思索に耽る苦行の軌跡

2009年 10月 の記事 (9件)

-ほほう。すると、《吾》の《存在》と世界の関係は如何様になったのかね? 





-相変はらず《吾》無くして世界無しの見方が根強いが、しかし、俺は《吾》無くしても世界は只管《存在》といふ立場だがね。





-するとぢゃ、世界は絶えず《吾》の《存在》を待ち望んでゐるといふ事かな? 





-或るひはさうかもしれぬ。





-さうかもしれぬね? ふほっほっほっほっ。





と、私の瞼裡の薄っぺらな闇にゐ続けるその夢魔は相好を崩して、さもありなむといった哄笑を上げるのであった。





――どうやらわしに対する憤怒は収まったやうだな。





――そんな事なぞ如何でもよい! それより、するとだ、世界は《吾》の《存在》を只管待ち望んでゐるとすると、世界に永劫に《吾》が出現しなければ、例へば世界は自滅するかね? 





――ふほっほっほっほっほっ。世界もまた《存在》する以上、己の自同律の陥穽から遁れられぬのぢゃて。





――ならば、世界は世界自体が《存在》することで既に世界自体の事を《吾》と認識してゐると? 





――違ふとでも? 





――へっ、汎神論の如く何であれそれが《存在》しちまへば、其処に自意識が《自然》と宿るとでも思ってゐるのかね? 





――ああ、さうぢゃ。





――さう? へっ、何を寝惚けた事を! ふはっはっはっはっはっ。すると、意識は《存在》が《存在》すると必ず宿るといふ事かね? 





――さうだとしたならばぢゃ、お前はお前自身の《存在》と世界に《存在》する森羅万象の《存在》の関係を如何する? 





――別に如何仕様もないがね。《吾》と世界の関係は、其処に意識が介在したとしても、《吾》は己と世界の事を認識した「現存在」として、つまり、世界=内=存在として此の世に屹立し、世界は世界でその《存在》が何であれ此の世に出現しちまへば、世界は何の文句も言はずにその《存在》を受け入れる筈だ。





――筈だ? ふほっほっほっほっほっ。お前は未だに己の《存在》に対して確たる確信が持てぬままかね? 





――ああ、さうさ。己に対しても世界に対してもその《存在》に確信が持てぬのさ。





――それでもお前は此の世に《存在》してしまってゐる。それがそもそも気に食はぬのぢゃらう? 





――だから如何したといふのか! 





――それぢゃよ、それぢゃ、ふほっほっほっほっほっ。牙を剥きな、己に対しても世界に対してもぢゃ。





――牙を剥く? 





――さうぢゃ。牙を剥くのぢゃ。





――しかし、牙を剥いたところで、その牙を剥いた相手は何食はぬ顔で《吾》の《存在》を無視し続けるぜ。





――当然ぢゃ。





――当然? 





――当たり前ぢゃて。これまで此の世に《存在》した《もの》が牙を剥かなかったとでも思ってゐるのかね? 





――すると、既に死滅した数多の《もの》達もやはり己と世界に対して牙を剥き、未だ此の世に出現せざる未知なる何かに変容すべく、牙を剥きながら《吾》といふ《存在》に忍従してゐたと? 





――当然ぢゃ。此の世に《存在》した《もの》はそれが何であれ、絶えず未だ此の世に出現せざる何かに化けるべく、己に対しても世界若しくは宇宙に対しても牙を剥いて己の《存在》をじっと我慢する外ないのぢゃ。





――この宇宙自体も例外ではないと? 





――ふほっほっほっほっほっ。当然ぢゃ。





――すると、お前は如何なのだ? 





――ふほっほっほっほっほっ。わしとて例外ぢゃない! 当然、お前がわしをお前の夢世界に呼び出すことには腹を立ててゐるがね。しかし、これは言わずもがなだが、果たせる哉、わしがお前の夢の中に《存在》しちまふ事を、わしはじっと歯を食ひしばって堪へてゐるのぢゃ、ちぇっ、忌々しい! 





(三の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 10/31 06:14:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは愚問だが、《死》とはそんなにも醜悪な《もの》なのかね? 





――《死》も含め、《自然》なる《もの》はそもそも醜悪な《もの》さ。





――《自然》がか? それは反対で、《自然》は美しい《もの》ではないのかい? 





