思索に耽る苦行の軌跡

2010年 06月 の記事 (4件)

――確かに今は虚数なしで此の世を説明する事自体に無理があるが、とはいへ、普通に此の世に暮らしてゐる分には、虚数など全く意識しない。





――当然だらう。そんな事言ひ出したならば、《存在》する《もの》は、《存在》を意識せずに日常を送ってゐるといふ事で、全てがちゃんちゃんと手打ち出来ちまふぜ。だが、ひと度《私》に躓いた《存在》は、最早、《存在》について考へに考へ尽くさずば、此の世に一時たりとも生きるに値しないと思ひ詰める《もの》ぢゃないかね? 





――つまり、自同律に対する拭ひ切れない疑念だね? 





――さう。《私》は《私》であって《私》でないといふ、つまり、自同律の排中律といふ、へっ、矛盾以外の何《もの》でもない《私》に対する底知れぬ不審。





――そして、其処に無と無限にばっくりと口を開けたパスカルの深淵を前に呆然として、《存在》は唯佇立するのみ。





――そして、《吾》はそれを《特異点》と名指して、無と無限を或る有限にも見える擬態に近い∞といふ象徴記号に荒ぶる《もの》を封じ込めたのみだが――。





――しかし、《吾》は既に、つまり、「先験的」に無と無限を知ってゐる事にはたと気付くのさ。





――つまり、子宮といふ一大宇宙の主として羊水にたゆたふ《もの》として、《存在》の一例として哺乳類は胎児の時代に、たった一つの受精卵から細胞分裂を繰り返すうちに、その胎児は、これまでの生物史を全て体現するやうに胎児は変態を繰り返すのだが、そして、その全生物史を体現する胎児の成長こそに「先験的」に無と無限と虚、若しくは空の断崖にしがみ付き、絶えず色の方へと己の《存在》の在り処を求めずにはゐられぬそんな《存在》どもの性(さが)は「先験的」に賦与されてゐるといふ事か……。





――それは、つまり、色とは無と無限と虚、若しくは空の断念といふ事かね? 





――さうさ。無と無限と虚、若しくは空を断念する事で色たる《実体》が此の世に出現する。





――それも排中律と《特異点》の矛盾を抱へてな。





――其処さ。《存在》には、この頭蓋内の闇といふ五蘊場に無数の《異形の吾》が明滅し、《吾》はそれのどれも「《吾》だ!」と断言しながら、辛うじて《吾》が《吾》である事で、《吾》は《吾》たることを保持するのだが、《吾》は《吾》が五蘊場に生滅する無数の《吾》を受容して行くのかね? 





――ああ。必ずや《吾》を受容せねばならぬのが《存在》が《存在》たる宿命だ? 





――宿命? 





――つまり、《存在》にとって無数の《吾》を受容する事もまた「先験的」な《もの》なのかね? 





――さうさ。《吾》についてクラインの壺を或る象徴として、お手軽に具像化出来る《もの》として、この得体の知れぬ《吾》の位相として騙ってゐる《存在》の上っ面のみを眺めて全てを理解したがの如く自己満足に充足してゐる輩をたまに見かけるが、例へばその輩に「《吾》の《存在》とは?」と問ふと、何やら自信無げに口籠って《他》が徹頭徹尾作り上げた思考体系を持ち出して、己の正当性を訴へる馬鹿《もの》に結局、己の《存在》の尻拭ひを全て《他》に委ねてゐる事で、安寧を得てゐて、そして、どう足掻かうが遁れようのない《現実》から何としても逃避する《存在》の在り方が、一種のBoom(ブーム)のやうだが、それとて結局出口無しなのは虚無主義と同じ孔の狢(むじな)さ。





――つまり、ゲーデルを解かりもせずに持ち出して《存在》の不完全性に言及する事によって、《吾》は《現実》の《吾》に対峙する事を最後迄避けてゐる、ちぇっ、つまり、意気地無しの《吾》が現在量産されてゐるこの《現実》を前にして、《吾》はもう一度「存在論」の淵源から物事を思惟する苦行をする外に、この得体の知れぬ不気味な《吾》といふ《存在》に振り回されてばかりの、主体無き、つまり、主体を抹殺する暴挙を美徳とする勘違ひした論理に陥るのが関の山だぜ。





(七十一の篇終はり)







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2010 06/28 09:43:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、線形に非線形? 闇も《場》ならば偏微分が難なく成り立つ非線形の筈だがね。それ以前に闇が線形か非線形かを問ふ事自体下らぬ愚問だぜ。





――ふほっほっほっほっ。済まぬ済まぬ。わしの言ひ間違ひぢゃ。つまり、かうぢゃ。闇とは論理的かね、将又、非論理的かね? 





