思索に耽る苦行の軌跡

2010年 04月 の記事 (4件)

 漆黒の中で無言のままぢっと蹲ってゐる《もの》がゐれば、また、ぶつぶつと独りごちて、その面に気色悪い薄笑ひを浮かべてゐる《もの》がゐたりと、思惟さへ出来得れば、即座に《存在》する、また、《存在》たる森羅万象が賦与されて此の世に《存在》する事を強要される、例へば頭蓋内の闇といふ五蘊場は、さて、此の宇宙全体とたった独りで対峙出来得る《存在》として《存在》は可能なのか、と問ふた処で、その不毛な疑問は《存在》に虚しさしか齎さない此の世の皮肉に苦笑ひしつつ、しかし、此の世の森羅万象は、例外なく、何《もの》がゐるとも杳として知れぬ眼前に無際限に拡がってゐるに違ひない虚空を睨みつけるべく、その面をむくりと擡げ上げるのであった。





…………





…………





――うあ〜あ。よく眠ったぜ。





――何を今更。





――また、如何して? 





――何故って、今といふ、ちぇっ、それを現在と名指せば、その現在は実に愚劣極まりないだらう? 





――はて、現在が愚劣? 





――では、お前にとって現在とは如何様にあるのかね? 





――もう遁れられぬどん詰まりの此の世の涯かな? 





――はて、現在とは果たして此の世の涯かな? ちゃんちゃら可笑しいぜ。





――へっへっ。ちゃんちゃら可笑しいかい? 





――へっ、この現在を愚劣としたり顔で断言するお前こそ、この現在のどん詰まりに追ひ詰められてゐるぢゃないか? 





――へっ、この、俺が此の世の涯に追ひ詰められてゐるだと? ちぇっ、下らねえ。元来、《存在》は、全て此の世の涯に置かれるべく定められた《もの》ぢゃないのかね? 





――なら、やっぱり此の世の涯に置かれるべく生滅する《もの》が《存在》の遁れられぬ有様だらう。





――だから愚劣極まりないのさ。





――その愚劣極まりない《もの》が仮に大慈悲の下に皆《存在》してゐるとしたならば? 





――大慈悲? ちぇっ、そんな事はとどの詰まりが《存在》の《主観》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――さう、《主観》だ。しかし、此の世は、この《存在》の《主観》以外にその有様はないのと違ふかね? 





――へっ、つまり、《客観》は徹底的に《存在》出来ぬと? 





――ああ。仮令《客観》があるとすれば、それは《神》の視点のみさ。





――ふっ、《神》と来たか! お前は《神》の《存在》を信ずるのかね? 





――まあ、幽霊の類も同じだが、《神》が此の世に《存在》した方が面白く、また、《主体》の《存在様態》は、幾分か楽になるのかもしれぬぢゃないかね? 





――楽は《地獄》の一丁目出ぜ。それよりも《神》の《存在》が《主体》の十字架になってしまってゐる例は、この宇宙史において枚挙に暇がないぜ。





――それでも《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとってはどうにか此の世に佇立出来得る支へにはなるに違ひない。





――はて、《主体》の支へとしての《存在形態》が、果たして《神》の《存在形態》に相応しいのだらうか? 





――しかし、《主体》は《主体》独りでは《存在》出来ぬ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――まあ、己の存続の為なら《他》を殺生して食す、つまり、《他》が己の存続のためのみに殺される事に平然としてゐられるこの《主体》といふ《存在》は、その原罪を甘受すべく、へっ、《神》がゐて呉れた方が、ちぇっ、一寸は気休めになるのかもしれぬな。





――さう。気休めさ。《主体》に今必要なのは気休めなのは間違ひない筈だ。





――また、何故に《主体》に今気休めが必要といふのかね? 





――実存する為さ。





――実存? 





――さう、実存だ。





――へっ、実存なんぞはもう使ひ古され手垢に塗れた時代錯誤の《もの》ぢゃないかね? 





――否。思惟する事に時代錯誤もへったくれもありゃしない。その証左に二千年余り以前のギリシアの思惟は今も燦然と輝いてゐるぢゃないかね? 





(一の篇終はり)







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2010 04/26 06:49:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは或る種の謎謎に属するかもしれぬが、虚数iのi乗は、さて、何かね? 





――ふっ、何を今更。虚数iのi乗はオイラーの公式を使へば、【iのi乗】=【(ネイピア数eのi×π/2)のi乗】、つまり、eの−π/2乗、即ちiのi乗は0.2078795……といふ実数へと変身しちまふ、違ふかね? 