――いや。確かに《自然》は美しい《もの》には違ひないが、しかし、《自然》にもまた《パスカルの深淵》の如き特異点が《存在》するのであれば、それは醜悪な筈さ。





――ふっ、特異点とは醜悪かね? 





――当然だらう? 





――何故にさう言ひ切れるのかね? 





――へっ、何となくさ。





――何となく? 





――ああ、何となくだ。反対に聞くが、それ以上に特異点をどう形象すればいいと言ふのかね? 





――つまり、お前にも特異点は形象不能といふことか――。





――当然だらう。しかし、此の世に《死》が《存在》する以上、特異点は、多分、醜悪極まりない筈だ。





――へっ、《死》は醜悪かね? 





――《死》は《生者》にとっては醜悪な《もの》と太古の昔から相場が決まってゐるぜ。





――それは《生者》といふ有機体たる《死》が腐乱する現象を示すからといふだけの事だらう? 





――多分ね。しかし、姿形ある《もの》が《死》によって腐乱し壊れて行く様は、生きてある《もの》にとっては忌み嫌ふべき《もの》になるのは当然だらう? 





――当然? それは現代人のみの偏見ぢゃないかね? 





――いや、そんな事はないぜ。古代の神話世界では神すらも《死》を忌み嫌ってゐるぜ。





――しかし、《生》から《死》へ至り、そして《死》が腐乱して行くその醜悪極まりない《死者》の姿形を実際目にして、その腐乱する様を晒しながら《生》なる《もの》を鼓舞し、戒める如く《死》が白骨化する様を、日常の中に包含した《生》の営みを、近代化する以前の日常には、《死》は未だ当たり前に《存在》してゐた筈だがね? 





――さうだね。つまり、現代の《存在》の様態はといふと、現代においてはそれに現実といふ名が冠されてはゐるが、その実、現実の《死体》でしかない現実といふ「現象」を腑分けするが如くに論理的に分析しては、《死体》らしく論理で現実を規定する馬鹿な事を尤もらしく当然といった顔でさらりとやってのけてしまふ現代人程、《死》を忌み嫌った《生者》はゐないのぢゃないかね? 





――ちぇっ、それは多分、記憶に新しい過去に現代人は大量殺戮の世界を経験しちまったからね。





――それ故に尚更現代人なる生き物は《死》を日常から追ひ出したまでは良かったかもしれぬが、しかし、いざ《死》が日常に出現すると、蜂の巣を突っついたやうに大騒ぎするか、呆然とするかのどちらかといふ体たらくは、どうにかならぬかね。 





――するとお前は日常に《死》が普通に《存在》してゐる方が此の浮世は幸せだと考へてゐるのかね? 





――勿論だとも。「初めに《死》在りき」、そして《生》若しくは《性》が始まったのさ。





――つまり、《存在》と《死》が此の世の開闢時には在ったと? 





――さあ、それはどうか解からぬが、しかし、《生》よりも《死》が先に《存在》してゐたのは間違ひない。





――どうしてさう言ひ切れる? 





――へっ、唯、何となくさ。





――ちぇっ、また、何となくか――。





――下らぬ。《死》と《生》のどちらが先かなんてどうでもよいではないか! それより、単細胞が己のDNAを寸分違はず複製する自己複写故の自己増殖といふ《存在》の在り方が、世界の環境の激変と共に《死》するしかなかった故にDNAを組み替へて、新たなDNAの配列をもった子孫を残す、まあ言ふなれば一か八かの賭けによって、つまり、《生》と《性》と《死》とが切っても切れない紐帯で結ばれちまったのが、今を生きる生き物の主流なのは間違ひない。唯、主流が永劫に生き残る保証はないがね、へっ。





――つまり、それが生き残るかどうかは神のみぞ知るってか――。





(五十五の編終はり)







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2009 10/26 05:58:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――つまり、君は特異点の幻の面を見てしまったのか? 





――さうかもしれぬ……。しかし、あれは幻だったのか……。ちぇっ、仮令、幻であったとしてもだ、それも《存在》の一様態若しくは一位相に違ひないのだ。





――鏡ぢゃないのかね、のっぺらぼうは? 





――何の鏡といふのか? 





