思索に耽る苦行の軌跡

2009年 12月 の記事 (7件)

――へっ、ざまあ見ろ、だ! 





――ふほっほっほっほっ。それぢゃ、その意気ぢゃ。





――ちぇっ、忌々しい! お前が己自体に、つまり、俺の夢に出現させられる事に我慢がならぬのであれば、さっさと消えればよからうが! 





――ふほっほっほっほっ。それは不可能ぢゃて。何せお前がわしの世界に、つまり、わしの虚空にお前が無理矢理出現してゐるのだからぢゃ。





――む? 俺がお前の虚空に出現してゐるだと? それはまた異な事を言ふ。此の夢は俺が見てゐる夢ぢゃないのかね? 





――さうぢゃ。





――さうぢゃ? ならば俺の夢は俺においてちゃんと完結してゐるのぢゃないかね? 





――いいや。それでは一つ尋ねるが、お前の夢がお前のみで完結してゐる証左は何かね? 





――夢が、俺が見てゐる夢が俺において完結してゐる証左だと? 此の今、俺が見てゐる夢は、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場で明滅してゐる仮象たる心象風景ではないのかね? つまり、俺の頭蓋内は俺として完結、否、閉ぢてゐる! 





――ふほっほっほっほっ。ならば聞くが、闇は元来お前の《もの》かね? 





――闇が俺の《もの》? ちぇっ、俺はそんな事一言も言っちゃゐないぜ。唯、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場は、俺において完結若しくは閉ぢてゐると言ってゐるに過ぎぬのだがね。





――だからぢゃ。闇は元来お前の《もの》かね? 





――ちぇっ、下らぬ! 





――下らぬかね? もう一度聞くが、闇はそもそもお前の《もの》かね? 





――ちぇっ、いいや、としか答へやうがないぢゃないか。ふん、闇は、つまり、万物の《もの》さ。





――ふほっほっほっほっ。万物と来たか。簡単に言へばかうぢゃらう。つまり、お前が言ふ頭蓋内の闇たる五蘊場は、元を糺(ただ)せば、不純物が溶解してゐる《水》が頭蓋内の闇を脳といふ構造をした《場》にした、つまり、高が《水》をもってしてそんな脳といふ構造をした《場》を作り出すといふ芸当ができるのだから、《水》以外の森羅万象が闇を何かしらの構造をした《場》にしてしまふ事態は、此の宇宙を見渡せば在り来たりの《もの》、否、現象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、それは意識は、ちぇっ、魂は何《もの》にも宿り得るといふ事かね? 





――違ふかね? 





――違ふかね? すると、万物に、否、森羅万象に魂が宿るといふのは、お前の独断でしかないのぢゃないかね? 





――さうぢゃ。ふほっほっほっほっ。





――ちぇっ、下らぬ! 





――さう断言するお前は、さて、何《もの》かね? 元を糺せば唯の《水》と違ふかね? 





――さうだが、それが如何したといふのか? 





――つまり、《水》は有機物とは違ふ無機物ぢゃらう? 





――だから、それが如何した? 





――つまり、無機物の、ふほっほっほっほっ、此の宇宙には在り来たりの《もの》の一つでしかない《水》が闇を脳といふ構造をした《場》へと昇華させられるのであれば、何《もの》も闇を《場》へと昇華させられる筈ぢゃがね。





――元々、闇は、それが仮令《真空》であったとしてもだ、闇といふ時空間は元々《場》ぢゃないのかね? 





――ならば闇の同質性は認めるかね? 





――闇の同質性? ふん。それはをかしくないかな? 





――何処がをかしいのかな? 





――だって闇は何《もの》も呑み込む何かぢゃないかね? すると、闇は連続した線形として語れるのか、それとも非連続の非線形として語れるのか、どちらだと思ふ? 