――両様だらう? 





――それはまた何故? 





――闇は絶対的な主観の《場》であるか、絶対的客観の《場》であるかの両様を何の苦もなく統覚しちまってゐるからさ。





――ふほっほっほっほっ。それぢゃと闇はどうあっても《存在》から遁れ果せてしまふぞ。





――だから闇は無と無限と空を誘ふのではないかね? 





――ふほっほっほつほっ。それこそお前の単なる思ひ過ごしぢゃないかね? 





――絶対的な主観、若しくは絶対的な客観が思ひ過ごしでも構はぬではないかね? 





――そうぢゃよ、どちらでも構はぬ。





――それぢゃ、お前にとって絶対的主観、若しくは絶対的客観といふ《もの》を敢へて名指せば何なのかね? 





――それは《存在》する《もの》の単なる気紛れぢゃ。





――気紛れ? 





――さうぢゃよ。《存在》する《もの》の気紛れを称して絶対的主観、若しくは絶対的客観と名付けだだけぢゃて。





――それでは此の世が何かの、つまり、神の気紛れで《存在》しちまったといふ事と同じぢゃないかね? 





――それで構はぬではないか。神の気紛れで此の世が誕生したといふ事で? 





――ぢゃ、何かね、この俺といふ《存在》も糞忌忌しい神の単なる気紛れで《存在》しちまひ、そして闇を、この頭蓋内の闇を見出す度に、無や無限や空に誘はれちまふのも、その神の単なる気紛れかね? 





――だからどうだといふのぢゃ? 「《存在》は有限故に無と無限と空を欲し、神は無限故に有限なる《もの》を欲す」ぢゃ。





――つまり、此の世の原理は無い《もの》ねだりといふ事かね、へっ――。





――だとしたならば、お前は神に唾でも吐き掛けるかね? 





――ああ。天に唾を吐くさ。馬鹿を承知でな。全く反吐が出さうだぜ。神は無限故に有限なる《もの》を欲す? 何だね、その言ひ分は? 





――ほら、ほら、神へ牙を剥けばいいぢゃよ、ふほっほっほっほっ。





――へっ、今更、神に牙を剥いたところで何にもなりゃしないぜ。だって、俺は既に《存在》してゐるのだからな。





――その《存在》を保証してゐるのは何かね? 





――《他》であり、俺の意識さ。





――それぢゃ、お前が此の世に《存在》する確たる証左にはならぬぞ。





――何故? 





――《他》もお前の意識も全てがその淵源を辿れば神が無限故に欲した、つまり、それを神の気紛れと看做すならば、お前が此の世に《存在》してゐる証は、全的に神に帰すぢゃらうが。





――つまり、《存在》とはどう足掻かうが、神の問題を避けられぬといふ事かね? 





――さうぢゃ。多かれ少なかれ、此の世に《存在》する森羅万象は、神問題で躓くのが此の世の道理ぢゃて。





――そして、《吾》は《吾》にも躓く。





――《吾》に躓き、神に躓いたその《存在》は、さて、それでは何故に己の存続を望むのかね? 





――全てが謎だからさ。





――謎ねえ。ふほっほっほっほっ。さて、その謎を解く自信が《存在》にあると思ふかね? 





――いいや。全くない筈だ。むしろ、その謎を解くのに二の足を踏んでゐる。





――さうかね? しかし、人間は自然を解明するのに躍起になってゐるぢゃないかね? 





――人間は全史を通じて神に躓き続けてゐるからね。しかし、人間は自然を科学でもってしてそのどん詰まりまで人間の智たる科学的知のみで組み立て段になると、それは信仰告白とちっとも変らぬ事に吃驚するだらうよ。





――ふほっほっほっほっ。それは、科学と神のどちらかを選べと森羅万象が問はれれば、此の世に《存在》する《もの》は、きっと神を選ばざるを得ぬといふ事かね?





――ああ、さうだ。《存在》は否応なく科学より神を選ばざるを得ぬのが此の世の道理だと言ふ事を嫌といふ程知らされることになる筈だ。





――何故に?