――己のに決まってゐるぢゃないか。





――つまり、己を映すのには無から無限までの相貌が現はれるのっぺらぼう――それを特異点と言ひ換へてもいいが――つまり、のっぺらぼうでなければならいのが自然か――な。





――へっ、納得するのかい、《主体》に特異点が隠されてゐることを? 





――納得するもしないも己が己を己と名指した刹那、のっぺらぼうたる《主体》内部の特異点がにたりといやらしく嗤ふのさ。





――それで済むかね? 





――いや、そのいやらしいにたり顔を見た途端、己は己を嫌悪する。





――己とはそもそも気色が悪い《もの》だらう? 





――へっ、それを言ふかね……。





――そして《主体》はそのいやらしい己を意識することで己たらうとする起動力を得てしまふのさ。





――つまり、それは《他》の渇望かね? 





――それを《吾》の渇望と言ひ換へてもいい。





――所詮、《吾》と《他》に差異は無いと? 





――ああ。のっぺらぼうを前にして《吾》も《他》もへったくれもあるものか! 





――つまり、君は一瞬にして無と無限の相貌を一瞥出来ると? 





――《主体》が《主体》たり得たければさうする外ないのさ。





――「嗚呼、絶えず無と無限に対峙する《吾》が過酷さよ――」。





――無と無限に《主体》が対峙するのは、《存在》が《存在》する為の最低限の礼儀だらう? 





――何に対しての礼儀だと? 





――死んだ《もの》達と未だ出現せざる《もの》達に対してさ。





――そして、《主体》は無限相たるのっぺらぼうを一瞥した時、初めて《杳体》の《影》に出会ふ筈……さ。違ふかね? 





――ふっ、多分だが、《杳体》はその《影》しか現はさぬ何かだと思はないかね? 





――つまり、この現実も《杳体》の《影》に過ぎぬと? 





――多分ね。しかし、《存在》がそもそも《杳体》の《影》に過ぎぬ……。





――君が言ふ《影》は様態若しくは位相と同義語かね? 





――或るひはさうかもしれぬ。





――つまり、《存在》はそれが何であれ《杳体》の《影》でしかないと? 





――違ふかね? 





――それは何でも《影》にしちまふのが楽だからぢゃないのかね? 





――例へばだ、《杳体》の中に手を突っ込んだところで何の感触があるといふのか? 





――反対に尋ねるが、《杳体》の中に手を突っ込んだ時、君は何の感触もないと看做してゐるのかね? 





――いや。





――では何かしらの感触はあると? 





――いや。





――いや? 





――《杳体》に手を突っ込んだ方の《存在》自体が、一瞬にして別の《もの》に変化するとしたならばどうかね? 





――つまり、主客の逆転が一瞬にして起こると? ふっふっふっ。それぢゃ、魔法と変はらぬぢゃないか? 





――魔法ね……。ふっ、魔法ぢゃ、主客逆転は起きやしないぜ。それ以前に君の言ふ主客逆転とは何かね? 





――つまり、《吾》と《吾》以外の全てが逆転するといふことだ。





(八 終はり)







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2009 10/24 05:20:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――すると、此の世の森羅万象を全て現在の相の下に置くと、其処には必然の欠片もない全てが偶然の中に《存在》すると看做しちまへといふ、或る種強引極まりない現実認識をする外に、《存在》しちまった《もの》は一時も《存在》出来ぬといふ事だね? 





――そもそも現在とは何だね? 





――へっ、言ふに事欠いて「現在とは何かね?」と来たぜ。つまり、《個時空》の問題なんだらう、現在は? 





――さう。《個時空》を持ち出せば、現在とは、唯、《吾》のみが世界の中に抛り出されて独り現在である事を強ひられ、独り現在に取り残された《もの》といふ事だ。





――つまり、現在のみが《吾》が《存在》する事のどん詰まりの牙城なんだらう? そして、現在においてのみ《吾》は《存在》出来る悲哀を噛み締め尽くさねばならぬのが、詰まる所、此の世に《存在》しちまった《もの》全ての宿命だ。





――つまり、《個時空》とは孤独の別称だらう? 





――ふっ、過去若しくは未来、即ち《距離》が《存在》しちまってゐる世界の中に抛り投げ出された《吾》は、言ふなれば、現在といふ名の絶海の孤島に《存在》させられてある。その様にしか《吾》は《存在》出来ぬ不思議を、お前は宿命の一言で片付けられるかね? 