――さてね。多分、闇は線形と非線形の両様の様態をしてゐるんぢゃないのかな。ところが闇は何《もの》も呑み込まなければならぬ宿命にある。ふほっほっほっわ。闇もまた哀れぢゃの。





(四の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 12/26 07:36:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それ以前に世界自体が《吾》として自律し、《吾》として完結した《存在》として《存在》してゐるかね? 





――ふむ。世界の自律か……。絶えず変化して已まない世界の有様から類推すると、世界もまた《吾》である事を苦々しく思ひながら、しかし、さう《吾》を《吾》と認識する外なく、さうであるから、時々刻々と変化する諸行無常を已めないのさ。





――ふっ、それは何度も聞いたよ。唯、此の宇宙=外から此の宇宙を鳥瞰する《存在》が仮に仮象出来るとして、その仮象した《存在》なる《もの》が、此の宇宙を凝視した時、さて、此の宇宙=外に《時空間》に匹敵する何かは、《存在》可能だと思ふかい? 





――へっへっへっ。その《存在》が仮令仮象出来たとしてそれが如何様の意味があるのかね? 





――ふっ、別に何の意味も無いさ。唯、神なる《存在》を《存在》から解放させる為に、此の宇宙=外から此の宇宙を眦一つ動かすことなく、唯、じっと凝視する、例へばそれを《神的=もの》と名付ければ、その《神的=もの》なる《もの》は仮象可能かね? 





――へっ。思考するあらゆる《存在》、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ必ず思考する《もの》に違いない筈だが、その森羅万象は、如何あってもその《神的=もの》なる《もの》の《存在》を渇望して已まない! 





――けっ、それは何故かね? 





――去来現(こらいげん)の中に自ら望むことなく《吾》の与り知らぬ処で、《吾》の《存在》を此の世に出現させた《もの》が、《生き物》または《もの》であるといふ事が、土台、此の世に《存在》させられし森羅万象はそれが何であれ、最早、その理屈に我慢がならぬのだが、困った事に、その憤懣をぶつける若しくは訴へる《存在》たる相手が、此の世には《存在》しない故に、尚更《吾》なる《もの》は、それが何であれ《神》なる《もの》に似た何かを渇望して已まないのさ。





――へっ、《神》に似た何かね――。はっきり「《神》!」と言明すればいいぢゃないか? 





――既に《神》はその役目を終へた、否、終はらしてあげなければ、最早、あらゆる《存在》は《神》に対して不敬を働く事に相為ってしまふのさ。





――《神》に対する《存在》の不敬? それは《吾》の傲慢故の事ではないのかね? 





――勿論! しかし、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、最早、《神》を《存在》から解放させてあげなければ《神》が可哀相だらう? 





――可哀相? 《神》がかね? 





――さう。《存在》が此の宇宙に《存在》する限り、例へば、基督の磔刑像がRosary(ロザリオ)の如く《祈り》の道具として今尚基督は十字架に磔刑されたまま、基督の死から《存在》が未だ一歩もその歩を進めないまま、既に二千年余りが経過しちまった事の虚しさに、ちぇっ、《存在》する《もの》はその《存在》の遣り切れなさに愕然としたまま、未だ、誰一人として、否、如何なる《もの》もその《存在》の尻拭ひを《神》以外の《もの》に、譬へそれが釈迦牟尼仏陀であらうが、道元であらうが、親鸞であらうが、大雄であらうが、アッラーであらうが、ヤハヴェであらうが、何れにせよ人間が《摂理》と呼んでゐる《もの》以外に、その自らの《存在》の尻拭ひを、つまり、己でした例(ためし)がないのさ。





――それは、詰まる所、《吾》は己の《存在》から自刃せよ、といふ事かね? 





――ちぇっ、何故自刃なのかね? これだから《吾》なる《存在》は駄目なのさ。





――しかし、《存在》のParadigm(パラダイム)変換を貫徹するには、これまでのあらゆる《存在》に対して抱いてゐる《存在》といふ観念を自ら滅ぼさずして、つまり、《存在》の破壊なくして新たな《もの》の創造はある筈がない! 





――へっ、其処さ。破壊と創造こそ、既に《存在》の手垢に塗れた思考法だぜ。そして、破壊と創造を持ち出したところで、つまり、その《存在》の手垢で塗れた思考法からの脱却なぞ、土台、絵に描いた餅でしかない事の証左だぜ。





――すると、《存在》は生き恥を曝して、ふっ、武田泰淳の『司馬遷』ぢゃないがね、《存在》はその羞恥の塊でしかない生き恥をしっかりと曝して、尚、生きろと? 





――勿論。《存在》は仮令それが何であれ生き恥をしっかりと《他》に曝して《存在》しなければ、何故、《吾》なる《もの》が此の世に出現せざるを得なかったのか、未来永劫に亙って解からず仕舞ひだぜ。





――しかし、ふん、生き恥を曝して《他》と共に《吾》が《存在》するとして、其処に《神》に代わる若しくは《摂理》に代わる、《存在》を《存在》たらしめる《もの》の《存在》の何かの糸口でも見つからないのだらうか? 





――へっ、輝かしき「科学」があるぢゃないか! 





――それは皮肉かね? 





――だとしたなら「科学」以外で何か《存在》を語り尽くせる何かは、さて、あると思ふかい? 





(六十二の篇終はり)







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2009 12/21 06:45:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも君の言ふ《吾》とは何かね? つまりだ、自同律で言ふと、《吾》が《吾》であるとは、《吾》が《吾》である確率が《《他》に比べて一寸ばかり一に近しいからに過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》は確率が零から確率一までを自在に揺らいでゐると? ふはっはっはっはっ。それはその通りに違ひないが、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、己を「《吾》!」と名指したいのさ。





――その君の言ふところの己とは何かね? 君は何の躊躇ひもなく、今、己と口にしたが、君が言ふ己とは、君の頭蓋内の闇たる五蘊場で君が勝手に作り上げ、己と祭り上げた《幻影》、換言すれば夢幻空花なる《吾》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――《幻影》の《吾》、つまり、《吾》なる《もの》は何処まで行っても夢幻空花なる《吾》以上にはなり得ぬといふ事の何処がまづいのかね? 己なる《もの》が、つまり、《吾》は何処まで行っても《幻影》で構はぬではないか? 





――へっ、居直ったね。すると《客体》も《幻影》に過ぎぬと? 





――ふっ、違ふかね? 





――すると、単刀直入に言っちまふと、此の世の森羅万象が《杳体》の《影》に過ぎぬと? 





――違ふかね? 





――さうすると、森羅万象が《杳体》の《影絵》でしかないといふ乱暴極まりない論理が罷り通る事になるが、ちぇっ、つまり、一言で言ふと、《杳体》と《物自体》の何が違ふのかね? 





――別に《杳体》と《物自体》が同じでも構わぬではないか。更に言へば、《杳体》は《物自体》をも呑み込んだ何かには違ひない! 





――つまりは、色即是空、空即是色か――。





――だからと言って《吾》は《吾》から遁れられやしないぜ。《吾》が《吾》である確率が《他》より一寸ばかり高いが故に、《吾》は「先験的」に《吾》をとことんまで突き詰めねばならぬ定めにある。そして、《吾》は《吾》を捩ぢ伏せるとともに、此の宇宙を震へ上がらせるのさ。





――それが可能だと? 





――ふっ、《杳体》の鼻をあかしてみようぢゃないか! 





――何故《杳体》の鼻をあかさねばならぬのか? 





――ふっふっ、決まってゐるぢゃないか。此の世に満ち満ちた怨嗟の類は何も死んだ《もの》達や未だ出現せざる《もの》達の専売特許ぢゃないぜ。此の世に《存在》させられてしまった《もの》達もまた、この悪意に満ちた宇宙に対して怨嗟の類を抱き呻吟してゐるのさ。





――何故此の宇宙に悪意ばかりが満ち満ちてゐるのか? 





――君は悪意なんぞは全く此の宇宙に満ちてなんかゐやしないとでも思ふのかい? 





――いや、決して。





――《存在》が《存在》するのに《他》の死が必須な仕組みは、其処に悪意がなければ絶対成立しない理不尽極まりない《もの》だ。





――しかし、ちぇっ、此の宇宙をこれっぽっちも弁護はしたくないが、新たな《存在》を生む為にはさうせずにはゐられなかったとすれば、此の宇宙もまた深い深い深い深い懊悩の中にあるに違ひない筈だ! 





――其処さ。つまり、その懊悩を背負はされてゐる《存在》の象徴が神だらう? 





――否、森羅万象の《存在》と《非在》と《無》と《空》のそれらに類する《もの》全てが、神をもそれに含めて、あらゆる《もの》が、深き深き深き深き懊悩の中にゐる。





――何故さうなってしまふのだらうか……? 





――つまり、これまで《存在》した事がない《もの》を何としても此の世に出現させる為に《存在》などの全ての《もの》は、どうあっても深き深き深き深き懊悩の中にゐなければならぬ宿命になければ、ちぇっ、詰まる所、此の世の森羅万象は何にも生み出せず仕舞ひにその運命を終へるしかない能なしに過ぎぬ《存在》のまま、へっ、絶えず己を呪って、遂には呪ひ殺さずには済まぬ、のっぴきならぬところへと《吾》は《吾》を追ひ込む馬鹿をするしかないんぢゃないのかね? 





(九 終はり)







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2009 12/19 06:05:10 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、記録は、映像の記録としての記録は、ちゃんと後世の為に残さなければならぬのもまた信なり――ってか。ふん。土台、歴史としての記録は何らかの形で自然と残っちまふ《もの》ぢゃないのかね? 





――それは当然だらう。何らかの媒体が記録に変化して必ず残るのは当たり前さ。それが口伝であらうが、言語であらうが、映像であらうが、歴史といふ記録は必ず何らかの形で残る。唯、問題なのは現在を生きる《もの》の記憶が《他》の記憶といとも簡単に交換可能な現在の異常事態の中で、《吾》たる《もの》は如何生存して行けばよいのか、未だ何《もの》も解かっちゃゐない事が危ふいのさ。





――馬鹿が! そんな事、解かっちまった方がむしろ《吾》たる《存在》にとって脅威だぜ。





――何故? 





――何故もへったくれもなからうが! 記録もまた生き残る《もの》しか残らないのさ。それ故に、群れてしか《存在》出来ぬ《もの》として仕組まれて創られた、つまり、「先験的」に群れるやうに仕組まれてゐる《存在》は、己の記憶を《他》と共有せずにはゐられぬのもまた自然の道理だらう? 





――だが、しかし、唯の映像が、ちぇっ、映像を見て何か解かった気になる事の馬鹿らしさに、《存在》は既にうんざりしてゐるのと違ふかね? 





――だが、映像は退屈な《時間》を紛らはして呉れるぜ。





――それは別に映像に限ったことぢゃないぜ。音楽鑑賞にしろ読書にしろ《個時空》の《吾》の時空を作品といふ《他》の《個時空》、それは既に死んじまった《もの》の作品といふ名の《他》の《個時空》の場合が多いのだか、その《他》の《個時空》に流れ渦巻く時間に、《吾》の《個時空》の時間は同調し、また、重なり合ふ。





――へっ、それは同調、そして、重なり合ふと言へるのかね? むしろそれは、《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐるのと違ふかね? 





――《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐる? それはさもありなむだな。ふっ、《個時空》と名付けたは良いが《個時空》なる《もの》をよくよく見れば、世界の中でしか《存在》出来ぬ代物、つまり、《吾》も《他》も全て世界に流れ渦巻いてゐるに違ひない世界=時空の大河に身を委ねちまってしか《存在》出来ぬ、即ち、《個時空》は元来が世界といふ《他》なくしては一時も《存在》出来ぬParadox(パラドックス)を《吾》は生きるしかないのかな……ふっ。





――へっ、《個時空》そのものが元々矛盾してゐるのさ。





――そんな何かを達観した如くに語るのは《吾》は《吾》らしくないぜ。





――《吾》らしい? ふっ、《吾》は元来が《吾》を捕捉し損なった《存在》としてしか此の浮世には《存在》出来ぬのぢゃないかね? 





――土台、《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》が夢幻空花なる《もの》、つまり、映像と同様、《物自体》の影しか捕捉できぬ憾みは如何ともし難い! 





――つまり、《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がれぬといふ事さ。





――さて、本当に《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がってゐないのだらうか? 





――つまり、共同幻想と言ひたいのかね? 





――さう。しかも映像は、それが実際の世界に近しい故に尚更共同幻想を暴走させる。





――ちぇっ、濁流の中にカルマン渦は《存在》出来ぬといふ事かね? 





――さう。映像により尚更助長され暴走を始めてしまった共同幻想の中に《吾》の《個時空》は既に渦巻く事を断念せざるを得ぬのだ。





――それが現代社会だと? 





――付かぬ事を聞くが、お前は社会から自律した《存在》かね? 





――社会から自律した《存在》の筈がないぢゃないか! 





――それはまた如何してかね? 





――社会若しくは世界からの自律とは、つまり、世界から独立し自存した《存在》として《吾》はあれといふ事ぢゃないかね? 





――ふっ、それが出来ていれば《存在》の様式は今とは全く違った《もの》として《存在》出来た筈だのか、実際は、《吾》を初めとするあらゆる《存在》は世界=内=存在としてしか《存在》の有様は実現不可能なのは一体全体何なのか! ちぇっ。





(六十一の篇終はり)







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2009 12/14 06:07:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそも《他》の死肉を喰らふことでしか生き残れないこの《主体》なる《もの》の《存在》の有様は、残酷に創られちまってゐる。





――だから、反旗を翻すのさ。此の宇宙の摂理なる《もの》にさ。





――しかし、それは何処まで行っても虚しい《もの》ぢゃないのかね? 





――当然だらう。《吾》といふ《主体》の在り処がそもそも虚しいのさ。そして、《吾》は《他》の死肉を喰らって生き延びる、ちぇっ。





――へっ、皮肉なもんだな。《他》の死肉は消化器官で消化出来るのに《吾》は《吾》を今もって消化出来ずにゐる。





――そもそも、この《吾》が《吾》をして《吾》を《吾》と名指すことに大いなる矛盾が潜んでゐるのだが、ちぇっ、しかし、《吾》にはそれを如何する事も出来ぬ歯痒さのみが、《吾》の《存在》を《吾》に知らせる。





――それは歯痒さかね? 不快ではないのかね? 





――ちぇっ、また、自同律の問題か――。詰まる所、《吾》以外の事に全く興味がないんぢゃないかね? 





――へっ、当然だらう。《吾》たる《もの》、《吾》以外に興味なし! 





――しかし、《他》は、《世界》は、《吾》の《存在》などにお構ひなしに、これまた「《吾》とは何ぞや?」と懊悩してゐる筈に違ひないのだ。





――へっ、何処も彼処も「《吾》とは何ぞや?」と己の内界を覗き込むのだが、果たせる哉、《吾》の内界に《吾》はゐないか、若しくは無数に《異形の吾》が犇めいてゐる事に愕然とする。





――《存在》とはそもそも猜疑心の塊ではないのかね? 





――さう。《存在》とはそもそも猜疑心の塊としてでしか《存在》する事が許されぬ。





――何に許されぬのかね? 