(五の篇終はり)







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2010 06/21 07:22:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、それは、此の世が、そして此の世の森羅万象が《実在》、ちぇっ、《存在》する事に既に虚数iのi乗といふ数学的に、また、論理的にも確実に実数として此の世に《存在》する法と言ったらいいのか、その主体ではどう仕様もない法に此の世のあらゆる《存在》は「先験的」に、へっ、支配されてゐて、それに対して《存在》は手も足も出ないといふ事かね? 





――だったらどうだといふのかね? 





――別にどう仕様もないさ。





――無と無限と虚、若しくは空を操る《もの》、既に《存在》の秘密を見し――か――。





――その空は、色即是空、空即是色の空だね。





――さうさ。





――すると、或る意識、へっ、俺は《存在》する《もの》全てに漏れなく意識は宿ると看做す悪癖があるが、仮に意識といふ《もの》が森羅万象に宿ってゐるとすると、それもまた無と無限と虚、若しくは空の仕業かね? 





――それ以外に何が考へられるといふのかね? 





――さうすると、その無と無限と虚、若しくは空により組み上げられた《もの》の総称が色といふ事かね? 





――ふむ。色か……。敢へてさう看做すのならばだ、無と無限と虚、若しくは空のみで色を論破出来なければ、つまり、色が、無と無限と虚、若しくは空から説明出来きねば、へっ、《存在》はそもそもが矛盾した《もの》だと烙印を押したやうなもんだぜ。





――《存在》はそもそもからして矛盾した《もの》ぢゃないのかね? 





――ふん、さうさ。この《吾》といふ《存在》はそもそも矛盾してゐるが故に思惟せずにはいられぬのさ。





――またぞろ、cogito,ergo sum.の出番か……。この頭蓋内といふ闇たる五蘊場の何処かでぽっと発火現象が起きると、少しの間も置かずにその発火現象に誘はれるやうにして、別の五蘊場の何処かで発火現象が連鎖的に起こり、それらが、或る表象をこの頭蓋内の闇たる五蘊場に浮沈させては、否、生滅させては、へっ、此の世の儚さと己の儚さとに同時に思ひを馳せながら、この《吾》といふ《存在》は、それでも「《吾》たらむ」として、無と無限と虚、若しくは空と対峙する。





――色即是空……か。もう何百年も前にこの思惟する《存在》は、空として虚数iの《存在》を予言しちまってゐた。





――さうさ。例へばだ、現代人の思惟行為は何千年も前に此の世に《存在》して古代人の思惟行為を遥かに越えてゐたと、お前は看做せるかね? 





――ふむ……。いや、さう看做せる筈がないぢゃないかい。





――さうさ。現代人の思惟行為、若しくは思惟活動が、何千年も前に此の世に《存在》した意識体に優ってゐたといふ証拠は全くと言っていい程、皆無で、むしろ現代に《存在》させられちまった意識体は下手をすると太古の昔に憧れさへ抱いてゐる。





――例へばだ、犬の思惟と人間の思惟のどちらが優れてゐると思ふかね? 





――ちぇっ、下らぬ。その問ひに何の疑念も抱かずに「人間!」と答へる輩は、愚劣極まりないぜ。犬も人間も、多分、同等な筈だ。





――さう、同等だ。現代に《存在》しちまってしまった《存在》は、それが何であれ全て同等さ。





――さて、それぢゃ、何故に同等なのかね? 





――答へは簡単ぢゃないかね。此の世の森羅万象は残らず無と無限と虚、若しくは空に絶えず曝されてゐて、此の世に不運にも《存在》しちまった《もの》全てはそれを我慢してゐる。





――己の滅びを我慢してゐるのだらう? 





――否、己の《存在》その《もの》を我慢してゐるのさ。





――へっ、結局、無と無限と虚、若しくは空の総体としてしか、此の世に《存在》出来ぬ《もの》は、此の世の摂理に従はずば此の世に《存在》する事を絶対に許されぬといふ事に帰結しちまふか――。





(七十の篇終はり)





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2010 06/14 06:38:05 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――その馬鹿な《存在》は、つまり、さうであっても、所詮、これまでの宇宙史に《存在》しなかった全く新たな《存在》の出現を望んでゐるのと違ふかね? 





――へっ、それは既に《存在》が《存在》する為にも必ず渇望する《もの》になっちまってゐる。とはいへ、それは宇宙もまた己自体の《存在》に我慢がならぬならばの話だがね。





――ふっふっふっ。当然、我慢がならぬだらう。すると《杳体》は、これまで《存在》しなかった全く新たな《もの》を出現させる為の揺籃だと看做せるのかい? 





