――自他無境の位相に戯れ夢中遊行する《個時空》たる《主体》は、此の世の縺れを解く《解》として別の《個時空》たる《他》を見出しつつも、《パスカルの深淵》に《自由落下》せざるを得ぬ宿命を負ってゐるとすると、さて、《個時空》たる《主体》は《異形の吾》共と共振を起こすとはいへ、その時底無しの孤独を味はひ尽くしてゐるに違ひない筈だが……。
――当然だらう。この宇宙の涯たる《他者》を見出してしまったのだからな。それも彼方此方に宇宙の涯が存在する。さて、この時《主体》は尚更己の孤独を噛み締めなければならないのだが、大概の《主体》はその孤独から絶えず遁走し続け、自らを自らの手で《個時空》の涯、つまり《水際》へと己を追ひ込み、それでゐて己から逃げ果せたとしたり顔で嗤ってゐるが、その実、《個時空》たる《主体》は《「個」時空》が《「孤」時空》へと相転移してゐることに気付きやしない。だからキルケゴール曰く「死に至る病」といふものに罹り絶望するのさ、己自身に対してな。
――其処で己が《自由落下》してゐることに思ひ至る?
――否、大概は《自由落下》してゐることすら気付かない。
――それじゃ、《主体》は何にも知らずに犬死してゐるといふことか?
――ああ、さうさ。何をもって犬死と言ふかにもそれはよるがね。しかし、《主体》は己が《パスカルの深淵》に《自由落下》して地獄を彷徨ひ歩き、さうして詰まる所、己に関しては何にも知らずに犬死してその一生を終へる。だが、さうするとだ、犬死する事は幸せな事だぜ。
――幸せ?
――さうさ。《自由落下》してゐる事を知らずにゐられるのだから、これ以上の幸せが何処にある?
――それじゃあ、自他無境の境地は絵に描いた餅に過ぎないじゃないか!
――へっ、それで構はないじゃないか。《主体》は《「孤」時空》の中で自存するのだもの、これ以上の幸せはない!
――へっ、この皮肉屋めが――。
――矛盾を孕んでゐない論理は嘘っぱちだといったらう。つまり、自他無境と《「孤」時空》は紙一重の違ひに過ぎないのさ。
――どちらにせよ、底無しの《パスカルの深淵》に《自由落下》してゐることに変はりはしない。それじゃあ、《自由落下》を己の《落下》と認識出来てしまった《もの》は如何なる?
――生き地獄に堕ちるだけさ。
――へっへっ、生き地獄ね――。
――認識してしまった《もの》は、《個時空》たる《主体》では背負ひ切れぬ懊悩を背負はなければならない。
――《主体》がそれに堪へ得ると?
――いや、別に堪へる必要はこれっぽっちもない。
――それじゃあ、地獄に堕ちるのみと?
――へっへっへっ、地獄も住めば都さ。地獄で足掻くから苦しいのさ。地獄に身を任せてしまへばこんな楽しい処はないぜ、へっ。
――楽しいと?
――ああ、地獄程楽しい処はないぜ。
――何故楽しいと?
――断念できるからさ。何事に対しても地獄では断念する外ない!
――断念? それは《主体》であることを断念することかね?
――さうさ。吾は《個時空》たる《主体》であることを自ら断念する。さうしなければ地獄でなんぞ一時も生き残れる訳がない! 何故って、地獄では絶えず己は己であることを強要されるのだからな。
――それじゃ蟻地獄ならぬ《吾地獄》から一歩も抜け出せない、つまり、吾に自閉した存在に過ぎないじゃないか!
――否、《パスカルの深淵》に《自由落下》すると、さて、《個時空》たる《主体》は加速度的にその落下速度を増すが、それが何を意味するか解かるね?
――光速か……。
――へっ、つまり、《個時空》たる《主体》は或る臨界を超えると相転移を成し遂げるのさ。
――その時、《無私》の境地が拓かれる?
――さてね。
(三の篇終はり)
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