思索に耽る苦行の軌跡

2009年 05月 の記事 (9件)

 さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラックホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすっぽりと嵌まって其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとって《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとってその《吾》は如何あっても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽっかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引っ掛かってしまふのである。





 《主体》は宇宙史の全史を通して穴凹が塞がりこの宇宙から自存した《存在》として出現した例は今のところ無い筈である。眼窩にある目ん玉の瞳孔を通して外界を見、鼻孔を通して呼吸をし、口を通して食物を喰らひ、肛門を通して排便をし、生殖器を通して性行為をする等々、《主体》は必ず外界に開かれた《もの》として此の世に現はれるのである。つまり、《主体》はこれまで一度も穴凹が塞がれた《単独者》であったことはなく、《主体》自らが穴凹だらけといふばかりでなく、外界たる世界もまた《客体》即ち《他》といふ特異点の穴凹だらけの《もの》として《主体》には現はれてゐる筈なのである。そして《主体》にとっては内外を問はず深淵たるその穴凹に自由落下する方が《楽(らく)》なのもまた確かなのであるが……。





…………





…………





 さて、翌日、小学校から帰った私は一目散に例の神社へと向かったのであった。其処で幼少の私は先づ何故蟻地獄が高床の神社のその床下の乾いた土の、それも丁度雨が降り掛かるか掛からぬかの境界に密集してゐるのかを確かめた筈である。そして、私は、蟻地獄が密集してゐるその方向の数メートル先に桜の古木が立ってゐるのを認めたのであった。幼少の私は多分、何の迷ひもなくその桜の古木に歩み寄り、そして蟻の巣を探した筈である。案の定、その桜の古木の根元には黒蟻の巣の出入り口があり、絶えず何匹もの黒蟻がその出入り口を出たり入ったりしてゐるのを見つけたのであった。





――やはり、さうか。





 蟻地獄が雨が降り掛かるか掛からぬかの境界辺りに密集してゐたのは自然の摂理――これは一面では残酷極まりない――としての生存競争故の結果に過ぎなかったのであった。そして、幼少の私は其処で黒蟻を一匹捕まへて蟻地獄が密集してゐる処に戻ったのである。次にざっと蟻地獄の群集を見渡し、その中で一番穴凹が小さな蟻地獄に捕まへて来た黒蟻を抛り込んだのである。





――そら、お食べ。





 擂鉢状の穴凹の底からちらりと姿を現はした蟻地獄は、果たせる哉、昨日目にした蟻地獄とは比べものにならぬ程、小さな小さな小さな姿を現はしたのである。その小さな蟻地獄は高床下の最奥に位置してゐたに違ひなく、私は、その小さな蟻地獄が黒蟻を挟み捕まへて地中に引き摺り込む様をじっと凝視してゐた筈である。





――そら、お食べ。





 後年、梶井基次郎の「桜の樹の下には」に薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の死骸が水溜りの上に石油を流したやうに何万匹もその屍体を浮かべてゐるといふやうな記述に出会ってからといふもの、桜を思へば蟻地獄も必ず思ふといふ思考の癖が私に付いてしまったのは言ふ迄もないことであった……。





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2009 05/30 05:44:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――仮令、論理的飛躍に錯覚や幻視が必要だとしても、其処ではきちんとした手順を踏んでゐないと滅茶苦茶な論理ばかりが跋扈するとんでもない事態が到来するぜ。





――其処さ。《主体》は傍から見ればそれが滅茶苦茶な論理であってもそれを滅茶苦茶な論理とは決して看做せないから、結局のところ滅茶苦茶な論理ばかりが世に蔓延るのではないかね? 





――ふっ、例えば狂信者の類か? 





――さう。狂信者は傍から見れば矛盾だらけの滅茶苦茶な論理を全き真理として盲信する。それは何故かね? 





――その問ひに答へる前に一つ尋ねるが、お前は傍から見ればと言って済ませてゐるが、狂信者の信ずる《もの》が滅茶苦茶な論理であるとさう判断するそのお前の判断根拠は、つまり、一体全体お前は何処に依拠して滅茶苦茶な論理であると判断を下せるのか? それは言ふなれば、或る種の《主体》が《主体》といふ《存在》を伝家の宝刀の如く振り翳(かざ)す傲慢といふ行為ではないのか? 





――つまり、お前は、その判断根拠は、《主体》たる《もの》は大概相対的な処にゐる故に《主体》の判断根拠は相対的な《もの》に過ぎぬと言ひたいのだらう? 





――へっ、罠を張ったな。





――罠? 





――相対的といふ名の罠だ。





――《主体》の《存在根拠》を相対化することが罠か? 





――ああ。軽々に相対的といふ言葉は遣はない方がいいぜ。





――それはまた何故に? 





――《主体》の《存在根拠》を相対化することは、即ち《主体》をどん詰まりの《単独者》へと追ひ込む罠に過ぎぬからさ。相対的といふ言葉は《主体》の耳には心地良く響くが、その実、相対的とは、《主体》の尻は《主体》自身で拭へといふ自閉した《自己責任》といふ呪縛に閉ぢ込めたただけのどん詰まりの《単独者》といふ《主体》を大量生産する《存在》の《鋳型》に過ぎぬのさ。





――しかし、《他》が《存在》する以上、《主体》は相対化せざるを得ぬ運命にあるのではないかね? 





――それじゃあ、また一つ尋ねるが、人間は人間以外の生き方を相対的に選択できるのかね? 





――うむ……。ちぇっ、人間はそれが喩へどんな生き方にせよそれが人間ならば人間以外の生き方を相対的に選択する余地など全くない! しかし……。





――しかし、何かね? へっ、相対化することの馬鹿らしさの一端が解かるだらう? 





――それじゃあ、その裏返しとして、絶対の真理があるといふのか? 





――いいや、絶対の真理なんぞありゃしない! 此処でまた一つ尋ねるが、お前は《他》が《存在》して初めてお前自身の《存在》を認めるのかね? 





――いいや、決して。《他》の出現以前に、それは多分母親の母胎の中の自在なる羊水の中にゆらゆらとたゆたふ時に既に《吾》は《吾》の《存在》を言葉未然に感覚的に知って仕舞ってゐる筈さ。つまり、《吾》は「先験的」に《存在》しちまってゐるのさ――。





――だからといって《吾》を《他》に対して絶対化する根拠は尚薄弱だぜ。否、相対化かな? 





――しかし、《吾》とは《吾》の《存在》をそもそも絶対化若しくは相対化したくて仕様がない生き物ではないのか? 





――へっ、絶対化にせよ相対化にせよどちらにせよ、それは、詰まる所、《吾》が《吾》である責任を免れたいだけに過ぎぬことだらう? 





――お前は単刀直入に、自同律から逃げることで《吾》といふ《存在》が自身の《存在》の責任を神に委ねて回避してゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、如何足掻いたところで《一》は《一》を、つまり、《吾》は《吾》であることを強要される。また、《吾》が《吾》であることを強要されることで辛うじて世界は秩序を保ってゐるのさ。





――へっ、《吾》がどん詰まりの《単独者》として《他》に対して絶対化若しくは相対化されたところで、それは一神教の世界像の中でのことでしかないぜ。





――ん? それは如何いふ意味かね? 





――一神教の世界像では《一》は何処まで行っても一神たる偉大な神と一対一で対峙する《一》でしかない。でなければ一神の下では《平等》はあり得ぬからさ。





――多神教の世界像でも《一》は何処まで行っても《一》でしかないのではないのかね? 





――へっ、多神教の世界像では《一》は変幻自在だ。





――変幻自在? その根拠は? 





――多神教の世界像では究極のところでは、《主体》が《存在》してゐようがゐまいが、神々さへ《存在》してゐれば世界は既に自存してゐるからさ。





――つまり、多神教の世界像において《一》たる《主体》は無にも無限にもなり得ると? 





――へっ、違ふかね? 





――だから零といふ概念は印度で発見されたと? 





――へっ、違ふかね? 





――しかし、それでも尚、多神教の世界像において《一》たる《主体》が変幻自在たる根拠は薄弱だぜ。





――端的に言へば多神教の世界像において《一》たる《主体》は神々と伍することが可能なのさ。そして、一神教では《一》たる《主体》は神と対峙はするが伍することはあり得ぬのだ。





(三十四の篇終はり)





2009 05/25 06:27:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、死後の《私自身》の幻が神の幻影といふことか? 





――否! 死後の《私自身》ではない! 朧に頭蓋内の闇に浮かぶ彼の世にゐる《私自身》といふ幻影さ。





――へっ、彼の世の《私自身》といふ幻影と死後の《私自身》の幻影と如何違ふ? 





――へっへっへっ、正直に言ふと何となくそんな気がするだけさ。しかし、彼の世は彼岸を超えた或る表象以上には具体化出来ぬが、死後は《私自身》がゐないだけの世界が相変はらず日常として続く《他》のみが《存在》する具体的な世界像さ。





――それでも詰まる所は唯何となくそんな気がするだけか? 金輪際までその直感を詰めると何となくで済む問題か? 





