――確かに今は虚数なしで此の世を説明する事自体に無理があるが、とはいへ、普通に此の世に暮らしてゐる分には、虚数など全く意識しない。
――当然だらう。そんな事言ひ出したならば、《存在》する《もの》は、《存在》を意識せずに日常を送ってゐるといふ事で、全てがちゃんちゃんと手打ち出来ちまふぜ。だが、ひと度《私》に躓いた《存在》は、最早、《存在》について考へに考へ尽くさずば、此の世に一時たりとも生きるに値しないと思ひ詰める《もの》ぢゃないかね?
――つまり、自同律に対する拭ひ切れない疑念だね?
――さう。《私》は《私》であって《私》でないといふ、つまり、自同律の排中律といふ、へっ、矛盾以外の何《もの》でもない《私》に対する底知れぬ不審。
――そして、其処に無と無限にばっくりと口を開けたパスカルの深淵を前に呆然として、《存在》は唯佇立するのみ。
――そして、《吾》はそれを《特異点》と名指して、無と無限を或る有限にも見える擬態に近い∞といふ象徴記号に荒ぶる《もの》を封じ込めたのみだが――。
――しかし、《吾》は既に、つまり、「先験的」に無と無限を知ってゐる事にはたと気付くのさ。
――つまり、子宮といふ一大宇宙の主として羊水にたゆたふ《もの》として、《存在》の一例として哺乳類は胎児の時代に、たった一つの受精卵から細胞分裂を繰り返すうちに、その胎児は、これまでの生物史を全て体現するやうに胎児は変態を繰り返すのだが、そして、その全生物史を体現する胎児の成長こそに「先験的」に無と無限と虚、若しくは空の断崖にしがみ付き、絶えず色の方へと己の《存在》の在り処を求めずにはゐられぬそんな《存在》どもの性(さが)は「先験的」に賦与されてゐるといふ事か……。
――それは、つまり、色とは無と無限と虚、若しくは空の断念といふ事かね?
――さうさ。無と無限と虚、若しくは空を断念する事で色たる《実体》が此の世に出現する。
――それも排中律と《特異点》の矛盾を抱へてな。
――其処さ。《存在》には、この頭蓋内の闇といふ五蘊場に無数の《異形の吾》が明滅し、《吾》はそれのどれも「《吾》だ!」と断言しながら、辛うじて《吾》が《吾》である事で、《吾》は《吾》たることを保持するのだが、《吾》は《吾》が五蘊場に生滅する無数の《吾》を受容して行くのかね?
――ああ。必ずや《吾》を受容せねばならぬのが《存在》が《存在》たる宿命だ?
――宿命?
――つまり、《存在》にとって無数の《吾》を受容する事もまた「先験的」な《もの》なのかね?
――さうさ。《吾》についてクラインの壺を或る象徴として、お手軽に具像化出来る《もの》として、この得体の知れぬ《吾》の位相として騙ってゐる《存在》の上っ面のみを眺めて全てを理解したがの如く自己満足に充足してゐる輩をたまに見かけるが、例へばその輩に「《吾》の《存在》とは?」と問ふと、何やら自信無げに口籠って《他》が徹頭徹尾作り上げた思考体系を持ち出して、己の正当性を訴へる馬鹿《もの》に結局、己の《存在》の尻拭ひを全て《他》に委ねてゐる事で、安寧を得てゐて、そして、どう足掻かうが遁れようのない《現実》から何としても逃避する《存在》の在り方が、一種のBoom(ブーム)のやうだが、それとて結局出口無しなのは虚無主義と同じ孔の狢(むじな)さ。
――つまり、ゲーデルを解かりもせずに持ち出して《存在》の不完全性に言及する事によって、《吾》は《現実》の《吾》に対峙する事を最後迄避けてゐる、ちぇっ、つまり、意気地無しの《吾》が現在量産されてゐるこの《現実》を前にして、《吾》はもう一度「存在論」の淵源から物事を思惟する苦行をする外に、この得体の知れぬ不気味な《吾》といふ《存在》に振り回されてばかりの、主体無き、つまり、主体を抹殺する暴挙を美徳とする勘違ひした論理に陥るのが関の山だぜ。
(七十一の篇終はり)
自著『審問官 第一章「喫茶店迄」』(日本文学館刊)が発売されました。興味のある方は、是非ともお手にどうぞ。詳細は下記URLを参照してください。
http://www.nihonbungakukan.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=4479
自著『夢幻空花なる思索の螺旋階段』(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp