思索に耽る苦行の軌跡

2009年 12月 21日 の記事 (1件)


――それ以前に世界自体が《吾》として自律し、《吾》として完結した《存在》として《存在》してゐるかね? 





――ふむ。世界の自律か……。絶えず変化して已まない世界の有様から類推すると、世界もまた《吾》である事を苦々しく思ひながら、しかし、さう《吾》を《吾》と認識する外なく、さうであるから、時々刻々と変化する諸行無常を已めないのさ。





――ふっ、それは何度も聞いたよ。唯、此の宇宙=外から此の宇宙を鳥瞰する《存在》が仮に仮象出来るとして、その仮象した《存在》なる《もの》が、此の宇宙を凝視した時、さて、此の宇宙=外に《時空間》に匹敵する何かは、《存在》可能だと思ふかい? 





――へっへっへっ。その《存在》が仮令仮象出来たとしてそれが如何様の意味があるのかね? 





――ふっ、別に何の意味も無いさ。唯、神なる《存在》を《存在》から解放させる為に、此の宇宙=外から此の宇宙を眦一つ動かすことなく、唯、じっと凝視する、例へばそれを《神的=もの》と名付ければ、その《神的=もの》なる《もの》は仮象可能かね? 





――へっ。思考するあらゆる《存在》、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ必ず思考する《もの》に違いない筈だが、その森羅万象は、如何あってもその《神的=もの》なる《もの》の《存在》を渇望して已まない! 





――けっ、それは何故かね? 





――去来現(こらいげん)の中に自ら望むことなく《吾》の与り知らぬ処で、《吾》の《存在》を此の世に出現させた《もの》が、《生き物》または《もの》であるといふ事が、土台、此の世に《存在》させられし森羅万象はそれが何であれ、最早、その理屈に我慢がならぬのだが、困った事に、その憤懣をぶつける若しくは訴へる《存在》たる相手が、此の世には《存在》しない故に、尚更《吾》なる《もの》は、それが何であれ《神》なる《もの》に似た何かを渇望して已まないのさ。





――へっ、《神》に似た何かね――。はっきり「《神》!」と言明すればいいぢゃないか? 





――既に《神》はその役目を終へた、否、終はらしてあげなければ、最早、あらゆる《存在》は《神》に対して不敬を働く事に相為ってしまふのさ。





――《神》に対する《存在》の不敬? それは《吾》の傲慢故の事ではないのかね? 





――勿論! しかし、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、最早、《神》を《存在》から解放させてあげなければ《神》が可哀相だらう? 





――可哀相? 《神》がかね? 





――さう。《存在》が此の宇宙に《存在》する限り、例へば、基督の磔刑像がRosary(ロザリオ)の如く《祈り》の道具として今尚基督は十字架に磔刑されたまま、基督の死から《存在》が未だ一歩もその歩を進めないまま、既に二千年余りが経過しちまった事の虚しさに、ちぇっ、《存在》する《もの》はその《存在》の遣り切れなさに愕然としたまま、未だ、誰一人として、否、如何なる《もの》もその《存在》の尻拭ひを《神》以外の《もの》に、譬へそれが釈迦牟尼仏陀であらうが、道元であらうが、親鸞であらうが、大雄であらうが、アッラーであらうが、ヤハヴェであらうが、何れにせよ人間が《摂理》と呼んでゐる《もの》以外に、その自らの《存在》の尻拭ひを、つまり、己でした例(ためし)がないのさ。





――それは、詰まる所、《吾》は己の《存在》から自刃せよ、といふ事かね? 





――ちぇっ、何故自刃なのかね? これだから《吾》なる《存在》は駄目なのさ。





――しかし、《存在》のParadigm(パラダイム)変換を貫徹するには、これまでのあらゆる《存在》に対して抱いてゐる《存在》といふ観念を自ら滅ぼさずして、つまり、《存在》の破壊なくして新たな《もの》の創造はある筈がない! 





――へっ、其処さ。破壊と創造こそ、既に《存在》の手垢に塗れた思考法だぜ。そして、破壊と創造を持ち出したところで、つまり、その《存在》の手垢で塗れた思考法からの脱却なぞ、土台、絵に描いた餅でしかない事の証左だぜ。





――すると、《存在》は生き恥を曝して、ふっ、武田泰淳の『司馬遷』ぢゃないがね、《存在》はその羞恥の塊でしかない生き恥をしっかりと曝して、尚、生きろと? 





――勿論。《存在》は仮令それが何であれ生き恥をしっかりと《他》に曝して《存在》しなければ、何故、《吾》なる《もの》が此の世に出現せざるを得なかったのか、未来永劫に亙って解からず仕舞ひだぜ。





――しかし、ふん、生き恥を曝して《他》と共に《吾》が《存在》するとして、其処に《神》に代わる若しくは《摂理》に代わる、《存在》を《存在》たらしめる《もの》の《存在》の何かの糸口でも見つからないのだらうか? 





――へっ、輝かしき「科学」があるぢゃないか! 





――それは皮肉かね? 





――だとしたなら「科学」以外で何か《存在》を語り尽くせる何かは、さて、あると思ふかい? 





(六十二の篇終はり)







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2009 12/21 06:45:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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