思索に耽る苦行の軌跡

2010年 07月 の記事 (4件)

――ふっふっふっ。此の宇宙が夢見てゐるといふのは、此の宇宙誕生以前への原点回帰といふ夢の事かね? ぶはっはっはっはっ。





――しかし、《存在》は《存在》する以前への、例へば胎内回帰がそれに相当すると思ふがその誕生以前へ回帰したいといふ願望は避けやうがない。つまり、《存在》は「先験的」に《存在》以前への回帰、若しくは《存在》以前に或る種の郷愁を抱く哀れな《もの》さ。





――そして、《存在》は《存在》以降、つまり、《死》へも「先験的」に郷愁を抱く《もの》に違ひない。





――つまり、《存在》はそれが《特異点》として此の世に《存在》する事を強ひられ、へっ、そしてパスカル曰く、無と無限のbetween、つまり、中間者としてしか《存在》出来ぬ故に、《存在》が《パスカルの深淵》を不図垣間見、そしてその刹那、《存在》以前の過去世と《存在》の《死》以降の未来世、つまり、去来現をその《パスカルの深淵》に見出さずば、へっ、此の世に《存在》すら出来ぬ《存在》が「先験的」に抱へ込んだ矛盾! さて、この矛盾を如何とす? 





――ふむ。これは愚問だが、今お前が言った事は、そもそも矛盾かね? つまり、absurdといふ事かね? 





――では、何だと言ふのかね? 





――必然さ。





――必然? 





――さう、必然さ。《存在》が不意に出会ってしまった《パスカルの深淵》は《存在》が此の世に《存在》する以上、必然であり、その事はそして《存在》が《特異点》でもある事を必然的に暗示し、また、さうだからこそ、《存在》は《存在》誕生以前と《存在》の《死》以降に郷愁を抱くのさ。





――さう言ふお前は、其の郷愁のやり場のない底無しの無力感は解かってゐるのかね? 





――ふっ、それが《現在》といふ《もの》だらう。そして、俺もまた此の世に《存在》してゐるのだぜ。





――さうすると《存在》は《存在》誕生以前と《存在》の《死》以降に四肢を両側から引っ張られ引き裂かれる寸前の状態にあるといふ事になると思ふが、お前は既にさう悟ってゐるのかね? 





――ああ。もしかすると《存在》は既に誕生以前と死後の世に引き裂かれゐるかもしれず、例へば仮にさうだとすれば、其の引き裂かれた状態でありながら《存在》といふ様態に辛うじてあるのは、つまり、《存在》は《特異点》故であるからこそ《存在》は《存在》可能だとは思はぬか? 





――それは、つまり、《存在》は《特異点》でなければそもそも《存在》などせぬと? 





――ああ。そして、《特異点》たる《存在》は、諸行無常なる移ろひ行く此の世の時空間にほんの一寸、つまり、高高百年ぐらゐ《存在》する事を許された時空間に発生した時空のカルマン渦の如き《もの》に違ひなく、例へば流体力学に当て嵌めて話してみると、ナヴィエ‐ストークス方程式を持ち出して、例えば(ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ナビエ-ストークス方程式より)

非圧縮性流れ(\;
ho=	ext{const.}\;)の場合、ナビエ-ストークス方程式は



<dl style="MARGIN-TOP: 0.2em; MARGIN-BOTTOM: 0.5em"><dd style="LINE-HEIGHT: 1.5em; MARGIN-BOTTOM: 0.1em; MARGIN-LEFT: 2em">rac{ \partial \boldsymbol{v} }{ \partial t } + ( \boldsymbol{v} \cdot 
abla )\boldsymbol{v}<br> = -rac{ 1 }{ 
ho } 
abla p + 
u 
abla^2 \boldsymbol{v} + \boldsymbol{F}</dd></dl>

と簡単化される。ここで\;
u:=\mu / 
ho\;動粘性係数である。各項はそれぞれ、



  • 左辺 - 第1項 : 時間[微分]項、第2項 : 移流項(対流項)