――へっ、悪足掻きするのが、これまた《吾》の特性だらう? 





――そもそも何故に《吾》のみが現在に曝され続ける運命なのだらうか……? 





――ちぇっ、簡単さ。《存在》の喜怒哀楽を味はひ尽くす為さ。





――ふっふっふっ。それが我慢ならぬのも《吾》たる《存在》の本性だらう? 





――さうさ。《吾》は絶えず《吾》のみが《個時空》なる《もの》の現在に取り残される故に、《他》を模した何か《吾》とは別の《もの》への変容を願って已まない。





――それは、つまり、《吾》なる《存在》はそれが何であれ、全てその内部に特異点を隠し持つ矛盾を生きなければならぬ故にだらう? 





――ふっふっふっ。また堂々巡りだ。





と、其処で一息ついた彼は、瞼裡のその薄っぺらな闇に幽かに幽かに精液の如く乳白色の光をぼんやりと放ちながら浮かび上がった微小な微小なその内発する淡き光の粒が、ブラウン運動をしてゐるかの如く、その瞼裡の薄っぺらな闇に淡く発光する様を凝視しながら、その淡き発光物が何かを瞼裡に表象しつつあるのではないかと訝しりながらも、其処に見ず知らずの赤の他人の顔らしき《もの》が浮かび上がってゐることに気付いた途端、彼は、





――ふっ、ざまあないぜ。





と己に対して半畳を入れるのであった。





――此の世は《吾》に未知なる《もの》が多過ぎる。





――だから《吾》は必然を偶然と、偶然を必然と敢へて錯覚したいのさ。





――早い話が《吾》は渾沌の中に永劫にゐ続ければ、ふっ、満足なんぢゃないかね? 





――つまり、《吾》は《吾》なる《存在》も《吾》ならざる世界も、どちらも攪乱したまま、現在から永劫に逃げ果せれば、己の《存在》に納得出来るかもしれぬと、これまた敢へて錯覚したいだけだらう? 





――詰まる所、《吾》とは《吾》のみが現在に曝されてゐる事に不満たらたらで、その現在に《他》も巻き込んで、《吾》は互ひに顔を見合はせて、「いっひっひっ、あっはっはっ」と、哄笑したいだけなのかもしれぬ。





――何故に? 





――現在を忘れたいからさ。





――何故に現在から逃げる事ばかり《吾》はしてしまふのだらうか? 





――へっ、簡単さ。《吾》はその内部に隠し持ってゐる特異点、即ち《吾》の醜悪極まりないその本性から目を背けたいのさ。





――《吾》の本性、即ち特異点の相貌は醜悪極まりないかね? 





――ああ。《存在》とはそもそも死する故に醜悪な《もの》なのさ。





(五十四の篇終はり)







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2009 10/19 06:45:29 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ぐふっ。





と、息苦しさに堪へ切れずに思はず口から漏れ出た空気が皆球状になって水中をゆらゆらと水面に向かって上昇するその様を、最早何故にか水面へ浮かぶ事を禁じられた《吾》なる《もの》が、その息苦しさの中で遠ざかる気泡をぼんやりと眺めてゐる姿を、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象するこの《吾》は、その表象にこそ《生》の何たるかが隠されてゐると錯覚してゐる事を知りつつも、尚、その溺死しかけてゐる《吾》の表象に《吾》の実存する姿を《重ね合はせ》ては、《生》をさも大仰な何かにせずには己が生存しているという事が最早実感出来ぬ、その存在の危ふさの中に結局のところ蹲るしかない《吾》――。





…………





…………





――雄の孔雀の飾り羽の目玉模様の如く、仮に幽霊となりし《吾》が数多の目玉を持ち、此の世を傍観してゐるとするならば、その数多の目に映る此の世の有様は、如何なる《もの》なのだらうか? 





――さてね。そんな事は己の死後の楽しみの為に取って置くに限ると言ってゐるだらう。





――しかし、仮に《生》たる此の世に《存在》した《吾》が数多の目玉を持つならば、世界認識の仕方は目玉が二つに、例へば心眼を加へて、それら三つの目で眺めた此の現実とは全く違った何かが見える筈だがね。





――さて、それは如何かな。多分、数多の目玉で見える現実は、盲目の人がその頭蓋内の闇たる五蘊場に表象する世界と大して変はりが無い筈だぜ。





――何を根拠にそんな事が言へるのかね? 





