思索に耽る苦行の軌跡

――《吾》が《現在》に置いて行かれる事は哀しい事なのかな? 





――ふむ。といふと? 





――唯単に、世界の《個時空》、例へばこの地球の《個時空》と《吾》の《個時空》の帳尻が合はないだけに過ぎぬのじゃないかね、この《吾》が絶えず《現在》に置いて行かれるといふのは? 





――それも一理あるが、しかし、《吾》の《個時空》と《他》の《個時空》の反りが合はないのはむしろ当然至極の事であって何も今更言ふ事でもないだらう。





――其処さ。《存在》が罠に落ちる陥穽が潜んでゐる処は。





――《存在》が罠に落ちる? 





――つまり、《単独者》といふ名の罠さ。





――へっ、キルケゴールかね――。すると《実存》といふ《存在》の在り方といふのはまんまと《存在》の罠に嵌められたその《存在》自体の無惨な成れの果てといふことかね? 





――さうさ。





――さう? 





――《存在》が《単独者》と自らを規定した刹那、《吾》の《個時空》は空転を始める。そして空転する《個時空》といふ《存在》の在り方を始めた《吾》は、絶えず《現実》といふ仮初に過ぎぬ幻影に惑はされる。





――ふっ、《現実》は幻影かね? 





――《単独者》にとっては《現実》は幻影に過ぎぬ。





――何故さう言ひ切れる? 





――《単独者》自体が《吾》の描く幻影に過ぎぬからさ。





――ふっふっふっ、陰中の陽、陽中の陰が《単独者》といふ概念には見出せぬからかね? 





――《単独者》は自ら自閉することを、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々の《外》へ開いた《存在》の穴凹を幻で塞ぐことを《現実》に強要される。





――はて、《現実》もまた《吾》の幻影でなかったのではないかね? 





――さうさ。《単独者》は世界を己の幻影で埋め尽くす。





――へっ、《吾》とは元来さうせずにはゐられぬ《存在》ではないのか! 





――何故さう言ひ切れる? 





――何故って、《現実》が絶えず《吾》の在り方を裏切り続けるからさ。





――はて、《現実》が《吾》を裏切り続けるとは、一体全体何の事かね? 





――つまり、《現実》が《吾》を裏切り続けることで生じるそのずれが《個時空》を回転させ続ける起動力になるのさ。





――《個時空》を回転させる起動力? 





――さう。《現実》が絶えず《吾》を裏切り続けないとすると、《個時空》たる《吾》も回転を停めて倒れてしまふ。





――さうすると、《現実》とは絶えず《吾》を裏切る在り方でしか《吾》には現はれないと? 





――ああ。《吾》には裏切り続ける《現実》無くしては一時も回転が維持出来ぬ《個時空》に過ぎぬと、腹を括るしかない――。





――しかし、ちぇっ、《吾》は元来「裏切らない世界」を知ってしまってゐる。





――母胎か……。つまり、ゆらゆらと自在にたゆたふ羊水の中。





――さうさ。《吾》は、元来、それを敢へて「先験的」と呼べば、世界の裏切りを全く知らずに此の世に出現させられるやうに仕組まれてゐる。





――《存在》は出現以前、つまり、未出現の間は裏切らない世界にたゆたふ。それは例へば、一箇所に数多の《未存在》が《未存在》し続ける事が可能といふ、つまり、《未存在》を《存在》に換言すると、一箇所に数多の《存在》が《存在》可能といふこと、つまり、《個時空》は未だ出現しない世界、それを《無時空》と名付けるが、その《無時空》の世界に自在にたゆたふ。





――へっ、《無時空》と来たか――。《無時空》を暗示させる《もの》が、母といふ《個時空》の《存在》の子宮内の羊水の中でたゆたふ胎児といふことかね? 





――身重の女性こそ《一》=《一》が成り立たないことを身を持って体現してゐる《存在》だ。





――しかし、世界を認識するには《一》=《一》の方が単純で「美しい」。





――だが、詰まる所、人間は量子論的にしか《存在》が語れぬ事に漸く気付いた。





――しかし、量子論には観察者はゐても《主体》は蚊帳の外で《存在》しない。





――つまり、今現在の人間の世界認識の仕方は、世界を解剖可能な《死んだ》世界としか認識出来てゐないといふ不幸にある――といふことか? 





(三十二の篇終はり)





2009 05/11 04:51:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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