ちてゐるにも拘はらず、《吾》に対して合理を求めるのは最も不合理この上ないことじゃないかね? 





――「不合理故に吾信ず」――。





――さう、《吾》は先づ《吾》を信じてみたら如何かね? 





――ふっ、《吾》を信ずる? これは異なことを言ふ。「不合理故に吾信ず」といふ箴言は、《存在》のどん詰まりに追い込まれたその《存在》の断末魔の如き呻き声でしかないのさ。つまり、《吾》とは《吾》に対して信が置けない《愚劣》極まりない、つまり、《吾》対しては猜疑心の塊でしかないのさ。





(四の篇終はり)





2009 03/28 06:51:48 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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