――土台、現実は《吾》の《存在》などに目もくれぬ筈だからさ。





――つまり、《個時空》は泡沫の夢に過ぎぬといふ事かね? 





――泡沫の夢で構はぬではないか。詰まる所、《吾》は此の世に《個時空》として《存在》する事を許され、《個時空》を成立させる為に《吾》はその《存在》を此の世に間借りしてゐるやうな《もの》ぢゃないかね? 





――つまり、世界に従順になれと? 





――勘違ひするなよ。《吾》あっての世界ぢゃなく、世界あっての《吾》といふ事をな。





――その世界に旋風の如く渦巻く《個時空》は、あっといふ間に消え失せるってか――。





――それで十分だらう。





――何故に? 





――《存在》したからさ。





――つまり、それは《存在》したくても未来永劫に亙って《存在》出来ぬ未出現の《もの》達が数多ゐるといふ事かね? 





――そして、死滅した《もの》達の念もだ。





――仮に未だ出現せざる未出現の《もの》達が犇いてゐるのを《無》と名付け、死滅した《もの》達で犇いてゐるのを《無限》と名付けてみると、《無》と《無限》の何たるかが解かったかの如き気分になるが、しかし、実際のところ、《生者》たる《吾》に《無》と《無限》の違ひなぞこれっぽっちも解かりっこないといふのが、本当のところだらう? 





――それで構はぬではないか。《吾》が此の世に出現し《存在》する故に《無》と《無限》は裂けるのさ。





――つまり、《存在》とは《パスカルの深淵》の面だと? 





――違ふかね? 





――しかし、《無》と《無限》の間に宙づりにされた《吾》は、ちぇっ、それが現実といふ《もの》か! 忌々しい! 





――さうさ。絶えず現在に投げ出されてある《個時空》たる《吾》は、《無》と《無限》を過去にも未来にも自在に転換させながら、現実に宙づりにされた己の悲哀を有無も言はずにじっと噛み締めなければ、へっ、《吾》たる《個時空》は、時空間のカルマン渦をちっとも巻くことなど出来ぬのさ。





――《存在》とは残酷な《もの》だね……。





――今頃気付いたのか、へっ。





(八の篇終はり)







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2009 10/17 06:12:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっ、だが、後の世代の宇宙は、前の世代の宇宙のその念、即ち霊魂をちゃんとRelayするのかね? 





――否応なくそれをRelayしそれを背負ふしかないのさ。





――つまり、《存在》する事が、そもそも既に先達の宇宙共の念、即ち霊魂を背負ふ事だと言ひ得るのだらうか? 





――勿論だとも。《存在》する事は、それの誕生以前もそれの死滅以降もまた別の《《存在》の念を背負って新たな《存在》が生ずる、つまり、《存在》は《他》の《存在》と念が「先験的」な前提となって初めて《存在》は《存在》出来るのさ。





――はて、お前は何時から運命論者になったのかな? 





――ふっふっふっ。偶然の居場所がないと言ひたいのだらうが、現在に《存在》してゐる《もの》のみに偶然は授けられるのさ。





――はて、現在に《存在》する《もの》とはハイデガーの言ふところの「現存在」ではないのかね? 





――その通り《存在》する《もの》はそれが何であれ己が《存在》することを認識、つまり、自覚してゐる筈さ。つまり、《存在》する《もの》は全て世界を認識し、更には己の《存在》を認識する「現存在」だ。





――それに加へて念と来ちゃあ、汎神論ならぬ「汎念論」若しくは「汎霊論」と呼ぶに相応しい幻想に過ぎぬぜ。





――何を持って幻想と言ふのかね? 





――ふっ、何でもお見通しか――。ふはっはっはっはっ。「現存在」は人間のみの《もの》ぢゃないんだらう? 





――さう。此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ己の《存在》を自覚してゐる筈だ。





――つまり、神を《存在》から解放する「苦悩による苦悩の封建制」を創生するには、此の世の森羅万象が各々己の苦悩を担ひ、更に此の宇宙の《存在》する事から必然的に発生する《存在》する事の苦悩を此の世の森羅万象は認識しなければならぬ。しかし、さうすると、此の悪意に満ちてゐるとしか思へぬ此の宇宙の《存在》とは、さて、怨念とどう違ふのかね? 





