――ふっ、だが、後の世代の宇宙は、前の世代の宇宙のその念、即ち霊魂をちゃんとRelayするのかね?
――否応なくそれをRelayしそれを背負ふしかないのさ。
――つまり、《存在》する事が、そもそも既に先達の宇宙共の念、即ち霊魂を背負ふ事だと言ひ得るのだらうか?
――勿論だとも。《存在》する事は、それの誕生以前もそれの死滅以降もまた別の《《存在》の念を背負って新たな《存在》が生ずる、つまり、《存在》は《他》の《存在》と念が「先験的」な前提となって初めて《存在》は《存在》出来るのさ。
――はて、お前は何時から運命論者になったのかな?
――ふっふっふっ。偶然の居場所がないと言ひたいのだらうが、現在に《存在》してゐる《もの》のみに偶然は授けられるのさ。
――はて、現在に《存在》する《もの》とはハイデガーの言ふところの「現存在」ではないのかね?
――その通り《存在》する《もの》はそれが何であれ己が《存在》することを認識、つまり、自覚してゐる筈さ。つまり、《存在》する《もの》は全て世界を認識し、更には己の《存在》を認識する「現存在」だ。
――それに加へて念と来ちゃあ、汎神論ならぬ「汎念論」若しくは「汎霊論」と呼ぶに相応しい幻想に過ぎぬぜ。
――何を持って幻想と言ふのかね?
――ふっ、何でもお見通しか――。ふはっはっはっはっ。「現存在」は人間のみの《もの》ぢゃないんだらう?
――さう。此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ己の《存在》を自覚してゐる筈だ。
――つまり、神を《存在》から解放する「苦悩による苦悩の封建制」を創生するには、此の世の森羅万象が各々己の苦悩を担ひ、更に此の宇宙の《存在》する事から必然的に発生する《存在》する事の苦悩を此の世の森羅万象は認識しなければならぬ。しかし、さうすると、此の悪意に満ちてゐるとしか思へぬ此の宇宙の《存在》とは、さて、怨念とどう違ふのかね?
――ふっ、怨念ね……。怨念もまた念だからな。さて、なあ、怨念はどうやって生まれるのだらう?
――己が己でしかない《存在》である事を知ってしまふ事から怨念は生まれるに違ひない。
――何故に?
――へっ、それはお前も知ってゐる筈だがね?
――ふっふっふっふっ。《存在》はちょっとやそっとぢゃ己の《存在》、つまり、《吾》が《吾》でしかないと達観なぞ出来ぬからな。
――つまり、それが《現在》の本性だらう?
――ん? といふと?
――《存在》が《存在》してゐる事を自覚するその底無しの懊悩の事さ。
――ふっ、何度も言ふが、《存在》は、その内部に底無しの、若しくは天井知らずの深淵を隠し持つ外に、この得体の知れぬ《現実》にすら対峙出来ぬ悲哀を否応なく噛み締めなければならぬ定めにあるとするならばだ、偶然は此の絶えず現在であり続ける宇宙全体の中で、局所的に《存在》する外に《吾》が《吾》であり得ぬ《存在》の悲哀を象徴する何か不可知なる《もの》に違ひない筈だ。
――それを一言で言ふと?
――局所的時空間における《存在》の不確実性。
――はて、すると、宇宙全体を仮に俯瞰出来るとするならば、その全体の中には偶然の欠片すらも微塵もなく、つまり、大局的時空間においては全て必然的な確実性が支配してゐると無理矢理看做してゐるやうに思ふが、実のところは如何かね?
――へっへっへっへっ。此の宇宙もまたもしかすると大大大大大宇宙の局所的な宇宙に過ぎぬかもしれぬぜ。さうすると、局所的時空間における《存在》の不確実性、つまり、偶然を表象する未知なる何かかもしれぬ筈だがね。
――つまり、局所的時空間とは、例へば大局的なる時空間を不意に切り取ってみて、その局所的な時空間が如何様になるのかをその切り取った部分を現在においてのみ俎上にのぼす、へっ、つまり、現在においてのみで因果律を完結した《もの》として語る誤謬を敢へてしておいて、結局のところそれを偶然と名付けて喚いてゐるに過ぎぬのぢゃないかね?
――だが、《吾》たる《存在》が《現実》に対峙することはさういふ事でしかない、つまり、局所的に《吾》の確率が《一》に突出して近しい故に、《吾》は《存在》出来、またその様にしか《現実》に《存在》出来ぬ故に結果として《現実》を決して俯瞰する術がないことで、偶然なる事も含めて何もかも全て《存在》の悲哀に帰してしまってゐるのぢゃないかね? そして森羅万象の《吾》なる《存在》は全て現在を不気味な何かとしてしか認識出来ぬのぢゃないかね?
(五十三の篇終はり)
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