思索に耽る苦行の軌跡

2010年 05月 の記事 (3件)

――パスカル『パンセ』(英訳より)





205





When I consider the short duration of my life, swallowed up in the eternity before and after, the little space which I fill and even can see, engulfed in the infinite immensity of spaces of which I am ignorant and which know me not, I am frightened and am astonished at being here rather than there; for there is no reason why here rather than there, why now rather than then. Who has put me here? By whose order and direction have this place and time been allotted to me? Memoria hospitis unius diei praetereuntis.









拙訳





205





「私の一生の短い期間が、その前と後に続く永劫に呑み込まれ、私が占有し、そして見る事さへ可能なこの小空間が、私には無知なもので、そして私に未知である空間の永劫の巨大さに呑み込まれてゐるのを思ふ時、私は其処よりはむしろ此処にゐる事に戦き驚く、何故なら私が其処ではなく此処にゐるべき理由などなく、何故にその時ではなく今なのかといふ理由すら存在しないからだ。誰が吾を此処に置いた? 誰の命令そして指図でこの時空間が吾に与へられしか? 〈ただ一日留まれる客の思いで〉(松浪信三郎訳参照)」









206.





The eternal silence of these infinite spaces frightens me.









拙訳





206





「その永劫無際限の空間の永遠の沈黙が吾を戦かす」









207





How many kingdoms know us not!









拙訳





「何と多くの数の王国を吾等は知らぬのだ!」









208





Why is my knowledge limited? Why my stature? Why my life to one hundred years rather than to a thousand? What reason has nature had for giving me such, and for choosing this number rather than another in the infinity of those from which there is no more reason to choose one than another, trying nothing else?









拙訳





208





「何故吾の認識には限度があるのか? 何故吾の身長に限度があるのか? 何故吾の一生は千年よりもむしろ百年なのか? 如何なる理由でそのやうに吾に与へられし自然の摂理があるのか? そして別のものでなくこれを選ぶのに何の理由もないといふことからして、それら無限の中にある別の数字の中からこの数字が選ばれし事に関して、他の選択肢を試みたところで他の選択肢はなしといふ事か?」









――ふん。パスカルの『パンセ』の英訳が如何したと言ふのかね? 





――いや、何、此処に既に無限に対するどう仕様もない怯えが書き記されてゐると思ってね。





――つまり、有限なる《もの》は否が応でも無限と対峙するそのどう仕様もない恐怖の在り処こそ虚数iの正体だと俺に同意を求めてゐるのかね? 





――へっ、虚数iの正体だと? 





――つまり、《存在》とは、その《存在自体》に怯える《もの》であるといふ命題が「先験的」に《存在》してゐるんぢゃないかと思ってね。





――それは、つまり、此の世に《存在》する森羅万象は、「先験的」に無と無限と、そし虚数iの《存在》を認識してゐるとしふ事かね? 





――さう看做しても構はぬのぢゃないかね? 





――つまり、「先験的」に認識してゐなければ《存在》は例へば無限に対峙する筈もなく、また、無限に否応なく対峙し、そして怯える筈もないと? 





――さう。「先験的」に認識してゐなければ、そもそも無といふ概念も、無限といふ概念も、虚数の《存在》も知る由もなかったに違ひない。





――それは、つまり、無と無限と虚数は何かしらの関連がある《もの》で、そして《存在》しちまった《もの》の思ひも及ばぬ処でもしかすると、これは皮肉に違ひない筈だが、その関連が《存在》する事の暗示かね、「先験的」とは? 





―つまり、





213





Between us and heaven or hell there is only life, which is the frailest thing in the world.









拙訳





213





「吾らと天国若しくは地獄の間に、此の世で最も羸弱であるのみの生命が存在する。」









におけるbetweenといふ此の世の森羅万象の有様故の、つまり、必然といふ事を意味してゐるのかね? 





――さうさ。必然だ。必然故に此の世に《存在》する森羅万象はbetweenといふ《存在》の仕方に我慢がならぬのだ。





――へっ、それでも《存在》はbetweenでしかあり得ぬ。





――多分、パスカルは《存在》の有様がbetweenでしかあり得ない事を自覚しちまった時、自嘲したに違ひない。





――それはまた何故? 





