思索に耽る苦行の軌跡

2010年 08月 の記事 (4件)

――しかし、或る種の人間は人身御供としての生贄を欲せざるを得なかった。





――それは何故かね。





――つまり、己の《存在》するといふ事態に堪へられなかったのさ。





――つまり、私は、私によって躓いてしまった。それ故に《吾》が《存在》する担保として基督を、人類を救ふべく生贄として差し出してしまった。





――そして、今も尚、基督は磔刑されたままの姿の塑像となってまで人前にその無惨極まりない姿を曝すやうに強要され続けてゐるのは一体全体何としたことか! 





――つまり、それは、人類がさうである事を欲してゐるからか……。





――さう。基督が死んでから既に二千年以上経ってゐるのに、《存在》の全苦悩を背負へる《存在》は、基督や釈迦牟尼仏陀やムハンマドなど、哀しい哉、ほんのほんのほんの一握りの《存在》だけなのさ。





――つまり、それはドストエフスキイが図らずも予言してゐた一握りの人々、それを猊下(げいか)と称すれば、そのほんのほんのほんの一握りの猊下が人類をはじめとするあらゆる《存在》の全苦悩を背負ひ、それ以外の大多数の「世人」若しくは《もの》は、苦悩から全的に解放されるといふ考へへとどうしても至らざるを得ぬと言ふ事だね? 





――現実が既にさうなってゐるぢゃないか。それを何とか変へやうと自然、もしくは《神》に言挙げしたのが、ドストエフスキイやニーチェなど、極極少数の人間といふ意識体で、しかし、《存在》は《存在》する事で「先験的」に背負ふ苦悩をその極極少数の猊下に帰して、その苦悩を自分の事ではなく、つまり、他人事の《もの》として仮象する何とも便利な思考法を身に付けてしまった。





――では、何故に基督は今も磔刑された姿で人前に曝されなければならないのか? 





――見せしめさ。





――見せしめ? それぢゃ、基督は晒首と同じ事ぢゃないのかね? 





――当然だらう? 





――当然? これは異な事を言ふ。





――逆に尋ねるが、何故に異な事なのかね? 





――基督は、磔刑にされたその時、罪人だったかね? 





――其処さ。今もってよく解からないのは。福音書を読む限り、基督は「ローマ政府への叛逆」がその罪状となってゐるが、それは、しかし、後付されたものに過ぎぬだらう。するとだ、何故に基督は磔刑にされ、現在に至るまでその惨たらしい磔刑像として、その御姿を人前に曝し続けなければならないのかね? 





――基督教徒にとっては、今も尚、基督しか《存在》する事の苦悩を全的に背負ひ切れぬからさ。





――それで、基督教徒たちは自己卑下して己を「羊」と名指すのか――。





――だが、「羊」と己の事を名指す《もの》は、へっ、一皮捲れば、いやらしい醜悪、且、狡猾な此の世の支配者然として、己の《存在》を誇示して已まないといふ矛盾を、ちぇっ、矛盾だとこれっぼっちも気付かぬ振りをして、自然に対峙するといふ愚劣な事を平気でやってのけるのさ。





――そのための免罪符としての基督の磔刑かね? 





――さう、どんな宗教も同じだが、「全ては神の子、イエス・キリストの為」といふ、若しくは「全ては天皇の為」といふお題目は、全て、残虐行為をなす為の目隠しとして機能する、ちぇっ、大儀なのさ。





――つまり、全《存在》が行ふ残虐非道な行為へと《存在》がひょいっと簡単に踏み出す己の正当性を、例へば基督に求めて、へっ、此の人類史、否、此の宇宙史でなされた残虐非道で愚劣極まりない行為のその罪過を全て基督など極極少数の、それも基督に至っては無実の罪で磔刑にされたのだか、つまり、人間が残虐非道な行為を行ふその免罪符として基督は磔刑にされ、「神の子」といふ《神=人》へと昇華させざるを得なかった程に、へっ、《存在》は己の為ならば《他》を平気で殺す己の残虐非道性に酔ひ痴れたかったと? 





――さうさ。歴史とは元来がさういふ残虐非道な《もの》ぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。さうだな。残虐非道な事を《存在》が行はなければ己が滅んでゐたに違ひないからな。





――すると、《存在》が尚も《存在》を続ける為には必ず基督などの人身御供たる生贄が必要だと? 





