――付かぬ事を尋ねるが、お前にとって《死》は怖い《もの》かね?
――また何故にそんな事を?
――いや、何ね、《生》と《死》は表裏一体を為す《もの》、つまり、《生》の裏面が《死》であると単純に看做せるのかと思ってね? つまり、《生》と《死》は《対‐存在》する《もの》なのかね?
――ふっ、《生》の裏面が《死》でないとすると、では《生》の裏面とは何かね?
――へっ、《反=生》さ。
――それが《死》の事ではないのかね?
――へっへっへっ。《反=生》が《死》の事だと? これは異な事を言ふ。《反=生》は、《生》といふ《存在》の不在によって初めて露はになる、此の世に《存在》する《もの》が《対‐存在》している事を此の世に射影する何かの事さ。
――はて? それは一体全体何の事かね? ふん、不在故に《存在》の有様が尚更露はに為る《存在》の有様、譬へて言へばその《存在》の有様は《仮象=存在》とは言へると思ふが、《反=生》とはその《仮象=存在》とはまた別の《存在》の此の世に実在する有様ではないのかね?
――へっへっへっ、何ともまどろっこしいが、つまり、端的に言っちまへば、その《仮象=存在》を夢の一種と看做しちまへば、《反=生》は何だと思ふ?
――はて? 先程からお前は一体全体何を言ってゐるのか己で理解出来てゐるのかね?
――ちぇっ、ふん、いや。
――つまり、単なる言葉遊びをしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね?
――しかし、これは直感的だが、《生》の裏面は《死》ではなく、やはり、《反=生》にしか思へぬのだが……。
――だから、その《反=生》とは一体全体何の事なのかね?
――強ひて言へば、《生》といふ《存在》が此の世で出合ふ仮象の、若しくは夢幻空花な《死》の事かな?
――かな? そもそも仮象の《死》とは何の事かね?
――へっ、《生者》にとって、どう足掻いても自身の《死》については想像する外ないその想像上の《死》、つまり、《鏡面上の吾》にしか為れぬ《対‐存在》の悲哀の事さ。
――つまり、論理的な飛躍、ちぇっ、ここには大いなるインチキがあるんだが、まあ、それはそれとして、つまり、約めて言へば、《死》した《吾》さへ思念するこの《鏡面上の吾》と《対‐存在》する外ない《吾》なる《存在》全般が思念するといふその思念のみが、《生》をも《死》をも《超越》出来得ると?
――さあ? それは解からぬ。
――さあ?
――さうさ。実際、生きてゐる《存在》が思惟する事で、さて、その思惟する事の中に何かしら不可能事と看做せてしまふ《もの》が必ず《存在》するに違ひない筈だが、ところで、《生》ある《もの》が思惟不可能と看做してしまふその根拠は何処にあると考へるかね?
――つまり、所詮、《生》が思念出来る事と言へば、《生》の事象にある《もの》に限られると?
――さう……。しかし、《生者》は《死》をも夢想しちまふ。
――さうすると、《反=生》とは、《生》と《対‐存在》する限りにおいてのみ《存在》可能な有限なるその《対‐存在》が、《対‐存在》でしかあり得ぬこと故に此の世に《存在》する森羅万象が、《無》や《無限》に思いを馳せてしまふ事と何かしら関係があるのかな?
――森羅万象は、それが何であれ、此の世に《対‐存在》としてしかあり得ぬ故に、《存在》は皆、《渾沌》へと発散しちまふ《存在》の、或ひは《事象》の《陥穽》に落ちる恐怖と、何時も隣り合はせにしか《存在》出来ぬ。それ故、此の世の森羅万象は《無》と《無限》を如何しても想像しちまふ悪癖を「先験的」に負ってゐる。
――つまり、《反=生》とは《渾沌》としてしか《存在》しない此の世の《陥穽》の事かね?
――いや、《反=生》もまた秩序がある或る何かに違ひない筈さ。ぢゃなきゃ、《生》と《反=生》は、此の世で《対‐存在》として《存在》する筈がない。
――ふむ……。もしかすると、お前の言ふ《反=生》とは、此の世に現実存在する、即ち、実存の対極にあり《存在》と《対》を為すに違ひないの《霊性》の事ぢゃないかね?
――さて、付かぬ事を聞くが、ずばり、《霊性》とはそもそも何かね?
――ふむ。《霊性》とは魂魄と同類の《もの》だらう――か?
――へっ、「《霊性》とは何かね?」と尋ねながら誠に申し訳ないんだがね、へっ、別に何でも構はぬぢゃないか、《霊性》が何であらうが。
――つまり、《存在》に纏わり付く《霊性》のみが、《生》をも《死》をも《超越》する《反=生》か――。つまり、《生》と《反=生》か此の世に《対‐存在》する。
――その《もの》の不在である事によって尚更露はになる《存在》或ひは《もの》が、詰まる所、《霊性》であると強引に看做しちまへば、さうすると、《霊性》とは、永劫の事象にある何かしらの《もの》ぢゃないかね?
――多分、此の世に《存在》若しくは《対‐存在》する森羅万象の《もの》から私性を剥ぎ取れば、《霊性》は永劫な何かさ。
――私性?
――さう。《吾》は《死》して《吾》から解放される。
――ふっ、実際のところ、お前は、《吾》は未来永劫に亙って《吾》から解放される事はないと思ってゐるから、そんな事が言へるのぢゃないかね?
――ふっふっふっ。つまり、《反=生》は、私性がある《死》の仮象であって、換言すれば、私性は当然《反=生》にも纏わり付いてゐる《もの》で、それ故に《死》その《もの》は、《生》と《反=生》と《対‐存在》する此の世の《存在》全てに付与されてゐるその私性からの解放に違ひないとは思はないかね?
(六十四の篇終はり)
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