――へっへっへっ、済むんじゃなくて済ませちまうのさ。





――随分、強引だね。





――論理的飛躍をするには強引に済ませちゃうところは強引に済ませちまへばいいのさ。





――しかし、論理的飛躍なんぞそもそも誰も望んでゐないのじゃないかね? 





――だからこそ、その論理的飛躍の最初の一歩をお前が踏み出すのさ。それ! 《杳体》と《重なり合って》みろ! 





――これまた愚問だが、そもそも《杳体》と《重なり合ふ》とは如何いふことかね? 





――へっへっへっ、何度も言ふやうだが、《杳体》と《主体》が《重なり合ふ》とは無と無限の間を揺れ動くことさ。





――それも振り子の如くね……。しかし、《主体》が《杳体》と《重なり合ふ》必然性があるとは如何しても思へぬのだが……。





――何を馬鹿なことをぬかしをるか! 必然性もへったくれもない処まで《主体》は追ひ詰められてゐるんだぜ。





――何に追ひ詰められてゐるといふんだね? 





――《主体》自体にさ。





――《主体》が《主体》を何処に追ひ詰めるといふんだね? 





――《存在》の縁さ。





――《存在》の縁? 





――さう。既に《主体》は《主体》自らによって《存在》の縁に見事に追ひ詰められた。後は《存在》の行き止まり、つまり、《存在》の断崖へと飛び込む外ない。





――《存在》の断崖だと? 





――ふっふっふっ、例へば、今現在《主体》はその居場所にちゃんとゐると思ふかい? 





――いいや、ゐるとは思へぬ。





――するとだ、《主体》は《主体》の居場所から追ひ出されてしまったといふことだ。つまり、《存在》の断崖の縁ぎりぎりの処へと追ひ詰められてしまったのさ。





――《主体》自らかが? 





――さうさ。《主体》自らが《主体》を《存在》の断崖へと追ひ詰めたのさ。後は《主体》の眼下に雲海の如く《杳体》が杳として知れずに拡がってゐるだけさ。そら、その眼下に拡がる《杳体》へ飛び込め! 





――馬鹿も休み休み言へ。飛び込める筈がないじゃないか! 





――哀しき哉、我執の《吾》の醜さよ。





――ちぇっ、《吾》が我執を捨てちまったならば《吾》は《吾》である訳がない! 





――何故さう思ふ? 我執無き《吾》もまた《吾》なり。有無を言はずにさっさと飛び込んじまふがいいのさ。





――簡単に飛び込めとお前は言ふが、杳として知れぬ中へともんどりうって飛び込む程《主体》は頑丈には出来てゐないんだぜ。









(此処で別の異形の《吾》が登場)









――ぶはっはっはっ。下らない! 実に下らない! 





――お前は誰だ! 





――お前に決まってをらうが!





――ちぇっ、また「異形の《吾》」か……。さて、そのお前が《吾》等に何用だね? 





――お前らの対話はまどろっこしくていけない。其処のお前はお前で《杳体》の何ぞやを頭で考へる前に、己を一体の実験体として《存在》の前に差し出して、《存在》の断崖に拡がってゐる雲海の如き《杳体》に飛び込んじまへばいいんだよ。そして、もっ一方のお前は、もっとはっきりと《杳体》を名指し出来ないのか? 





――ふっ、馬鹿が――。《杳体》は杳として知れぬから《杳体》なのであって、それを明確に名指し出来れば此方も《杳体》なんぞと命名してゐなかったに違ひないんだ。





――何一人合点してゐるんだい? かう言へねえのかい? 「《存在》は既に杳として知れぬ不気味な《もの》へと変容しちまった」と。





(五 終はり



2009 05/23 04:58:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――一つ尋ねるが、《死体》はお前の言ふ処の《一》かね? 





――ふむ、《死体》か……。ふっふっふっ、多分、《一》の成れの果てだらう。





――《一》の成れの果て? 





――つまり、《一》の成れの果てとは《一》の零乗のことに外ならないに違ひない筈さ。





――《死体》が《一》の零乗とは初耳だが、それではその根拠は如何? 例へば《死体》が《一》の二乗ではいけないのかね? 





