――ふっ、線形に非線形? 闇も《場》ならば偏微分が難なく成り立つ非線形の筈だがね。それ以前に闇が線形か非線形かを問ふ事自体下らぬ愚問だぜ。
――ふほっほっほっほっ。済まぬ済まぬ。わしの言ひ間違ひぢゃ。つまり、かうぢゃ。闇とは論理的かね、将又、非論理的かね?
――両様だらう?
――それはまた何故?
――闇は絶対的な主観の《場》であるか、絶対的客観の《場》であるかの両様を何の苦もなく統覚しちまってゐるからさ。
――ふほっほっほっほっ。それぢゃと闇はどうあっても《存在》から遁れ果せてしまふぞ。
――だから闇は無と無限と空を誘ふのではないかね?
――ふほっほっほつほっ。それこそお前の単なる思ひ過ごしぢゃないかね?
――絶対的な主観、若しくは絶対的な客観が思ひ過ごしでも構はぬではないかね?
――そうぢゃよ、どちらでも構はぬ。
――それぢゃ、お前にとって絶対的主観、若しくは絶対的客観といふ《もの》を敢へて名指せば何なのかね?
――それは《存在》する《もの》の単なる気紛れぢゃ。
――気紛れ?
――さうぢゃよ。《存在》する《もの》の気紛れを称して絶対的主観、若しくは絶対的客観と名付けだだけぢゃて。
――それでは此の世が何かの、つまり、神の気紛れで《存在》しちまったといふ事と同じぢゃないかね?
――それで構はぬではないか。神の気紛れで此の世が誕生したといふ事で?
――ぢゃ、何かね、この俺といふ《存在》も糞忌忌しい神の単なる気紛れで《存在》しちまひ、そして闇を、この頭蓋内の闇を見出す度に、無や無限や空に誘はれちまふのも、その神の単なる気紛れかね?
――だからどうだといふのぢゃ? 「《存在》は有限故に無と無限と空を欲し、神は無限故に有限なる《もの》を欲す」ぢゃ。
――つまり、此の世の原理は無い《もの》ねだりといふ事かね、へっ――。
――だとしたならば、お前は神に唾でも吐き掛けるかね?
――ああ。天に唾を吐くさ。馬鹿を承知でな。全く反吐が出さうだぜ。神は無限故に有限なる《もの》を欲す? 何だね、その言ひ分は?
――ほら、ほら、神へ牙を剥けばいいぢゃよ、ふほっほっほっほっ。
――へっ、今更、神に牙を剥いたところで何にもなりゃしないぜ。だって、俺は既に《存在》してゐるのだからな。
――その《存在》を保証してゐるのは何かね?
――《他》であり、俺の意識さ。
――それぢゃ、お前が此の世に《存在》する確たる証左にはならぬぞ。
――何故?
――《他》もお前の意識も全てがその淵源を辿れば神が無限故に欲した、つまり、それを神の気紛れと看做すならば、お前が此の世に《存在》してゐる証は、全的に神に帰すぢゃらうが。
――つまり、《存在》とはどう足掻かうが、神の問題を避けられぬといふ事かね?
――さうぢゃ。多かれ少なかれ、此の世に《存在》する森羅万象は、神問題で躓くのが此の世の道理ぢゃて。
――そして、《吾》は《吾》にも躓く。
――《吾》に躓き、神に躓いたその《存在》は、さて、それでは何故に己の存続を望むのかね?
――全てが謎だからさ。
――謎ねえ。ふほっほっほっほっ。さて、その謎を解く自信が《存在》にあると思ふかね?
――いいや。全くない筈だ。むしろ、その謎を解くのに二の足を踏んでゐる。
――さうかね? しかし、人間は自然を解明するのに躍起になってゐるぢゃないかね?
――人間は全史を通じて神に躓き続けてゐるからね。しかし、人間は自然を科学でもってしてそのどん詰まりまで人間の智たる科学的知のみで組み立て段になると、それは信仰告白とちっとも変らぬ事に吃驚するだらうよ。
――ふほっほっほっほっ。それは、科学と神のどちらかを選べと森羅万象が問はれれば、此の世に《存在》する《もの》は、きっと神を選ばざるを得ぬといふ事かね?
――ああ、さうだ。《存在》は否応なく科学より神を選ばざるを得ぬのが此の世の道理だと言ふ事を嫌といふ程知らされることになる筈だ。
――何故に?
(五の篇終はり)
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