――《存在》の振幅が無から無限まであるといふ恐怖からさ。





――それは果たして恐怖なのかね? 





――ああ。それは底知れぬ恐怖であったに違ひない。それ故、パスカルは此の世にabyss、つまり、《深淵》を見ちまった。そして、その《深淵》が虚数の《存在》をも暗示した。





――はて、それは何故かね? 





――虚数ii乗といふ《存在》が此の世に実在する事を暗示してしまったからさ。





――話を先に進める前に一つ尋ねるが、虚数ii乗とは一言で言ふと一体全体何の事かね? 





――約めて言へば、虚数ii乗が実数であるといふ事は、此の世、つまり、世界は何としても実在する《もの》である事を《吾》に強要する《もの》でしかないといふ事さ。





(六十九の篇終はり)







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2010 05/31 05:42:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうすると《吾》とはつくづく損な役回りでしかない《存在》といふ事だね? 





――ふっふっふっ。《吾》が損な役回り? これは異な事を。





――ちぇっ、全く、俺をおちょくってるな。何故、異な事なのかね? 





――だって、此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ、此の《存在》が畢竟《吾》以外の何《もの》でもありゃしない事を、もううんざりする程に自覚し、また、自覚させられてゐるからさ。





――何に自覚されてゐるといふのかね? 





――へっ、《他》さ。





――《他》? 





――さう、此の世の涯の《解》としての《他》だ。





――つまり、《吾》とは此の世の涯、つまり、世界といふ《もの》の有様の《解》をその相貌に具現化してゐる此の世の涯たる《他》に取り囲まれて《存在》する事を余儀なくされてゐる孤独な《存在》といふ事かね? 





――勿論! 





――勿論? 





――さう。勿論さ。此の世に《吾》として《存在》させられてしまった《もの》は、それが何であれ此の世の涯を絶えず目の当たりにしつつも《吾》の底無しの孤独をくっと噛み締めながら、また、その生存を脅かす《他》を、へっ、或る時はその《他》を殺して、己の食物としちまふのが、此の《吾》が置かれてゐる矛盾の源泉ぢゃないかね? 





――なあ、此の世は畢竟矛盾の坩堝かね? 





――さう、《吾》が《存在》する以上、矛盾の坩堝さ。そして、此の世は矛盾の坩堝でありながら、《神》以外にその全容を知る事が不可能な《秩序》若しくは《摂理》が厳然と《存在》する。さうぢゃなきゃ、《吾》なぞ一時も生存不可能と来てるから、ちぇっ、《吾》の《存在》とは厄介極まりないのさ。





――つまり、それは《他》といふ《存在》が厄介極まりないといふ事と同じ事だらう? 





――さうさ。《存在》がそもそも厄介極まりない。





――しかし、或る物体が生成し消滅するといふ事は、何か峻厳な、つまり、その《他》の《存在》の《誕生》と《死》に立ち会ふ《吾》なる《存在》は、《他》が《吾》の与り知らぬ理(ことわり)に従って生滅する事態に対して如何あっても厳粛に為らざるを得ぬではないかね? 





――当然だらう。《存在》が生滅するんだぜ。《吾》はその事実に謙虚になる外なく、そして、それはそれは厳粛極まりない事なのは当然だらう。





――何故に厳粛だと? 





――或る《存在》が生滅しても《世界》は眦一つ動かす事なく厳然と《存在》し続けるからさ。これ迄の哲学等の思惟は《生者》の論理が絶対的真理であるかの如く語られてきた節があるが、《存在》は《死》をもきちんと消化せずば、へっ、絶対的な真理なぞ、此の世に元来《存在》しないのぢゃないかね? 





――しかし、《生者》は《死》に思ひを馳せる事しか出来ないではないか! 





――はて、実際のところ、つまり、《生者》は《死》に思ひを馳せるだけしか出来ぬかね? 《生者》は《生》故に既に其処に《死》を内包してゐるのとは違ふのね? 





――む。それは一体全体何の事かね? 