(七十五の篇終はり)







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2010 08/30 07:39:04 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、しかしだ、この頭蓋内といふ闇たる五蘊場は、脳といふ構造をしてゐるとして、その脳が己の内部をすうっと通り抜けるそのぞっとする皮膚感覚みたいな《もの》が、脳にさへある筈だがね。それに加えへて、この頭蓋内の闇たる五蘊場は気配には余りにも敏感すぎるぢゃないか。





――へっ、それはお前だけの事だらう? 





――馬鹿が! お前こそその己の頭蓋内をすうっと通り抜けたぞわぞわっとする感覚をいの一番に感じた筈だぜ。





――ふむ。





――ちぇっ、「ふむ」だと! 己を震撼させたその気配をお前は出来るならばなかった事として揉み消したいだけだ。つまり、お前はお前から、《零》も《∞》も奇蹟的に併せ呑む特異点たるお前のその悍ましき《異形の吾》から目を背けたいだけぢゃないのかね? くっくっくっくっ。





――しかし、それで構はぬのではないかね? 





――ちぇっ、それではお前がお前自身の《存在》に、有無も言はずに堪へられる道理がなからうが! 





――ふっふっふっふっ。その証拠がお前の《存在》か、ちぇっ。





 と、私がさう言ふと再び《そいつ》はぎろりと此方を睨み付けては、





――くっくっくっくっ。





 と、何ともいやらしい嗤ひを発するのであった。





――お前に俺が見えてしまふ不思議な事態に対してもお前は慌てふためく己を只管己から隠し果せたいだけなのさ。





――それで? 





――そして、お前は己の所在無さにたじろいでゐる。





――それで? 





――そして、お前は己が果たして、此の《零》と《∞》の間を揺れ動くそのこれ以上ない大揺れする《吾》を認識しちまって、ふっ、お前自身が何を隠さう一番動揺してゐる。





――それで? 





――そして、お前は卒倒する寸前さ。





――ふっふっふっふっ。俺はそんなに軟ではないぜ。ちゃんと、己が《零》と《∞》を併せ呑む外ない特異点としてしか此の世での《存在》が、へっ、それを譬へれば《神》の摂理に従ってゐるに過ぎぬとすれば、《吾》が特異点以外で此の世に《存在》することは、《神》の摂理によって決して許されぬ事ぐらゐ端から「先験的」に若しくは生きるべき《本能》として既に知っちまってゐる。





――そして、諦念もだらう。





――さうさ。その諦念こそ此の世に《存在》するべく定められた《もの》が必ず獲得せねばならぬ《生》の為の生きる術さ。





――しかし、それでは、《存在》は《存在》自身を《存在》の傍観者として、へっ、つまり、《存在》といふ《もの》を《存在》はしてゐるが、唯の生きる屍として《存在》は傍観する《もの》としてしか此の世に《存在》出来ぬのではないかね? 





――何故に? 





――諦念とは裏を返せば《吾》を恰も《他》の如く、此処が味噌なのだが、《吾》から仮象の距離を無理矢理にでも設定して、《吾》を《他》として扱ふ事で、《吾》に降りかかる火の粉でも払ふやうにして、この《吾》に否応なく降りかかって来る現実といふ得体の知れぬ《もの》をやり過ごす、つまり、それは、詰まる所、徹底的に受動的な《生》を《生》だと無理強ひする哀しい生き方の事だらうが! 





――しかし、殆どの《吾》たる《主体》はさうやって生き延びてゐるのが現実だらう? 





――すると、お前はその現実とやらを受け入れ、つまり、受容するのだな。





――ふむ。ちぇっ、其処が大問題なのさ。《吾》は絶えず《吾》たらむと強要され、現実は時時刻刻と移り変はり行く、この有為とやらが曲者なのさ。





――つまり、《主体》なんぞ抛って、有為は《主体》の《存在》にお構ひなしに転変するからだらう。





――さう。現実といふ有為は転変する事を金輪際已める事はなく、しかし、それでも《吾》は《吾》たらむと《神》の摂理がさう命ずる。





――へっ、それは《神》の摂理かね? 何でも《神》の所為にすれば《主体》が生き延びられるなんぞ考へるのもおこがましいのだがね。 簡単に言っちまへば《吾》は《吾》が可愛くって仕方がない。だからその可愛い可愛い《吾》たる《主体》は、《死》すまで出来得れば無傷のままの《吾》として《生》を終へたいといふ何たる自己陶酔の極み! 