  • 右辺 - 第1項 : 圧力項、第2項 : 粘性項(拡散項)、第3項 : 外力項


と呼ばれる。外力項には、状況によって、重力をはじめ浮力表面張力電磁気力などが該当する。



上記の、非圧縮性流れに対するナビエ-ストークス方程式は、未知数として圧力\;p\; 流速\;\boldsymbol{v}\; を含んでいる。したがって未知数決定に必要な方程式の数が足りない。そこで、質量保存則から導かれる連続の式(非圧縮性流れについては次の形)



<dl style="MARGIN-TOP: 0.2em; MARGIN-BOTTOM: 0.5em"><dd style="LINE-HEIGHT: 1.5em; MARGIN-BOTTOM: 0.1em; MARGIN-LEFT: 2em">
abla \cdot \boldsymbol{v} = \mathrm{div} \, \boldsymbol{v} = 0 \quad 	ext{(for incompressible flow)}</dd></dl>

と連立することによって、原理的には解くことが可能である。もし一般解が求まれば、流体の挙動を完全に知る事ができることになる。しかし、未だ一般解は見つかっておらず、そもそも解の存在性といった面で謎が残り、物理学数学の懸案事項の一つとなっている(ミレニアム懸賞問題)<sup class="noprint Inline-Template" style="LINE-HEIGHT: 1em">[<em>疑問点 </em>]</sup>。したがって特殊な条件の問題を除いて、一般には次に示すように数値計算によって近似的に解かれる。


(以下http://ssrs.dpri.kyoto-u.ac.jp/~nakamichi/exercise/presentation.pdfを参照してください。)









<shape id="図_x0020_268" opid="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 411pt; HEIGHT: 288.75pt; VISIBILITY: visible; mso-wrap-style: square"></shape>


Photo_4




そして、







<shape id="図_x0020_269" opid="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 411pt; HEIGHT: 288.75pt; VISIBILITY: visible; mso-wrap-style: square"></shape>


Photo_3








といふやうなコンピュータ・シミュレーション用にナヴィエ‐ストークス方程式を近似して、実際、カルマン渦をもまた近似的に再現することが可能だが、しかし、ナヴィエ・ストークス方程式の解は実際のところ、いまだ見つかってをらず、また、見つかる保証も無いけれども、一方で自然をコンピュータ上とはいへ疑似的に、そして、かなり正確に再現出来るまでに、この《存在》の一形態たる「現存在」の《知》は到達はしてゐるのだ。尤も、自然をコンピュータなどの科学技術を駆使してかなりの精度で再現するのは別に何の問題も無く、而もそれが精密を極めてゐれば尚更の事、例へばナヴィエ‐ストークス方程式の如く自然の現象に「美しい」数式を見つけ出すのは、まあ、いいとしてもだ、それでは何故に自然は斯様に振舞ふのかの論理的な証明はと言へば未だ証明出来ず仕舞ひだ。現時点では全て、公理や公準や定理などと呼んで済ませちまってゐるに過ぎぬ。





――へっ、つまり、自然は、此の世は、此の宇宙は、「《神》のみぞ知る!」といふ事以上の事は現代科学をもってしても言へぬといふ事かね? 





――唯、《存在》が自棄のやんぱちで言へる事は、此の世は、へっ、《存在》が《特異点》故にかどうかは解からぬが、或る秩序が厳然と《存在》してゐるのはどうやら確からしいといふ事さ。





――確からしい? 確かだと、自然には「美しき」秩序があると何故に断言出来ぬのだ! 





――へっ、だって、此の世の森羅万象に《神》も加へてもいいが、未だどんな《存在》も此の宇宙を自然に忠実に再現、否、創造出来ぬからさ。





――しかし、《神》はこの憎憎しき、ちぇっ、《吾》が生存する為には平気で《他》を殺して喰らふ《吾》を《存在》させる此の悪意に、否、もしかしたならばそれは慈悲といふのかもしれぬが、つまり、約めて言へば《神》なる《存在》が此の宇宙の誕生に関はってゐるのと違ふかね? 





――さあ、それは解からぬ。





――解からぬ? 





――ああ、今もってそれは不明さ。《神》の問題は何時の世でも必ずAporia(アポリア)として持ち出されるからな、へっ。





(七十三の篇終はり)





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2010 07/26 09:28:09 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、《闇》は、光をも含めた森羅万象を呑み込み得るのか? どう思ふ? 