――つまり、幽霊が此の世に厳然と《存在》してゐるとすると? 





――へっ、またぞろ幽霊の《存在》かね? 





――さう、幽霊の《存在》だ。例へば《生者》は、《生》の論理に徹頭徹尾、何の文句も言はずに従ってゐると思ふかい? つまり、換言すれば、《生者》は最早《死》してゐる数多の先達達も含めた《死》の上にしか《生》の砂上の楼閣は築けないのと違ふかね? 





――それぢゃ、《生》と《死》が表裏一体といふのは真っ赤な嘘で、《生》と《死》は障子で部屋が仕切られてゐるのかの如く、つまり、地続きで、それは畢竟《生》は絶えず《死》と対峙する事で辛うじて《生》は《生》たり得てゐるといふ何とも哀れな事態に為るが、ちぇっ、それが、仮令真であってもだ、《生者》は《生者》のみで群れてゐたいのもまた真ではいかね? 





――ふっふっふっ。その《生者》の群れの中に不意に《死者》の幽霊が現はれてゐるとすると? 





――それは言わずもがなだらう。つまり、不気味さ。





――へっへっへっ、土台、此の世はそもそも不気味ぢゃないかね? 





――すると《生者》の群れには《生者》が気付かぬだけで、必ず《死者》である幽霊が厳然と《存在》すると? 





――当然だらう? 





――当然? 





――さう、当然だ。元来《生》と《死》は親和的な《もの》であって、どちらも此の世ではありふれた《もの》だった筈だぜ。それが、何時しか《生者》の論理ばかりが重要視される事になっちまった。だがな、その《生者》が最も恐れるのが《死》と来りゃ、もうそれは笑い話以外の何ものでもないぢゃないか。





――つまり、現代では必ず《死》の復権が訪れると? 





――当然だらう。これからは誕生する人間より死んで行く人間の数が多くなるんだぜ。すると、《生者》は如何あっても《死》を直視する外ない筈さ。





(十の篇終はり)







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2010 05/17 06:21:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも《存在》は進歩する《もの》として想定可能な何かだと、何の前提もなしに看做しちまって構はないと、お前は断言出来るかね? 





――進歩? ふむ。





――《存在》とはそもそも進歩する《もの》なのか……? 





――ふむ。多分だが、己が生存しなければならぬ《環境》に強要される形で、《存在》は、例へばそれを進化と名指せば、己が生存せねばならぬ《環境》に順応する外に生存の道が残されてゐないと看做しちまって構はぬ筈だが、しかし、それは詰まる所、《世界》に《存在》は絶えず試されるのみの、ちぇっ、つまり、実験用のモルモットとして《存在》するしか此の世に《存在》を許されぬといふ事になっちまふが……。





――だから? 





――さうするとだ、《存在》は投企されたその《世界》に何としても順応するべく、へっ、此処で虚数iのその不可解極まりない相貌が不意にひょいと顔を此の世に現はす筈なのだが、例へば《存在》に蓋然性といふ曖昧模糊とした形の、つまり、それは確率論的に表記すれば如何あっても虚数iの《存在》がなければならぬ事態に、へっ、この《存在》といふ《もの》全て吃驚するのだがね、必ず此の世に虚数が《存在》してゐなければならぬ筈の、その《存在》といふそれ自体もまた虚数iが必ず此の世に《存在》することでしか、その《存在》自体の根拠が担保されぬ《存在》といふ面妖なる《もの》として、へっ、詰まる所、《存在》は漸くにして此の世での生存を許される、ちぇっ。





――何に許されると言ふのかね? 





――へっ、《神霊》さ。





――《神霊》? つまり、それは、《霊》、即ち虚数iのi乗が実数として此の世に出現するその出現の仕方において、此の世に確実に実在しなければならぬ《存在》の宿命をして《神霊》と言ってゐるのかな? 





――つまり、《霊》もまた《神》なる《存在》を渇望して已まない。





――えっ? 《霊》もまた《神》を渇望する? それは一体全体何の事かね? 