(十一の篇終はり)









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2010 08/23 06:45:14 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ちぇっ、くどいやうだが、此の悪意若しくは慈悲に満ちた宇宙は、どんなに否定したところが、へっ、既に《存在》してゐる事はは認めざるを得ぬだらう? 





――だから哲人共を先頭に此の世の森羅万象は此の宇宙を、つまり、世界認識、へっ、それは精確無比な世界認識の方法を探究してゐるのと違ふかね? 





――つまり、その精確無比な世界認識法が未だ見つからぬ故に、《存在》は「先験的」に《存在》する此の宇宙若しくは世界を唾棄したくてうずうずしてゐるのか――。





――さうさ。此の世の森羅万象は、へっ、此の宇宙若しくは世界も含めて、あらゆる《もの》が此の世自体に翻弄され続けることにうんざりしてゐる。





――それは、うんざりではなく、びくびくするのを余儀なくされてゐる事に《存在》はそれが何であれ我慢がならぬ事なのさ。





――それで、《存在》はそれが何であれ全ての《もの》は此の宇宙若しくは世界に対してそれは抽象的であるかもしれぬが、自棄のやんぱちで此の宇宙若しくは世界を、へっ、認識してゐる、否、此の宇宙若しくは世界を秩序ある何かとして無理矢理にでも認識しようと意識を捩じ伏せてゐる。





――だが、可笑しな事に此の世の森羅万象はその己で認識してゐるその宇宙観若しくはその世界観に対して絶えず猜疑心の塊と化す。





――それは当然だらう。





――さう、むしろそれは《存在》する《もの》にとっては必然の事に違ひないのだが、しかし、ちぇっ――。





――しかし、何だね? 





――しかし、此の宇宙若しくは此の世界は確かに《存在》してゐる。





――だから、それがどうしたといふのかね? 





 と、其処で彼は、閉ぢられし瞼裡に移ろひ行く淡い淡い淡い乳白色の内発する微光群を何気なしに目をやっては、その淡い淡い淡い乳白色の微光群が、誰か、それはもしかかすると彼にとっては《神》の顔なのかもしれぬが、彼の閉ぢられし瞼裡に幽かに幽かに幽かに浮かび上がったその見知らぬ誰かの顔を凝視するのであった。





――ふっ、お前は《神》かね? 





――ふっふっふっふっ。どうしたといふのかね、突然に? 





――いや、何ね、この瞼裡の薄っぺらな闇を見てゐると飽きないからさ、つい《神》とか言ひ出したくなるのさ。





――さてね、そんな事よりも、此の宇宙の始まりが仮にBig bangだと仮定すると、その此の宇宙誕生時は何処も彼処も光、つまり、光のみが《存在》する闇無き世界だといふ事態になるが、さうすると、此の闇とは、仮に此の宇宙に《神》が《存在》するならば、《神》は光でなく、闇に近しい何かだらう? 





――お前もさう思ふかね、やはり……。





――当然だらう。





――しかし、生命体は、熱を帯びてゐること故に、それだけの理由で幽かに幽かに幽かに微光を放っているんだぜ。すると、《神》もまた発光する何か出会っていい筈だか……。





――何を今更当たり障りのない事を言ひ出すのかね? 《存在》がそれが何であれ、つまり、例えばそれを《神》だと看做すと、《神》は御親切にその《もの》に宿ってしまふ事を《存在》に強ひられる哀れな《存在》なんだぜ。





――《神》はやはり哀れか――。





――さうだらう。《神》の一つを代表してゐると看做せる基督は今もRosary(ロザリオ)となった磔刑像から解放されるどころか、今も尚基督は磔刑されたその痛痛しい姿を人前に曝してゐて、ちぇっ、今でも誰もその磔刑された基督を救へぬままではないか! 





――基督を救ふ? 





――さう。基督はどうあっても《神》であることから解放されねば、基督の死は犬死同然に帰してしまふといふ、《存在》に属するはずの人類は取り返しのつかぬ大罪を冒す愚劣な《存在》として、人類はその原罪を背負って生きる外ないのさ。





――だが、人類は既に自らの生存のために平気の平左で《他》を殺して喰らふ愚劣な《存在》ぢゃないのかね? 





――それはその通りだが、だからと言って基督を犬死させていいといふ法はない! 