――さてね。それより、何とも摑み処のない自問を私の頭蓋内の《闇》たる五蘊場にひょいっと抛り投げてみたところで、何の反響も無い事は端から解かってゐる癖に、然しながら、どうしてもさうせずにはゐられぬ《吾》は、そして、また、五蘊場に絶えず無意味な問ひを絶えず投げ続けずにはゐられぬ《吾》は、ゆっくりと瞼を閉ぢて、その瞼裡のペラペラな《闇》に《吾》なる面影を映さうと躍起である事は、何を隠さうそれは休む間も無く絶えず私に起きてゐる自問自答しながらの大いなる自嘲に過ぎぬとしたならば、へっ、《吾》もまた皮肉たっぷりの《存在》だといふ事だ。





――ふっふっ、《吾》において仮に《闇の夢》がそれ自体において瓦解したならば、《吾》はそれでも《吾》をして《吾》を《吾》と名指せるのだらうか? 





 と、既に私において《闇の夢》は《吾》を《吾》たらしめてゐる礎になり果せてゐるのもまた間違ひの無いことで、しかし、さうだとするとして、私はその頭蓋内の闇たる五蘊場へと直結する瞼裡の闇に映る《異形の吾》を仮象せずば、一時たりとも《吾》が《吾》である事はあり得ぬ程に、《吾》には「先験的」に《闇》を《吾》のうちに所持せず《生存》すら断念してしまふ羸弱な《存在》である事を自殺を例に出すまでも無く自明の事として、《吾》は《吾》の《存在》の所与の《もの》として《闇》が《存在》に組み込まれてをり、つまり、《闇》無くして《吾》は《存在》してゐないに違ひない《もの》なのは、間違ひのない事であった。





 さうすると、《闇の夢》は私において、それはまさしく必然の《もの》に違ひなく、《闇の夢》こそが《吾》の確信、若しくは本質なのかもしれなかったのである。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 しかし、私は夢の中で見てゐるその《闇の夢》がそもそも《闇の夢》であることから、それを或る種の幻燈と看做してゐるはずで、《闇の夢》が自在に変容するその《闇の夢》が映す《もの》に、私は嬉嬉として喜びの声も、私が《吾》を嗤ふ中で確かに上げてゐる筈なのであった。尤も私は、《闇の夢》が映し出す《もの》全てに《吾》との関係性を見出して、それ故に嬉嬉として喜んでゐるのであったが、しかし、例へば私が夢で見るその《闇の夢》が《吾》とは全く無関係な《もの》、つまり、今のところ此の世にその《存在》が知られてゐない、例へば先に言った様に《杳数》をObscurity numberと英訳してその頭文字を取って《杳数》をoとすると、その《杳数》の如き未だ発見されぬ未知なる《もの》が《存在》することで初めて《吾》と《闇の夢》の関係が曲芸の如く導き出されるとしたならば、困った事に、私にとって《闇の夢》は《吾》を侮蔑するのに最も相応しい代物だと言へ、《吾》と《闇の夢》が例へば《杳数》の《存在》を暗示するのであれば、私といふ《存在》は、やはり、私の手に負へぬ無と無限との関係と深い関係にある何かであった事は間違ひの無い事であった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 それは、つまり、《闇》=《吾》といふ至極単純な等式で表はされるに違ひない筈なのに、《闇》=《吾》と白紙の上にさう書いた刹那、その《闇》=《吾》といふ等式は既に嘘っぽくなり、更にそれをまぢまぢと眺めてゐると、





――そんな馬鹿な! 





 と、《闇》=《吾》は完全に否定される事になるのが落ちなのである。





さうすると、《杳数》はそれ自体「先験的」に時間と深く結びついた何かであるかも知れず、また、時間を或る連続体の如く扱ふ事自体に誤謬があり、さうすると、そもそも時間とは、渦動運動だと看做す場合、その渦動する時間はほんの一時、連続体として此の世にカルマン渦の如く《存在》するが、しかし、例へば、時間を数直線の如く扱ふ、つまり、時間が微分積分可能な《もの》として、換言すれば、時間が移ろふ《もの》としてのみ、その性質を無理矢理特化させてしまふと、その時点で時間は「先験的」に非連続的な何かへと相転移を遂げた、詰まる所、微分積分が相当の曲芸技無しには全く不可能な何かへとその様態を変幻自在に変へる化け物として、または、《存在》に襲ひ掛かって来る時間は、その《物の化》の如き本質を剥き出しにするに違ひ無いと思へるのであった。





(九の篇終はり)







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2010 07/19 06:22:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっへっへっ、下らぬ事を訊くが、そもそも《主体》は己が《存在》してゐる事を、直感的にも論理的にも遺漏なく《完璧》に証明できる代物かね? 





