思索に耽る苦行の軌跡

――実際基督教の《神》は滅んだかい? 





――いや……、厳然として今も存在してゐる。





――ふっ、それじゃあ、宗教から派生した筈の科学は《霊魂》や《神》の存在を全否定出来たかい? 





――いや……。





――そりゃ当然さ。元々科学は宗教から派生したものだからな。つまり《神》が創り給ふたこの世界を証明することが科学の究極の目標なんだから、科学に《霊魂》や《神》を否定出来る筈がない! 





――それでも《主体》の《気分》で物事を決定するのは余りにも危険過ぎやしないかね? 





――当然危険極まりない! しかし、先程も言ったやうに残念ながら《主体》は一度《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を最早背負ってしまってゐる……。さうしなければ《主体》は《主体》ならざる《存在者》として《開眼》出来やしない! その為にも《主体》は己の《気分》に忠実に従はなければ《世界》に《溺死》するにも《主体》は浮かばれやしない。それに《気分》に重きを置いた先人にハイデガーがゐるじゃないか! 





――成程……。ハイデガーも《死》に対する《不安》といふ《気分》に重きを置いた何処かしら東洋的な匂ひの漂ふ先人には違ひない。しかし、《世界》に《溺死》するとまではハイデガーは言ってやしないぜ! 





――事此処に至っては《主体》は《世界》に《溺死》する外ない処まで既に追ひ込まれてしまってゐる……。それ故に《世界》に《溺死》する様を次世代にまざまざと見せつけて《主体》の存在の在り方の一つとして後世にその成否の判断を仰ぐしかない。吾々の世代は先づ《世界》に《溺死》して見せることがその存在理由になっちまったのさ、ちぇっ。さうして生き恥を曝すのさ。





――進退此処に谷(きは)まれり――か。





――ふっ、武田泰淳か……。





――何時の時代も《死》が付いて回る。ブレイクじゃないけれども《不死》は必然的に滅びる運命にある。《生》が泡沫の夢ならば《不死》も泡沫の夢さ。ならば《主体》は見事に《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を元来負ってゐる……。何故と言って《主体》の死滅後も《世界》は相変はらず依然として存在するからな。





――《主体》第一主義、即ち実存主義等はもう幕引きの時か――。





――その為にも《主体》は《世界》に《入水(じゅすい)》して、見事に《溺死》しなければならぬ存在体としてしか、皮肉なことだが、もう此の世で生き残る術はないのさ。





――生き残る? 





――ああ、さうさ。生き残るだ。





――《溺死》するのじゃないのかい? 





――勿論《世界》に《入水》して《溺死》するのさ、《主体》は。しかし、《主体》は《溺死》するが《主体》以外の《もの》として《主体》は新生するのさ。





――新生と言へば聞こえはいいが、しかしそれは結局のところ、《主体》の《存在》といふ《厄》を払ふ禊(みそぎ)に過ぎないのじゃないかい? 





――ふっ、その通り、《主体》の単なる禊に過ぎぬが、しかし、この《存在》に呪はれた《主体》は《世界》に《入水》して禊を行はなければ、最早一時も《存在》出来やしないのさ、哀しいことにな。





――その《入水》時、へっ、《実体》と《反体》は《溺死》する中で遂に対消滅が起こる。つまり、此の世ならぬ《光》を見る、否、なるといふことだね? 





――ふっふっふっ。対消滅しても《吾》といふ意識は残るぜ。此の世ならぬ《光》となってもね。





――へっへっ、その時、時間は一次元の殻を破ってゆっくりと渦を巻く無限の相の時空間となって《吾》を包み込み《吾》の現前に拡がる……ちぇっ、下らない夢想だ! 





――下らないかね? 俺には面白さうに思へて仕方ないぜ。此の世ならぬ《光》となりし《吾》を想像し給へ。へっへっへっ、これ以上面白さうな事があるかい? 





(十六の篇終はり)





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2009 01/19 03:31:41 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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