――否、それ以前に《杳体》がそもそも《杳体》であることに我慢がならぬ筈さ。





――はて、それは一体全体何の事かね? 俺は未だに《杳体》なる《もの》をちっとも表象すら出来ぬままなのだが、そこでだ、先づ、お前が言ふ《杳体》は《存在》を《存在》させる《もの》の本質と考へてもいいのかね? 





――ああ。《杳体》すら己の《存在自体》に我慢がならぬ故に、へっ、哀しい哉、《存在》はこれまで宇宙史に一度たりとも《存在》しなかった《もの》の出現を渇望せざるを得ぬのさ。つまり、己の《存在》に我慢がならぬと言ふ自己矛盾が《存在》が《存在》たるべくある為の《存在》の揺籃なのさ。





――否、それは揺籃ではなく、多分、《渦》に違ひない筈さ。その《渦》の中心には、どうあっても自己であってはならぬ「先験的」な《存在》とも看做せちまふ《他》がなければ、《渦》は巻かぬ……。つまり、《存在》の揺籃としての時空間の《渦》は、多分、《カルマン渦》に相似した《渦》な筈だが、その《渦》の中心に《己》はどう足掻いても《存在》出来ず、その《渦》の中心を《反=自己》と名付けてみると、《存在》のその《渦》の形象をした坩堝の中心に陰陽魚太極図の目玉模様の如く《反=自己》が必ず《存在》する。そして、《反=自己》が《存在》しなければ自己は一時たりとも、これまた《存在》出来ぬのが此の世の道理だ。





――《反=自己》とは反物質にも似た《反体》の事かね? 





――別に何でも構はぬさ。《反=自己》が対自であらうが、脱自であらうが、《反体》であらうが、其処で時間が一次元的な《もの》から、∞次元の相の下に解放されてゐるのであれば、《反=自己》を何と呼ばうが構ひやせぬ。





――時間が∞次元の相の下に置かれるとなると、《杳体》はもしかするとその《面》を現はさざるを得ぬかね? 





――いや、それは解からぬが、少なくとも《世界》はその不気味な《面》を現はすに違ひない。《実体》も然り、《反体》も然り、《主体》も然り、《客体》も然りだ。森羅万象がそれまで隠してゐた醜悪極まりないその不気味な《面》を此の世に現はす。





――《面》はそれが何であれ、醜悪極まりないかね? 





――ああ。それはそれは悍ましい《面》をしてゐなければ、現在、此の世に起こってゐる愚劣極まりない事など起こりやしないぜ。





――それでは、その時、つまり、《世界》がその醜悪極まりない《面》を現はしたその瞬間に《物自体》の《影》、否、《杳体》の《影》の輪郭は少なくともはっきりするのかな? 





――つまり、それは《杳体》の《影》が、一瞬、此の世の森羅万象の上をちらりと蔽ふ醜悪極まりない《杳体》の《面》の《影》の中に没する途轍もなく嫌な嫌な嫌な、そして不愉快極まりない時空間の事だね。少なくとも《杳体》はその醜い《面》を被ってゐるに違いない筈だとすると、その《面》の《影》は《存在》する《もの》にとって《存在》そのものから遁走したいに違ひない不愉快極まりない《世界》が現実に出現してゐるのかもしれぬといふ事だね。さうしなければ∞次元の時間の相の下では《存在》は《存在》なんぞ出来っこないからな。





――《杳体》が《存在》出来ぬ? それはまた異な事を言ふ。《杳体》は「先験的」に、若しくは「超越論的」に《存在》してゐる《もの》ぢゃないのかね? 





――例えばだ、それまで漆黒の闇の中に隠れ潜んでゐたであらう《杳体》は、その隠れ蓑たる闇を取り去られると、へっ、其処に現はれるのは無限を手なづける事に成功した《存在》だけにちらりとその醜悪極まりない《面》を見せる、違ふかね? 





――はて、無限を手なづける? それはつまり特異点が剥き出しになった上に、その特異点は鋭き牙を剥いて《存在》に襲ひかかるといふ事かね? 





――∞次元の時間の相の下では、驚く事勿れ、特異点のみが平安の中に坐すのさ。





――えっ、一体全体それは何の事かね? 





――つまり、∞次元の時間の相の下での《存在》は特異点にのみ許される。





――何に許されると? 





――へっ、《神》と言はせたいのだらうが、此処では《存在》若しくは《イデア》若しくは《物自体》と言って置かうかな。





(十 終はり)







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2010 06/07 07:07:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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