――正直に言ふと、数字の上では《一》の零乗と二乗の差なんかありはしない。しかし、何となく零乗に《死》の匂ひが漂ってゐるとしか俺には解釈できなかっただけの事に過ぎぬ。つまり、それは単なる直感に過ぎぬのだ。しかし、この直感といふものは侮り難い代物だ。





――それでお前は《一》の零乗に何となく《死》の匂ひを感じたと? それはまた何故に? 





――零乗だぜ。単純化して言ふと、正数の零乗は全て《一》に帰すんだぜ。これが《死》でなくて何とする? 





――つまり、《死》は《存在》に平等に与へられてゐる、ふっふっふっ、裏を返せばそれは《慈悲》といふことかね? 





――《慈悲》ね……。多分、さうに違ひない……。此の世に《存在》しちまった《もの》には全て平等に《死》といふ《慈悲》が与へられてゐる――か! へっ、如何あってもこの《死》といふ平等が、全ての《存在》を指し示す正数といふ《存在》の零乗が《一》に帰すことと同義語だと看做せるだらう? そして、《一》といふ《単独者》といふ幻影に苛まれながら、自同律といふ不愉快極まりない《存在》の在り方を強要された《もの》達は、己が《一》=《一》といふ呪縛から最早遁れなくされて仕舞ふ。そして、一生といふ生を一回転した時に己は《死》を迎へる。俺にはこの生の一回転が即ち零乗に見えてしまったのさ。





――しかし、それは非論理的だぜ。





――へっ、《死》がそもそも非論理的ではないのかね? 





――うむ。





――更に言へば、《存在》そのものが非論理的で不合理極まりない《もの》ではないのかね? ふっふっふっ、論理的といふのは、その論理の対象となった《もの》が既に《死体》といふ非論理的な《もの》と成り果ててゐて、つまり、論理的なるといふことは、先験的に非論理的な《死》を包含した《死に体》としてしか論理として扱へぬといふ、論理的なるものの限界を論理的に露呈してゐるに過ぎぬとは思はないかい? 





――はっはっはっ。論理的なことが既に論理的なることの限界を露呈してゐるとは――。しかし、《存在》は何としても世界を論理的に認識したくて仕様がない。





――《存在》はそもそもからして矛盾してゐる《もの》さ。さうでなければ《存在》は一時も《存在》たり得ない。





――つまり、それを単純化すると矛盾を孕んでいない論理は、論理としては既に失格してゐて、それを唾棄したところで何ら《存在》に影響を及ぼさないといふことかね? 





――ああ、さうさ。端的に而も独断的に言へば此の世に数多ある論理的なる《もの》の殆どは役立たずさ。





――それでは、例へば、量子論に出くはしたことで人間は論理的なることが《死に体》しか扱ってゐないことに漸くだが、ちらりと気付き始めた……かもしれぬと考へられはしないかい?  





――否! 今もって人間は論理的な世界の構築に躍起になってゐる。





――しかし、それは《死に体》の世界に過ぎぬと? 





――ああ。論理的な世界の認識法の中に《主体》はこれまで一度も生きた《主体》として登場したことはなかった……。つまり、《主体》は解剖された《死体》としてしか論理の中には登場出来なかったのだ……。





――ふっ、それは当然だな。だって《主体》は絶えず生きてゐる《もの》だもの。生きてゐるとは即ち非論理的なことだぜ、へっ。





――其処で愚問をまた繰り返さざるを得ぬが、その《主体》とは一体全体何のことかね? 





――ふっ、己のことを《吾》と名指してしまふしかない哀しい《存在》全てのことさ。





――へっへっへっ、かうなるとまた、堂々巡りの始まりだな。





――へっ、論理的とはそもそも堂々巡りを何度も何度も繰り返さないことには、論理的飛躍が出来ぬやうに出来てゐるのさ。





――また、やれ《反体》だ、やれ《反=吾》だ、やれ《新体》だ、等々の繰り返しかね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、それでは出口無しだぜ。





――否! お前には今この堂々巡りの自問自答の《回転》する論議の中にその《回転》の方向に垂直に屹立する、つまり、この回転する自問自答の回転軸方向に論理的なる《縄梯子》が仮初にも屹立してゐるのが見えぬのか? 





――《論理的縄梯子》? それは蜃気楼若しくは幻影と似た《もの》かね? 





――蜃気楼若しくは幻影と言へばそれはさうに違ひないが、へっ、論理的な飛躍といふのは、元来錯覚若しくは幻視無くしてはあり得ぬと思はぬか? 





(三十三の篇終はり)





2009 05/18 05:27:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ああ、醜悪極まりない! 《吾》が質量零でしか決して成し遂げなれぬ光速度までに加速し続けながら《パスカルの深淵》を自由落下した挙句の果てに、《吾》が《吾》に尚もしがみ付くことに、はて、何の意味がある? 