――さうさ。さうするとだ、虚数iのi乗とは一体全体何の事かね? 





――さあね。土台、お前は俺に《虚体》とか《物自体》とかの尻尾だと言はせたいのだらうが、それはお門違ひだぜ。





――ふん。それは本音のところでは、虚数iのi乗こそが《虚体》の本質を物語ってしまってゐると、へん、お前が看做してゐる証左にしかならないぜ。





――だから、それが如何したと言ふのかね? 逆に尋ねるが、お前は虚数iのi乗を何だと看做してゐるのかね? 





――ふっ、《霊》さ。





――《霊》? 





――さう、《霊》さ。





――ちぇっ、それは幽霊の事かね? 





――《霊》が付けば何でも構ひやしない。





――さうすると《霊》は、実数、つまり、或る《存在体》として確実に此の世に実在する《もの》になるのが、お前にとって《霊》は確かに此の世に実在する《もの》と受け取って構はぬのだな。





――ああ。勿論! 





――すると、お前には《霊》が見えるのかい? 





――ふっふっふっ。《死》す《もの》全て《霊》ぢゃないかね? 





――はて、異な事を言ふ。お前の言ふ事を額面通り取ると、《存在》とはそもそも《霊》になっちまふが、この矛盾としか呼べない事態を如何考へればいいのか――? 





――へっ、例へば百年後、今生きてゐる、若しくは《存在体》として《存在》してゐる此の世の森羅万象は、さて、どれ程の《存在》が尚も《生》として《存在》してゐると思ふかね? 





――百年後? 





――さう、百年後だ。





――ちぇっ、つまり、百年後には、今現在《生》として《存在》してゐる《もの》、例へばそれを敢へて《生き物》と名指してみれば、その《生き物》の殆どは、へっ、《死》んでゐると言はせたいのだろう。





――さうさ。《死》さ。





――だから、それが《霊》と何の関係があると言ふのかね? 





――へっへっへっ。つまり、かう考へられるだらう? 既に百年後には《死》を迎へてゐる《存在》が生きてあるのは、それが《霊》故にだと……。





――お前の理屈は全く意味不明だぜ。





――つまり、《存在》に《死》が必ず賦与されてゐるならば、《生》とは此の世に起こるべくもない或る奇蹟と同じ、つまり、それが《霊》の意味するところさ。





――ふむ。未だ、よく解からぬがね? 





――それぢゃあ、逆に尋ねるが、《生》にとって《死》とは何ぞや? 





――ちぇっ、それが解かれば俺は大哲学者になってゐる筈だがね。





――つまり、お前にとって虚数iは今もって何だか解からず、具象化すら出来ず仕舞ひにある《もの》といふ事だらう? 





――だから、それが如何したと言ふのかね? 





――もっと端的に言へば、仮に精神なる《もの》が此の世に実在するならば、その精神とやらの振舞ひこそ、虚数iの振舞ひに違ひないと思はないかい? 





――つまり、お前は思惟する《もの》、つまり、此の世に《存在》しちまった森羅万象は、虚数の如く必ず此の世に実在しなければならぬ、若しくは虚数が《存在》するが如く此の世が成立する為には絶対に必要不可欠な必須条件と言う事かね? 





――さう、思惟さ。





――ちぇっ、それぢゃ、cogito, ergo sumから一歩も如何なる《存在》たる《もの》は、未だ踏み出してゐぬ前人未到の地が、この《存在》といふ《もの》の眼前には茫洋と果てしなく拡がってゐるといふ事と同じことぢゃないか! 





――さうさ。未だ何《もの》もデカルトのcogito, ergo sumから一歩も踏み出してゐないのさ。だから如何なる《存在》も虚数iを表象すらできず、況してや虚数iのi乗なんぞこれっぽっちも頭蓋内の片隅にすら《存在》せぬ、ちぇっ、愚劣極まりない《もの》としてしか如何なる《存在体》も自身の《存在》を語れぬではないか! 





