思索に耽る苦行の軌跡

――その自己否定こそ己の《存在》に対する免罪符になるかもしれぬといふ《愚劣》極まりない打算が働いてゐるのじゃないかね? くっくっくっくっ。





――何に対する免罪符といふのかね! 





――《死》に決まってるじゃないか、くっくっくっくっ。





――《死》に対する免罪符? これまた異なことを言ふ。《死》も此の世に《存在》する以上、自己否定からは遁れられやしないぜ。





――《死》が《死》を自己否定したところで、それは結局《死》でしかないんじゃないのかね? 





――否! 《死》が自己否定すれば《生》に行き着かなければならぬのさ。





――それはまた如何して? 





――さうでなければ《生》たる《存在》が浮かばれないからさ。





――別に《生》が浮かばれる必要なんぞ全くないんじゃないかね、くっくっくっくっ。





《そいつ》の言ふ通り、《生》が此の世で浮かばれる必要など、これっぽっちも無いことなど端から解かり切ってゐることなのに、私は《そいつ》のいやらしい嗤ひ顔を見てると如何しても反論せずにはゐられやしなかったのであった。





――否! 《生》は何としても此の世で浮かばれなければならぬ。それは《死》がさう望んでゐるに違ひないからさ。





――それは《生者》だけの論理だらう? 





――《生者》が《生者》の論理を語らなければ何が《生者》の論理を語るといふのか? 





――《死》がちゃんと語ってくれるさ、くっくっくっくっ。





――《死》は《生》あっての《死》だらう? 





――だから如何したといふのか? 





――ああ、成程! そうか! 《生》が《死》を、《死》が《生》を語る矛盾を抱へ込まなければ、《存在》の罠の思ふ壺といふことか――。





――はて、《存在》の罠とは何のことかね? 





――自同律さ。





――自同律? 





――例へば《吾》=《吾》が即ち《存在》の罠さ。





――くっくっくっくっ。漸く矛盾を孕んでゐない論理は論理の端くれにも置けぬといふことが解かって来たやうだな。





――しかし、《吾》は《吾》=《吾》でありたい。これは如何ともし難いのさ。





――それは当然さ。《存在》しちまった以上、《吾》は《吾》でありたいのは当然のことさ。しかし、それが大きな罠であるのもまた事実だ。





――事実? 





――ああ、事実だ。





――論より証拠だ。何処が如何事実なのか答へ給へ。





――数学が《存在》する以上、《吾》が《吾》たり得たい衝動は如何ともし難い。





――数学ね。





――数学では条件次第で自同律なんぞは如何解決しようが自由だ。





――しかし、大概の《もの》は《一》=《一》の世界が現実だと看做してゐるぜ。





――其処さ。《存在》の罠が潜んでゐるのは。





――一つ確かめておくが、お前は数学を承認するかね? 





――ふむ。数学の承認か……。実のところは迷はず「承認する」と言ひ切りたいのだが、さて、如何したものだらうか――。ふむ。一先づかう言っておかう。「世界の一位相として数学を承認する」と。





――世界の一位相? 





――ああ。世界認識の方法として数学もあり得るといふことさ。





――しかし、数学が全てではないと? 





――当然だらう。数学が支配する世界なんぞ悍(おぞ)ましくて一時もゐられやしないぜ、ふっ。





――しかし、自同律を語るには数学は便利だぜ。





――といふと? 





――例へば《一》=【《一》のx(x0123……)】が成り立つ。





――だから? 





――《一》の零乗は《一》に帰するといふ、一見すると奇妙に見える自同律が成り立つのさ。





――さて、それが如何したといふのか? 





――《一》の零乗だぜ。《死》の匂ひがすると思はないかい? 





(五の篇終はり)





2009 05/09 05:01:28 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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