――しかし、《吾》とはそれでも《吾》であり続けたい《存在》ではないのかね? 





――《吾》が地獄の別称でしかないとしてもかね? 





――ああ。《吾》たる《もの》は飽くまで《吾》にしがみ付く筈さ。





――さて、その根拠は? 





――《吾》の外に《他》が《存在》するからさ。





――宇宙の涯を其処に見出さずにはゐられぬ《他》が《存在》するが故に、《吾》が《吾》にしがみ付くといふ愚行において、さて、《パスカルの深淵》を自由落下し続けた果てに光となりて此の世に遍在可能な《存在》へと変化してゐるに違ひない《吾》をその《吾》が解脱せずして、何が《存在》から解脱するといふのか? 





――へっへっへっ、《吾》さ。





――はて、《吾》は尚も《吾》にしがみ付くのじゃないかね? ふっふっふっ。





――《パスカルの深淵》を自由落下し続けて光速度を得た《吾》はその刹那、此の世から蒸発するが如く《発散》し、それでも尚《吾》は《吾》にしがみ付くのだが、しかし、《吾》は否が応でも《吾》から引き離される。





――つまり、《吾》といふ《状態》と《反=吾》といふ《状態》が《重ね合は》されると? 





――さうさ。《吾》は、二重、三重、四重、五重等々、多様な、ちぇっ、それを無限と呼べば、その無限相を自在に《重ね合は》せては、その一方でまた自在に《吾》を《吾》から《分離》させる魔術を手にした《吾》は、《吾》にしがみ付きつつも此の世に遍在するといふ矛盾を可能にするその無限なる《もの》を、自家薬籠中の《もの》にする。





――へっ、無限ね? それを無限と呼ぶのはまだ早過ぎやしないかね? 





――では何と? 





――虚無さ。





――虚無? 





――端的に言ふと、《吾》が《吾》であって而も《吾》でない《吾》といふ《もの》を形象出来るかね? 





――ふむ。《吾》であって《吾》でない《吾》か……。ふっ、しかし、《吾》とは本来さういふ《もの》じゃないかね? 





――ふっふっふっ。その通りさ。《吾》とは本来さういふやうに《存在》することを強要される。まあ、それはそれとして、さて、その虚無の《状態》である《吾》の《個時空》が如何なる《もの》か想像出来るかい? 





――《個時空》は普遍的なる《時空》へと昇華してゐる筈さ。





――つまり、此の世全てが《吾》になると? その時《他》の居場所はあるのかね? 





――……《吾》と……《他》は……つまり……《重なり合ふ》のさ。





――それは逃げ口上ではないのかね? 





――へっ、つまり、《吾》と《他》は水と油の関係の如く《重なり合ふ》ことなんぞ夢のまた夢だと? 





――ああ、仮令、《吾》と《他》が《重なり合っ》たとしても、結局、《吾》は飽くまで《吾》のままであって《他》にはなり得ぬ。





――それで構はぬではないか? 





――構わぬ? 





――断念すればいいのさ。「《吾》は何処まで行っても《吾》でしかない」とね。





――それは断念かね? それは我執ではないのかね? 





――我執で構はぬではないか? お前は《吾》に何を求めてゐるのかね? 





――正覚さ。





――正覚者が《吾》であってはいけないのか? 





――いいや、別に《吾》であっても構はぬが、しかし、……。





――しかし、何だね? 





――《吾》が虚妄に過ぎぬと《吾》が《吾》に対して言挙げして欲しいのさ。





――別にそれは正覚者でなくとも可能ではないかね? 





――ああ、その通り、正覚者でなくとも簡単至極なことだ。しかし、《吾》なる《もの》を解脱した正覚者が、「《吾》は虚妄の産物に過ぎぬ」と《吾》に対しては勿論のこと、《吾》を生んだこの悪意に満ちた宇宙に対して言挙げして欲しいのさ。





――それは何故にか? 





――《吾》自体が虚妄であって欲しいからさ。





――《吾》自体の虚妄? 





――最早《吾》が虚妄でなければ、《吾》は一時も《吾》であることを受け入れられぬからさ。





――それは《吾》が《吾》に対して怯えてゐるといふことかね? 





(五の篇終はり)





2009 05/16 06:10:37 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《吾》が《現在》に置いて行かれる事は哀しい事なのかな? 





――ふむ。といふと? 