――「《神》!」と答へさせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が唯一《存在》する事の許しを乞ふのは、へっ、《吾》のみだぜ。





――ふっふっふっ。何処まで行っても《吾》は《吾》から遁れられぬか――。





――さてさて、其処で《吾》は如何する? 





――如何するも何もありゃしないさ。《吾》は《吾》である事を渋々と受容する外ない。





――へっ、《吾》に《吾》を受容する度量があるかね? 





――仮令、そんな度量がなくとも《吾》は《吾》を受容するさ。





――仮に《吾》が《吾》を受容出来なかったならば、《吾》は如何なる? 





――それでも《吾》が《吾》を止められやしないし、《吾》は《吾》を《吾》と名指してしまふ宿命にある。





――それはまた何故にかね? 





――《吾》なる《もの》が《存在》した時点で、既に時空間のカルマン渦、即ち、《個時空》といふ渦を巻いてしまってゐるからさ。ひと度渦を巻いてしまった《個時空》たる時空間のカルマン渦は、最早、《吾》の埒外にその回転軸があるのさ。





――ふむ。《吾》の埒外に《個時空》といふ名の時空間のカルマン渦の回転軸がある……か……。





――先づは、《吾》には《吾》が《存在》する事に決して手出しが出来ぬやうに《吾》は此の世に《存在》させられちまってゐる事を自覚せねばならぬ皮肉――。





――さて、全宇宙史を通じて《吾》が《吾》から遁走出来た《存在》は《存在》した事があると思ふかい? 





――いいや、全く思はぬがね。それに加へて全宇宙史を通じて己のみで自存した《存在》もまた《存在》した事はない筈さ。





――それぢゃあ、《個時空》といふ時空間のカルマン渦たる《吾》は何なのかね? 





――ふっ、それは《吾》をも含めたあらゆる《存在》に忌み嫌はれる外ない、何とも不憫な《存在》なのさ。だが、《吾》は決して己を憐れんだりしちゃあならない定めにある、つまり、自慰行為は《吾》にとって未来永劫に亘って禁じられてゐるのさ。





(九の篇終はり)







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2009 12/12 06:18:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――存在論的窒息といふと? 





――字義そのままの通り存在論的に《存在》はその息の根を止められる。





――だから、それは具体的に如何いふ事なのかね? 





――つまり、物体といふ《存在》は光になり得ず、また、堪へられぬといふ事さ。





――へっ、物体といふ《存在》は光になり得ず、光に堪へられぬ? これは異な事を言ふ。《存在》はそれが何であれ絶えず光に曝露され、また、Energie(エネルギー)として扱ってゐる筈だがね? 





――見かけ上はね、ふっ。





――見かけ上? つまり、それこそ《存在》が被ってゐるに違ひない特異点を蔽ふのみの能面の如き面でしかないと? 





――当然だらう。高々光に曝された位で、特異点がその正体を現はす筈はないんだから。それ以前に《吾》たる《存在》はその様態を《もの》から《光》へ変化出来るかい? 





――ふむ。《もの》から《光》か――。辛うじて核分裂反応を連鎖的に起こして僅かな僅かな僅かな《重さ》を光に変へてゐる、換言すれば原子力発電や原爆でほんのほんのほんのほんの一寸《もの》を《光》へ変化させたはいいが、そのほんのほんのほんの一寸の《重さ》が光に変化しただけで、ちぇっ、たった一発の原爆の凄まじさに、つまり、何十万もの人間が殺戮できるかもしれぬ事にこの馬鹿者の「ニンゲン」は愕然とし、へっ、とどのつまりが人間はその扱ひに四苦八苦して梃子摺ってゐる、ちぇっ、神の面前での赤子でしかない! 否、赤子ですらない! その人間が核融合に挑戦する危ふさを、人間はその存続を懸けてやるしかないんだが、さて、如何なる事やら……。まあ、原子力や核融合は別にしても、この《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する数多の表象群は如何かね? 





