思索に耽る苦行の軌跡

2009年 01月 10日 の記事 (1件)


――《個時空》たる《主体》が絶えず夢想する《他》への憧れは、《他》たる《個時空》、即ち《他者》を此の世に見出す故に、この宇宙の涯を見てゐると?





――さうさ。《個時空》たる《主体》は此の世で《他》を見出すことでばっくりと口を開けた《パスカルの深淵》を閉ぢることが可能なのさ。





――《パスカルの深淵》が閉ぢる? 





――つまり、《他》といふ宇宙の涯を見出したことで《個時空》たる《主体》は《パスカルの深淵》を跨ぎ果せることが可能なのさ。





――えっ、さっきは飛び込まざるを得ぬと言ひながらその口が乾かぬうちに《パスカルの深淵》を跨ぎ果せるだと? 矛盾してないかね? 





――へっへっへっ。矛盾は大いに結構だね。といふよりも矛盾してゐない論理的な言説は嘘っぱちに違ひないぜ。





――つまり、矛盾は《パスカルの深淵》と同類だと? 





――へっへっへっ。《他》の存在がそもそも《個時空》たる《主体》にとって大いなる矛盾の出現じゃないかね? 





――ふむ。すると、《パスカルの深淵》を覗き込み、そして其処へもんどりうって飛び込むと、その深淵の底に《他》の相貌が出現すると? 





――さう思ひたければさう思ふがいいさ。しかし、《パスカルの深淵》の底には《他》の相貌は現はれないぜ。





――何故現はれないと? 





――《パスカルの深淵》は底無しだからさ。





――へっ、つまり、虚無主義といふことかね? 





――虚無主義ね――。へっ、虚無主義は「此の世で一番大好きなのは何を隠さう《自分自身》に外ならない!」と宣言してゐるやうなものだからな。へっ、虚無主義を気取ったところで結局のところそれはNarcist(ナルシスト)でしかない! 





――ふっふっ、成程、さういふことか! つまり《パスカルの深淵》は鏡面界といふことか! 鏡の間にぽつねんと置かれた《個時空》たる《主体》は只管(ひたすら)吾を凝視する悦楽の中で溺死するといふことか? 





――へっ、何時まで経っても見えるのは吾のみなり! それじゃ吾が吾を不快に思ひ吾を嫌悪するのも無理からぬ話じゃないか。





――つまり、自同律の不快とは自同律の悦楽に飽き飽きして倦み疲れた吾が鏡に映る吾を嫌悪するに至る自己愛の成れの果てといふことか。そしてそれが《パスカルの深淵》の正体といふことか――。





――否! 《パスカルの深淵》はそんな甘っちょろいものじゃないぜ。今《パスカルの深淵》は底無しと言ったばかりだらうが! 





――自己嫌悪の先がまだあると? 





――勿論! 次には自他無境の様相に吾は至る。





――自他無境? それは正覚乃至は大悟の別称か? 





――否! 自他無境とは自他共振といふ様相を呈するものさ。パスカルの底無しの深淵に自由落下し続ける吾といふ或る意識体は、底無しの《パスカルの深淵》に無数に浮かび上がる《他》の相貌、へっ、それは異形の吾でしかないんだがな、その《他》の相貌の面を被るが如くに自家薬籠中のものとしてその無数の《他》の相貌と共振を起こす――。





――それは、つまり、自同律の悦楽ではないのかね? 





――いや、悦楽の相とは違ふものだ。その時吾は戸惑ってゐる筈さ。《他》といふ異形の吾共と共振してゐる吾の不思議に吾ながら驚くに違ひない。しかし、それは寸時の事で、その後吾は己がパスカルの底無しの深淵に自由落下してゐることを失念してゐて、只管吾と向き合ひながら吾とは《他》なりと合点して、自他無境の位相にゐる吾が独り「ひっひっひっ」と笑っている姿を見出す筈さ。





――それは正覚ではないのか? 





――否。自他無境の位相では未だ吾の全肯定には至らない。否、至るわけがない! 唯、自他無境の位相を夢中遊行するのみさ。





――夢中遊行? 





(二の篇終はり)





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2009 01/10 04:22:48 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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