――唯単に、世界の《個時空》、例へばこの地球の《個時空》と《吾》の《個時空》の帳尻が合はないだけに過ぎぬのじゃないかね、この《吾》が絶えず《現在》に置いて行かれるといふのは? 





――それも一理あるが、しかし、《吾》の《個時空》と《他》の《個時空》の反りが合はないのはむしろ当然至極の事であって何も今更言ふ事でもないだらう。





――其処さ。《存在》が罠に落ちる陥穽が潜んでゐる処は。





――《存在》が罠に落ちる? 





――つまり、《単独者》といふ名の罠さ。





――へっ、キルケゴールかね――。すると《実存》といふ《存在》の在り方といふのはまんまと《存在》の罠に嵌められたその《存在》自体の無惨な成れの果てといふことかね? 





――さうさ。





――さう? 





――《存在》が《単独者》と自らを規定した刹那、《吾》の《個時空》は空転を始める。そして空転する《個時空》といふ《存在》の在り方を始めた《吾》は、絶えず《現実》といふ仮初に過ぎぬ幻影に惑はされる。





――ふっ、《現実》は幻影かね? 





――《単独者》にとっては《現実》は幻影に過ぎぬ。





――何故さう言ひ切れる? 





――《単独者》自体が《吾》の描く幻影に過ぎぬからさ。





――ふっふっふっ、陰中の陽、陽中の陰が《単独者》といふ概念には見出せぬからかね? 





――《単独者》は自ら自閉することを、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々の《外》へ開いた《存在》の穴凹を幻で塞ぐことを《現実》に強要される。





――はて、《現実》もまた《吾》の幻影でなかったのではないかね? 





――さうさ。《単独者》は世界を己の幻影で埋め尽くす。





――へっ、《吾》とは元来さうせずにはゐられぬ《存在》ではないのか! 





――何故さう言ひ切れる? 





――何故って、《現実》が絶えず《吾》の在り方を裏切り続けるからさ。





――はて、《現実》が《吾》を裏切り続けるとは、一体全体何の事かね? 





――つまり、《現実》が《吾》を裏切り続けることで生じるそのずれが《個時空》を回転させ続ける起動力になるのさ。





――《個時空》を回転させる起動力? 





――さう。《現実》が絶えず《吾》を裏切り続けないとすると、《個時空》たる《吾》も回転を停めて倒れてしまふ。





――さうすると、《現実》とは絶えず《吾》を裏切る在り方でしか《吾》には現はれないと? 





――ああ。《吾》には裏切り続ける《現実》無くしては一時も回転が維持出来ぬ《個時空》に過ぎぬと、腹を括るしかない――。





――しかし、ちぇっ、《吾》は元来「裏切らない世界」を知ってしまってゐる。





――母胎か……。つまり、ゆらゆらと自在にたゆたふ羊水の中。





――さうさ。《吾》は、元来、それを敢へて「先験的」と呼べば、世界の裏切りを全く知らずに此の世に出現させられるやうに仕組まれてゐる。





――《存在》は出現以前、つまり、未出現の間は裏切らない世界にたゆたふ。それは例へば、一箇所に数多の《未存在》が《未存在》し続ける事が可能といふ、つまり、《未存在》を《存在》に換言すると、一箇所に数多の《存在》が《存在》可能といふこと、つまり、《個時空》は未だ出現しない世界、それを《無時空》と名付けるが、その《無時空》の世界に自在にたゆたふ。





――へっ、《無時空》と来たか――。《無時空》を暗示させる《もの》が、母といふ《個時空》の《存在》の子宮内の羊水の中でたゆたふ胎児といふことかね? 





――身重の女性こそ《一》=《一》が成り立たないことを身を持って体現してゐる《存在》だ。





――しかし、世界を認識するには《一》=《一》の方が単純で「美しい」。





――だが、詰まる所、人間は量子論的にしか《存在》が語れぬ事に漸く気付いた。





――しかし、量子論には観察者はゐても《主体》は蚊帳の外で《存在》しない。





――つまり、今現在の人間の世界認識の仕方は、世界を解剖可能な《死んだ》世界としか認識出来てゐないといふ不幸にある――といふことか? 





(三十二の篇終はり)





2009 05/11 04:51:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――その自己否定こそ己の《存在》に対する免罪符になるかもしれぬといふ《愚劣》極まりない打算が働いてゐるのじゃないかね? くっくっくっくっ。





――何に対する免罪符といふのかね! 