――まあ、よからう。ところが、その表象群を外在化し、具体化すると、表象に《重さ》が授けられ、確かにそれら具体化された表象群は此の世に《存在》することになるのは間違ひないのだが、そして、街衢(がいく)が既に誰とも知らぬ《他》の脳、ちぇっ、否、《他=存在》の五蘊場の外在化でしかない事を世界=内=存在する《吾》は渋々ながら受け容れるしかないのだが、こと映像に関して、映像には《重さ》が、物体としての《重さ》が《存在》してゐるかね? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場で繰り広げられてゐることが、例へば映像となって外在化される事態に、さて、困ったことに「現存在」たる《吾》は為す術がないのが本当のところで、その映像に《重さ》がないことが問題だと? 





――さうさ。それがどんなに異常な事か《吾》にはその自覚がない。つまり、映像なる《光》が如何に危険な毒薬かといふ自覚が全くない。《光》だぜ。ピカドンもまた物質が《光》に変化しただけの事なんだぜ。





――しかし、一方で毒薬は、適量を服せば、良薬にたちどころに変化する。





――だから、映像といふ《光》は尚更危険なのさ。





――つまり、それは映像といふ《光》が眼球の瞳孔を通って可視化されることで、ちぇっ、簡単に《主体》たる《吾》を洗脳出来ちまふ恐ろしさにもっと自覚的にならないと、《吾》は、へっ、地獄たる《吾》はあれよといふ間に簡単に芥子粒の如く自滅するのが落ちさ。





――ちぇっ、それで構はぬぢゃないかね? 





――ああ、《吾》が生き残らうが自滅しようがそんな事は知ったこっちゃない。しかし、未だ此の世に未出現の未来の《存在》には、映像が残ってゐる事は、毒にこそなれ良薬には、多分、ならない事を自覚しておくんだな。





――何故に映像は毒にこそなれ良薬にはならぬのかね? 





――頭蓋内の闇たる五蘊場が各々違った場として《存在》してゐる筈のこの《吾》なる《もの》にとって、映像は違ふ筈の《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場にも全く同じ表象若しくは記憶となって擦り込まれる恐ろしさは、確実に《吾》を自滅させるに違ひないのさ。





――それは言ふなれば《吾》においての《吾》の不在、換言すれば、《吾=他》といふ何とも奇怪な《存在》の在り方の事かね? 





――はて、それは《吾》の膨脹若しくは拡散かな――?まあ、何れにせよ、《光》でしかない映像はその扱ひ方を間違へると洗脳の道具と紙一重の違ひしかないのさ。





――すると、例へば《吾》が厳然と《他》とは違った《吾》たる事を《個体力》と名付けると、その《個体力》が現代では確実に減退してゐると? 





――さうさ。既にそんな危険極まりない事態は進行してゐて、世界について未だ訳も解からぬ乳飲み子の段階で《光》たる映像は母親よりも重要な位置付けがなされて、乳飲み子の頭蓋内の闇たる五蘊場は《個》である事を絶えず侵されながら、仕舞ひには映像と五蘊場が同調する事を強要される。それがどんなに《吾》を世界=外=存在に追ひ詰めるか解かるかい? 





――つまり、《吾》はどんなに足掻かうが現前のMonitor(モニター)に映されてゐる世界に入れぬ、換言すればMonitorが恰も世界の如く振る舞ふ世界=外=存在として、己を否が応でも自覚せねばならぬ世界に投企されてゐる。そして、その状態に適応出来た《もの》のみが子孫を残して行く不気味さを、へっ、そんな下らぬ世界にお前はお前が《存在》する事を己で受容し、そして、そんな己をお前は許せるかね? 





――いいや、決して。《吾》は自同律の事で精一杯の筈さ。





――しかし、お前の記憶は、お前と同じ映像を見た《もの》全てと同じ、つまり、お前はお前の頭蓋内の闇たる五蘊場ですら《他》と交換可能な《存在》にお前自身が最早なっちまってゐるんだぜ。





(六十の篇終はり)







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2009 12/07 06:50:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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と、さう私が吐き捨てると同時に《そいつ》は完全に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中にその気配を晦(くら)まし、はたと消えたのであった。





――姑息な!