――ふっ、怨念ね……。怨念もまた念だからな。さて、なあ、怨念はどうやって生まれるのだらう? 





――己が己でしかない《存在》である事を知ってしまふ事から怨念は生まれるに違ひない。





――何故に? 





――へっ、それはお前も知ってゐる筈だがね? 





――ふっふっふっふっ。《存在》はちょっとやそっとぢゃ己の《存在》、つまり、《吾》が《吾》でしかないと達観なぞ出来ぬからな。





――つまり、それが《現在》の本性だらう? 





――ん? といふと? 





――《存在》が《存在》してゐる事を自覚するその底無しの懊悩の事さ。





――ふっ、何度も言ふが、《存在》は、その内部に底無しの、若しくは天井知らずの深淵を隠し持つ外に、この得体の知れぬ《現実》にすら対峙出来ぬ悲哀を否応なく噛み締めなければならぬ定めにあるとするならばだ、偶然は此の絶えず現在であり続ける宇宙全体の中で、局所的に《存在》する外に《吾》が《吾》であり得ぬ《存在》の悲哀を象徴する何か不可知なる《もの》に違ひない筈だ。





――それを一言で言ふと? 





――局所的時空間における《存在》の不確実性。





――はて、すると、宇宙全体を仮に俯瞰出来るとするならば、その全体の中には偶然の欠片すらも微塵もなく、つまり、大局的時空間においては全て必然的な確実性が支配してゐると無理矢理看做してゐるやうに思ふが、実のところは如何かね? 





――へっへっへっへっ。此の宇宙もまたもしかすると大大大大大宇宙の局所的な宇宙に過ぎぬかもしれぬぜ。さうすると、局所的時空間における《存在》の不確実性、つまり、偶然を表象する未知なる何かかもしれぬ筈だがね。





――つまり、局所的時空間とは、例へば大局的なる時空間を不意に切り取ってみて、その局所的な時空間が如何様になるのかをその切り取った部分を現在においてのみ俎上にのぼす、へっ、つまり、現在においてのみで因果律を完結した《もの》として語る誤謬を敢へてしておいて、結局のところそれを偶然と名付けて喚いてゐるに過ぎぬのぢゃないかね? 





――だが、《吾》たる《存在》が《現実》に対峙することはさういふ事でしかない、つまり、局所的に《吾》の確率が《一》に突出して近しい故に、《吾》は《存在》出来、またその様にしか《現実》に《存在》出来ぬ故に結果として《現実》を決して俯瞰する術がないことで、偶然なる事も含めて何もかも全て《存在》の悲哀に帰してしまってゐるのぢゃないかね? そして森羅万象の《吾》なる《存在》は全て現在を不気味な何かとしてしか認識出来ぬのぢゃないかね? 





(五十三の篇終はり)







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2009 10/12 05:43:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――性交時若しくは食事時若しくは睡眠時はいづれも《吾》の行為に夢中で或る種忘我の状態に、つまり、因果律などお構ひなしのそれを特異点といってしまふが、その忘我なる特異点の状態にある事は認めるね? 





――だからそれが如何した? 





――つまり、忘我故に《吾》は《吾》に夢中といふ矛盾を何とする! 





――くっくっくっ。矛盾なことは大いに結構ぢゃないか。つまり、それが特異点の《存在》を暗示する証左だらう? それよりも自ら生き残り、更に尚も種を保存することを《存在》は前宇宙に託されてゐると思はぬかね? 





――はて、前宇宙とは? 





――此の宇宙誕生以前の宇宙の事さ。つまり、約めて言へば「先験的」なる事さ。





――へっ、此の宇宙誕生以前もまた宇宙と呼べる代物なのかね? それは宇宙とは全く別の《もの》と違ふのぢゃないかね? 





――そんな事は如何でもよからうが。ちぇっ、それよりも数学が《存在》してしまふ事が前宇宙の名残りだと思はぬか? 





――それはまた何故にさう言へるのかね? 





――くっくっくっ。唯、何となくそんな気がするだけさ。ちぇっ、お前は「先験的」なる事に《存在》が全く歯が立たないのは癪に障らぬのかね? 