(六十七の篇終はり)







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2010 04/19 06:14:42 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは愚問だが、0.9999999999……の小数点以下の数字、9が、例へば∞回続く0.999999999999……は、ひょいっと《一》に跳躍する不思議を、不思議とは思はずに吾等は何の疑念も抱かずに《一》を簡単に《一》と呼んでゐるが、しかし、その実、誰も《零》と《一》との間にも∞個の陥穽が彼方此方に口を開けてゐることすら気付かずに、否、気付かぬ振りをしながら、へっ、《一》=《一》などといふ嘘っ八を恰も真実かの如くに扱ふ事に慣れてしまった故に、へっ、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》たる《存在》にばっくりと口を開けた風穴の如き穴凹を、己の内部に、ちぇっ、何気無しに不意にばっくりと口を開けた様を見出してしまふと、哀しい哉、《吾》が内心、しくしくと哀しい涙を流しながら《吾》を愛撫しようとするのだが、しかし、《吾》の内部に開いた穴凹は如何ともし難く、そして、《吾》は如何仕様もなく苦悶に身を捩りつつ、《吾》は、唯、茫然と此の世に佇立する外ない《存在》だと嫌といふ程に味はひ尽くさねばならぬ宿命にあるとしたならば、さて、お前はそんな《吾》を何とする? 





――くっくっくっくっ。別に何ともしないがね。ちぇっ、下らぬ! お前は俺に「此の宿命を呪ひ給へ」なんぞとほざかせようとしてゐるやうだが、そんな小細工には乗らないぜ。





――それでもお前は《吾》が《吾》でしかない事に堪へ得るといふのかね? 





――さうさ。《存在》は此の世に《存在》しちまった以上、数多ある此の世の矛盾を死ぬ迄、ちぇっ、死んでも尚かな、まあ、どちらにせよだ、その数多の矛盾を死ぬ迄ずっと噛み締めなければならぬのさ。くっくっくっくっ。





 と、その時、《そいつ》はぎょろりと私を睨み付け、更にかう続けたのであった。





――お前にはその覚悟があるかね? くっくっくっくっ。





――覚悟がなくても《吾》が此の世に《存在》した以上、覚悟せねばならぬのだらうが、へっ。





――しかし、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》自体がそもそも夢幻空花な《もの》に等しい事に愕然とし、そして、誰しも《吾》に躓く外ないといふ何たる皮肉! 此奴をお前は何とする? 





――ちぇっ、何とするもしないも、それは、つまり、色即是空、空即是色、若しくは諸行無常なる《存在》の哀しみとして、《吾》たる《存在》は、それが何であれ甘受せねばならぬのではないのかね? 





――くっくっくっくっ。《存在》の哀しみと来たもんだ。《吾》とはつくづく哀れな《存在》なんだな、ふっふっふっ。





 と、《そいつ》はさう言ひ放つと、あらぬ方向へ目を向けて、其処にあるに違ひない《そいつ》にしか解からぬであらう虚空を凝視し始めたやうであった。そして、私はといふと、これまた瞼を開けて、此の世といふ名の世界を改めて眺め回してみるのであった。





 すると、不意に《そいつ》は、





――はくしょん! 





 と、くさめを放ったのであった。





――へっへっへっ。風邪でも引いたのかね? 





――何奴かが俺を睨みやがったのさ。





――それでくさめを? 





――さうさ。お前以外にこの俺を睨み付ける《存在》がゐるとは思ひもよらなかったからな。





――しかし、俺にはお前以外何《もの》も見えやしないぜ。





――当然だらうが! お前の視覚は此の世を見るべく定められてゐるからね、くっくっくっ。





――するとお前は何処の虚空かは知らぬが、お前にしか見えぬその虚空で誰とも、若しくは何《もの》とも知れぬ《存在》の幽霊、若しくは亡霊、へっ、この言ひ方は可笑しいがね、その《存在》の幽霊、若しくは亡霊でも見ちまったといふ事かね? 





――ご名答だ、くっくっくっくっ。彼の世の何《もの》かが俺を睨み付けたのさ。





――つまり、それは、お前にのみ見えてしまふのであらうその虚空に棲む幽霊、若しくは亡霊共が、彼の世といふ処で、つまり、幽霊若しくは亡霊共が、お前の噂で持ち切りといふ事ぢゃないかね? 





――へっ、誰かが俺の噂をしてゐるから俺が「はくしょん!」とくさめをしたと、お前は如何あっても看做したいらしいが、さうは問屋が卸さないぜ。お前が考へてゐる事と逆の事が今起きたのさ。つまり、俺の頭蓋内の闇を何《もの》かがすっと通り抜けたのさ。





――それを何《もの》かの《存在》の幽霊、若しくは亡霊と言ふのではないのかね? 