――ふむ。それは俺には解からぬな。





――解からない? はて、するとお前は己の《存在》を認識出来ぬといふ事かね? 





――反対に訊くが、お前は己が明確に此の世に《存在》してゐると、胸を張って言へるのかね? へっ、言へる訳がないわな。仮に「《吾》此処に《存在》せり!」と胸を張って言へる《主体》は百害あって一利なしの愚劣な《存在》と相場が決まってゐる。





――だからと言って「《吾》、《存在》せず!」とも胸を張って言へやしないぜ。





――其処さ。全ては曖昧なのさ。在るとも無いとも言ひきれぬ悲哀! 《存在》はその何とも名状し難い悲哀を噛み締める《もの》ぢゃないかね? 





――再び《存在》は《パスカルの深淵》に立ち竦む。





――無と無限の間(あはひ)で弥次郎兵衛の如く揺れ続ける外ない《存在》といふ《もの》の悲哀。





――へっ、しかし、《存在》しちまった《もの》はその悲哀を哀しむ資格が「先験的」に喪失してゐる。





――喪失してゐる? それはまた何故に? 





――それは簡単に言ってしまへば、唯、《存在》は既に《存在》してゐるからさ。





――それは、《存在》に意識が芽生える以前に既に《存在》は《存在》してゐるからといふ、たったそれだけの理由からかね? 





――否、《存在》はその《存在》が出現する以前に既に「先験的」に意識の萌芽は必ず《存在》してゐる筈で、また、さうでなければ、《存在》は《存在》に躓く筈はない! 





――え! 《存在》の出現以前、つまり、未出現の状態でも、へっ、意識の在りさうでゐてはっきりと無いとも言へぬ萌芽が既に芽生えてゐるといふ事かね? ふはっはっはっはっはっ。ちゃんちゃらをかしくて、それぢゃ、臍で茶が沸かせるぜ。





――それでは逆に尋ねるが、幽霊に意識はないのかね? 





――ふむ。幽霊ね……。お前は先に幽霊が《存在》した方が此の世は面白いと言った筈だが、ちぇっ、さうさねえ、幽霊に意識は宿ってゐるに違ひないか――。





――ならば、未出現の《もの》にも既に意識は宿ってゐる筈だ。《存在》は未だ出現せざる内に既に《存在》する事の底無しの悲哀を味はひ尽くしてゐる。さうして、《存在》は、皆、此の世に出現するのさ。





――つまり、それは此の世の《特異点》としてといふ事だらう? 





――ああ、さうさ。《存在》はそれが何であれ、《存在》が《存在》である以上、それは此の世の《特異点》としてどう仕様もない、否、やり場のない自同律の不快を絶えず噛み締める――か――。





――へっ、何せ、《存在》はパスカル風に言へばbetween、つまり、無と無限の中間者としてしか此の世で《存在》する事を許されぬ。





――それは、此の宇宙に関しても同様だと? 





――当然だらう。多分、自同律の不快に此の世で最もうんざりしてゐるのが何を隠さう此の宇宙で、尚且、それ故に此の宇宙自体が《特異点》だと白状してゐるやうなもんだぜ。





――違ふかね? 





――違ふかね? これは異な事を言ふ。此の宇宙は少なくとも無と無限を見せた若しくは明らかにした事なぞ一度もない筈だがね? 





――それが闇でもかね? 





――ふむ。闇か――。





――闇においてのみ、無と無限は包摂され其処に《パスカルの深淵》がばっくりと口を開けた《特異点》がその《存在》を暗示させて仕様がないのさ。





――それは暗示以上にはなり得ぬといふ事だらう? 