と思ひながら、私はゆっくりと瞼を開けて世界を眺めるのであった。





――ほら、其処だ! 





 私はぎろりと眼球を動かし、私の視界の縁に《そいつ》がゐるのを確認すると、





――何のつもりかね? 





と、私が問ふと《そいつ》がかうぬかしよるのであった。





――いや、何ね、俺も∞に重なってみたくなったのさ。





――∞? 





――それは、つまり、俺の瞼裡には∞はないと? 





――瞼裡の薄っぺらな闇も闇には違ひなく、へっ、詰まる所、闇といふ闇には零と∞の区別はないのさ。





――だから、また、俺の視界の縁をうろちょろし始めたと? 





――ふっふっふっ。何せ此の世の裂け目としてお前といふ《存在》は目を開けたのだから、つまり、お前は此の世に誕生してその目玉を開けて世界を見てしまったのだから、零と∞は、無限を内包し、既に開かれてしまったのさ。くっくっくっ。





――つまり、目玉を開けることが即ち世界を裂く行為に等しいといふ事かね? 





――さうさ。盲た人には誠に誠に申し訳ないが、眼球を此の世で開けるといふ事は、世界に《穴》を開ける事に違ひないからさ。





――《穴》? それは《零の穴》でも《∞の穴》とも違ふ《穴》かね? 





――つまり、その眼球といふ《穴》は、《闇》として重なり合ってゐた零と∞を仮初にも分かつ此の世に開いた《零の穴》、否、《一の穴》とでも言ふべきかな。





――へっ、《一の穴》? そもそも《一》に《穴》はあるのかね? 





――仮初にも《一の穴》は仮象は出来る筈だ。





――例へば? 





――例へば、此の世が複素数ならば、当然、此の世に《存在》する森羅万象は、己を《一》として自覚しながらも、その《一》は《零》にも《∞》にも仮象出来てしまふのさ。





――つまり、それは《存在》が特異点を内包してゐるからだらう? 





――さう。距離が《存在》しちまふが故に過去世若しくは未来世でしかない世界の中で、唯、《吾》を《吾》と自覚した《存在》のみは未来永劫に亙って現在に独り取り残されてあるのみ――。





――さうすると、現在とはそもそも世界=内においては特異な現象といふ事になるが、さう看做してしまって良いものか……? 





――ふっ。現在が此の世に《存在》する事がそもそも異常なのさ。





――異常? ふむ。現在は去来現(こらいげん)の中では異常な事象か――ね……。





――お前はすると現在を何だと思ってゐたのかね? 





――現在が此の世の度量衡だとばかり考へてゐたが、さて、その現在のみが去来現において特異な事象であるならば、ずばり聞くが、実存とはそもそも何の事かね? 





――へっ、《吾》の泡沫の夢に過ぎぬ《もの》さ。





――泡沫の夢? すると、実存とは《吾》の勘違ひに過ぎぬと? 





――《吾》を《一》の《もの》と規定しなければ、《吾》は《吾》といふ《存在》に一時も堪へられなかったのさ。そして、これからも《吾》は《吾》を恰も《一》の《もの》であるかのやうに取り扱ふ以外に、最早、為す術がない! しかしだ、《吾》が《存在》である以上、《吾》は特異点を何としても内包せずば、これまた一時も《存在》出来ぬのだ。





――それはお前の単なる独断でしかないのではないかね? 





――ああ、さうさ。俺の独断論に過ぎぬ。しかし、此の世が去来現としてあるならば、現在のみが特異な現象でなければ《存在》は特異点をその内部に内包出来ぬ筈なのだ。つまり、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象群は、元来、因果律は壊れて表象されるだらう? 





(九の篇終はり)







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2009 12/05 06:12:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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