――へっ、さう看做したければ差う看做せばいいだけのことさ、ちぇっ、下らぬ。





(十の篇終はり)







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2010 04/12 05:52:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、《吾》は此の世からさうすんなりと消えられる《もの》かね? ふっ、つまり、《吾》は此の世と彼の世、そして、過去と未来を繋ぐ《時空間》の結節点として《存在》する《吾》たる自覚は、《吾》がどうあっても「《吾》たらむ」とあらうとする志向の中に自然と芽生える《もの》なのだらうか? 





――つまり、それは一言で言っちまふと、如何なる《吾》も歴史といふ《もの》への人身御供からは遁れられぬといふ事だらう? 





――歴史への人身御供……か――。ちぇっ、すると《吾》とは歴史における《存在》の標本として、若しくは典型として人生を終へる、即ち歴史へと生を捧げる人身御供でしかない事を甘受せよ、と。





――約めて言へば、現在よりも未来が優れてゐる事を不知不識(知らず識らず)のうちに《吾》なる《存在》は自然と望んでしまふ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――ふむ。現在よりは未来を……か。つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ夢を見、そして、その夢を繋ぐ為のみ、即ち、夢をRelayするべく歴史の人身御供、若しくは生贄としてのみ《存在》する事が許される――といふ事か……。





――それ故、《吾》は己の死を夢に見、己の死後を夢に見ちまふのさ。つまり、Imaginary numberたる虚数が此の世に《存在》しなければ此の世の事象が何一つ語れぬといふ或る種の必然と違ふのかね、それは? 





――ふっ、念ある処には即ち虚数あり、か――。





――cogito,ergo sum……。





――ふっふっふっ。肉体と精神と言ふと単純化された二分法に陥りやすいが、しかし、肉体と精神とを《存在》に見出しちまふのは、此の世に虚数がある限り必然といふ訳か……。





――さうさ。例えば肉体が実部であれば精神は虚部の複素数が《存在》の様態だと看做せなくもない。





――つまり、《存在》は此の世に虚数が《存在》する以上、ちぇっ、《存在》は思念せざせるを得ぬといふ事かね? つまり、複素数の虚部が思惟その《もの》だと? 





――さうさ。此の世の森羅万象は、思念する事を強ひられる。





――さて、何に思念する事を強ひられるのか――。





――ふっ、自然にだらう? 





――つまり、自然においてAはAである事は、これ迄もなかったし、これからもないといふ事だね? 





――さうさ。俺もお前も複素数の世界に投企されてしまってゐるんだからな。





――つまり、俺の実部が仮初にAとすると、俺はAであってAであらず、つまり、俺の虚部は絶えず変化して已まない精神の状態、ちぇっ、肉体もまた変化して已まないが、しかし、精神が《存在》するならば、俺の虚部はまさしくその千変万化する精神に違ひなく、それを此の世の実部として実体化するべく、例えば数学における共役なる複素数を持ち出して虚部を実数へと相転移させる事で、あっ、さうか、《反=生》は、この俺の共役の複素数たる《存在》の事か――。





――ふっ、それぢゃ、《存在》を余りに単純化しすぎてゐるぜ。





――しかし、《存在》はそれが何であれ夢を見、思念すると看做せちまふ以上、へっ、それは《生》と《反=生》の対発生と対消滅によってのみ此の世に表象可能な《もの》ぢゃないのかね? 





――へっへっへっへっ。ところが、お前はお前の《反=生》たるお前と共役な《存在》関係にあるだらう《存在》を死んでも尚、確定出来ぬとすると、さて、この俺とは一体何なのかね? 





――つまり、《吾》=《吾》は未来永劫確定出来ぬ、つまり、自同律の不確定性原理とも呼ぶべき法則が此の世に厳然と《存在》すると? 





――ああ。それを《存在》は《摂理》と名付けて、己が己であるといふ《断念》のうちに、辛うじて《吾》は《吾》を此の世に見出してゐるに過ぎぬのさ。





――つまり、此の世の夢の最たる《もの》が、この《吾》といふ事かね? 





――へっ、《吾》が泡沫の夢でなくてどうする? 





――しかし、《吾》は《吾》として此の世に《存在》せねば、へっ、一時も生き永らへない代物と来りゃあ、実際のところ、この《吾》といふ《存在》は、目も当てられない《もの》、ちぇっ、つまりは《存在》の筈だぜ。





(六十六の篇終はり)







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2010 04/05 06:10:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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