――へっ、土台そんなこったらうと思ったぜ。「先験的」なることは勘の《存在》で巧く説明出来るかもしれぬが、しかし、第六感若しくは直感は信じられる《もの》、ちぇっ、土台、直感が《存在》の最初の砦でありまた同時に最後の砦であるならばだ、《存在》は直感に、つまり、「先験的」なる《もの》に従順たれといふことで、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる――のか? 





――これは同性でも構はぬが、つまり、異性に惚れる時は如何かね? 





――ふむ。惚れちまったものはどう仕様もないのは確かだが、それにしても数多ゐる異性の中からたった一人の異性に惚れちまふ不思議、つまり、存在論的に見て惚れる事は面白い対象なのは間違ひない。





――さて、惚れちまふ事は偶然かね? 





――不慮の事故死と共にそれは偶然の出来事さ。





――くっくっくっ。何を嘯く? 本当のところは必然、即ち運命若しくは宿命と言ひたいのだらう? 





――ちぇっ、お見通しか――。だが、主体たる《吾》は何事にも自由、つまり、あらゆる時点に偶然と呼べる余地を残しておきたいのもまた《吾》の習性さ。





――くっくっくっ。其処でだ、お前は自由かね? 





――ふむ。それが解からぬのだ。





――つまり、自由の余地を残しておきたいと言ひ条、その実は惚れたのを運命等の必然に帰したいのが本音ぢゃないかね? 





――さう。惚れてしまふ不思議を引き受けるのに運命的な出会ひ等と称して必然の《もの》として引き受けたいのが本音さ。





――くっくっくっ。しかし、主体たる《吾》は何時でも自由でありたい。くっくっくっ。つくづく《存在》とは矛盾に満ちた《もの》だぜ。





 と、其処で《そいつ》は不意に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中に姿を消したのであった。それでも私は尚も閉ぢられた瞼裡の闇をじっと凝視し続けるのであった。





――さて、偶然的な出会ひと運命的な出会ひの違ひは、徹底的に主観の問題に違ひない。否、主体たる《吾》は強欲故に全てを主観の裁量に帰したいのだ。へっ、性交時若しくは食事時若しくは睡眠時の忘我の状態に《吾》が陥らうが、それでも主体たる《吾》は《吾》であること、つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ恍惚の中でも絶えず《吾》を追ひ求め、「俺は俺だ!」と叫びたいに違ひない。性交に貪るように耽るのも、何《もの》にも目も呉れずに只管貪り喰ふ事に夢中な食事時も、必ず《吾》なる《もの》が全肯定され《存在》する睡眠時の夢の中でも、《吾》は《吾》を夢中で追ひ求めざるを得ぬのだ。さうして、性交後の、食事後の、そして睡眠から覚醒した時の虚脱感の中で、《吾》は《吾》の《存在》を味はひ尽くさねばならぬのだ。そして、それは偶然と必然の両様が宙づりにされた両様の相《存在》する未決の状態、ちぇっ、つまり、《吾》は自由度が只管確保される可能性の中に《吾》をぶち込めておきたいに違ひない。それは、しかし、愚劣極まりない打算が働いてゐるだけではないか! ちぇっ、主体たる《吾》は何時も因果律が壊れた可能性と言ふ耳に心地よく響く《存在》のMoratorium(モラトリアム)に唯留まりたいだけぢゃないのか。可能性と言へば聞こえはいいが、それは単に可能性が全て閉ざされその本性が露になった《現実》からの遁走にすぎぬのではないか! 





(八の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 10/10 05:17:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――もういい加減、神を《存在》から解放させなければ、主体も客体も神も皆共倒れだぜ。





――それはその通りなのだが、主体たる《吾》は神との関係を断絶出来るかね? 





――へっ、主体たる《吾》が世界をたった一人で背負ってゐるかの如き幻想を先づ捨てなけりゃ、主体たる《吾》は何時まで経っても神から自立出来ぬ赤子の様な《存在》に終始するだけだぜ。





――それで「苦悩による苦悩の封建制」って訳かね? 





――さうなるには先づ主体たる《吾》は己の事を弁へなければならぬ。





――つまり、世界の苦悩は世界にしか背負へぬと? 