――《死》に決まってるじゃないか、くっくっくっくっ。





――《死》に対する免罪符? これまた異なことを言ふ。《死》も此の世に《存在》する以上、自己否定からは遁れられやしないぜ。





――《死》が《死》を自己否定したところで、それは結局《死》でしかないんじゃないのかね? 





――否! 《死》が自己否定すれば《生》に行き着かなければならぬのさ。





――それはまた如何して? 





――さうでなければ《生》たる《存在》が浮かばれないからさ。





――別に《生》が浮かばれる必要なんぞ全くないんじゃないかね、くっくっくっくっ。





《そいつ》の言ふ通り、《生》が此の世で浮かばれる必要など、これっぽっちも無いことなど端から解かり切ってゐることなのに、私は《そいつ》のいやらしい嗤ひ顔を見てると如何しても反論せずにはゐられやしなかったのであった。





――否! 《生》は何としても此の世で浮かばれなければならぬ。それは《死》がさう望んでゐるに違ひないからさ。





――それは《生者》だけの論理だらう? 





――《生者》が《生者》の論理を語らなければ何が《生者》の論理を語るといふのか? 





――《死》がちゃんと語ってくれるさ、くっくっくっくっ。





――《死》は《生》あっての《死》だらう? 





――だから如何したといふのか? 





――ああ、成程! そうか! 《生》が《死》を、《死》が《生》を語る矛盾を抱へ込まなければ、《存在》の罠の思ふ壺といふことか――。





――はて、《存在》の罠とは何のことかね? 





――自同律さ。





――自同律? 





――例へば《吾》=《吾》が即ち《存在》の罠さ。





――くっくっくっくっ。漸く矛盾を孕んでゐない論理は論理の端くれにも置けぬといふことが解かって来たやうだな。





――しかし、《吾》は《吾》=《吾》でありたい。これは如何ともし難いのさ。





――それは当然さ。《存在》しちまった以上、《吾》は《吾》でありたいのは当然のことさ。しかし、それが大きな罠であるのもまた事実だ。





――事実? 





――ああ、事実だ。





――論より証拠だ。何処が如何事実なのか答へ給へ。





――数学が《存在》する以上、《吾》が《吾》たり得たい衝動は如何ともし難い。





――数学ね。





――数学では条件次第で自同律なんぞは如何解決しようが自由だ。





――しかし、大概の《もの》は《一》=《一》の世界が現実だと看做してゐるぜ。





――其処さ。《存在》の罠が潜んでゐるのは。





――一つ確かめておくが、お前は数学を承認するかね? 





――ふむ。数学の承認か……。実のところは迷はず「承認する」と言ひ切りたいのだが、さて、如何したものだらうか――。ふむ。一先づかう言っておかう。「世界の一位相として数学を承認する」と。





――世界の一位相? 





――ああ。世界認識の方法として数学もあり得るといふことさ。





――しかし、数学が全てではないと? 





――当然だらう。数学が支配する世界なんぞ悍(おぞ)ましくて一時もゐられやしないぜ、ふっ。





――しかし、自同律を語るには数学は便利だぜ。





――といふと? 





――例へば《一》=【《一》のx(x0123……)】が成り立つ。





――だから? 





――《一》の零乗は《一》に帰するといふ、一見すると奇妙に見える自同律が成り立つのさ。





――さて、それが如何したといふのか? 





――《一》の零乗だぜ。《死》の匂ひがすると思はないかい? 





(五の篇終はり)





2009 05/09 05:01:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それは詰まる所、此の世に未だ《自存》した《存在》が出現してゐない《存在》の未熟さ、若しくは未完成さを指し示すのみの一つの徴表に過ぎぬ。





――つまり、世界から完全に独立した《存在》は未だ出現してゐないと? 





――その言葉を何回聞くのやら……。まあ、良い。多分、《存在》に開いた穴凹は此の世の位相を直に反映してゐる筈さ。





――つまり、《存在》は此の世を映す鏡だと? 





――違ふかね? 





――それは、断言すると、世界と《存在》は持ちつ持たれつの関係でしか此の世に出現出来ぬといふことかね? 





――ああ、さうさ。





――それじゃ、《新体》は泡沫の夢に過ぎぬといふ訳かね? 





――否、《他》が此の世に出現した以上、《新体》が出現する、つまり、この宇宙から完全に《自存》した《他》の宇宙が《新体》として必ず《外》に《存在》する筈さ。





――《外》? 