――字義通り、虚数iをi乗することで、此の世に実数として現はれてしまふ虚数の有様が、へっへっへっ、此の世に実在する《もの》全て、つまり、森羅万象の有様に外ならず、そしてそれらの《存在》は、また、《神》を渇望して已まないのさ。





――それはオイラーの公式が《神》の振舞ひの一例だといふ事かね? 





――公式とか公理とか定理とか法則とか呼ばれるものは全て《神》の《摂理》と言ひ換へ可能な筈だが、オイラーの公式を《神》の振舞ひの一例と看做したければさう看做せばいいのさ。しかし、これだけは忘れちゃならないぜ。つまり、オイラーの公式がなければ、今や、《世界認識》は全く不可能な時代に既にとっくの昔に突入しちまってゐるといふ事をな。つまり、虚数なしの世界は全て虚妄だといふ事だ。





――つまり、事態は《存在》が虚数を具象化出来ようが出来まいがそんな事はお構ひなしに《世界》について何か一言でも語たったとして、しかしながら其処に虚数の影すら見出せない論理は、つまり、そんな論理は自己満足しか齎さない夢心地の酔狂に等しい虚妄の虚妄の虚妄の《世界認識》でしかないといふ事であって、さうとは言へ、周りをちらりとでも見渡してみれば今もってニュートン力学から一歩たりとも踏み出せない臆病な臆病な臆病な《主体》がぽつねんと独り此の世で足掻いてゐる、へっへっへっ、それはつまりは相対論的な若しくは量子論的な若しくは余剰次元的な若しくは超弦理論的な《世界》の《認識》の仕方に全く付いて行けず、つまり、それは光恐怖症とでも言ったらいいのか、質量ある《もの》は如何あっても光速度には至り得ぬ此の世の宿命を受け入れられずに、また、《世界》に対峙することすら出来ず仕舞ひの《主体》のてんやわんやの喜劇ばかりで満たされた、それは《世界》がそんな《主体》を憐れみながらも「わっはっはっ」と嘲弄しながら嗤ふ、ちぇっ、《主体》はその事に余りにも無頓着なのだが、しかしだ、《主体》はそろそろ猛省をして此の世といふ《世界》を「あっ!」と驚かせるやうな曲芸をして見せなければ、《主体》が此の世に《存在》しちまった意味など全くないのぢゃないかね? 





――さうだね。表象といふ言葉一つ取っても、其処には虚数の《存在》が深く関はってしまってゐるのだらう? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》を外在化させる行為は、正に虚数iのi乗を無意識理とは言へ具現化してゐることに過ぎぬといふ事かな? 





――さて、それはどうかね? 一つ尋ねるが、お前が言ふ表象とは、一体全体何の事かね? 





――いや、何、つまり、思惟全般の事さ。





――へっ、すると、デカルトのcogito,ergo sumが此の世に発せられた時点で、其処には此の世に虚数が必ず《存在》せねばならぬ萌芽が隠されてゐたといふ事であって、ちぇっ、思惟の振舞ひが虚数なる《もの》の振舞ひをちらっとでも暗示しちまってゐるとするならばだ、この《他者》の頭蓋内の闇たる五蘊場で表象された《もの》が尽きる事無く外在化されるこの現代社会の街衢といふ時空間若しくは人工世界は、へっ、虚数iのi乗が導き出さずにはをれぬ結語ぢゃないのかね? 更に言へば、自然とは《神》の頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》の外在化、即ち、これまた虚数iのi乗の一つの厳然とした在り方に過ぎぬのぢゃないかね? 





――へっ、つまり、虚数iのi乗が実数になる事が《存在》を《存在》たらしめる、即ち《物自体》がその馬脚を表はしてゐる証左に過ぎず、ちぇっ、しかし、それが徹頭徹尾不快と来るから、お前は《他》に此の世の涯の《解》の如き《もの》、つまり、それを《物自体》と言っても差し支へない筈だか、その《解》を《他》に見出さずにはゐられぬ悪癖に絶えず悩まされる事になっちまったといふ事かね? 





――だとすると、どうだと言ふのかね? 





――別に、何にも。





――ふっふっふっ。





(六十八の篇終はり)







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2010 05/10 10:51:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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