(七儒四の篇終はり)







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2010 08/09 06:36:27 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、男女の交合の時の愉悦? さて、そんな《もの》が、実際のところ、《吾》にも《他》にもあるのかね? 





――多分、ほんの一時はある筈さ。それも阿片の如き《もの》としてな。また、チベット仏教では男女の交合は否定されるどころか、全的に肯定されてゐて、男女間の交合は悟りの境地の入り口でもある。





――つまり、男女の交合時、《吾》と《他》は限りなく《一》者へと漸近的に近付きながら、《吾》と《他》のその《一》が交はる、つまり、《一》ではない崇高な何かへと限りなく漸近すると? 





――へっ、此の世に《一》を脱するかの如き仮象に溺れる愉悦が無ければ、《存在》は己の《存在》するといふ屈辱には堪へ切れぬ《もの》なのかもしれぬな。





――だから、《吾》は《吾》を呑み込む時、不快なげっぷを出さざるを得ぬのさ。





――はて、一つ尋ねるが、男女の交合の時、その《存在》は不快なげっぷを出すのかね? 





――喘ぎはするが、げっぷはせぬといふのが大方の見方だらう。だがな……。





――しかし、仮に男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快を体現してゐると定義出来たならばお前はどうする? 





――ふっふっ。さうさ。男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快の体現だ。





――つまり、男女の交合時、男女も共に存在し交合に耽るのだが、詰まる所、男女の交合は、交合時にその男女は己の《吾》といふ底知れぬ陥穽に自由落下するのだが、結局のところ、《他》が自由落下する《吾》を掬ひ取ってくれるといふ、ちぇっ、何たる愚劣! その愉悦に、つまり、一対一として、《吾》が此の世では、やはり、徹頭徹尾、《吾》といふ独りの《もの》でしかない事を否が応でも味ははなければならぬ。その不快を、《吾》は忘却するが如く男女の交合に、己の快楽を求め、交合に無我夢中になって励むのが常であるが、それって、詰まる所、自同律からの逃避でしかないのぢゃないかね? 





――つまり、男女の交合とは、仮初にも《吾》と《他》との《重ね合はせ》といふ、此の世でない彼の世への入り口にも似た《存在》に等しく与へられし錯覚といふ事か――。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――でなければ、此の世を蔽ひ尽くすこの不快極まりない《ざわめき》を何とする? 





――それでは一つ尋ねるが、男の生殖器を受け入れた女が交合時悲鳴にも似た快楽に耽る喘ぎ声を口にするのもまた自同律の不快故にと思ふかね? 





――さうさ。男の生殖器すら呑み込む女たる雌は、男たる雄には到底計り知れぬ自同律の不快の深さにある筈さ。





――筈さ? ちぇっ、すると、お前にも男女の交合の何たるかは未だ解かりかねるといふことぢゃないかい? 





――当然だらう。現時点で《吾》は《死》してゐないのだから、当然、正覚する筈も無く、全てにおいて断言出来ぬ、《一》ならざる《存在》なのだからな。





――しかし、生物は《性》と引き換へにか、《死》と引き換へにかは解からぬが、何故《死》すべき《存在》を《性》と引き換へに選択したんだらう? 





――それは簡単だらう。つまり、《死》と引き換へに《性》を選び、《死》すべき《存在》を選ばざるを得なかったのさ。それ以前に、《存在》とは《死》と隣り合はせとしてしか此の世に《存在》する事を許されぬのではないかね? 





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――それはまた何故? 





――約めて言へば種の存続の為さ。





――ちぇっ、つまり、種が存続するには個たる《存在》は《死》すべき《もの》として此の世に《存在》する事を許された哀れな《存在》でしかないのさ。





――だが、その哀れな《存在》で構はぬではないか。





――ああ。不死なる《存在》が仮に《存在》したとしてもそれはまた自同律の不快を未来永劫に亙って味はひ尽くす悲哀! 





――それを「《吾》、然り!」と受け入れてこその《存在》ぢゃないのかね? 





――ふっ、「《吾》、然り!」か……。しかし、《吾》は気分屋だぜ。





――だから「《吾》、然り!」なのさ。





――つまり、《存在》は、即ち森羅万象は、全て「《吾》、然り!」と呪文を唱へてやっと生き延びるか――。





(十一 終はり)







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2010 08/02 07:38:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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