――《存在》に穴凹が開いてゐることから類推すると、《内》の中に《外》がある、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様の、陰中の陽、陽中の陰、といふ《存在》の在り方が、《存在》の姿勢として折り目正しき在り方なのかもしれぬ。しかし、仮初にも《存在》は《内》と《外》といふやうに《存在》の在り方を単純化して物事を考へる癖が付いて仕舞ってゐるので、《外》と言ったまでさ。





――はっはっ。つまり、結局は自同律の問題じゃないか――。はっきり言ひ切ってしまへばいいじゃないか、「自同律は嘘っぱちだ」と! 





――……《吾》=《吾》は《吾》が《吾》と名指した《もの》の幻想に過ぎぬのは、この人間の身体一つとっても口から肛門まで《外》が《内》にあることからも自明極まりない筈だが、しかし、《吾》は如何しても《吾》=《吾》でありたい。それは何故か? 





――《吾》=《吾》でありたいだと? むしろ逆じゃないかね。《吾》は《吾》≠《吾》でありたいと? 





――さう看做したいならば、さう看做せばいいのさ。《吾》が《異形の吾》を抱へ込んだ《他=吾》である以上、《吾》が《吾》=《吾》だらうが、《吾》≠《吾》だらうが、結局は同じ事に過ぎないのだから。





――《吾》=《吾》と《吾》≠《吾》が同じだと? 





――ああ。《存在》は論理的に《吾》=《吾》であって而も《吾》≠《吾》であるといふ、ちぇっ、単純化するとその両面を持った《存在》の二重性を合理であるとしなければならぬ宿命にあるのさ。





――それは《一》=《一》であって《一》≠《一》である、論理的に「美しい」公理を打ち立てられない内は、如何あっても《吾》は自同律の底無しの穴に落下し続けるといふことかね? 





――さう、さういふことだ。漸くにして人類は量子論にまで至れたのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である世界認識の仕方への飛躍は後一寸の処じゃないかね? 





――へっ、人類は既に大昔に陰陽魚太極図の考へに至っているのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である思考法はお手の物の筈なのだが……。





――へっ、それ以前に人間は音声といふ波と画数を持った量子的なる文字で出来た言の葉を使ってゐるのだから、人間が言葉で物事を考へるのであれば《自然》に《一》=《一》且《一》≠《一》の思考法で世界を認識してゐるに違ひないのだ。





――しかし、実際はさうなってゐない。それは何故かね? 





――《一》=《一》に見蕩れてしまって其処から抜け出せなくなってしまった……。





――だから、それは何故かね? 





――ぷふぃ。詰まる所、時間を止めたいからさ。





――はて、それは如何いふ意味かね? 





――つまり、《一》=《一》、換言すれば《吾》=《吾》が永劫に成り立つ時が止まった架空の世界に戯れたかったからさ。





――だから、それは何故かね? 





――《存在》は本質的に《現実》を嫌悪する《もの》だからさ。





――《現実》を嫌悪する? それはまた如何して? 





――ちぇっ、《吾》が《吾》でなくなってしまふからに決まってをらうが! 





――《吾》が《吾》でなくなる? つまり、《吾》≠《吾》が《現実》の実相といふことだらう? 





――さうさ。時が移らふ《現実》において、《吾》は絶えず《吾》でない《吾》へと移らふことを強要される。





――それは《吾》=《他=吾》故にだらう? 





――さうさ。《現実》において《吾》は絶えず《現実》に置いて行かれる、つまり、《現在》に乗り遅れる。それでゐて《吾》は絶えず《現在》であることを強要される。哀しき事だがね……。





(三十一の篇終はり)





2009 05/04 04:58:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》じゃないのかね? 





――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木っ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。





――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へっ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持ってゐるからなのか? 





――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。





――へっ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 





――だって《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふことに熱中出来るんだぜ。





――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げっぷ》をするか――。へっ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。





――それは如何してか? 





――元々《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちぇっ。





――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。





――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 





――ちぇっ、何でもお見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であった試しがない。





――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。





――くきぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんんんん〜〜。





 一時も休むことなくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであった。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸することを余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとっては未知に違ひない世界で、膨脹することを宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであった。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違いない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであった。





――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 





――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なってゐるからだらう? 





――己が己に重なり損なふといふことは、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられないといふことに外ならないといふことだらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 





――自己増殖したい為だらう? 





――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 





――ふっ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。





――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 





――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。





――あるらむ? 





――へっ、さうさ、あるらむだ。





――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 





――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふことだ。





――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 





――時空間が自己増殖するその切羽詰まった理由は何だと思ふ? 





――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。





――妄想の自己増殖と来たか――。





(五 終はり)





2009 05/02 05:09:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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