――さうさ。《吾》は詰まる所、《吾》の苦悩しか知り得ぬし背負へぬ。しかし、その《吾》は神を《存在》から解放すべく背負ひ切れっこない程の苦悩を何としても背負はなければならないどん詰まりの処にまで主体も客体も神も全て追ひ詰められてしまったのさ。もう神を《存在》から解放させてあげようぜ。そして、主体は、その背負ひ切れっこない苦悩を背負ふべく新=存在体、即ち《新体》へと相転移を遂げる外に、主体も客体も神も世界も全て存続出来ぬのさ。





――つまり、《存在》の円環を主体が先づぶった切って、此の宇宙からの自存を成し遂げよと? 





――それを主体は夢想すればいいのさ。





――へっ、夢想だって? 《新体》を夢想すると簡単に言ふが、《新体》とはこれまで全宇宙史を通じて未だ《存在》した事のない《もの》だぜ。そんな《もの》をどうやって夢想するのさ。





――唯、念ずればいいのさ。





――念ずる? また念か――。此の宇宙の開闢の時に念が不意に無と無限がぴたりと重なったその心地良さから「ぷふぃ。」と嗤ひ声を発したその破裂が、Big Bang(ビッグバン)だと言ひ、今度は未だに此の世に《存在》した事がない《もの》を念じるだと? へっ、念ずれば主体は《新体》へと変化出来るのかね? 





――それは解からぬが、しかし、何もしないよりは念ずる事の方がずっとましな事は確かだぜ。





――確かだぜ? 念ずるんだぜ。唯、念ずるんだぜ。《吾》が《吾》としては背負ひ切れぬ苦悩を背負って「苦悩による苦悩の封建制」を招いて、そして、神を《存在》の呪縛から解放するといふ夢みたいな事をぬかしをって。ちぇっ、只管念じたところで主体は結局主体以外の何《もの》にも変化など出来ぬ上に、己の無力感を嫌といふ程に味はふだけに過ぎぬのぢゃないかね、結局のところは? 





――だから尚更此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、只管思念するしかないのさ。





――何故に? 





――生き延びる為にさ。





――生き延びる? 





――さう。主体も客体も世界も神も此の世の森羅万象全てが生き延びる為に、主体として《存在》しちまった《もの》は、只管、未だ此の世に《存在》した事がない《新体》なる《もの》を念ずるのさ。





――つまり、念は、換言すれば霊魂は、何世代にも亙ってRelay(リレー)されるといふ事かね? 





――さう。Relayだ。霊魂は書物の如く何千年も此の宇宙に《存在》させられた主体たる《もの》によってRelayされ続ける。





――さうして仮初にも此の宇宙に誕生した《新体》は此の宇宙の死滅する姿を黙してじっと凝視する――。





――ふっふっふっ。





――何が可笑しい? 





――いや何ね、《新体》の出現が此の宇宙の死滅を意味するのが何やら可笑しくてね。





――否。お前の言ふ通り此の宇宙から自存する《新体》の出現は此の宇宙の死滅以外の何《もの》でもない。しかし、念は、つまり、霊魂は此の宇宙が死滅しても次世代の宇宙に必ずRelayされなければならぬの筈だ。





(五十二の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 10/05 06:45:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会った場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちぇっ、それは爆発的に誕生すると言った方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君は如何思ふ? 





――それは銀河同士の衝突を思っての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかったに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききぃぃぃぃぃんんんんん〜〜」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。





――へっ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげっぷだらう、その《ざわめき》は? 





――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげっぷさ。





――くくくききききぃぃぃぃぃんんんんん。





と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであった。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を





――あっは。





と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかったのであった。





――ぷふぃ。





…………





…………





――何が可笑しい? 





――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺には可笑しくて仕様がないのさ。





――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へっ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にある可笑しさは、最早嗤ふしかないぢゃないか。





――あっは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやって《吾》と《他》は輪廻する。





――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふことだらう? 





――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。





――《存在》の原質? 





――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもってして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたってゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通って生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。





――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になってしまふといふことか? 





――だから、げっぷなのさ。《吾》はげっぷを発することで朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちぇっ、《吾》は《吾》であることを受容するのさ。





――受容するからこそ《吾》がげっぷを発する、否、発することが可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢゃないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。





――さう。全《存在》が己のことを自己同一させることを拒否するのが此の世の摂理だとすると、へっ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負った此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。





(八 終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 10/03 05:28:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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