思索に耽る苦行の軌跡

 家に帰っても未だ興奮冷めやらぬ筈であったであらう私は、家に帰り着くや否や直ぐに昆虫図鑑を取り出して今さっき出遭ったばかりの未知なる生き物が何であるのかを調べ始め、さうして、遂にあの未知なる生き物が何と蟻地獄と名付けられてゐるのを昆虫図鑑の中に見つけた刹那、「あっ」と胸奥の何処かで叫び声を上げたに違ひないのである。





――蟻地獄――。





 私の大好きな昆虫の一つであった蟻の而も地獄! 何といふ名前であらうか。多分、幼少の私は何度も何度も蟻地獄といふ名を胸奥で反芻してゐた筈である。





――蟻地獄――。





 その名は様々な想念を掻き立てるに十分な名のであった。蟻地獄といふ名は今考えても何やら此の世ならぬ妖怪の名のやうな奇怪な名なのであった。名は体を表わすと言へばそれまでなのであるが、それにしても蟻の地獄とは何としたことであらうか。幼児の私はその名すらも知らなかった《虚無》若しくは《虚空》といふ言葉が持つ《魔力》と同じやうなものを、それとは名状し難いとはいへ、直感的に、または感覚的に蟻地獄と名付けられたその生き物に感じ取ってしまった筈である。幼少とはいへ、私は茫洋とだが直感的には掴み得る蟻地獄といふ名に秘められた此の世にぽっかりと空いたあの《深淵》の形象をそれとは微塵も知らずに蟻地獄という言葉に見出してしまった筈であった……。





――蟻地獄――。





 それは此の世と彼の世を繋ぐ呪文の如く突如として私の眼前に現われたのであった。





――蟻地獄――。





 幼児の私は既に地獄とは何か知ってゐた筈である。さうでなければこれ程までに蟻地獄に執着する筈はなかったに違ひないのである。それは例へば親が深夜の寝室で性交してゐる情景を目にしたかの如く、何やら見てはいけないものを見てしまった含羞をも併せ持った言葉として幼児の私に刻印されたのであった。





――蟻地獄――。





 それは此の世では秘められたままでなければならぬ宿命を持った存在として幼児の私には感じ取られたのかもしれなかった。それ程までに《蟻地獄》といふ言葉は何とも不思議な《魔力》を持った言葉なのである。その後何年も経なければ知りやうもなかった《深淵》といふ言葉が、蟻地獄のそれと気付いたのはパスカルの「パンセ」を読んだ時であったが、幼児の私は、《深淵》といふ言葉を知る遥か以前に《深淵》に対するある種くっきりとした《形象》を、蟻地獄を知ったことで既知のものとして言葉以前に直感的なる《概念》――それを《概念》と呼んでよいのかどうかは解からぬが――、しかし、《概念》若しくは《表象》若しくは《形象》等としか表現できないものとして私の脳裡の奥底にその居場所を与へられることになったのであった。





――蟻地獄――。





 蟻やダンゴ虫等、地を這ふ生き物を餌としてゐた蟻地獄の生態を知るにつけ、成程、蟻地獄を捕まへるべく蟻地獄の巣ごと手で掴み取った時に、蟻やダンゴ虫の死骸も一緒に掌の上にあったのも合点のいくことであった。それにしても蟻地獄の生態は奇妙なものであった。何故蜘蛛の如く罠を仕掛けてじっと餌があの小さな小さな小さな擂鉢状の罠に落ちるのを待ち続ける生き方を選んだのか、幼児の私は知る由もなかったが、しかし、その生き方にある種の《断念》の姿を、もっと態よく言へば《他力本願》の姿を見たのかもしれなかった。





 《自力》で餌を追ふことを《断念》し、只管(ひたすら)あんなちっぽけな擂鉢状の穴凹に蟻等が落ちて来るのを待つ《他力》に自らの生死を全的に任せてしまったその蟻地獄の生き方に、餓死することも覚悟した上での《他力本願》の一つの成就した姿を、幼児の私は親鸞を知る遥か以前に知ってしまったのかもしれず、その蟻地獄の、一方である種潔い生き方は、尚更、蟻地獄を興味深き《正覚》した生き物として、しかし、当の私本人はそれとは露知らずに脳裡に焼き付けることになったのかもしれなかった。





――蟻地獄――。





 蟻地獄にとって餓死は普通にある当たり前のことであることが解かると、私にとって蟻地獄はそれだけで既に餓鬼道を生きる愛おしい生き物に成り果せたのであった。





――蟻地獄――。





 この愛しき生き物の生き方は幼少の私にとって特別な衝撃を与へ、その衝撃の影響の大きさはずっと私の脳裡に留まり続けたまま、後年はっきりと言葉で知ることになった《他力本願》を此の世で実践して見せる《正覚者》として、また、蟻地獄は他の生き物と比べて別格の生き物として、私に記憶されることになったのであった……。





(二の篇終はり)





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2009 01/24 04:00:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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