――さう。暗示以上にはなり得ぬ厄介な代物さ。例へば胎内回帰が《存在》の一つの在り方だとすると、此の宇宙も無と無限がぴたりと重なった宇宙の誕生以前へ回帰したいのは当然考へられることだらう? 





(七十二の篇終はり)







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2010 07/12 06:53:15 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《存在》は唯一つ大事な事を亡失しちまてゐる振りをしてゐる。





――それは……《死》だね。





――さう、《死》さ。頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場に生滅する数多の表象群をコツコツと具現化することだけに感(かま)け、挙句の果てにその頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で表象した《もの》を外在化し、その事に見事に成功した筈なのだが、しかし、その本質はといふと、へっ、全て《死》と紐帯で繋がってゐなければ、そもそも表象すらでない事を、《生者》、つまり、《存在》は見事に亡失し果せた振りをして見せたのだ。





――しかし、その振りも最早限界に来てしまったのだらう? 





――さう。最早《自然》に対して余りにも羸弱なこの《人工世界》は、その本質が《死》故に、絶えず《生者》は自殺へと誘はずにはゐられぬ。





――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ誘ふと? 





――さう。





――それは、つまり、《存在》の本質が《死》だから、この頭蓋内の闇に明滅する表象を具体化し外在化した《人工世界》は、《死》の具現化へと行き着く外なかったと? 





――違ふかね? 





――違ふかね? すると、へっ、《生者》は《存在》の代表者面をして、最も《生者》が忌避したかった《死》を、この《人工世界》つまり、街として具現化してしまったといふ事かね? 





――さうさ。更に言えば、街が計画的に造られてゐればゐる程、《死》に近しい。





――つまり、それは敗戦後の闇市的な猥雑な《場》こそ《生》に満ち満ちた人工の《場》たり得た筈さ。





――つまり、焼け野原といふ一つの主幹たる戦前の継続し得たであらう街がぽきりと折れた後に、蘗として猥雑極まりない闇市が自然発生的に生まれた筈だが、その蘗たる闇市的な生活空間を、後知恵に違ひない都市計画なる鉈(なた)でばっさりと切り倒され、其処に現出した人工的な更地たる時空間、つまり、蘗が全て切り倒された様相の街が此の世に出現し、そして、其処に人力以上の動力やら重機で人一人では全くびくともしない《人工世界》が造り上げられた。





――へっ、つまり、それが徹頭徹尾《死》の具現化でしかなかったと? 





――違ふかね? 





――違ふかね? 





――でなければ、この人工の街で《生者》が次次と自殺する筈がないではないか? 





――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ引き摺ってゐると? 





――違ふかね? 





――ぢゃ、人類の叡智とは、結局、《死》の具現化に過ぎなかったといふ事だね? 





――否、人類の叡智といふ《もの》は人一人でのみ体現できる、否、人一人で生きて行ける《もの》こそ人類の叡智であって、科学的技術といふ名の《知》は、《存在》の《生》とは全く無関係な代物で、叡智といふ《もの》は、人一人で具現化出来る《もの》であって始めて叡智と呼ばれるのであって、人一人で具現化出来ない《もの》は叡智とは言はないのさ。つまり、《生》に関して言へば、百年前と同じで、人類は何一つ《生》の様相を変へる事が出来なかったのさ。変わったのは全て《死》の様相さ。





――《知》は叡智にはなり得ぬと? 





――ふむ。多分だが、科学なり生命科学なり化学なりの高度極まりない《知》が叡智へ相転移を遂げる鍵を《存在》は未だ見出し得ぬのが正直なところさ。





――つまり、此の世に《存在》するといふ事は、《神》の夢の途中といふ事かね? 





――此の世の摂理が《神》による《もの》だと看做したければさうすればいいのさ。但し、摂理が摂理たる鍵は未だ何《もの》も見つけられず仕舞ひだ。





――では、その鍵を見つける手立ては? 





――《現実》を本来の《現実》に戻せばいいのさ。





――本来の《現実》? 





――さう。本来の《現実》さ。《存在》にとって最も不便極まりないのが《現実》だといふ事を思ひ出すがいいのさ。





――ふむ。《現実》は不便な《もの》か……。





(六の篇終はり)







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2010 07/05 06:34:36 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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